小説 メルヘン #5

「今日、細野さん来たね」
いつものうどん屋で、リサはおかめうどんに七味をかける。私は、キツネうどん。
「うん。ちょうど六日ぶりくらいかな」
「あの人、いいお客さんだよね。手のかかるプレイとか、しなくていいんでしょ」
確かにそうだ。リサは、自分のお客さんの話を始める。
「俺の顔の上に跨って。それで片手で乳首を刺激しながらもう片手でしごいて。とか言わないでしょ」
「言わないね。でもさ、その人、咥えて欲しがらないの?」
私が聞くと、
「咥えると、顔の上に直におまんこがこないから嫌なんだって」
と、リサが答える。そのリサのお客さんは、頻繁に来てくれるし、いつも何度も延長していく。細野さんは、四十分だけ。お互い近況報告をして、あとはシンプルな感じ。週一で来てくれるだけ、ありがたいけれど。
「細野さんが来ると、ちょっと恋人気分になる」
お箸でうどんの上にのった油揚げを押すと、澄んだつゆに濃い茶色の汁が流れ出ていく。
「ナナってバカだね」
リサが小さい溜息をついた。
「そうかな。でも、細野さんって、なんか浮き輪みたいなの」
「浮き輪?」
「そう、浮き輪。掴まってると、楽に息が出来て、安心なの」
二人で黙って、うどんを進めた。リサがかまぼこを一切れ残していて、リサはかまぼこが好きなんだろうな、と思った。
「好きなもの、先に食べないんだね」
リサのどんぶりを見ながら、私が言う。
「かまぼこ? あはは。そういえばさ、脚はどうなったの?」
「ああ。激しいことしない限り、痛くはないよ」
私はそう言って、テーブルからショートパンツの片足を出して見せる。まだバレーと介護労働の筋肉が残った脚。悪いようには見えない。

リサとバイバイして、お互いタクシーを拾う。アパートの近くのバス通りで車を降りると、コンビニに寄って買い物をした。
暗い夜道に響く靴音がへんてこなリズムなのは、股関節をかばって歩いているからかな。
アパートの集合ポストに、同じものが同じようにずらっと刺さっていて、何だと思ったら新聞の試供品だった。午前三時帰宅の私は、一番にそれを抜いた。ポストの蓋が大きな音をたてて閉まる。
隣の敷地に住んでいる大家さんの庭には、いろんな草木が植えてある。新芽の黄緑は暗い中でも光り、目の奥に染み付いた。

土間からリビングめがけて新聞を投げると、靴を脱ぎ台所で手を洗う。コンビニ袋から缶ビールを三本出し、一本残して冷蔵庫にしまう。リサとはご飯は食べるけれど、一緒にお酒を飲むことはない。お客さんと瓶ビールをシェアしてるのも見たことがないから、アルコールがダメなのかもしれない。
ホームセンターで買ったお気に入りの一人掛けソファーに座り、プルトップを開ける。床に置いてある四角い海苔の缶を、左足で引き寄せる。これに、お客さんの連絡先を書き込んだ封筒を入れてある。缶の蓋をあけ中身を出し、封筒を一つ一つ見ていく。書き込んだ番号とメモから、顔やあれこれを思い出す。安定しないところで書くからひどく字が乱暴で読みづらいけれど、みんな突っかからずに顔が浮かんだ。
細野さんのもある。
細野さんが通うようになってから、厳密に言えば、彼の連絡先を聞いてから、他のお客さんに対する接客が雑になったことは否めない。細野さんの方へつながる水路ができて、いつの間にかそっちの方にばっかり流れていく。流れていくっていうか、行き着いた先に、あれまあ細野さんがいるっていうか。
ここ最近、お客さんに電話番号を聞いていない。封筒はぼろくなったら捨てられるだけだ。
置きっぱなしのマグカップが、テーブルに影を作っている。影を指でなぞると、そこだけ埃がなくなり線ができた。

「メルヘン」に行く時はバスを使っている。夕方のバスは混雑するけれど、人の流れに混じった自分を意識するのは安らぐ。降りるバス停の近くには公園があり、そこで少し休む時もある。
春たけなわは、苦しい。その中を、みんな繁華街の方へ出勤していく。

付いたお客さんに、良くない対応をしたのはわかっていた。それで、私にクレームがきたと聞いた時には、やっぱりなと思った。店長は怒っていなく「ナナちゃんなら、心のこもったサービスができると思っているんだけど」と眉毛を下げた。店長の撫でつけた髪が少し崩れて、うざったく額にかかっている。
「そりゃあ無理な時もありますよ」
自分が偉そうで驚く。
「それは、わかるよ。わかるけどさ。あ、それから……」
店長が何か付け足そうとする。
「何ですか?」
私は睨むように店長を見る。
「ちょっと聞いた話なんだけど、もし違ってても、気を悪くしないでね」
「え、何ですか?」
「ナナちゃん、お店に来たお客さんと、外で会ってたりする?」
私のお店用の雰囲気が剥がれ、生身の身体の心臓が、大きく揺れる。
「まさか、そんな。会ってなんかいませんよ」
会ってないのは本当だ。
「いや、ナナちゃんが接客中に、電話番号をねだってたっていう噂があってさ。でも、そんなことないよね。ごめんね。忘れて忘れて」
彼はそう言うと、売り上げが書かれたノートに目をおとした。
待機室に戻ると、スマホでゲームをしていたリサが「おつかれ」と顔を上げた。それで私は「メルヘン」のナナを取り戻す。こうやって、リサの前でもナナでいるのだと知るのは辛い。
その日、他に出勤していたのは、シングルマザーのマミさん、それから大学生のアリサちゃん。あとはレイナさん。アリサちゃんがちらっとこっちを向いて、また戻る。なんとなく、みんなよそよそしく見える。私はお尻を緊張させて、リサの横に少し離れて座り、バスタオルで脚をくるんだ。
夕方からの雨で、遅い時間はちっともお客さんが来なかった。小嶋さんが泥酔した人を連れてきて、順番で当たったレイナさんが舌打ちをした。

                つづく

# 6 メルヘン

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