小説 メルヘン #8

ある日、店のドアを開けると、レジのところで店長とレイナさんが話し込んでいる。珍しく部長も来ている。
「何かあったんですか?」
フロアのソファーで週刊誌を見ているマミさんに、聞いてみる。
「なんだか、リサと児嶋さんが、逃げた、とか」
言葉が出ない。
「ナナ、リサと仲良しだったでしょ。何か聞いてない?」
「いえ、何も」
もう、リサが現れてもいい時間なのに、来ない。昨日は一緒にうどんを食べに行ったけれど……。そういえば、リサはおかめうどんを半分残していた。
「たぶんあとで、部長と店長からいろいろ聞かれると思うよ」
マミさんはそう言うと、週刊誌に戻った。
「おい、ナナ」
部長に呼ばれ、私は三人のところへ行く。

いつからなのかわからないけれど、リサと児嶋さんは、付き合っていたらしい。それで、週末の売り上げを持ち出し、二人でどこかに消えたのだ。音信普通だと言う。私はトイレに行くふりをして、リサに電話をかけた。私からなら、電話に出てくれるんじゃないかと思って。でもリサは、電波の届かない場所にいた。「あいつら、ただじゃおかないからな」部長は怒っていた。用を足してないのに、水洗レバーを回す。

待機室で、私はすることがなかった。
「リサの実家とかにも、連絡したんですか?」
壁に寄っかかり煙草を吸うレイナさんに聞いてみる。
「え? 実家? どうなんだろ、してないんじゃないかな。番号だって知らないだろうし」
「そうですよね」
「でも、店長が前にリサから聞いたらしいんだけど、なんでもあの子、高校中退して、家出してそのまま行き当たりばったりだったみたい。お父さんがどこかの市の議員さんだっけかな。お母さんもなんか有名な人みたいよ。まあ、どこまでが本当かわかんないけどね」
レイナさんは、灰がカーブして落ちそうになっている煙草を、人差し指と中指で挟み、不気味に笑った。マミさんは居眠りをしていて、アリサは片方の膝を抱き、脚の爪をいじっている。

「何かあった?」
ホテルのベッドで、細野さんと横たわっている。
「ううん、別に。あのさ、細野さんのご両親はどんな人?」
「親? 普通だよ。母親は専業主婦で、父親は今は天下り先で働いてる」
「天下れたんだ。すごいんだね。うちの両親は共働き。お母さんはもう退職したけど」

ピンクサロンで働くようになり、親にお金をせびることはなくなった。それでも母親からたまに電話が来て、困ってないのかと聞かれる。私は大丈夫だと答える。あまり身体を使わない仕事に就いたのだと言うと、電話の向こうに母親の安心が広がるのがわかる。母親は近況報告を始める。こちらは皆元気だと。兄のところは二人目が生まれて、また男の子だった。この前みんなで遊びに来たのよ。上の子がすごく賑やかでさ、ちょっと疲れちゃった。東京の大学に行った弟。なかなか帰ってこないけれど、まあそれも元気ってことでしょ。おばあちゃん? なんかあの人、身体悪くしたら一気に認知症が進んだかも。でもまあデイサービスもあるし、ショートステイも使えるし、だから五日間くらいお願いしちゃって、お父さんと旅行するの。おばあちゃんが通ってる施設の人、親切で、すごく良くしてもらってるみたい。
「そうなんだ」
耳の奥が窮屈になり、頭が重くなる。
「ねえ、やっぱりちょっとお金あったほうがいい」
私は言う。それで、金額を伝えると、振り込まれる。通帳には、「メルヘン」で月に一度受け取るお給料も入っている。母親は、悪い人ではない。父親は、弱い人、だろうか。でも、楽しそうに暮らしているのなら、もう、いいのだろう。

「細野さん」
空気に向かって私は彼を呼んだ。返事はない。
「細野さん」
寝息が聞こえてくる。時計を見る。あと二十分したら起こせばいい。彼の呼吸に、自分の呼吸を合わせた。

           つづく

# 9 メルヘン

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