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20240702 色を加えぬこと

最近、意識とは編集者なのではないかと思っている。いま新幹線に乗っている。前の席の2人組の女性が楽しそうに声を荒げている。席を移動しようかと思う。あたりを見回す。家に忘れ物をしたことに気づく。俺は、またやっちゃったよと落胆する。

なんとなく、こんな今を過ごしているけど、ここにも私の情報の編集が介在しているんじゃないかと思う。

まず、前の2人組の女性が声を荒げている。そのあと私は席を移動しようかと思うが、「移動しよう」と思う前に、少しイラッとした私の反応がある。これが世界から抜け落ちている。だから、正確に情報を見るなら、〈前の2人組が声を荒げている→私の体がイラッと反応する→他の席がないか見回す〉が正しい。

そのあと、家に忘れ物をしたことに気づくが、これも編集が介在している。忘れ物だと気づいたあと、すぐに私は自責の念にかられるけど、これも意識が勝手に直結させている情報の回路だ。この状況だけを正確に描写するなら、〈忘れ物に気づいた私がいる→前にもあったと私が思い起こす→こんな私じゃだめだと私は私を結論づけている〉だ。何も世界からダメだと烙印を押されたわけじゃない。

こうやって捨象されてる情報を、あえて紡いでいくのは、なんだかマインドフルネスみたいだ。世界をただ実況中継する瞑想法とか、ヴィパッサナー瞑想とか色々あるけど、こういう感じなのかもしれない。

これをやって生きていると、正直ストレスが少ない。たとえば、苦手な人(私が苦手と認識している人)と会話している間は、相手の言ったことを英語のシャドーイングみたいになぞっている。そうすると、どんなピリピリした内容の会話でも、「この人はこう喋っている」という情報だけをみることになる。別に聞いていないわけじゃないから、返事もできるし、受け答えもできる。しかし、そうやって見続けていると「私の心がざわざわしてきた」というような反応にも気づくことができる。ただ、世界を観てるいるだけ、聞いているだけ。

いままでは瞑想などをやっても、まだ意識の領域を抜けでていなかったように思う。私は落ち着いているとか、頭の中でいくら唱えても、心の動きが見えていなかったから、編集した意識をただ見つめて騙しているだけだった。現在は「いま落ち着こうと思っている私がいる」という感じ。俺の体のことなのに、俺の体のことじゃないみたいに扱う。情報にしていくと世界はこんなにもドライなのかとも思う。指先でいま、そう書き連ねている。

ただ、こうやって生きているとつまらないなと感じる時もある。たとえば、意図的なコミュニケーションで、話の中でボケをかますとか、そういったことは意識していないとやりづらい。情報を自分なりに編集していないと、面白みを感じない自分がいるのもたしかだ。

ことわっておくと、世界を編集しないというのは、喜怒哀楽を殺すことではない。「あ、私の心が笑いたがっている」みたいな反応もある。「あっ、私の心が悲しんでいる」という反応も感じる。そのときは体に戻ってきて、思い切り感動すればいい。でも「俺はいま感動してるな」って俯瞰できないほど、揺さぶられる感覚も好きだ。

いままで編集することで生きのびてきたように思う。どんなストレスも、喜びも、知識も、自分の特別感も、すべて自分なりに情報に意味付けをして、編集して俺自身の世界としてきた。その編集力があって、かつポジティブだったから、死にたいと思うことがあっても、世界をねじ曲げて生きることができたのかもしれない。

いまそれがなくなろうとしている。たぶん、お別れだ。あ、違うな。俺がお別れを告げようとしている。意識が「もう私はいらないの?あんなにいっぱい物語をつくってあげたのに」と悲しそうな顔をしている。それを優しく撫でてあげる。ありがとう。

車窓から富士山が見える。山の頂上には雲がかかっている。雲は風にちぎられて、なびいて、大きな輪郭をさらに伸ばしていく。俺は車窓からそれを見ている。俺が見ていることを選んでいる。意識がこの景色を何かに喩えようとしている。黙ってそれを聞いている。なるほど、お前が色だったのか。

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