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20240711 もっと優しくもっと優しく

優しいって感覚は主観でしかないから、自分の思う優しいが相手の思う優しいとは限らない。誰かの体に触れていて、「もっと優しくして」と言われた時、どうすればいい?圧を減らす。ゆっくりにする。方法は様々だけど、それでも完全に相手の求める優しさにはたどり着けないかもしれない。

優しくするってのは、力がいる。赤ちゃんを抱っこするときとか、変な姿勢にしてしまわないように、体をゆりかごのようにコントロールするから、自分用動作を行う時より体が力んでいるのを感じる。もちろん慣れてないってのもあると思うけど、自分向けじゃないエネルギーを出す時って普段の倍くらい力のコントロールが必要な気がする。

優しくするってのは、時間もいる。早い、強いというのが誰かの刺激になる場合、それを和らげるためにはゆったりとした時間の流れが必要になる。俺が人に優しくできていないときってのは、だいたい焦ってることが多い。焦ってるから、自分の知っている方法で優しくしたくなる。焦ってるから、なるべくピンポイントを探りたくなる。でもその焦りは、体の全部を伝って相手に伝わってるのかもしれない。体全体で相手に「いいよ」と言ってあげられてないのかもしれない。

優しくするってのは、想像力もいる。「これが相手にとっての優しいだろうか?」「相手は優しくといっているけど、具体的にはどういうことだろう?」とずっと想像を泳がせ続ける必要がある。決めつけずに想像を相手のために働かせ続けるというのも、焦りがあるとできない。

唐突だけど、私は愛とは「想像をやめないこと」だと思っている。形にしてしまうとそれは想像をやめてしまうことになるので、もっと細かく言葉にすることは控えたいけど、愛とは、相手を理解しようと噛み砕くことではなく、外側の輪郭の可能性を常に想像し続けることだと勝手に思っている。だから優しさも、これが俺の優しさと決めつけた時点で、俺の思う愛からは離れてしまう。

「これが俺の思う優しさだ」と思っていても、実際他人に聞いてみたら、「それは優しさじゃない」と言われることもある。そのとき「誰がなんと言おうが、これは俺の優しさなんだよ」って思うひともいる。それぞれの思う優しさは、それぞれ違う。だから、それらは優しさって言葉でくくらなくてもいいんじゃない?って俺は思う。エゴだとしても、偽善だとしても、名前はなんでもよくて、大事なのは「貴方が何故、相手にそんなふうに接するか」だけだから。

本当に相手のために優しくなれる人っていると思う?俺はいると思うよ。それを信じてる。性善説とか、遺伝論とか、心理学とか色々知識は世界に転がってるけど、俺は、人は誰かのために優しくなれると信じてるよ。みんなの心の中の焦りが消えたら、かもしれないけど。

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