『女・アート・イデオロギー』読書メモ(女性ヌード画について)

 表現のあり方が、われわれが世界を見る、その見方をつくりあげ、限定しているのであるが、 そのような表現様式は言語活動以外にもある。アート、芸術も、社会の制度と権力のメカニズム を語る言説を構成する文化的、イデオロギー的営為のひとつである。あるグループがほかのグル ープを支配するとき、その権力は、経済、政治、法、教育と多くのレヴェルで維持・保守がはか られるが、そうした権力をめぐる諸関係は言語やイメージとして再生産されて、ある決まった視 点から世界を提示し、性と階級によって異なるさまざまな位置、権力とのさまざまな関係を表現 している。
 ルネッサンスから一九世紀半ばまで、美術表現の様式として最も重視され、影響力をもってい たのは歴史画であった。それは人間の身体を配した、歴史的、神話的ないしは宗教的なテーマの 絵画である。したがって裸の人体を描くことが、アーティストに欠かせない修業であり、アーテ ィストを評価する基準は歴史画でどれだけの成功をおさめるかにあった。女性アーティストは裸 体モデルをつかって勉強することが許されなかった。
p.179


一八世紀も後半までは、ヌードを描くと言えば圧倒的に男性の裸体を描くことであったが、それ以降、ヌード画は次第に女性ヌード画となった。歴史画を描く画家を育成するアカデミーや学校に、女は依然として入ることができなかった。ところが描かれる対象としての女は、それまで よりも頻繁に歴史画のなかに登場するようになり、特定の意味内容と含蓄的意味をもつイメージ とされるようになった。それらのイメージは、男女両性間の権力関係を芸術というイデオロギーのレヴェルで再生産している。女は特に肉体と自然のみを含意するイメージとして描かれ、受動的で、鑑賞者の手に届きそうな、所有可能なか弱い存在として登場する。男は、絵のなかには不 在であっても、描かれたイメージが示すのは、優越者として彼が語る言葉、彼の視点、彼の位置 である。個々の画家が単に自分自身を表現するだけではない。画家である男は、歴史のなかで強 化されてきた一連の文化的コード、記号、意味といった、彼に先だって存在する文化の言語の特権的な使い手である。彼はそれらを操作し変容させることもできるが、決してその圏外におかれ ることはない。 一九世紀を通じてアカデミー絵画理論が説得力を失い、古典古代の理想が衰退したにもかかわ らず、いやおそらく、それだからこそでもあるのだろうが、その後も引き続き女性ヌードが好まれたことは問題の核心を示している。一九世紀のサロン展参加作品には、女性ヌードがさまざまな装いで登場した――森のなかの小さな空き地でまどろむニンフ、波間から生まれ出るヴィーナ ス、 裸で岸にうちあげられた難破船遭難者、失神状態で助けあげられる、わずかな布切れをまとっただけの王妃、衣服の乱れも気にせず砂漠で一心に自らの罪を悔いるマグダラのマリア、風にのるフローラ、商売用の服をつけた高級娼婦や売春婦、アトリエのモデル、などである(図版63-69)。さまざまな装いを凝らし、古典、歴史、文学にちなんだタイトルで高尚めかしてはいても、 女の肉体ははっきりと煽情的で性的なものとして描かれている。登場する女性は眠っているか、気絶しているか、心ここにあらずの状態であることが多く、そうした演出は女の姿形をだれ憚る ことなく覗き見できる喜びをもたらしてくれる。これらの絵は、様式、場面設定、信奉するイデ オロギーや政治的立場はまざまであるが、そうした相違点よりも共通点のほうが目につく。どれもが作品の外にいる男性鑑賞者/所有者に女性を対象物として示しており、作品の意味は、作品のなかに彼女を見る男性脇役の視線を描き込むことで、一層はっきりと強調されることもある。
p.180-181
絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的、社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レヴェルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。 芸術は社会を映す鏡ではない。社会の諸関係をいくつもの記号からなる図式にして伝え、提示しなおす(re-present 表現する)のが芸術であり、それらの記号が意味あるものとなるには、読解カをもち、一定の条件を備えた読み手が必要である。このような記号が含意する、多くの場合意識されない為のレヴェルにおいてこそ、家父長的イデオロギーが再生産されるのである。
p.184
その堂々とした重厚さと素朴な構図は、一八九〇年代のゴーギャン作品『マンゴーをもつタヒチ女性』(図版71)を思わせる。ゴーギャン作品に描かれているのは、産業化されていない理想のパラダイスのオセアニア女性二人で、一人はむき出しの乳房の下にマンゴーの盆を抱えている。リンダ・ ノックリンはゴーギャンの絵を、一九世紀エロティック絵画や大衆向けポルノグラフィーと関連づけている。この関連づけは、女と果物を併置するといった女と自然の組み合わせが、はっきりと性的な意味をもつこともあることを立証している。ゴーギャンの作品では、女の乳房が果物の間にうずまり、口唇エロティシズムを暗示している。女と果物は、どちらも男の欲求と欲望 を満たすべきものとして同じような位置に置かれている。
p.185

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