遊び感覚 36~40話
第36話 吊革を持ち帰る
同僚の鈴木光太郎氏が「錯覚のワンダーランド」(関東出版社)という大変面白い本を書いた。目の錯覚について豊富な実例を引いて、その背後に潜むメカニズムを素人に分かりやすく説き明かしたもので、私のような錯覚人生を送っている人間にとっては教わることの多い導きの書である。
正直なところ、私の日常は錯覚や思い違い、もの忘れなどに満ちている。朝起きるとドアが開かない。五分ほど原因を考えたあげく、押すのではなく引くドアであることに気づく。階段を下りて台所で電気カミソリを探し、書斎にあることを思い出して取りにいくのだが、一歩踏み出すともう別のことを考え出し用件を忘れている。はて何しに来たのか、思い出すためにベッドに戻って最初から同じ動作を繰り返すが、またドアで同じ失敗を繰り返す。
ようやく身支度して、カバンを持って大学へ向かうと、途中に本屋がある。急がないときは立ち寄るのだが、長居しすぎると、現在大学へ向かっているのか、大学からの帰りなのかどちらだか分からなくなってしまうことがある。買った本を置いたままお釣りだけ大事にしまって帰ってくるのはざらだし、まあこの場合は人迷惑とまではいかないので、そう気にしてはいないが、逆のときは恥ずかしい思いをする。大きな書店で選んだ本を何冊も抱え込みながら、早く読みたい一心でレジを素通りしてしまう。全く犯意なしで。お金を払ってないことに気づくのは早くて三十分後で、慌てて持っていくことになる。
前代未聞の珍事も、私のうっかり癖から生じた。泥酔するまで飲んだことはないが、いい気持ちだったことは確かだ。新宿からの夜の急行は牛詰めで、多摩川を渡るところでようやく吊り革にすがりついた。町田駅で降りて、酔いざましに風に当たりながら徒歩で帰り、実家のベッドに転がり込んでそのまま寝てしまった。朝になってから右手を見てぎょっとする。なんと吊り革をまだ握っているのだ!こんなことあっていいものか。吊り革を持ってきちゃったんですけど。すぐに電話したが、信じてもらえない。弟の話によると吊り革は鉄道マニアには垂涎の的だそうで、せっかくだから取っておくことにした。
こうした度外れに抜けた面は、高校時代にすでに萌芽が認められる。下駄箱で上履きに替える学校は、今でも多かろうが、私は何度も上履きのまま自宅に帰ったものだ。
目の前にいる人物を知ってはいるのだが、どんな人だか思い出せない場合もある。向こうは親しげに話しかけてくるものだから、当たり障りのない話題でバレないように会話を続け、その一方で小学校から順に友達の顔を思い浮かべては、一体こいつは誰なのか正体をつきとめようとする。こないだはどこで会ったっけ、などと探りを入れてみるが、一向に埒があかない。諦めて聞いてみると何のことはない、隣に住んでいる人ではないか。
そうそう、忘れる前に。冒頭に紹介した本の図の一部は、私のこの駄文を若者らしいカットでいつも引き立ててくれているヒロウミ君が描いたものです。私の姿は一度も登場したことがないので、誤解のないよう。
[33年後の注釈]
1) 鈴木光太郎さんは当時心理学の助手。後に教授を経て退官。広範な教養の持主でその後たくさん著書を出し、また翻訳も多かった。心理学関係の翻訳、とくに心理学者ハインズの「超科学をきる」の翻訳では大変お世話になった。雰囲気はクリント・イーストウッドでしゃべると道場六三郎になる、という説明で伝わるかな。
2) 通勤途中の本屋とは日軽戸田書店のこと。そこそこ専門書が置いてあってよく利用した。隣にシーボニアという洋食屋があってランチに行った。今では戸田書店の跡地に百均ショップ「なんじゃ村」、シーボニアは一度満州系の中華料理屋になってから現在はモスバーガーに変わった。
3) レジを素通りした書店は新宿紀伊国屋。この時は不思議な体験をした。「これ、すいません未払いなんですけど」と謝ったら、「そんなことできないです」と否定された。じゃあ払わなくていいんですか、と言えば、そういう訳ではない、とチンプンカンプン。要は店の失態を認めたくないし、厄介なことをしでかしたことを怒っているらしかった。
4)小田急線の吊革事件は今でも謎のままだ。もし鋲がとれていたなら車内で気づくはずだし、左手に鞄だからポケットから定期券を出すときに右手の吊革を離さないとならない。いや、ということは改札も素通りしたのかもしれない。この日は先輩の横山輝雄さん(後に南山大学の哲学教授でいまは退官)に渋谷でさんざん酔わせられた受難の日であった。
5) この連載は初回から心理学科四年の山口広海君がイラストを描いてくれていた。今みてもなかなかの逸材であったと思う。他方この私は、祖父が日本画家、母も絵を嗜むのにからきしだめで、もしかしたらと描いてみることもあるが、後味の悪い思いをするだけだ。弟はなかなかの腕前だけど。
第37話 服装は頓着せず
こと服装については、私は何も語ることができない。ファッションというものに無頓着だからである。理想的な衣服とは日中であれ寝る時であれ、何ヶ月も着替えずに済むものだと思う。安価な綿製品が手に入らなかった、産業革命以前の時代は、貴族でさえ下着を替えなかったそうだ。いや、そこまでは言うまい。現にパンツは四十枚持っている。この前480円で買った白ズボンはパジャマにも作業着にも見え、三日ほどそのまま着続けてみたところ、誰にも気づかれなかったので、しめしめと思っている。寝ている時のぬくもりを温存しつつ、そのまま朝出するのは快適この上ない。
汚れるし、皺になるでしょうに、と言われる。昔、化学実験をしていた関係で、汚れというと重金属以外は気にしないし、シワとなると何か知性を表わしているようで好ましいなどと考えてしまう。もっとも、人に不快な印象を与えることはよくないので、ほどほどの期間を置いて、洗濯ひもにぶらさがったシャツを順繰りに着ているのが実情である。ところがこの前の日曜日に、よれよれの上着と染みだらけのズボンを着ていたばかりに思いもしない事件が起きた。
上野の西洋美術館にブリューゲルの絵画を見に赴いた時の話である。折しも桜は満開で、無節操なネクタイ野郎が車座になって、桜には一瞥もくれずに野卑な言葉を投げ合っては、コップ酒片手に打ち興じていた。襤褸をまとった放浪の身を思わせる男が、骨のはみ出た傘を小脇に抱えながら、近づいて行った。胸ポケットから紙コップを取り出して、お辞儀をして一杯の酒を所望した。拒絶と侮蔑の言葉が返ってきた。その人生を否定し去る肺腑をえぐるような無慈悲な語りようだ。
私は心底怒った。こんな見事な桜の下でなんてことを言う連中だ。おじさん、新潟のうまい酒があるから一緒に飲もう、と誘って彼らの隣に陣取った。ちょっぴり惜しいと思ったが、後には引けない。カバンから銘酒緑川の吟醸酒を出して二人して飲んだ。中国にはこういう尾羽打ち枯らした流浪の老人が、実は仙人であり、お若いの神仙の術を教えてしんぜよう、などという話が多い。もしかしたら、とは思わなかったが、兄さん、とアルコール臭い息を吹きかけられた時は、固唾を呑み込んで緊張した。
「兄さん、仕事ないんか?」。余り酒を渡して、美術館へそそくさと急いだ。有名な「バベルの塔」は来ていなかったが、他のフランドル画家の手になる見事な遠近法で描かれた印象深いバベルの塔が展示されていた。帰りに新宿の紀伊国屋でトマス・モアの書いた「ユートピア」の英語版を買ったが、その表紙を、また別の画家によるバベルの塔の絵の一部が飾っていて、偶然の一致に驚いたのだが、新潟にたどり着くと更に別のバベルの塔の存在を知らされた。
新潟大学正門前に六階建ての高級マンションが最近完成し、私の研究室からの眺望を台無しにしているのだが、1DKの部屋が六万円もするという。なんでも学生たちの話によると、よほど事情と家賃相場にうとい金持ちの学生でないと入るはずがないから、バベルの塔と呼ぶことにしているそうだ。
[33年後の注釈]
1) 33年後の今でも服装については社会人失格だと言われても仕方ない。社会人とは何かって話だけど。十年に一度くらいしかネクタイをしめないし、言われなければ同じ服を着続ける。たぶん人に迷惑をかけているだろう。
2) 子供のころはまだ東京にも乞食がいた。家にもやってきて母が有り合わせの食べ物をあげたりしていた。まさか息子がホームレス(こういう言い方は当時なかった)と間違えられるとは思わないだろうが、上野のこの事件を話したら、人を蔑むような酔客に腹を立てていた。
3) ブリューゲル展は何度か行った。「錬金術師」はよく授業で使った。研究に勤しみ子供をスポイルして貧民院に預けてしまう妄執ぶりをみせ、似たようなのが大学にもいるんだ、みたいな話をした。この年、山内先生、石田純子さん、山之内君らと金沢旅行した時に、鶴来付近でブリューゲルの「バベルの塔」そっくりの景色を見た。ルネス金沢に宿泊して、忍者寺や兼六園を回った。
4) 清酒緑川は魚沼市の小出の地酒で、確かここの令嬢がサントリーの社長のところに嫁いだという話題があった記憶がある。この頃は毎週のように温泉と酒造をめぐる小旅行を繰り返していた。
5) この時点では四年間の助手生活を終えて講師になっていたけれど、財布の中身はいつも寂しく「仕事ないのか」と言われた時は、仕事があるならやってもいいかな、と本気で思った。助手採用時の初任給は16万円で振込でなく封筒に入ったものを渡されると、ポケットにつっこみそのまま旅に出る生活をしていた時期がある。主任の大野木哲先生から「たまには大学に居て下さい」とやんわりと叱られた覚えが。
6) トマス・モアに限らずユートピアに並々ならぬ関心があった。ユートピア文献の収集に明け暮れ、古本屋めぐりもした。カムパネルラの「太陽の都」はまだ新訳が出ておらず、戦前の翻訳を長野の古書店で手に入れた。山形県川西で開催された井上ひさしさんの第二回農業大学校(テーマがユートピア)に参加したとき、井上さんと直接お話をする機会があって、「吉里吉里人」や「空き缶ユートピア」を読んで楽しかったという話をした。そして持って行った「イーハトーボの劇列車」にサインしてもらった。
7) 高額家賃の賃貸マンションはその後結構借り手が見つかったようだ。このマンションの建設にあたった職工たちが工事期間家にもどるのが面倒らしく、大学のわれわれの研究室フロアに寄宿していた。今では考えられないセキュリティーの甘さだったが、問題視する教官はいなかった。そもそも大学に住んでいる(私を含め)教師は結構いたからだ。
38話 トラックの運転手になりたい
ヴィクトール・ゴランツという人の伝記だったと記憶しているが、こんな話がある。小学校時代のある日、彼は友達に将来何になるのかと尋ねる。すると、相手はそんなこと考えたことがないので、困って親に相談する。父君は、お前は何かになるなんて必要はないんだ、お前はお前であればよい、と答える。百年後の現代社会で、かように答えられるなら、それはそれで、案外気の利いた返事にはなろうが、この場合、そういう文脈で引き合いに出したのではない。
ゴランツの問いかけた相手は貴族であり、ために将来を決する必然に迫られることはないが、その一方でユダヤ人中産階級の子供である彼の方は、明日の我が身の振り方を常時気にしていなければならない立場にあった、というわけだ。何かになりたいという人の願望を、夢想の次元でとらえるならば、ゴランツの方がはるかに幸せであったように思う。
私にとっても、何かになりたいと思うことは、いつの時代においても、楽しみの一つであった。小学生のころは、断然、探偵になりたかった。あまり犯罪が身近になかったせいか、自分から進んで探さねばならなかった。時には、女の子の後を尾行して、シャーロック・ホームズまがいの捜査を遂行し、揚げ句、自分が犯人にされたりした。長じて場末のバーの売れないピアノ弾きになりたい、と考えるようになった。ビリー・ジョエルの出世作「ピアノマン」の歌詞にあるように、待てど暮らせど心の平和が訪れることのない、無慈悲で乾いた都会の生活に疲れ果てた酔どれたちや、バーボン片手にありし日への思いを募らせる敗北の男たちのために、こっそりと「時の過ぎゆくままに」を奏でたいと願ったものだ。
白日夢の形をとって現れることもある、こうしたいまだ来たらざる日へのあこがれを支えていたものは、朔太郎が、自らを食らってしまう蛸に譬えた、形をなさない不満のエネルギーであったのかもしれないが、「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」と万感の思いをこめて手帳に書きとどめた賢治の求道の精神の端の端をかすめるほどには、何やらつながりがあるような気がしている。
と書いてはみたが、どうやら思い違いのようだ。先月、燕の渡辺さんのご子息が遠く陸前海岸へ引っ越しするのに便乗して、トラック運転手の真似事をさせてもらった。早朝燕を発ち、相模経由で岩手まで、セダン型の乗用車に慣れた人間には信じられぬほど眺めの素晴らしい運転席から、つらつら考えたものだ。今度はトラック運転手になりたい、と。どんな荷を載せているのでも良い、アーサー・ミラーの描いたセールスマンのカバンの中身のように、最後まで何が入っているのか分からなくても構わない。それは何かのメッセージであるはずだ。そして、それを待っている人がいる。「男の花道」なんて書いてあるトラックではなく、埃だらけの普通のトラックだ。そして恐らく、余命いくばくもない、人生の冬枯れの季節においても、次は占い師になりたいというふうに、きっと私は夢想を続けているだろう。
[33年後の注釈]
1)ヴィクトール・ゴランツ(ユダヤ系英国人なのでヴィクターと読むべきか Victor Gollancz)は1927年に出版社を設立。推理小説や左翼思想の出版で知られる。この伝記の一部は実は高三の時に英語の副読本で読んだ。その時の記憶で書いている。あとで原著を探したが入手できなかった。
2)将来何になるの、という問いはヒッチコックの「知りすぎた男」の主題歌 Que Sera Sera の娘が母親に聞く質問だ。「なるようになる」がタイトル。意味が分からずに歌っていた。
3)小学校の時に、シャーロック・ホームズやルパン、江戸川乱歩の少年探偵団は読み尽くした。当時、探偵の真似をして尾行する遊びが流行った。私立だったので生徒の居住地はまちまちで、見知らぬ土地を歩くスリルがあった。大抵は相手の親に見つかり、叱られるも、家にあがって菓子を貰ったりした。
4)ビリー・ジョエルは院生時代によく聞いた。ピアノ・マンのイメージは吉祥寺のジャズバー Sometime のピアノ弾き。あそこで自作曲を弾きたいと本気で思っていて、一時中断していたピアノを再開したい、という話を村上陽一郎先生につぶやいたら、じゃあ姉のところへどうぞという話になり、1980年から村上紀子先生(お家は陽一郎先生宅と同じ敷地)のもとでレッスンを受けた。紀子先生の毎年の発表会は自作曲を弾くことになっていて、始めて譜面を書いた。(正確には、小五の時にオペレッタ「テレビ王国」の脚本と作曲を担当し、後にNHKで放映されるという幸運に恵まれた時に、ピアノ譜を書き、それを専門家がスコア譜にしてくれた。まだビデオ録画できない時代だったので、全貌は失われている。数曲記憶にあるだけ。小学校の時は、作曲家の北條直彦先生について和声と作曲を習っていたが、才能開花せず中三の時にやめていた)。
5)朔太郎の詩「死なない蛸」は散文詩集『宿命』に収録されたもの。水族館の蛸が空腹で自分で自分を食べてしまうが、死なないで生きているというこの詩は詠んだら一生忘れることができない。
6)燕の渡辺恵波さんは私より13年上で成城学園高校時代の父の教え子。新潟に就職が決まった時に父から紹介され、以後現在にいたる約四十年お世話になった。よく学生を連れていき夕食を御馳走になったりした。登山や温泉、旅行でもよくご一緒した。この年はご子息が北里大学の水産学部に進学したので、その引越しのお手伝い。トラック運転は初体験だったが、運転席からの眺めがよく。以後三十年、自家用車はワゴンになった。
7)アーサー・ミラーの「セールスマンの死」は滝沢修主演で二度ほど観た。名優が肩を揺すらせながら運ぶトランクの中身は最後まで明かされない。
8)占い師願望は後に満たされる。というのも学生時代から独学していた手相観を、佐渡の看護学校で実践したらなかなか好評で、その後数百人の掌を観た。困るのは同僚の教官が俺のも見ろ、と言ってくることで、手相など見ずとも大体相場は知れているので断ることにしていた。
39話 ものに宿る物語
何の変哲もない普通の石のかけらで、いわれを聞かないうちは一体全体いかなる価値があるのやら一向に理解できない代物がある。私の研究室にある火山岩の破片などもその一つで、長谷川君がアフリカからはるばる運んできてくれたキリマンジャロの石だと知らされて、ようやく珍しいものに出会ったようなありがたい気がしてくる。
先ごろ書店で売り出した「ベルリンの壁」の破片も似たようなもので、品質保証書がついてなければ、だれ一人その由来を見抜けまい。友人Sが恭しく綿にくるんだ米粒大の石をテーブルの上に置いたときも、俺の尿道結石だよ、と彼が説明するまでは、皆目見当がつかなかった。頼朝の幼少期の頭蓋骨が東北地方にあると聞くが本当だろうか。蝉みたいな男だったのかもしれない。
石ではないが、私の実家の庭に植えられていて、毎年二月になると人をして陶然と酔わせる芳香を放った蝋梅(ろうばい)の木は孫文がかつて在日中に故郷を偲んで植えたと言われるものから、知人経由で枝わけしてもらったものだそうだ。少々個人的にはなるが、カラヤンが日本で盲腸手術したときに虎ノ門病院で執刀した医師の令嬢からの葉書なんてのもある。もっともこれは単に知り合いだったというだけの話だが。
道すがら偶然出会う人それぞれに、語り尽くせぬ曲折に満ちた人生の遍歴があるのと同様に、ふだんは容易に見過ごしてしまうありふれた物にも、その場に収まるまでの特異な経緯や、いかなる憶測をも拒む不思議な縁が必ずやあるに相違ない。知名の人や話題の事件とのかかわりでとやかく語り草になる物よりも、その人本人しにしか意味をなさない思い出と深く結びついたものの方が、ずっと大切なような気がする。
テネシー・ウィリアムズの戯曲「ガラスの動物園」の中に、ローラが角の取れた小さなガラス製のユニコーンを、実らなかった恋の相手であるジムに渡す場面がある。「思い出に」(原語は souvenir)と小声で男の手のひらに乗せる。息をかけるのも躊躇するほど、繊細で壊れやすい心の持主ローラの化身ともいうべきものだ。ベティと結婚した後でも、きっとジムはこのユニコーンの像を手放さなかったであろうと思う。
居間のレコード箱の上にポケットに入るくらいの赤い小さな熊の人形がある。今から14年前(1975年)に常人の住まぬ遠い世界へと旅立って行った、一人の若い娘がくれたものである。「いつか必ず帰ってくる。だから、それまで、これ私の身代わりね」と言い置いて去って以来、まだ戻っていない。私が初めて、そして最後になるかもしれない求婚をした相手の女性のこと。彼女は「カサブランカ」でリックが最後に恋人に言って聞かせる台詞を好んだ。「パリの思い出があるじゃないか」だったと思うが、黙示的な含みがあったようだ。
いやはや申し訳ない。何だか湿っぽい話になってしまった。先に紹介した友人Sには変な趣味がある。耳垢をマッチ箱にためて置くという奇癖のこと。いくら思い出が物に宿るといっても、これだけはいただけないように思う。
[33年後の注釈]
1)長谷川君は新潟大学医学部を経て、当時は赤十字病院に勤務する医師。登山家としても知られ著書もある。飯豊連峰の登山でご一緒した。修道僧のような出で立ちで勉強家。医学部に進む前は哲学科にいたので、夜中に共同研究室で独学していて、半ば大学に住んでいた私はよく顔を合わせた。キリマンジャロの石はそうだと言われないと分からない。大学の化学科時代に富永健先生が、これ南極の氷だよ、と海洋探査船が持ち帰った氷を学生に見せてくれたことがある。二万年前の空気が含まれていると先生は嬉しそうに語っていたが、ロマンを解さぬ唐変木なので有難味が分からなかった。
2)そうだ。この年にベルリンの壁が崩壊。同僚で私のピアノの先生である村上紀子先生にゲーテ・インスティテュートでドイツ語を習っていた現代ドイツ史の松本彰先生は記念の破片を見せてくれたっけ。
3)尿道結石を見せてくれたのは泌尿器科の医師でまだ内科治療できずに切開手術していた頃の話。
4)孫文の話は母から聞いた。祖父三浦廣洋は明治15年生まれで歴史的人物と結構交流があった。寺崎広業門下の住込み時代には、近所で療養中だった正岡子規に使いを頼まれて豆腐を買いに行ったとか、幸田露伴の囲碁の相手をしたのもそうだ。日露戦争に絵師として従軍し敵の砲弾の破片が刺さって負傷したときに、軍医の森鴎外に治療を受けたと言っていた。孫文は祖父の千駄木の家の近くに寓居していた。
5)カラヤンの盲腸の手術をしたのは安藝基雄先生。長女の安芸恵さんは小学校で六年間同じクラス。(後年青山高校で一緒になる。ある意味初恋の人)。ピアノが上手くて賢くて憧れの存在だった。後に私が科学史の大学院に進むと安藝先生が医学史の大家であると知る。
6)テネシー・ウィリウムズの戯曲「ガラスの動物園」Glass Menagerie は大学1年の時の英語のテキスト。シェークスピア学者の中野里皓史先生のクラス。学生に優しくよく食事や珈琲を御馳走になった。実家が寿司屋で奥さんが教え子。後期のテキストはウッドハウスでユーモアを解する上品な紳士だった。本郷の東大文学部教授在職中に急逝されたことを、友人で新潟大学での同僚の大河内先生から聞いたときはショックだった。「ガラスの動物園」は好きな作品で、演劇集団円の公演で観たのを皮切りに、どこかで再演されるたびにたとえどんな小さな劇団のものでも足を向けた。ローラ役だった松本留美さんは、観客との交流会で話す機会があった。「私とは全然違う女性なのよ」と演技の難しさを語ってくれた。
7)赤い熊の人形をくれたのは室住信子さん。いやフルネームで書くと違和感がある。Non と呼んでいた。サイモンとガーファンクルのスカボロフェアーの歌詞が浮かんでくる。She once was a girl of mine. 英文科大学院に進み後に青山学院大学で教えた。Non との往復書簡は百通を超える。大学2年のときにお互い「東大ピアノの会」の創成期のメンバー。もちろん私よりも遥かにピアノが上手い。大体において私が懸想する女性はピアノが卓越している。
8)「カサブランカ」の名台詞を銀座のイエナに行ってシナリオを買ってまで調べたら、なんのことはない Because we have Paris. と知りがっかりした。「君の瞳に乾杯」も原文は Cheers! 字幕が巧妙なのだ。
40話 友達がやってくる
もしもし、はい、井山です。テープじゃないよ。なんだ、君か。テープにしておけば良かった。えっ?新潟に来るの?そう。それはご苦労さん。でも、何だって今ごろ…家に泊まりたいって?知っているだろう、最近半年ばかり片づけてないんだぜ。そろそろ、ゴキブリも出てくる季節だしね。それでもいい?うーん、あまり相手ができないんだ。毎日、大学に行っているし…分かった、それならどうぞ…新幹線で来るわけね。なら、越後線に乗り換えて、六つ目の新潟大学前で下車してですね。階段を左に降りて…トイレがあるからそこで用を足して、えっ?いや、家のトイレはね今浄化槽が調子悪くてね、そういうことだ。
線路の下をくぐると、やたらと長い階段がある。上に出ると自転車がたくさん置いてあるけど、間違っても人様のものを借用しようなんて気を起こすなよ。えっ?余計なお世話?そこからは一本道なんだ。電気屋の駐車場を通り抜けると国道に出るから、道沿いに右の方へ行く。スーパーが見えるから、入りざま脇にあるパン屋でフランスパンを二本買うんだ。朝食用ね。中へ進むと反対側にクリーニング屋があってね。そこで、ワイシャツを受け取ってくれよ。うん?ワイシャツくらい自分で洗えって?やったさ。でも三度洗っても白くならないんだ。でね、目の前の出口を左に折れると、さっきの国道があるから渡ってと…反対側の歩道をさっきとは逆方向に歩く。いいかい、薬屋と喫茶店の間の道を右折、ガタガタ道をね、十歩ほどで左折して、次の角を右折。少し行くと溝があるから注意しろ。六年間で四度も躓いたんだ。さらに直進して左側を注意。紺色の車が置いてある三軒目の家だ。
車のドアを開けて灰皿の中にある家の鍵を出す。いや入ってもらって構わないんだ。玄関を上がると横に真っ赤な冷蔵庫があるけど、驚くことはない。オブジェとして置いてあるだけなんだ。機能はしていない。すぐ右が書斎で、左から二つ目の本棚の最上段、左から四冊目の本を抜き出してくれ…君から借りたダイエットの本。あまり効果はなかったけどね。
玄関に戻って奥へ入ると台所がある。白い冷蔵庫の中に鶏ガラが冷凍してあるから、窓辺で芽を出し始めている玉葱と一緒に煮といてくれるかい?その間に二階に行ってさ、自分の布団を干してくれると助かるな。いや、窓からで構わない。部屋の掃除をしてくれるのなら拒みはしないよ。その後どうするかって?さっきの料理はまだ先があるんだぜ。電話だと長くなるから、レシピを書いた紙をテーブルの上に置いておく。不明な点があったら、ピアノの横の本棚の飯田深雪の料理本を見てくれ。料理ができたら?そりゃ、食うしかないさ。君のための食事だ。
そうそう、夕方時に、大納言が来るんだ。野良猫の源氏名だよ。流しの下に煮干しがあるからやっといてくれるかい?…何時に帰るかって言ってもね。ここんとこ遅いからなあ。泊まることも多いし。まあ勝手にやってくれよ。会えなかったら、今度東京で会うことにしよう。じゃあね。
[33年後の注釈]
1)この時家にやってきた友人は赤松幹之君。大学院博士課程時代に川崎の看護学校で知り合った。当時は慶応大学の院生で看護生に統計学を教えていた。私は化学実験を。以後現在に至るまで長きにわたる交誼。凄く頭の良い人で一度言えば話したこと以上に理解する芸の持主。フルートを吹く。卒業後に産業総合研究所の研究者になり、ロボット工学(ちゃんと理解していないかもしれない)を含む管理工学が専門。筑波大学の客員教授をやってとも言っていた。でも余り学問の話はしない。この時彼は車で来ていて、さんざん電車で来る場合の説明を受けてから、これまた彼の凄いところなんだけれど、一度も道を聞かずに家の前でやってきた。結局家は泊まれる状態でないということで、燕の渡辺さん宅に泊めて貰った。渡辺さんについては38話の注6)を参照。電話の内容はかなり盛ってあるのでご了承頂きたい。
2)赤い冷蔵庫は幼なじみの中野葉子ちゃんの愛人が帰国するときに不要になったので貰ったものを東京から運んだ。この時は台所にピアノがあり、翌年グランドピアノに買い換えた。料理本は独身時代は飯田深雪のNHK三部作「きょうの料理」の和食・洋食・中華篇を使用。片っ端から作っていたが、後に結婚してからは小林カツ代にはまり、時折平野レミも好んで用いた。
3)大納言は野良猫の名前。雄か雌かは不明。風呂場から入ってきて家猫ロキの餌を狙っていた。一度悶着があったが、紳士協定を結び、大納言には別に餌を用意することにした。礼儀のない奴だが、このルールはちゃんと守ってくれた。
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