遊び感覚 66-70話

 

66話、ゴキブリ博士と対談

 ある科学雑誌の新年号企画でM博士と対談することになり東京へ出かけた。会談のテーマは論争についてであり、この私は科学哲学の立場からM博士は現場の研究者の視点からそれぞれの思うところを述べることになっていた。
 なにせ相手は父親ほど年齢が上であるし、キャリアの違いも歴然としている。それにM博士と言えば知る人ぞ知るゴキブリの大家でいらっしゃる。他方、この私はと言えば、いまだに学生と間違えられる、浅学非才の怠け者教師。碌に本を読まず、さりとて実験や調査をしているわけではない。どうして選ばれたのか半信半疑の気持ちを超えて、編集者の人物判断の暗さを呪うまでになっていた。
 お茶の水で落ち合った担当の知人と根津駅からだらだら坂を上がって行き、農学部の煉瓦造りの校舎にたどりついたのは午後の二時頃だった。昼飯を奢ってもらった手前、もはや逃げ出すことはできない。定刻に研究室を訪れ、これが世界のトップを争っている現場なのかと訝(いぶか)りたくなるほど老朽化の進んだ部屋へ通された。M博士の研究で話題の中心となったのは、ペリプラノンと呼ばれるワモンゴキブリのフェロモンという物質で、これはメスがオスをおびき寄せる際に放つ、不思議なにおいのする物質なのだと聞いた。M博士はこの謎の物質を世界に先駆けて人工合成したらしい。
 一体何匹くらいのゴキブリをつぶして研究しているのですか、ゴキブリに愛着を感じますか、人間にもフェロモンはあるんですか、そうそう、たくさん言い寄ってきたオスの中から一匹だけ選ぶ場合、ふられたオスたちに向かって、そのメスは頭を下げて「ゴメンナサイ」って言うのでしょうか。
 どうも私の質問は的が外れていたようで、M博士は途中から私の言うことを一切無視して独演会を始めだした。確かにどれも興味をそそる話であり、聞いていて楽しいのだが、私の方は役に立たず申し訳がない気がし始めていたところ、担当者が「インタビューということにしましょう」と囁いてくれて、やっと肩の荷が下りた気持ちになった。
 ところが安心したのも束の間、専門科学の話に耳を傾けているうちに、博士のズボンのファスナーが開いていることに気づいてしまったのだ。しかも非常に奇妙な動きを繰り返している。博士が話す、息を吸う、お腹が膨らむ、ファスナーが下がる、(ちょっと間を置き)息を吐く、お腹がへこむ、ファスナーが上がる。この前代未聞の往復運動を観察しながら終始気づかぬ風を装い、緊張の二時間を過ごさねばならなかったのだから、へとへとに疲れてしまった。
 対談ならぬインタビューの礼を述べ博士の部屋を辞すと、突如、体の変調に気がついた。そういえば、あの研究室は試験管やフラスコの中に多種多様な生物のフェロモンが蓄えられている、と言っていた。その一部が付着したのだろうか、どうもおかしい。遠くの方から誰かがこの私を呼んでいるような気がする。うーん、どうやら北の方角らしい、尤も、この私のことだから、のこのこ出かけて行って、結局、「ゴメンナサイ」を言われて砂浜を疾走する破目になるのだろうけれども。

34年後の注釈

1) 科学雑誌とは初めて記事を書かせて頂いた縁のある『化学』で、編集者はX(旧ツイッター)でも相互フォローの平祐幸氏。ポリウォーター事件のことを日本化学会で発表したときの記事を見て助手になったばかりの私に原稿を依頼してくれて以来の交流。その後幾度か登山(常念岳、西穂高岳)にスキー(上越国際)を共にし、御代田の山荘にも来て頂いた。確かこの対談の前か後に根津で鰻丼を食べたと記憶している。平さん呪ってすみませんでした。
2)  ペリプラノンを調べたらM博士のことが書かれていた。「ペリプラノンAは森謙治らの研究により正しい構造が導かれた。だが 残念なことにオスをおびき寄せて駆除するといった実用化には至っていない」。それじゃあ何のために研究しているのかと誰も疑問に思うだろうけれど、やはりM博士はゴキブリ愛から研究をしているのだと確信した。たとえファスナーが開いていても。
3) 対談が行なわれた東大農学部弥生キャンパスは、私が二年間通った理学部化学科のある本郷キャンパスの道路をはさんで向かい側にある。在学時は野球グラウンドを使う時以外足を踏み入れたことはなかった。ただ教養部では理科II類だったので友人の大半は農学部だったこともありどこか懐かしい気分になれた。
4)  ファスナーの一件は記憶にないけれど、ファスナーの発明には子供の頃の思い出に関係する起源がある。鉤(フック)と輪(ループ)の組合せ型ファスナーは現在マジックテープと呼ばれている。このマジックの発案者はジョージ・ドメストラルで、母国スイスの片田舎でのオナモミ(ひっつき虫)の構造がヒントになった。オナモミはセーターやシャツの繊維にからんでとれなくなる草の実で、よくみると鉤型の突起で覆われていて、それが布製の生地の輪にひっかかってとれなくなる、ということを彼は観察したという。ロバーツ『セレンディピティー』315頁参照。

67話、未知のあなたと

 「まだお会いしていないあなたに、こうして手紙を書く無礼をお許し下さい。私はあなたの顔も声も背丈も知りません。秋風が白亜の壁をすりぬける午後のひとときに、あなたは紅茶片手にクレープを食べているのか、それとも所在なく薄紅色のマニキュアを塗った薬指を見つめているのか、あるいは敬愛してやまない著作家の書物をひざに載せて読もうとしているのか、私に知る術(すべ)は皆目ございません。
 少なくとも一つだけ分かることは、今の今、あなたがこの手紙を読んでいるという事実です。私の語る『時』は、あなたが読んでいる『時』と合わせ蓋のように重なり、ささやかな共有空間を作り出しています。私たちは、今、同じ時間の流れに身を任せているのです。
 今日一日の私の話をぜひ聞いてください。朝から憂鬱でした。サンマを七輪で焼いても、紅玉の皮でアップルティーを淹れても、腹筋運動を百回やっても、一向に埒があきません。目からはとめどなく涙が流れてきます。人の影におびえながら裏畑をうろつき、大根を一本失敬し、挙げ句犬に吠えられ、太陽が高く昇る前にいそいそと家に戻ってきます。香を炊きこめ照明を暗くして、祈るような気持ちで眠りにつきます。
 こういうときは誰にでもあるのでしょうね。一年で一番弱気で自信のない一日。でもですよ、私はこういう寂しい一日をこよなく愛しているのです。この一日があるからこそ、過ちや誤解を生み出す人の弱さを許すことができるのだ、と思います。ただ、そのことをあなた一人にこっそり打ち明けておきたかっただけです。
 一度も会ったことのない人間だからこそ、心休まる思いがするのかもしれませんね。いずれにしても、わずかな時間であれ、つきあって頂いて、大変、感謝しています。あなたに憂鬱症が移らないようお祈り申し上げます」。
 「拝復。お便り読みました。私の方も、あなたの顎の弛み具合や腹部の皮下脂肪の厚さについてまでは、全く見当がつきません。どうやってこの私の住所と名前を見つけたのでしょうか。不思議ですね。きっと、いつもの郵便屋さんね。ともあれ、憂鬱で沈んでいるご様子、よく分かります。御飯も喉を通らず、人をも避けたいお気持ち、察するに余りあります。あまり深間にはまっているのでしたら、こちらから出向いて勇気をつけてあげたいくらいです。
 そうだ。面白いとは思いませんか、知らない者同士が突如会ってみるなんて、そう、十七日の正午に駅前の珈琲ショップの円形テーブルで会いましょう。考えてみるだけで楽しくありませんか。あなたの悩みごとなんて吹き飛ばしちゃうの。粒入りの辛子をたっぷり塗ったホットドッグを食べて嫌なことは忘れてしまうのよ。さて、どうやってお互いを見分けることにしましょうか。私は薄紅色のマニキュアを塗って、スカーフを頭にかぶっていこうかしら。あなたは黒のジャンパーに黒ズボン。まるで映画みたい。心配しないで。取って食おうなんて気はないわよ。それに、かりそめにも恋を考えては駄目。ええ、そうですよ、当たり前じゃないですか、私がいくら若いと行っても、もう来月で七十になるのですから」。

34年後の注釈

1)薄紅色のマニキュアなんてどうして思いついたのかな。見たことない。34年後になっても。ルージュの口紅にスカーフならば、モデルは中野葉子(既出、中高と同じ学校で幼友達、英文学者)の母親だろう。私の母の大学時代の親友。最近葉子ちゃんと話した時に絢子さんは娘の家庭教師の男の子とデキていたことが判明したと興奮して教えてくれた。その母親も94歳。実はこのエッセイ、連載時に家の母親経由でコピーが回っていたらしく「弘幸君もなかなか書くよね、そこは感心するけど、ときどき抹香臭い坊主の語りのなかに袈裟の下に隠した鎧がキラリと妖しく光っているのはどうか。教師癖はなかなか抜けないのよね」と電話で批評してくれた。
2)まだ携帯電話を普及しておらず、ましてやSNSなど想像もつかない時代なので、ペンフレンドの募集欄が雑誌にあったり、間に人を介して未知の人と会ったり、旅先で知り合ったり。でもこの記事の設定はどうやって住所と名前を知ったかが書かれていないためリアリティーにかけている。たぶんそろそろネタが尽きてきたのかなと思う。
3)この当時の体重83kgで東京時代よりも15kgも太っていた。この十年後に国立病院のマヨダイエット法というやたらとグレープフルーツを食べる減量メニューで68kgまで痩せた。その後コロナ禍で運動をできなかった期間に88kgまでリバウンドして今年2023年の5月から再びジムでの有酸素運動を7カ月続けて現在は69kgで落ち着いている。いや何もここで自慢話をしても。
4)駅前の珈琲ショップはおそらく新潟駅万代口のドトールで粒入り辛子の入ったホットドッグとはジャーマンドッグのこと。この店はテナントビルの解体工事のため2024年に閉店となる。残念だ。
5)黒ジャンパーは町田のマルタケ商店で6万8千円で1984年に購入したもの。自分で服を買う習慣がほとんどなく、この時はジェームズ・ディーンみたいな革ジャンが欲しくなり当時の一月分のバイト代を使った。いまでもときどき着るが老人仕様ではないので、何か違和感がある。

68話、昔は煙草を吸っていた

 さて、今日は何を書こうか、と思案する間もなく、われわれ喫煙者はポケットから煙草を出して、とりあえず一服という儀式を行なってしまう。この「とりあえず」がなかなかの曲者で、振り返って見れば、一日当たり十数回も心の中でつぶやいていることになり、決してヘビースモーカーでないにしても、都合一箱は消費する勘定になる。私の喫煙歴は十五年前の誕生日まで遡る。確かダンヒルのハッカ入り煙草だったと思うが、仙人が霞を食うとはこのことか、と妙に納得した覚えがある。爾来間断なく吸い続けてきたが、マーク・トウェインのように百回もやめるほど豪胆でもなく、約十万本のシガレットを灰塵に帰さしめては、地球とわが身に優しくない人間集団の一翼を担ってきたわけだ。
 何故に男たちは紫煙をくゆらせることに、お金と時間と健康を浪費してきたのだろうか。間を持たせるためとも、現実から逃避するためとも、あるいは空中に輪っかを作るためとも、否々マッチの炎を見ることが目的なのだが、単独でやると放火犯と間違えられるからとも、その理由はさまざまに言われてきたのだが、私の場合は少々異なった動機があるようだ。第一に、美味しいこと。第二に、余所者との間に距離を取り、自分を守ってくれる防御膜ができあがること。
 けれども、今年の夏ごろからこの二つの動機は消滅してしまった。体が嫌がるようになったし、近年の体重増加の最も直接的な影響を受けて、物や人との衝突から守ってくれる脂肪層の防御膜ができあがってしまったからだ。そういった次第で、さしもの愛煙家もそろそろ年貢の納め時を迎えたことを自覚し禁煙を決意した。後進のために、私が採用したクリーンライフへの道を伝授しておこう。実を言うと、それは秀逸な戯曲を矢継ぎ早に書き上げる一方で、彼独特の流儀で世界を眺めた随筆を執筆している作家別役実氏が考案した「幸福の方法」の応用である。
氏によると、バスが予定より遅れて苛立っている場合、煙草一本に火をつけることで、不幸の解消ができることになる。つまり、バスが来れば一本無駄にしたものの苛立ちから解放され、来なければ来ないで、バス停の一服という楽しみを心ゆくまで味わうことができ、いずれにせよ、もはや不幸とは言えなくなるからだ。私はこの「幸福の方法」の禁煙版を編み出したのである。と言っても、いとも簡単なことで、常日頃一番会いたいと思っている人に、君の前では煙草は吸わない、と宣言する。そうするとどうなるか、会えなくて寂しい時は、煙草が吸える一方で、たとえニコチンとタールの臭いを忘れても、会っている間は喜びを継続できる。どちらも精神の安楽が約束されているわけだ。
つい昨日、東京の知人から電話をあって、都心では禁煙友の会があり、禁煙日数によって景品が貰えるそうだ。その景品がなんと葉巻セット。何とタイミングの良いこと。これに一口乗れば、完璧ではないか!一度きりしかない人生を台無しにするかもしれない悪魔の嗜好品から手を切るチャンスを、私はこうして手に入れたのである。澄みきった空気を綺麗な肺に思う存分吸い込める日も、いずれはやってこようというもの。さあ、わが人生の新たなる門出を祝って、とりあえず、一服。
 

34年後の注釈

1)二十歳になった誕生日から吸い始めて子供が生まれた四十歳あたりでやめるまで二十年間は吸っていた。銘柄は Just, Seven Star Mild, Camel Light, Peace Light の順にもともと軽いものしか吸わなかった。大学時代はダンヒル・メンソールを吸っていた短い時期もあったが「メンソールを吸うと○○○になる」という都市伝説を信じてやめた。GFと一緒のときはツッぱってロシア煙草 Sobranie を新宿サブナードの専門店で買っていた。Sobranie を勧めた当時英文科の室住信子さん(「さん」をつけるのは違和感がある。当時はノンと呼んでいた)は2023年12月4日に逝去。大変なショックを受けた。封印していた思い出話をそろそろ書く時期かなと思っている。
2) 禁煙宣言のように読めるが最後の一行でそれが無理だったことが分かる。まだ昭和のバンカラな校風の残る旧国立大学は親切にも教壇に灰皿があり、多くの先生方は煙草をくゆらせながら授業をしていた。そう言えば理系の先生は板書で忙しいけれど、大学時代に1)で述べたノンの英文科の授業にもぐりこむと、どの先生も煙草を吸っていた。シェークスピアの大橋先生なぞは大型の箱マッチをデンと教壇においてハイライトを吸っていた。誰も文句を言わないのだから凄い話だ。もっとも大学院に進んで大森荘蔵先生のゼミで相変わらず先生が煙草を吸い出すと最前列の学生が「僕、喘息もちなんで煙草やめて貰えますか」と抗議するからびっくり。至極当たり前のことだけど、それをお前が言うか!みたいな空気が流れた。その時は、大森先生大人の対応ですぐにやめて講義に戻ったけれど、その学生は一日も欠かさずにいつも最前列の席を占め、毎回先生が煙草を取り出すといつもの抗議を繰り返すものだから、とうとう最後の時間にこう言い放った「君は僕の授業に毎回休むことなく最前列で聞いてますが、どこか悪いのですか?」。私も出席率は半分以下だったから、毎回やってくるこの学生は煙草を吸わせまいという魂胆でやってきていると思われたのだろう。
3)別役実のエッセイとは「馬に乗った丹下左膳」に収録されている「バスを早くこさせる方法」のこと。煙草を悪魔の嗜好品と呼んでいるのは、たぶん芥川龍之介の「煙草と悪魔」があるのだろう。現時点では(令和6年正月3日)煙草は堂々たる悪魔の嗜好となっている。肩身の狭い喫煙所に公共交通機関ではもはや喫煙可能な場所はない。社名をJTに変えても効果はなかったようだ。後で公衆衛生の論文の一つに面白いデータを発見した。肺ガンのリスクはシガレット煙草だと吸わない人の3倍以上だが、葉巻の場合はむしろリスクが減る。ということは景品の葉巻セットには医学的根拠があったわけだ。

69話、恋文の代筆

顕微鏡とスケッチブックを小脇に抱え、粘菌というミクロ世界の変わり者を追いかけながら、アメリカ中を駆けめぐった青年時代の南方熊楠が、曲芸団に身を寄せていたところの話が伝記の中に出てくる。非凡な語学能力に恵まれていた彼は、なんと恋文の翻訳で生計を立てていたというのだ。
これがあったのか、と私は密かにつぶやいた。私の乏しい語学能力では翻訳は到底無理だとしても、恋文の代筆くらいはできそうだ。いつ何どき、大学を首になるかもしれないし、新聞を開けば必ず見るのは求人欄という、この不安にかられた学者もどきにとって、明日への願望がようやく開かれたのである。
運命の日がやってくると、私は玄関に「恋文代筆いたします」という看板を出すだろう。気の早い私は、もう、どんな人間が仕事の依頼にやってくるのか、夢想している。最初の客は若い理科系の学生だったので、ふむふむ、専門性を活かした手紙にしたいのですね。ではこんなのではどうでしょう、とものの五分で書き上げてしまう。
「あなたが僕に初めて声をかけてくれた時、傍を駆け抜けようと毎時十kmで走っていた僕の耳に、ドップラー効果を起こしたのあなたの880ヘルツの声が届いた時、僕の神経細胞のナトリウム電位は0.1ボルト跳ね上がりました。あなたにお会いできないと、僕の心はラジウム原子のように崩壊してしまいます。半減期が来る前に会ってください」。
 さて二番目の客は、妙におどおどした気の小さい男で、それでも正直な自分の気持ちを伝えたいと言う。私はやおら筆を握って「もしも、あなたが駅の方へ行くついでがあって、五分くらいの余裕があり、しかもその時間一人で過ごしたくない、なんて気持ちになる可能性がおありでしたら、その時間に駅前の喫茶店に入って頂けないでしょうか。私は、トイレの横の侘しい席から遠くに座るあなたを、夜空のシリウスを眺めるような面持ちで、愛しい気持ちで見守らせていただくつもりです」と書くことだろう。電報局の気の短い男には「スキダ、シキノヒドリキメヨウ」と、さらっと書いてあげよう。もっとも「ダメ」という簡単な返事が来そうだが。
 もちろん、女性の客も訪れることが考えられる。推定年齢六十歳。ありますとも、そういうことだって。「この間のゲートボール大会で、駱駝色のジャンパーを着たあなたにお会いしました。覚えていらっしゃいますか。あなたは、私の名前を三度も聞いたのに、忘れてしまいましたわね。あなたの駝鳥に似た風貌と、オットセイの鳴き声を思わせる咳払いが好きです。今度一緒に日向ぼっこしましょうね」。
 若い女性も来ないわけはなかろう。異様に眼が大きいヒヤシンスのような髪をした女が、玄関の前に立っている。しかも、風変わりな依頼なのだ!「私の手紙でなく、私への手紙を書いてくださいますか」。えっ、聞き間違えではないのか、頬をつねったが本当らしい。ええ喜んで書きますとも、無理して書くのではなく、本心でもいいんですか?そりゃ、簡単だ、思ったまま書いちゃおう。美辞麗句のありったけを使って書いた私の恋文の返事がやってきた。「ダメ」。やっぱり、首にならないよう努力した方がいいみたいだ。

34年後の注釈

1) 院生時代に知りあった物性研のレーザー研究者遠藤彰さんは、ことあるごとに「南方熊楠は凄い」と言っていて、それまで全く知らなかった恥ずかしさもあって「十二支考」や「シンデレラ考」を読みその博覧強記に驚いていたけれど、神坂次郎「縛られた巨人」を読むと、天才博物学者の博学者ぶりよりも、波瀾万丈の人生の方がずっと面白いことに気がついた。結局「南方熊楠全集」全十二巻を買って、いまは御代田の山荘においてある。二年前に逝去した教え子の石田純子さんは卒論と修士論文のテーマに南方熊楠を選び、この連載を書いている頃、田辺の記念館まで旅行したことがある。同行者は哲学者の山内志朗さん、深澤助雄夫人と坊やと石田さんの五人。色々あったが高野山で崖から落ちそうになって、山内さんから「死ぬかと思った」と言われたのもこの旅行でだ。
2)今読み返すといま一つ冴えがない恋文で、笑いをとりたいのか、かくやと思わせる名文にしたいのかが分からず仕舞いだ。恋文の偽造は中一の時に十円玉くらいの禿げのある柳沢君宛に女子の大島が書いた体で見事にやってのけた。ギャグとして笑い飛ばしてくれればいいのに柳沢の奴は先生に言いつけて、しこたま怒られた。平井国盛先生曰く。「もっと中学生が書きそうな文にすればいいのに、大人びていてこれではすぐに分かる。後で書き方教えてやるから職員室に来い!」。
3)電報局の男って設定は時代ですね。電信電話公社があった時代。サザエさんの電報話で面白かったのは「カネオクレタノム」という電報。放蕩息子が親に「金送れ、頼む」と打ったつもりが、親は「金、遅れた、(睡眠薬を)飲む」と勘違いする話。まだ笑芸に興味がなかった頃だ。テレビでは「ボキャブラ天国」のお笑い氷河期だった。
4)そうだ。この時代は結構ゲートボール場があった。老人のリクリエーションと言えばゲートボール。ルールはよく分からないけれど、結構コースを邪魔したり意地悪のできる老人向きのスポーツ。今はどうしているのだろう。カラオケもなかったし、やはり日向ぼっこは正解かもしれない。
5)大学を首になる、という話は半分は本当。1984年に助手として採用された時は「長くても3年くらいで他へ移ってくれ」と言われていて、この連載の時点では8年経過していたので約束ならば追放だった。正しくは4年目の時に大森荘蔵先生(お嬢さんが成城学園出身で高校のときのクラス担任が私の父)が気を遣って東大定年後に新潟大学に転任された友人の山本信先生に電話をして「井山君が助手で困っているから君は早くやめてポストを開けてあげなさい」と言ってくれたらしい。それで科学基礎論のポストが空いて残ることができた。とてもラッキーではあった。もっとも首になってまたバイト生活に戻っても、それはそれで芝居を復活するとか楽しみがあるしね。

70話、モモンガーを探せ

 未発見動物学という国際学会を開催するほどまでに、学者たちの興味を集めた分野がある。スイスのババリア地方で目撃されたトカゲに似たタッツェルヴルム、ヒマラヤ山中にひっそりと棲息し、ときおり巨大な足跡を雪上に残しては物議をかもしだすイエティ、中国の農村に出没しては家畜に被害を及ぼす野人(イエレン)、なぜだか夏の休暇期によく現れるマサチューセッツ沖の大海蛇、そして言わずと知れたネス湖のネッシー、というように枚挙のいとまがないほど多くの謎の説物がこの世に存在しているという。
 人口過密で絶滅生物の悲報を頻繁に耳にするわが国においてすら、未知の生物を見聞した話はこれまた尽きることがなく、人の口の端にのぼっては雑誌記者を奔走させている。奈良県山中の明神池付近にいるらしいツチノコは、とうとうシンポジウムを開くまで有名になったし、山形県朝日連峰のふもと大鳥池で、その遊泳する雄姿が観察された巨大なイワナ、タキタロウに至っては、記念Tシャツまで売られている。
 世界の人跡未踏の秘境の中で、おそらく平和に暮らしている未発見動物の数は膨大なものであることが推測されるが、つい先ごろ、私は学会員でもないのに、そのカタログに一つ書き加える報告をした。
 そのカギは「クマのプーさん」の第三話に出てくる、モモンガーの記述にあった。この動物の特徴は「探している本人に、一体自分は何を探しているのか、自分で探さなくてはならない気にさせる」性質にある。ミルンの原文では Woozle となっていることから、モモンガーは訳者の頭にいつのまにか侵入してきた不思議な怪物であることが分かる。
 私は膨大な文献を渉猟するうちに、秘密組織であるモモンガー学会の存在に気がついた。開催地は不明で、その場所をみつけることが会員資格取得条件になっているのだが、学会に出席した途端モモンガーになってしまうという、妙な会合なのである。
 実を言うと、私は今月十八日シネ・ウィンド五周年記念の企画で話す機会を得、つい調子に乗ってモモンガ-学会の秘密を公表してしまったのだが、どうやらそれがいけなかったようだ。その一件以来、謎の人物に尾行されたり、家の中の気配を窺われたり、深夜にまるでモモンガーの鳴き声を思わせる(と言いながらも聞いたことはないのだが)振動音が天井からもれてきたり、醤油の液面に不快な緑色の藻のような物質が浮かべられていたり、半年前に活けた薔薇の花がいつのまにかミイラにされていたり、原因不明の事件が相継いだ。
 そうだ、そうに違いない。モモンガ-学会のスパイ部門が遣手の刺客を送ってきて、秘密を漏らした私を抹殺しようという魂胆なのだ。私は毎日変装して外出し、寝るときは魔除けにプーさんのぬいぐるみを枕元に置くようにした。苦手なはずだからだ。しかし、私の涙ぐましい防衛の日々も不意打ちを喰らい無駄なものとなった。
 その日は夕方から怪しい雰囲気が漂っていた。玄関のところで誰かがガラス越しに中を覗いている。私は固唾をのんで包丁を握りしめていた。黒い肩掛け鞄がおぼろげに見える。拳銃をもっているかもしれない。と、おそるおそる戸が開けられた。
 「井山さん、新聞代、二ヶ月ほど溜まってますけど」。作戦を変えたな?学会費を騙しとろうというわけか?
 皆さんくれぐれも注意するように。

34年後の注釈

1) ユーヴェルマンス『未知の動物をもとめて』が出版されたのは1981年だから今は入手できるか分からないが、この本で国際未発見動物学会の存在を知った。だからここの部分は実話なんです。連載当時結構な数の問い合わせがあって、未発見動物学会は本当に存在するけれど、モモンガー学会は創作なんです、すみませんと弁解した。未確認飛行物体が unidentified flying object = UFO に対して「未確認移動動物」となると unidentified moving animal = UMA になる。ユーマの方は一般に知られるようになった。その後、未確認移動動物=未発見動物で通用するようになったわけである。
2)ユーヴェルマンスの本には Tatzelwurm の写真まで載っていたように記憶している。この写真家は撮影後もちかえって標本にすれば大発見なのに、お腹が空いていて食べてしまったという。眉唾の話だ。パンダも19世紀までは未発見動物で指が六本あったり食肉目なのに笹の葉を食べるとかいかにも謎の白黒熊であった。チベットで発見したのはイエズス会の神父で初めてパンダを見た時に「えっ、冗談だろ」と言ったとか。昔、サッカー日本代表に岡野というやたらと足が速い長髪の選手(確か当時川崎ヴェルディ)のニックネームが「野人」だったので、つい雪男の中国平地版のイエレンかと思ったけど、結構それっぽかった。
3) ツチノコシンポジウムは2018年まで確認できた。奈良県下北山村で「ツチノコ探検30年記念シンポジウム」開催とある。発見して捕獲したら百万円とか。前に書いたように田辺市に南方熊楠記念館を訪れたときに郷土資料館にも寄った。その時確かにツチノコのホルマリン漬けを見たように覚えている。鼠を飲み込んだ蛇とも言える。
4)A.A.ミルンの「クマのプーさん」は子供の頃は母親から読んで聞かせて貰い、高校の時に原文で読んだ。ミルンは随筆がユーモアあふれる名文で、こちらの翻訳が少ないのは残念だ。プーが蜂蜜を食いすぎて兎の家から出れなくなる話、イーヨーの尻尾紛失事件そしてモモンガー探しがなかでも好きな話である。
5)確かにモモンガー学会はありそうで、冗談だと分からない人はいた。坂道研究会、おにぎり研究会、日本笑い学会、漂流物研究会など冗談のような学会も結構ある。
6)新聞代?そうね。この頃は朝日新聞を講読していた。好みでは信濃毎日新聞と東京新聞が圧倒的に面白いのだけれど、新潟ではとることができない。ときどき中断して新規に講読を始めると、ビール券や野球観戦チケットとか(定番は洗剤か?)もってきてくれてこれも一つの楽しみだったが、40歳になってようやく家庭をもってからは、チラシなどの紙ゴミが増えるので新聞はとらないことにして今日に至っている。このエッセイを連載した新潟日報はもちろんとったことはなかった。


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