見出し画像

遊び感覚 56~60話

56話 なかなか起きることができない!

 真夏の朝はけだるく体は重い。気温32℃湿度70%体重83kg。何をするにも気力がわいてこない。甲子園の球児たちがベースに頭から滑り込むたびに、アナウンサーはやたらと気力という言葉を使うが、その万分の一でも授かりたいものだ。とにかく起きないことには一日が始まらない。一体何時ころでろう、うむ、はや2時とは。
 もう少し寝てようか、いい夢を見るかもしれない。いやだめなんだ、今日こそはバルサンを買ってきて居間の絨毯に跋扈するダニを退治せねばならない。私自身が噛まれることは仕方ないにしても、最近は協定を破って客にまでたかるようになったからだ。化学兵器の使用もやむなき戦況に至った。さてと上半身を起こすにしても、何かきっかけがないと、そうだ、2時22分、デジタル時計がゾロ目になった時にしよう。
 それにしても、私の上半身はどのくらいの重さがあるのだろう。単純に考えると40kg近くはありそうだが、してみると、毎日かなりの運動をしていることになる。お米一俵が60kgほどだから、半俵は優に超えている。その重さを重心の移動にして50cmほど上方に支える仕事をするわけだ。どのくらいのエネルギーだろうか。暗算するしかない。ええっと…約200ジュールだから50カロリー弱か。案外大したことないなあ。でも熱効率が百%ということはないから、原発なみの30%ということにして、しめて170カロリー。昨年食べたピラフの大匙二杯分くらいだろうか。
 あっ、つまらないことを考えているから、ゾロ目を逃してしまったではないか。よしよし今度は3時33分にしよう。いやいや、布団の上が快適なわけはない。汗まみれで気持ち悪いし、湿気を含んで重くなった空気がのしかかってくるのだから。ただ、きっかけを失うと、私は何もなきない型の人間だ。昔新宿のカトレヤという地下喫茶で、注文を取りにくるウェートレスを8時間も待ってしまったことがある。他の客が来店した折を見計らって、ちょいと姉さん、と声をかけようと待機していたのが、結局その日の客は私だけだったために実現しなかったのだ。この記録は今後も破られないだろう。
 そうそう、こんな風にあれこれ考えるから、きっかけを外してしまう。思考を閉ざし、闇だけを眺め念ずるのはただの一文字、無。考えないように、考えないように。こうすれば脱線しないでひたすら待つことに専念できようというもの。無、…無。あらら、羊が一匹上手からやってくる。続いて二匹、三匹。やめてくれ邪魔するな。カステラの宣伝でもないのに、ラインダンスなど踊るんじゃない!何でまたこうなっちゃうのか。きっと、卵のせいに違いない。ピラフに入れたやつ。確か40日前のものだった。
 違うよ、お前に言ったんじゃない。羊が卵を産むはずないだろう。ああ、もうだめだ。これはすでに夢の世界だ。羊が卵を持って花笠音頭を踊っている!気が狂ったのだろうか。またしても、起きることができなかった。目覚めたときは夜中の2時であった。ロマンスの一かけらもない、真夏の夜の夢。

34年後の注釈

1)34歳の時点で83kgあったのか。今現在(2023年67歳)72kgで新潟に赴任する前の院生時代は68kgだったことを思うと何か油断があったのだろうね。こんな自堕落な生活をしていればぶくぶく太っても仕方ない。大学から歩いて十分くらいの貸家(二階6畳、一階洋間6畳居間の和室6畳台所8畳で家賃が3.8万円)に住んでいて。この時は洋間が寝室兼書斎という広い家に慣れていない生活で、ただでさえ動かない毎日だった。
2)居間の絨毯は用賀のアパートに住んでいた時に三軒茶屋の寝具店で購入したウール素材の高級品だったが、川崎の看護学校で講師仲間だった酒井君(後に生命科学研究者)がゲロを吐いて汚した後が鮮やかに残っていた。
3)カロリー計算はだいぶいい加減だ。おにぎり一個の燃焼エネルギーは168kcal。グリコキャラメル一粒三百mから計算したのか。
4)新宿紀伊国屋下のカトレヤで8時間も待たされたのは高校時代のことで、その時は一人ではなく田島と田鎖がいた。記憶違い。いま思い出した。二人とも青山高校時代の麻雀仲間。8時間待って話すだけ話して結局何も飲まずに出た。
 
 

57話 木を植えた男

 あなたがこれまでに出会ったことのある、最も並外れた、忘れがたい人物はだれですか。いまから40年ほど前に米国のある編集者が、この問いへの回答を受け取った。「木を植えた男」すなわちプロヴァンス地方の荒野に、独力で種を蒔き、を甦らせたエルゼアール・ブッフィエの物語である。生き返った楓の木立を懐かしむように思い浮かべながら、救貧院のベッドで安らかに息を引き取ったブッフィエなる人物が、調べたところ実在の人間でないという理由で、その原稿はつきかえされたのだが、この伝記は別の出版社で印刷され、多くの人びとに木を植えることの尊さと感動を伝える書物となり、近ごろアニメーション映画として公開されていた。
 いつか見たいと思っていたところ、この夏、前年に引き続き生徒として参加した生活者大学校で、幸運なことにこの作品を見る機会に恵まれたのである。不思議なことに、まるで啓示を受けたかのごとく、私は同じ会場で忘れがたい人物と出会った。山形県高畠町で有機農業を営む農民詩人星寛治氏のことだ。米の輸入自由化論や国の減反政策で次第に存立基盤を危うくされている農家にありながら、効率と経済性を優先させる世の風潮に真っ向から逆らって、野や山の生き物との共生をはかりつつ、自然に対する畏敬と慈愛に満ちた昔ながら農法を続けておられる立派な方だと知った。
 「わたしは、リンゴの木と向かい合って仕事をしているときが、いちばんしあわせだ。他のいっさいの雑念をふりはらって、リンゴの木と話をすることができるからである」と氏はその著作「かがやけ、野のいのち」(筑摩書房)の中で書いておられるのだが、ものを言わぬ樹木と会話することは、並大抵の人間には不可能に近い行為と映ろう。20年もの歳月、雪が降ればその重みにあえぐ木のうめき声を聞き、幼子の髪を親が刈ってやるように伸びた枝を剪定し、地の恵みに感謝を捧げながら赤い実に袋をかける土まみれの作業を通じて、寡黙で受け入れることしか知らぬ無防備の相手への愛情が育まれるのだろう。
 木を植えること、そしてそれを育てること。人類が文明を築いて以来連綿と受け継がれてきたこの植樹という、未来をおのが懐中に抱き込む行為に潜む無償の愛情は、悲しいかな失われてしまったようだ。墓守が絶えて死者とのつながりは失われ、樹木は伐採されその魂は行き場を求め彷徨う。かくして、現代人は、過去と未来へのきずなを放棄し、そのため両者を貫く悠久の流れに身を置くことができなくなり、刹那の衝動と欲望に生きる以外の道を失ってしまった。都会の孤独は、考えてみれば、墓地と森林の喪失の結果なのかもしれない。
 しかしながら、架空の人物ブッフィエと、農に生きる詩人星寛治氏との出会いは、こうした悲観の谷間からふたたび人と自然との調和の晴れ間を仰ぎ見る勇気を与えてくれた。道行く人びとに伝えよう。笑いさざめく子供たちに教えよう。木を植えることは素晴らしいことだ、と。もの言わぬものを愛することは尊いことだ、と。
 

34年後の注釈

1)『木を植えた男』 (寺岡襄訳、フレデリック・バック絵、あすなろ書房、1989年)はこのエッセイの直後に入手した。訳者も読者もこの物語をノンフィクションだと思っていたが、作家ジャン・ジオノの小説でフィクション。
2)私が参加した生活者大学校とは、「自らの暮らしを生活者の視点で見つめ直そう」と遅筆堂文庫開館の翌年(1988年)から井上ひさしの提唱で毎年1回のペースで開催されている講座でコロナ禍前の2019年で30回を数える。『木を植えた男』を上映したのは第三回「地球と農業」(1990)だったか。井上ひさしさんと講座後のパーティで直接お話することができて感激した。(『イーハトーボの劇列車』にサインして貰った)。
3)リンゴ農家で詩人の星寛治さんと、九州の農民作家の山下惣一さんの共著「農は輝ける」(創森社、2013年)が面白い。山下さんの「俺たちは農薬を使って命がけで米を作っているのだから、消費者も命がけで食え」という逆説が印象的だ。
 
 

58話 ゴルフとカラオケが嫌い


年に一度は、若い人たちと合宿する機会がある。起食を共にするわけだから、平素知られていない一面に遭遇することも数多くねわが身と引き比べてみて、不思議に思うことさえある。最も理解しづらい点は、他人の家で好き嫌いをはっきり口に出して言えるという、立派とも厚顔ともとれる態度である。いわく。私、セロリ駄目です。僕、ナスを見ると背筋がぞっとするんだ。ヨーグルトの存在なんか許せないわ、とか。私にピーマンなんて見せないで、などと平気で言うのには、全く閉口してしまう。心の中では、涙を流しても食べさせてやろうと決意はしていても、そこは怒れない私の悪い面が出てしまい、彼らの言い分を弁面的に受け入れる形になってしまう。食べ物の好みの問題とは切り離して、その嫌悪の生態を冷静に見つめてみると、ものを嫌いだと言うことは、それぞれの自己表現の重要な一部となっていることに気がつく。そう考えれば、かわいらしいで済ませることもできようが、ものを忌避することではなく、ものに愛着や好意を示すことによって、自分の個性を表わす方が素直で自然だと私は思う。
しかしながら、かく言う私にも嫌いなものはある。もちろん、それを好む人を不必要に傷つける気はさらさらなく、むしろ自分も好きになろうと努力はするのだが、駄目なものは駄目なようだ。それは何かというと、実は、ゴルフとカラオケのことである。その訳は単純で、騎士道精神に反するという理由から、英国では禁止された歴史をもつゴルフの方は、運動量と使用する土地の広さが不釣り合いである、という点で嫌だし、最近では東南アジアまで輸出され文化摩擦の原因となっているカラオケの方は、美しい肉声をマイクで台無しにしている、という点で好きにはなれないのである。
 もっとも条件しだいでは、容認する可能性もある。まずはゴルフだが、選手の足には鉄鎖に鉄球、バッグには麻酔銃が入っている。実はサファリパークも兼ねていて、いつ何どき猛獣に襲われるか分からない状況にあり、しかも傾斜は40度。ギリシャ神話のシシュフォスのごとく重い足取りで、ライオンや虎の襲来を警戒しつつコースを回る。極めつけはレストハウスの食事。ゴルフ場を流れる小川の水で調理した農薬入りのメニューを命がけで食べる。これなら勇気ある男のスポーツと言えよう。
カラオケも、悪いのはマイクとイメージ・スクリーンだけで、上手下手はあるにしても、人にはそれぞれ声に艶や色があるのだから、地声で歌えばいいと思う。マイクがないと寂しいという人には、赤ちゃん用のおしゃぶりか胡瓜かネギ坊主でも持たせれば良いだろう。こんな風に親しい友人に話したら、どうやら私の底意地の悪さを見抜いたようで、お前は皆が流行に乗って他人に追随することが嫌なんだろう、と反論してきた。これが案外言い得て妙だったので、つい感心してしまった。折り畳み式が出回って、誰もかれも黒地のスマートな傘を鞄にしのばせていた高校時代、傘をさすなんてお天道さまに申し訳が立たない、男は肩をぬらして歩くものだと威勢よくうそぶいて、全身濡れネズミになって帰ったものだが、そうか、流行嫌いね、今更のように自分の性格を知ってしまった。
 

34年後の注釈

1) 新潟大学人文学部助手に赴任してから11年間の独身生活。学生はよく食事にやってきた。飯田深雪の料理本を参考に片っ端から和洋中の区別なく違うものをつくっていて、来た学生の大抵の要望に答えることができた。確かに好き嫌いはあるにはあったが、それぞれの郷里の味つけを教えて貰うことも多く。レパートリーはこの時代に飛躍的にのびた。その後39歳で結婚してからも食事は家族の分をつくっていたから、まあ好きなんですね。父方の叔母青木紀子さんがベターホームの料理教室を開いていて、何冊かレシピを送ってくれたのもこのころ。客が来ると大抵は料理の話になり、滅多に勉強のことは話題にならなかった。
2) 食べ物の好き嫌いはほとんどなく、ここには書かなかったが敢えて言えば牛乳は好まない。飲まないと殺すと言われれば飲むけれど、やはり公立中学のときの脱脂粉乳のショックが尾を引いている。あれは牛乳じゃないけれど、家畜になった気分で心底嫌だった。
3) ゴルフは子供用のパターコースで遊んだくらいで、やったこともないし、たぶん一生しないだろう。御代田の山荘の隣は大浅間ゴルフ場で環境としては恵まれているけれど、歩くだけなら山歩きをする。でもここまで憎悪するのは、社用族の俗物根性が関係していると思う。ゴルフをする客が家に来なかったこともあるが、どこか知性にかけていると思い込んでいるようだ。例外は、東大の体育科が所有する乗鞍岳山荘の広大な敷地。ここでは院生時代に家族連れでいってゴルフを堪能した。ゴルフと言っても野球のバットでソフトボールを打ち、18箇所ある半径30センチほどの穴に入れるという豪快なゴルフだけれど。
4) カラオケは歌わなくてもそれなりに楽しめる空間になってからは、学生と何度か行った。食事もそこそこ味わえるし、低料金で長い時間を過ごすことができるから、割り切って利用する。仮眠のためとか読書にふけるとか。
5) 傘をささないのは、父の影響だ。父・井山幸雄は生涯一度も傘をささなかった。四月こそ「春雨じゃ濡れていこう」で恰好をつけることができるが、梅雨のときは申し訳もつかずにただ意地で濡れていた。「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘップバーンが雨に濡れながら猫を抱くシーンが好きで、だってオードリーだって濡れてただろ、と変な言い訳をすることもある。
6) 流行はいまでも嫌いである。とくに誰もが口にする言葉は意図的に避ける習慣がある。自意識過剰だと言われることもある。ただ自意識って何かと問うて答えられる人はいるのかなあ。それに過剰と言われても「適量」を知らなければそうとも言えないだろうに。ただ安易に他人の使った言葉を吟味せずに使うのが嫌なだけである。

59話 アマチュアが好き

 この原稿は大抵火曜日に書く。講義が二つある日でもあり、いささか興奮ぎみで帰宅すると八時頃が普通。今度こそまともなことを書くぞ、といきり立ってはみるものの、そこは物書きのプロならぬ身の悲しさ。空疎な言葉を書きつらねては慌てて消し、バツの悪さに運ぶ茶碗の数も次第に増えていく。それでも、私は、アマチュアで良かったとつくづく思っている。
 今日の五時限目、科学者はどうやって食べてきたか、という話をした。1834年に「科学者」という言葉が誕生する以前の西欧では、科学研究を生業にして、なにがしかの報酬を得ている者などいなかった。貴族の庇護のもとに安楽な研究生活を送れた者がいたかと思えば、そうでない者も多くいたのである。子供に算数を教えることで何とか糊口をしのぎながら研鑽を積み、不朽の原子論学説を唱えたドルトン。熱帯雨林の懐中奥深く珍奇な昆虫を求めて駆けめぐり、採集コレクションを売ることで生計を立てた進化論生物学者ウォーレス。いずれも、科学という探究に対しては、びた一文報酬を受けずに、ひたすら自らの関心の赴くまま、信念の促すままに行動したアマチュアであった。現在、科学者と言えば、政府という名のパトロンに雇われた白衣姿のサラリーマンを指し、その意味では明らかにプロ全盛の時代である。
 アマチュアとは本来「純粋な動機と愛情をもって仕事に精を出す人」であって、職能集団に帰属するプロのことでも、またその反対語でもなかったように思う。好きであること、これ以外にアマチュアの神髄を表わす言葉を私は知らない。だから本当のことを言えば、プロになってもアマチュアとしての志を失わずに済むわけだ。ところが、悲しいかな、一度専門家やプロになってしまうと、人は図らずもアマチュアであり続けることを放棄する。好きであったころの心意気を、蝉が古着のように殻を脱ぎ捨てるのに似て、若気の過ちだと断じてしまう。責務とか貢献という言葉の陰に隠れて、好きだという無垢な感情の吐露は、次第に弱いものとなっているのが通例のようだ。
 横光利一の短編で確か「面」という題のものであったと記憶しているが、勉強をしないで屋根裏にこもって面ばかり彫っていた少年が、そのため下駄屋にされたという話がある。自分をそんな境地に追いやった面に向かって、少年は呪いの言葉を浴びせるものの、かつては好きであったものまで失ってしまっていることに気づいていない。気まぐれな執着は、人生を思いもよらぬ方向に導いてしまうものだ、という著者のメッセージを読み取ることもできようが、アマチュア精神の喪失としても解読可能な作品だ。
 少々照れくさい話だが、私は、恋愛においてもアマチュアのような気がしてならない。ぼんやりと頬杖をついて、相手の声や表情を思い出す。もちろん誰も見ていないところでですよ。しみじみと、ほのぼのと、そうして一日何もしないで暮らす。次の日も同じ。もっとも、私のような中年男性の場合、よくよく考えてみれば、発育不全とか生きた化石と呼んだ方がふさわしいのかもしれないが…。
 

 

34年後の注釈


1)平成元年当時の講義は「科学思想史」と「科学基礎論」。前者は前任の渡辺正雄先生が担当されていたもので、後者は集中講義で村上陽一郎先生が東大から毎年出講されたもので荷が重い科目ではあったけれど、以後30年以上休むことなく続いた。海外研修とかサバティカルで休むこともできたけれど、結局好きなんだろうな。現在定年後2年になるが、科学思想史はまだ非常勤で続けている。
2)科学者 scientist が初めて文献に現れたのは 1834年の Quarter Review 誌でサマヴィル夫人の科学入門書への匿名書評のなか。造語したのは哲学者のヒューエルと判明している。命名のあとの歴史が面白く、自称・自然哲学者であったファラデーら今では科学者と言い表わされている研究者はこぞって「科学者」と呼ばれることに難色を示した。百科事典に scientist が載るまでに70年の歳月を要した。
3)ドルトンは修士論文のテーマ。これで論文3本を書き就職できた。マンチェスターに足を向けて寝ることができない。
4)アマチュア amateur は愛好家であって素人とは限らない。プロフェッショナルを略してプロと呼ぶが、これは職業的であって専門家でも高度な知識の持主とは限らない。運よく大学教員になっても碌に勉強もせず素人同然の人間はわんさか居る。ものごとに通じ見識と判断力がある人かどうかは、読者や学生が自分の目を肥やして知る以外ないと思う。まず自分がそう思われないように自戒の意味で。
5)大滝修司さんは劇団民藝の俳優だけれど、懇意にして頂いた女優久保まづるかさん曰く、あの人はアマチュアなのよ。本当に好きで芝居をやっている。
6)横光利一の文中のこの小説は中学の時に教科書で読んだ。その時の表題が「面」だったがその後に全集に収録された時は「笑はれた子」だった。加藤周一は東大の学生時代に駒場祭に講演でやってきた横光の非合理性をさんざん批判した。この話は確か「羊の歌」で読んだ記憶がある。だから「面」はいま一つ分からない小説として駄作のように感じてしまう。と言うか加藤周一贔屓なので。
7)恋愛のアマチュアは amare がかぶっていて良い表現ではないですね。余程カットしようかと思った。
 
 

60話 涙は食べるもの?


 涙とは奇妙なものだ。好んで流したものではないけれど、決して嫌というわけでもない。ときには、無慈悲な人の世の教訓を垂れ、愛する者の無理解や奔放さを否応なしに認めさせるかと思えば、こまやかな情愛で人を包み、生きていることの本源の悦びを伝える使者になることさえある。
 私の生活も涙とは切り離すことができない。起きれば昼の太陽の眩しさに耐えられず涙を流し、顔を洗うと水道水のカルキが染みて、涙が滲み出てくる。徹夜明けの講義の後は、腹の底からあくびが込み上げてきては、心地よい涙を拭かずに余韻を楽しみ、朱に染まった西の空を眺めては、超越せる美に陶然となって落涙する。
 チエーホフの芝居の主人公プラトーノフの狼狽ぶりを観て、隣のおばさんが涙にむせんでいるにもかかわらず、私は私で、腹を抱えて笑いころげたことがある。それでも、結局気がついてみると、一条の涙が私の頬を伝っていたわけで、涙のありようはさまざまである。芥川の小説「手巾」は、女の底知れぬほど深い悲嘆を、強く握りしめられた手巾(はんかち)に凝集させ、泰然自若とした面持ちがそれを一層際立たせたという、演技とも真実ともとれる話であるが、その一方で、人を食べるときに流すと言われる、白々しい鰐の空涙というものがあって、涙と悲しみとの関係は結構複雑であるようだ。
 敬老の日の夕刻、たった今のことだが、私の頬は涙にかき濡れている。周囲の人は怪しむわけでもなく、同情するわけでもない。寂しいのでも、辛いのでも、おかしいのでも、眠いのでも、感動したのでもない。富山市の総曲輪(そうがわ)まで足を運び、私は新手の涙の味わい方を経験したのだ。口中から鼻を突き刺す揮発性ガスにうろたえていると、背中を冷やかな汗が滴り落ち、それに遅れまいと双眸から滝のごとく涙が流れ落ちる。その後に残るさわやかで、心和むこの感情をどう言い表そう。生きていて良かった、という感謝と幸福の気持ちがわき上がってくる。
 えい、折角だからもう一つ食べちゃえ。大将っ、涙もう一つね。お客さんも好きですね。ゆっくり食べてくださいよ。そうね、一気にやったら死ぬ人もいるだろうなあ。誰かに聞いたんですか?昔、富山大学に居た山崎幸雄先生に是非試すようにと、勧められたわけ。涙をへとも思わない先生でしたね、本当によく来られて。うっ・・・(私のうめき声)。お客さん大丈夫ですか?あがりでも飲んで。ええ、もう大丈夫、平気ですよ、泣けてきますねえ。プロポーズするときに、景気づけに一本食べるといいかな。大盛りなんてのも、あるの?ええ、でも今日はやめといて下さいよ。他にもいきのいいネタもありますし、本当に変な客ですね。小指一本分のワサビをくるんだ手巻きを食べさせる「寿司栄」での話。
 宝石店ティファニーに、ドロップ・アブ・ティアーズという、女性の羨望の視線を常時集めている指輪ある。年の離れた恋人にねだられて仕方なくその指輪を贈った同業者の友人が言っていた。あれは、買ってやる男の流す涙のことだぜ。
 それにしても、世の中いろいろな涙がある。
 

34年後の注釈

1)小学生のころ「涙くんさよなら」という曲があった。1985年に日航機事故で落命した坂本九が歌っていた。「涙君さよなら、さよなら涙君」と出だしはいいんだけど、♪またあう日まで~は子供ながら笑ってしまった。
2)チエーホフの「プラトーノフ」は物性研の遠藤彰さんと見にいった。院生時代の後半は志学塾で知り合った遠藤さんと登山と観劇をご一緒していただいた。芝居の話ばかりしていて、とうとうレーザー光学の話はしなかった。一度だけ物性研で雷の電圧を超える実験をしたと誇らしげに語っていた。
3) 芥川龍之介の「手巾」はハンカチを握りしめて息子の死の悲しみを抑える女性が、実はスタニスラフスキーの演技論を学んでいたというオチがあった。芥川全集は用賀の家にあり中学の時にほぼ全部読んで、大概の作品の筋立ては覚えている。というのも私の父の若い頃の風貌は晩年の芥川そっくりで、しかも母校が旧制の東京府立第三中学校で同じ。その父が「とにかく読め」と言っていたので読んだ。
4)山崎幸雄先生は昨年6月に誤嚥性肺炎で亡くなられた。新潟大学に移られる前は富山大学で国語学を教えていた。先生のいきつけの寿司屋が「寿司栄」で品書きにない「涙」をよく注文していた。辛いのが好きな先生で、蕎麦を食べるときは一味唐辛子で汁面を真っ赤にそめていた。
5)ティファニーの装飾品の名前は Drop of Tears ではなくて Teardrop だった。今調べて分かった。しかも指輪ではなくペンダント。記憶がいい加減だったのか友人が間違えたのかどちらかだろうけど、みっともない誤記だ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?