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遊び感覚 46-50話

46話 三つの願い

願を立てて成就する。それが他力によるものであれ、自力で獲得したものであれ、幸福の一つの形態であることに変わりはなかろう。それにしても、願い事の不慣れな人間はいるものだ。三つの願いをかなえて貰えると聞いた夫婦が居て、夫がでっかいソーセージが欲しいとまず言う。その慎ましさに腹を立てた女房が、そんなソーセージはあんたの鼻にでもぶらさげていればいい、とぼやくと本当にくっついてしまう。揚げ句の果て、最後の願いを使ってやっと元の鼻に戻してもらうという有名な民話がある。
 こんなジョークもある。ポーランド人とイタリア人とユダヤ人が無人島に漂着し、そこで魔神に出会う。それぞれ願い事を一つ聞いてくれるという。イタリア人は、祖国の快楽の巷に戻りたいと答えて消えてしまう。ユダヤ人は、同胞のいるイスラエルで余生を過ごしたいと語り行ってしまう。さて、ポーランド人はどうしたか。皆いなくなって寂しくなったから、戻ってきてもらいたいと願ったそうだ。
 もうちょっとまじめな話をしよう。ヘッセの寓話「アウグスツス」は、わが子の幸福を願う母親が、魔法使いのおじいさんから、一つ願いをかけてごらんと言われて、とっさに誰からも愛される人間になってほしい、と答える話だ。その子供は、成長するに従い、誰からも愛され、どんな罪を犯しても許されてしまう人間になり、結局そのために堕落してしまう。青年アウグスツスは、再会した老人に願い事の変更を懇願する。誰をも愛せる人間にしてください、と。人びとから憎悪と悪罵の言葉を投げかけられながらも、彼はいかなる者であれ、その精神の奥底に愛すべき美質のきらめきを見抜こうと努力する人間になり、やがて幸福な死を迎える、という読む者の胸を打つ忘れがたい物語である。
 こうしてみると、人の世の願いというものは、実現しなかったり、不幸な結果をもたらしたり、そうやすやすと幸福の糸口を与えてくれないものであるようだ。やはり願い事の不得手な私の眼前に、アラジンのランプならぬ「土瓶の精」が立ち現れた時も、さしたる期待を抱くことはなかった。
 おまえの願いを聞いてやろう、と土瓶の精は言う。顔を洗うまで待ってくれるかい?…いや、だめだ、十秒待とう…なら、出しそびれた玄関のゴミを捨ててきてくれよ…そんなので良いのか?…分別ゴミに注意してね…金とか欲しくないのか?…ああ、新聞代がたまってるから、その分を出してくれてもいい…夢のない奴だな…それなら遠慮しないぜ…そうこなくちゃ…奮発してブリのカマと大根にしよう…処置なしだぜ…聞いてくれないなら構わないさ…おまえという人間が分からない…願い事が現実にならないようにって願いはどうだい?…そいつは、母親がワニに向かって言うセリフだろ…ま、とにかく、ブリ大根てことでよろしくね…(少し考えて)おれの願いを聞いてくれるか?…僕でできるならね…簡単なことだ、お願いだから、おれの土瓶を灰皿代わりにするのをやめてくれるか!

[33年後の注釈]

1)ソーセージしか残らなかった夫婦は考えてみると、ソーセージが残るだけでも良い方かもしれない。三つの願いの類話は「元の木阿弥」で終わる場合が多いからだ。無人島の三人の話は角川文庫「ポケットジョーク集14、いじわるジョーク」に掲載されたものでこのシリーズは古本で見つけるたびに買い集めた。
2)ヘッセの「メルヒェン」は思いがけない一冊だった。院生時代に花房晴美さんのピアノ独奏会があって、友人で作曲家の雁部一浩を誘った。チケットを郵送したのか直接渡したのかは忘れたが、コンサートの晩彼は会場に現れなかった。携帯電話のない時代だし、連絡できず、何か事情があったのだろうと諦め座席に急ぐと、女学生が彼の席に座っている。事情を聞くまもなくコンサートは始まり、休憩時間に「あの、その席は僕の友人が座るはずだったんですけど…」と言おうとした矢先に、彼女はぺこりと頭を下げ「今晩は素敵なコンサートに誘って頂きありがとうございました」と言われた。終演まで会話はそれきり。後で雁部に文句を言ってやろうと帰りかけると、包装された文庫本を渡された。御礼にということだろう。それがこの本。「アウグスツスが好きなんです」。後日雁部に電話すると、女学生は真美ちゃんという名のピアノ科の音大生だということ。振られたばかりの私のために引き合わせようとしたらしい。とんでもないことだ。「僕は構わないけど、事情を話さないで招待するなんて、その子に悪いじゃないか」。
3)アラジンのランプの魔神の話はさまざまなドラマの中に再現されている。印象的だったのは昔深夜に放送された「ミステリー・ゾーン」の「四つの願い」(DVDでシリーズ第十巻)。骨董屋の主人のところに貧しい老婆がもちこんだ古ぼけたガラス瓶。同情して買い取ったが、たまたま割ってしまい魔神が現れる。四つの願いを聞いてくれると言う。半信半疑で試しにと、割れたショーウィンドーのガラスを修復して欲しいと頼む。これが一つ目の願い。見事に輝きを取り戻したガラスに満足し、本腰を入れ二つ目に、百万ドルをすべて五ドル札で欲しいと願うと天井からお札の雨。近所の人に贈ったり教会に寄付したり。そこに税務署の役人が来て税金が九十万ドル必要と言われ、泣く泣く支払い五ドルしか残らない。あせる主人は現実に存在する「絶対に失脚しない権力者」を選ぶ。すると彼の姿はヒットラーに変貌し、自殺を強いられる場面にいることが分かる。仕方なく四つ目の願いを使い「もとに戻してくれ」と叫ぶ。女房は夫が無事に帰還できたことを喜び、それでもガラスが直って良かったと夫婦でダンスを踊るも、ウィンドーにぶつけてガラスを割ってしまう。これで元の木阿弥。でも貧乏であっても骨董屋も捨てたものでない、と自得するというハッピーエンド。
4)母親がワニに言う台詞。これでは分からないですね。自己言及のパラドックスの一例。子供を捕まえて今にもパクリとやりそうな鰐がすがりつく母親に言う。「もしワシがこれから何をしようと思っているかを言い当てたら食べないでやる」。これに対し母親は「あんた、うちの子を食べようと思っているんでしょ!」。

47話 喫茶店の思い出

 私が勤務している新潟大学五十嵐キャンパスの近辺には、学生のたまり場になるような喫茶店がない。あるにはあるが、恋人との待ち合わせ場所や口角泡を飛ばす熱の入った会話のサロンとなるような店を見かけることはないのである。私のように、学生時代の大半を喫茶店で過ごすことに慣れた人間からみると、何か寂しいような気がする。
 それでも生まれて初めてテラ・インコグニタに足を踏み入れた十七年前の体育の日は、毎日のように珈琲片手にたむろしていた時とはまるきり違っていた。私が通った高校は、東京神宮外苑の野球場の向かいにあって、夕暮れ時になると、絵画館やテニス場へ向かう道々で、仲むつまじいカップルが、木陰のベンチに憩いの場をもとめては、正視に堪えない光景を繰り広げていて、感じやすい思春期の若者の胸に、恋とは何かを否応なく刻み込んでいた。
 体育祭の当日、爆竹とペンキの飛び交う過激な騎馬戦が終わると、最後の種目である仮装行列が始まる。私のクラスの出し物は「美女を救うキングコング」という南国を舞台にしたもので、どういうわけか、私が女装させられヒロインを演じる破目に陥ってしまった。喝采と罵声を背に受けながら教室に戻ると、図書委員の子が妙に押し黙って待っていた。打ち上げの会、私、出たくない、と彼女は言う。ヘアピースをかぶり口紅をこってり塗った私は、ようやく男であることを思い出し、そうか、じゃ二人で逃げちゃおうと答え、そそくさと身繕いをして、口には出して言えないながらも、ほのかに好意を抱いていた彼女と歩いて新宿へ向かった。
 一緒に帰ったことはあるものの、夜の都会でひそかな時を過ごしたことはなかった。迷子の猫のように、当てもなく繁華街をうろつき、伊勢丹会館の前を通りかかった時だ。ねえ、こういうときは、男の子が決めるのよ。級友を裏切ったうしろめたさも手伝って、私は早く帰りたかったのだけれど、仕方がない、中へ入って「フランセ」という喫茶店の椅子に腰を下ろした。そこは窓辺の席で、街灯の淡い光がせわしなく行き交う人の群れを幻想的に浮かび上がらせていた。夜の都会は糸のちぎれた首飾り。安部公房の芝居の一節が浮かんできた。私たちは、どう過ごしたものか、恥ずかしい気持ちでいっぱいで一言も話せなかったことだけはよく覚えている。
 新潟に来て間もないころ、古町の名画座ライフの上にスペインという喫茶店があり、しばらく通いつめたことがあったが、店が閉じられてからは久しくその界隈の店には入っていなかった。しかし、つい先ごろのことだが、白山神社の向かいの珈琲店でも、私は一人の女の人と向かい合っていた。古町通りの夜はすでに寂しく、他に客はいない。何だか妙にそわそわしてくる。空の茶碗に三度も手をぶつけたほどだ。ほんの些細なきっかけで、人ははからずも若い自分の心性を取り戻すことがあるのだろうか?舌先まで出かかったことを、とうとう言わずに帰ってきてしまった。星の王子さま出会ったキツネみたいな気持ちです、と。まだまだ私は若いのかもしれない。

[33年後の注釈]

1)新潟大学中門前のカフェ・ウェストが行きつけのカフェ&カレーの店。百回以上確実に行っている。ここの野菜カレーは全国レベルで dancyu にも掲載されたほど。おばさんとは猫の話でつながっている。ただ立ち寄るには価格帯が学生向きではない。東京時代には、東大駒場のコロラド、ZiZi、渋谷のらんぶる、ロロ(マイアミも深夜によく行ったけれど、どこか不穏な雰囲気があってよい思い出がない)、新宿のスカラ座、カフェ・ド・ランブル、本文にあるフランセ、紀伊国屋地下のカトレヤ、神田神保町のさぼうる、ブラジル、ラドリオ、白馬、いや書いていたらキリがない。三鷹の井ノ頭公園入口の「もか」は珈琲の聖地。
2)私が通っていた高校は、東京都立青山高校。有名なOBに人間国宝の小三治、刑事コロンボの声優小池浅雄。屋上から神宮球場の早慶戦を見ることができた。絵画館が近くにあるし(改修前の)国立競技場、千駄ヶ谷の将棋会館も近い。体育祭の仮装行列は一番人気であった。美女役になったはいいが、女子たちが嬉々として化粧を施してくれた。そうだ。南さん、貴方ですよ。口紅を塗ったくったのは。と、書いても読んでるわけないか。同じ中学で戸山高校に進学し後にインド哲学者になった原田二郎が高校入試の模試で見かけて一目惚れをした南さん。もうお二人、爺さんで婆さんだ。
3)打ち上げから抜け出してフランセに一緒に行った相手は有田博子さん。このエッセイの十年後に同窓会で再会し、井山君が書いてることってどれも高校のときに言ってたことだよね、と。ああ読んでくれてたんだと分かり嬉しかった。高二の時に有田さんに小説仕立ての恋文を贈った。渾身の作品なのでもう一度読ませて貰いたい。
4)夜の都会は糸のちぎれた首飾り。これは安部公房の戯曲「友達」の冒頭にある歌。エッセイ連載時に学生と一緒にこの芝居をやった。芸能記者役が髭先生。名画座ライフは新潟に赴任した1984年に閉館。最後に観た映画が「怒りの葡萄」だった。喫茶スペインはギターの生演奏があった。近くにパルティアというジャズライブのバーや、ジャズ喫茶スワンがあり、いい時代だった。だが白山神社の珈琲店の名前を思い出せない。相手の人についても何か禁制をかけられたようだ。田上の温泉旅館のお嬢さんだったことくらい。この珈琲店の向かいに「キリン」という洋食屋があった。ハヤシライスが名物。この話はいずれこの記事で扱います。

48話 ゴキブリ哀歌

 人は当然のようにゴキブリを嫌う。憎悪と呪いの言葉をありったけ浴びせ、ときには、その日の不運の原因は何から何まで彼にあるのだと錯覚し、親の仇に出会ったように執拗に追いかけてはその殺戮に奔走する。陽気もそろそろ初夏の訪れを思わせる六月の昼下がり、生ゴミの腐臭に誘われてガス台の下から這い出てきたゴキブリが一匹。

「名はすでにあり、刻苦郎と申すものなり。流しの汀(みぎわ)に手足をかすめ、形ばかりの身繕い。背なで光るは黒ギヤマンの、人ぞ恐れる魔性の鎧。マンボとルンバを取り混ぜた、定めを知らぬ気ままな歩み。右かと思えば左に回り、前が駄目なら反転自在。酸えたトマトは大好物で、馳走にならんと近寄りたれば、あれはここなる住処の主人。巨漢の足音迫り来る。
 寝ぼけ眼(まなこ)の匹夫とて、哀れこの身と比ぶれば、相手にすれば負けるが必定。三十六計逃げるにしかず、進化の神を恨む暇なし。板の間街道よぎらんと、塵をかきわけ進むほど、あれに見えるは三角屋根の、心地よげなるワンルーム。ほのかに匂うは青春の、心ときめく逢瀬のひととき。とまれ追手の目をくらまし、しばしの休息とるは妙策。
 うす暗がりの部屋なれど、この際文句は言うまいと、勢い足を踏み入れたれば、こは如何なるものにやあらん、身動きとれぬと知れども遅し。ああ、浅ましきは人間の性(さが)なり。われ一匹を殺さんがため、紙プレハブの家建てたりけるとは。いかなる咎(とが)ありて、かかる憂き目に遭わんや。合掌」。

おっ、かかったか?やっと刻苦郎のやつを捕まえた。思えば長い闘いではあった。ここに引っ越して以来六年の間、お前は水攻めにも毒ガスにも耐え、必殺の足蹴りもかわしてきた。そりゃ、寿命というのもあろう。もしかするとお前は六代目刻苦郎かもしれないが、そんなことは構わない。そもそもゴキブリのアイデンティティーなど考えていられるかってんだ。孫子の兵法を学んでいることは、うすうす分かっていたが、こうも見事に逃げ続けるとは、敵ながらあっぱれとしか言いようがない。しかしまあ、何だってこんな単純な仕掛けにかかるのかね。何か最後に言い残したことがあれば、聞いてやろう。
 うん?人間はゴキブリの絶滅を願っているのかって?そうね、ちょっと待てよ。鋭い質問だな。ううむ。いや、そんなことはないと思うよ。二十一世紀のある日の新聞には、きっと最後のゴキブリを見た人間のインタビュー記事が載るだろう。すると、動物愛護団体があんなにかわいい無害な動物をなぜ殺したと、糾弾の声明を発表する。中国からメスのゴキブリを連れてきて、新たに繁殖を試みようとする者が現れる。最後に棲息していた県の郵便局では、ゴキブリ切手を発行するだろう。小学生たちはゴキブリ・ブローチのおまけのついたチョコレートを親にねだるようになるだろう。
 確かに人間は身勝手な生き物だ。俺だって、いつグレゴリー・ザムザの二の舞になるか分からんし、悪かった、逃がしてやろう。良寛さんだって蚊帳から片足を出したそうだ。えっ、話が飛躍している?黙らないと天ぷらにしてやるぞ!

[33年後の注釈]

1)この話が一番気に入っている。七五調が好きなんですね。西鶴の文体が好きなのも同じ理由からだ。リズムとテンポだけの勢いの詩文。こんな調子で恋文を書くから結果が悪かったんだな。
2)刻苦郎はもちろんCockroachからの無理やりの命名。この当時はゴキブリホイホイを多用していた。わんさか捕れた。孫子の兵法の言葉は、やはりこの頃、海音寺潮五郎を愛読していて、講談社文庫の「孫子」を読んだばかりであった。お薦め本。
3)ゴキブリのアイデンティティー。これは科学哲学界隈の業界人のみぞ知る、丹治信治さんの院生時代の論文「米粒の同一性」をもじったもの。社会学理論としてのアイデンティティーの観点からすると、ゴキブリに自己同一性は認められない。
4)グレゴリー・ザムザは誤記。言わずもがなだけど、カフカの「変身」の主人公はグレゴール・ザムザでした。反省の意味で間違いのまま再掲しました。

49話 風が教えてくれること

 私が初めて買った書物は、三宅泰雄の書いた「空気の発見」という科学読本であった。成城学園の正門前の小さな本屋で、五十円玉と引き換えに油紙の付いた文庫本を手にすると、はやる気持ちを抑えることができず、バス停のベンチでランドセルを背負ったまま読み始めた。
 目に見えない空気の発見というテーマ自体すこぶる魅力的であったが、冒頭に引用されたロセッティの詩の一節が与えた印象の方が強烈であった。「だれが風を見たでしょう、ぼくもあなたも見やしない、けれど木の葉をふるわせて、風はとおりぬけてゆく」。
 その通りだと思った。目に見えない服など存在せず、王様は裸だと叫んだ童話の中の少年は、実際、ものの表面しか捕らえていないのだ。その子が真に科学の子供であるのなら、自分の網膜に像を結ばないからといって、それだけの理由で、透き通るほど軽く精妙に仕立てられた衣服の実在を否定したりしないだろう。
 風は私たちに勇気を与えてくれる。ときには神の温かい息吹となり、ときには地霊のうら寂しいため息となり、そしてときには人びとに遍歴を促す運命の使者となりながらも、見えないものを信じる者に、終生変わることのない明証を授けてくれる。少女の潤んだ目の奥底に悲恋を、打ちひしがれた老人の双の肩に人生の重みを、そして日焼けした鉱夫の二の腕に生命の躍動をわれわれが感じとることができるのも、ひとえに、目に見えぬもののありようを、幼少のころから風が教えてくれているからである。
 私の大好きな話の中に、風を描いた画家の物語がある。暴風にあおられ波の逆巻く暗夜の海を描いたターナーの話ではない。それはとうとう最後まで一枚も絵を描かなかった絵描きの話だ。彼は風をカンバスの中に封じ込めようとした野心家であった。古代人の文献をひもときプネウマの学説を習得し、世界地図を広げては貿易風の厳かな生成を想像し、一身を灼熱の中にさらしつつ筆を握る。熱帯の夜は息苦しく重たい。したたり落ちる汗をぬぐうことも忘れ、彼はひたすら待つ。東雲(しののめ)の空に気流が生じ、一陣の烈風が彼の頭上を疾走するのを待っていたのだ。彼は見聞きするものすべて克明に描写しようと考えていた。作り物でない本物の風の絵でなければならない、と。すると、突如轟音(ごうおん)とともに大風が吹き出し、画家はカンバスもろとも天空高く舞い上がり、やがて地面にしたたか打ちつけられた。限られたカンバスに風を描き込むことの無謀を思い知ったのである。
 次の日、彼は決然たる態度で自然と向かい合っていた。偉大なものを表現するためには、市販のカンバスでは小さ過ぎることに気づき、自分を取り巻く見えない空気をカンバス代わりしようと考えた。そして、今度こそと思うや、自ら疾風と化し、うなり声を上げて洋上かなたに消えて行った、という話である。
 この世界は、詩を詠んだことのない詩人や、原稿を一枚も書いたことがない作家で満ち満ちているが、その理由を聞かれると、風に吹かれるからだとでも答えるしかないだろう。ボブ・ディランのように。

[33年後の注釈]

1)三宅泰雄「空気の発見」は角川文庫だったはずで、本文では岩波文庫と勘違いしている。岩波文庫は定価が明記されずに☆一つにつき五十円だった時代。ファラデー「ロウソクの科学」は確かに岩波文庫。こちらも小学生のときに読んでいるのでごっちゃにしたのかもしれない。
2)バス停は成城学園前。小田急と東急バスの渋谷行きに乗って四キロ先のバス停宇山で下車する。低学年のころは真っ直ぐに帰宅せずに、父が勤務する成城高校の化学室に寄り助手の一法師さんにラーメンを作って貰ったりしながら、本を読むことが多かった。父に化学実験をさせて貰うことも多く、後に理学部化学科に進学することは運命づけられていたのかもしれない。この一法師さんはラーメンを作りながら居眠りする特技があった。子供心に傑物だと思っていた。
3)詩人のロセッティが女性であることは大学生になってから知った。母の蔵書のなかに詩集があったことも。裸の王様の話は子供の頃から腹立たしく感じていて、こんな子供は嫌だとずっと思っていた。その割りには、結構思ったことをずけずけ口にする子供ではあった。
4)この風を描いた画家の物語。後で探したけれど、思い出せないし、見つかりもしない。新聞連載時に複数の方から問い合わせがあったので必死に探したのだけれど。もしかすると自作の物語かもしれない。小学生のときに創作小話を人に話したり、作文で書いたりしていたから。でも創作したのなら再現できるはずなのに、ディテールは忘れてしまっている。時間にゆとりができたら絵本にでもしようか。
5)貿易風の厳かな生成。これは彗星の周期性の発見で有名なエドマンド・ハレーの論文をこの頃読んでいたことと関係していると思う。17世紀には画期的で斬新な理論だったので、よく授業でネタにしていた。
6)ボブ・ディランの Blowing in the wind で締めくくったけれど、実はこの曲ディランのオリジナルよりも Peter Paul & Mary のカバーの方が好きだった。今でも。ぜひ聞き比べて欲しい。

50話 変な京阪旅行

 京阪地方に足を運ぶことは多いほうだ。といっても、新京極で修学旅行の学生に交じって土産を買ったり、寺に詣でてしたり顔で仏像の面を眺めるような趣味は持ち合わせていない。いつもながらの不器用な旅を毎度繰り返しているにすぎない。
 新潟からだと「雷鳥」で京都駅に着く。京都タワーを目前にして、嵐山や清水寺に向かうバスを探すのが常道かもしれないが、私は踵を返してJR山科駅へ戻る。駅前で豚饅頭を売っているときは、それにパクつきながら京阪電鉄に乗り換える。路面電車の良さは視点の低さにあると思う。祇園の通り沿いに見るからにみすぼらしいカレー屋でも見つければ、それだけでかなりの収穫だ。
 京阪三条に到着すると、荷物をロッカーに預け、鴨川沿いに二条橋まで歩き、右へ折れて百メートルほど行くと、左手奥に「加藤順の店」という、けったいな名のついた漬物屋さんがある。浅漬けと千枚漬けを包んでもらい、後は缶ビール片手に鴨川の岸辺に下りるだけ。カップルの邪魔にならない位置に腰を下ろし、ポケットから、別に読むわけでもないが、アナトール・フランスの「エピクロスの園」を取り出し、川面をぼんやり眺めながら、狼藉とか婆沙羅とか、あるいは雲について夢想する。考えてみると、こんなふうにのんびりとビールを飲むだけのために、京都くんだりまでやって来たようだ。
 木屋町の真ん中にある「インデアン」の昔懐かしいライスカレーで昼食をとると、もう、京都の町に未練はない。宿泊するときは、五条の「松葉亭」の敷居でサンダルを脱ぐことになるが、それはお金があるときの話。大抵は、都合五千円は浮く祇園四条のサウナを利用する。
 けれども、もっとスリルに富んだコースを近年見つけた。三時ごろ京都を発ち、阪急で大阪梅田に出向き、地下鉄で新世界、富田へ赴く。警察が来ると店をたたんでしまう古着屋、タイムマシンに乗って来たのではないか、と疑いたくなるスマートボールの店(景品棚には佐久間のドロップがある)、一杯二百五十円の汁粉屋、賭け将棋に興じている腹巻の兄さん、婆さんたちの社交場になっている芝居小屋、それに通天閣タワーもある。
 気がついてみると、すでに夕空は暮色を深め、そろそろ宿の心配をしないとならない。南海電鉄の踏切を越えると不思議な世界が存在する。灯籠の灯(あかり)が屋号を淡く照らしている下に、浴衣姿の女が団扇片手に手招きしている、こんな家がたくさんあって一郭を占めているのだ。眺めるだけの価値はある。この地帯に足を踏み入れる直前の繁華街に一泊五百円の宿を発見した。蚕棚のような簡易ベッドで、どんな人が泊まるのか興味深かったが、その日は飲んべえの爺さん一人きりで、あまり身の不安を感じずに済んだ。
 もっとも、その次に来たときに、もっと楽に一夜を過ごせるところを見つけたのである。梅田に戻って、御堂筋を少し歩き、中之島公園に行ってみると良い。木々の梢にグラスファイバーを利用した洒落たイルミネーションが見える、格好のベンチがずらり並んでいる。私は、ディオゲネス気どりで静かで平和な一夜を過ごした。

[33年後の注釈]

1)京都に新潟から出るには昼間ならば雷鳥(現在は一部区間サンダーバード)に乗るが、新潟発22時30分の夜行急行「北国」を利用することが多かった。これだと京都に朝6時頃につく。京都タワーの下に銭湯があり朝湯に浸かり、早朝営業のマクドナルドか「なか卯」で朝食。本文の山科に戻っての京阪三条行きは、現在の地下鉄路線からするとかなり変則的に思われるだろう。長らくお世話になった出版社化学同人は当時山科に社屋があり、連載の執筆が決まった頃はよくお邪魔した。そんなことから山科が起点なんだろうと思う。
2)加藤順の店はやはり化学同人の平祐幸さんに教えて貰ってから虜になった。平さんとは40年近く交誼を重ね、京都に行くたびに新しい飲み屋や食い処を教わった。それだけ彼にはレパートリーがあったということだ。一度だけ東寺のストリップ小屋が話題になった時、じゃあこれから行きましょう、ということになったが、何故かとりやめになった。理由は覚えていない。結局この手の禁断の劇場には一度も行っていない。やはり一度くらい行っておくべきだった。ストリップと言えば、天照大神が岩戸にお隠れになったときにアメノウズメノミコトが天照の歓心を惹くために舞った由緒正しき踊りなのだ。
3)アナトール・フランスの「エピクロスの園」は1974年に翻訳が岩波文庫で出版された。それ以来の愛読書。「小修道院にて」が絶品だ。婆沙羅は太平記に出てくる武将佐々木道誉を代表とする粋な武士で、吉川英治で読んで好きになった。インデアンのカレーや森繁のインカコーラが懐かしい。木屋町に来ると高瀬川を思い出す。ミロンガはまだあるかな。そもそも高瀬舟とは肥え樽を運ぶ平底の船だった、という話を聞いてがっくり来たこともあった。
4)松葉亭は劇団民藝御用達の宿。旅館主の娘さんが劇団員だったことが縁らしい。下の妹の元亭主の矢野勇生さんが民藝の役者でここを教えて貰った。鰻の寝床の宿で風情があり、当時は常宿にしていた。祇園のサウナは何度も泊まった。サウナと言っても蒸し風呂に耐えるほどの根性のある男性はほとんどいない。大抵は休憩室の長椅子で新聞を読んでいるか、魂のぬけがらのようにボーっとしている。もちろん私もその一人である。
5)新世界の猥雑さ、いかがわしさが大好き。二度づけ禁止の串焼き屋とか昭和レトロの喫茶店。スパワールドは何度か泊まった。塩の風呂が良かった。なんかナメクジになった気分で体が溶ける危機感がたまらなかった。今宮駅周辺の商人宿は今でも低価格で、学生に勧めたら、最近でも一泊2500円だったそうだ。簡易宿は東京だと南千住あたりによく見かける。
6)ディオゲネスは「樽のディオゲネス」のこと。樽で寝るのは真似したいところだが、あのプライドの高さは嫌だなと思う。謙虚なディオゲネスでいたい。

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