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少し、元気が出てきたので

少し、元気が出てきたので、私の使っているカメラとレンズについて、それと、写真というものについて、書いてみたいと思います。

元気が無かったのです。
言ってみれば、何もする気にならないほど。
写真も、その辺をスナップするくらいで、モデル撮影、いわゆるポートレートは、数か月、撮れませんでした。

そんなこんなはあったにせよ、また撮影を始めてみて、自分の使っている機材は、まぁ、想定外だったポートレートということもあって、ミスマッチしているのですが、持っているものに合わせて撮るというのも、なしなのですが、ありにして、それに慣れてくると、それはそれでという感じに思えてくる・・・、のか?

少なくとも、一般的なレンズを使っていない分、ボケに頼れず、切れ味にも頼れず、だからと言って、絞りすぎると荒れるし、という制約はあるにせよ、使い方を間違わなければ、違う写真が生まれることも、たまにあるのです。

小林来夢

さて、
取りあえず、カメラから。
使っているのは、Nikonの「D750」。
理由は、特にないのです。
いや、ないわけでは無いですが。
理由というより、特化したカメラよりも、何でもそこそこに、というコンセプトで購入したからなのですが。
なので、ポートレートに向いているのかどうかという意味では、理由にならないというのが、正直なところ。

先にいい点を挙げると、暗部のデータは、わりと残っているということ。
そのくらいだろうか。

これは、購入当初から迷ったことなのだが、シャッタースピードが、1/4000ということは、迷いどころだった。
そのデメリットは、ポートレートにおいて、如実に出た。
明るいレンズが、開放で使えないのだ。
1.8でも、なのだ。

まぁ、その他のことに関しては、使いやすいと言っていいのではないかと、思いはしているが、現行機と比べれば、まぁキリがないので。

カメラ自体は、頑丈である。防塵防滴。
フルサイズ初級機と言われることもあるが、それは価格帯のことであり、もし、1/8000で、2200万画素位の機種が当時Nikonにあったなら、という具合のもので、必要以上十分なスペックは持ち合わせているとは、思える。

D850で、サイズを小さくして使えばいい、という考え方だったのだろうけど。それか、つまり、D5を、ということになるのだろう。

多分、考え方としては、APS機の「D7200、7500」のフルサイズ版的、「D610」の後継機といった具合、なのだろう。

もっとも、より心地よく使用するには、色々と工夫や、最高速近い記録媒体を使用しなければならず、その意味では、初級機でもあり、あらゆる意味でのサブ機となりえる機種なのだと、感じている。

着けるレンズによって、印象は、大きく変わってしまうかもしれない。

いずれにせよ、オールマイティーに近いカメラ、なのだろう。



八海杏奈


レンズもいたってシンプル。
当初から使っていた、AF-S NIKKOR 50mm f1.8G。
あまり深く考えずに、今も使用するが、頻度は少なくなった。
AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR
AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VR
AF-S NIKKOR 35mm f/1.8G ED
これに、距離が足らないということで急きょ購入した、
SP 70-300mm F/4-5.6 Di VC USD

ご覧の通り、中途半端なラインナップである。

これには多少の理由が、ある。

当初の予定というか、流れであれば、ズームレンズは使わないはずだった。

ところが、だ。

アルバム用の撮影助っ人を頼まれることが増え、最初は、
AF-S NIKKOR 28-300mm f/3.5-5.6G ED VR
で済ませていたのだが、歪みと画質の差が、Cannonの28-300と違過ぎて、面倒にはなるが、24-120を購入。大抵これ一本でなんとかなるのだが、屋外での撮影では、さすがに、長さが足りない。
その時の予算もあいまって、70-200、F4を足し、それで辞めようと思っていたのだが、そうもいかなくなり、70-300を。

その流れのあとに、モデルを撮ってみることにしたのだ。

とりあえず、50mmでと思っていたくらいの、軽い気持ちであった。
なぜなら、風景の中に人が居るという写真を撮る為に、モデルを探そうと思ったからだ。それなら、風景とか、街の様子とか、そちらがメインなので、それなりに絞って撮ればいい、くらいに考えていたからだ。

ところがところが、
いざモデルを撮ってみると、あまりの下手さ加減にショックを受け、風景云々以前の問題と気づく。
そして、やってみて分かったのは、いろんな足りない要素はあるものの、レンズと光で、まったく違うものになる・・・、腕以前の問題で、想像と違う写真になっていたということ、それと、レタッチ、カメラとレンズだけではできないことがある、ということに気づかされたのだ。
デジタルならでは、なのだろう、か。

余談だが、そう考えると、フィルムカメラは、レンズの影響力が画質、表現に直結するので、古いレンズが重宝されているのも、頷ける。
もっとも、私は枚数の制限から解放されたい方なので、フィルムの良さよりも、デジタルの利便性が嬉しい。フィルムが当たり前の時代に生まれたから、そう思うところもあるということなのだろう。

さて、
いわゆる「ポートレートレンズ」を持たない私であるが、使っていて、意外と70-200、F4は、好みであることに気づく。もっとも、2.8を使っていれば、なんの問題なく、当然といった具合で使いまくるのだろうが。

24-120は、使いずらい。苦手だ。
120側しか、ほぼ使っていないので、70-200で良い気がしている。
ただ、最短撮影距離の違いで、24-120の出番は、ある。
とはいうものの、35mmで事足りたりするので、35mmと70-200mmで撮影する事が多い。

画質についてだが、やはり、ポートレートレンズと言われるものには及ばない。それは、当然で、価格が違う分が、そのまま表れる。
なので、光の重要性が、より増すように思える。

八海杏奈

これも余談だが、

レンズを増やすのを、躊躇している。
カメラ自体、ミラーレスに移行するのは必須で、それからのことにしておく。
そういう、くだらない理由、現状でどうにかしていくという「縛り」で、逃避しているのだ。

まむ

写真について、と言っても、写真全般についてではなく、私の写真について、書こうと思う。

まずは、傾向から。

以前は寄りが多かった。
今もその節は、あると思うが、以前に比べれば、それなりに引けるようになったと、思う。
二つ要因がある。

一つは、ズームレンズを使うようになったから、だ。
もう一つは、35mmを引きで使うようにしているから。

とにかく、全身が苦手だ。

ズームレンズを使うようになり、そもそも引いた状態でズームしないと、ボケが得られない。おのずと、全身も撮れるようになってきた。
とは言え、ズームで寄りの写真を撮ってしまうので、例えば50mmで同じような画角を撮った時と、随分見え方は変わってしまう。

ただ、寄りすぎは、幾分緩和される。

ズームレンズを使用して、バリエーションは増えたかもしれない。

だとしても、バストアップが、やはり多い。

そして、以前は、横位置が多かったのに対して、ズームというか、中望遠域は、断然縦位置が、多い。
その代わり、35mmでは、横位置を心がけている。

本当は、広角ほど寄りたい。望遠ほど、引きたい。

色味は、最初のころは5000ケルビン前後だったが、最近は拘らず、5600から6000が多いかも。
コントラストは、低いのが好きかと思っていたが、これは、だいぶ前から高めを好んでいたことに、現像しながら気づいた。というか、思い出した。

明暗差が激しい方が、撮りやすい。
だからと言って、明るい写真が嫌いではないし、むしろ好きだ。
ただ、そちらの方が、難しいと思っている。

とまぁ、撮る写真について書いてはみたが、そもそも写真とは、撮影とはという疑問とスタンスは、いつもつきまとう。

写真やカメラを、主にやってきた人や、長年続けている方にしてみたら当然だったり、常識のような事柄を、それが当然なのか常識なのかさえ分からない私は、自分が長年携わっている音楽での経験を、どうも土台にしてしまう。

カメラで写真を撮るという行為は、被写体あって成り立つ。
私は、どちらかというと、カメラは楽器で、私はプレイヤー、被写体は楽譜だったり、指揮者だったりと思うことが多い。
カメラマンが指揮者で、モデルがソリストという考えや場合もあるだろう。
また、被写体もプレイヤーで、写真は奏でる音楽だったり、楽譜になったり。

表現をしているのは、自然、風景、スナップ、ポートレート・・・、いずれにしても被写体で、それをどう見せるかというスタンスが、一番しっくりくる。

写真は、音楽そのものというより、音というか、奏でられた曲のような感覚。
カメラは、楽器や指揮棒というところか。あるいは、マイクだったりするかもしれない。少なくとも、被写体が主役であり、私は、何にせよ、プレイヤー、バックバンド。

モデルを頼むという感覚は、指揮者を頼むとか、ソリストとして出演してもらう、という感覚なのかもしれない。

そう思うと、どう撮りたいかではなく、どんな指揮を見せてくれるのか、どんなソロを奏でてくれるのか、それに、どう合わせようか、そんな風に感じてしまうのだろう。

一番いいのは、私がドラムで、モデルがフロント、或いは、デュオでジャズを奏でるという感じか。

それには、同じ力量が無いと。


アウトプットする段階で、やっと表現者になるのだと思う。
それは、撮った人間とは限らない。

そんなことを、今は、思う。


八海杏奈

敬称略

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