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マーチン・トロウを読む

 マーチン・トロウ。大学教育に携わる者であれば、頻繁に耳にする名前であり、エリート型、マス型、ユニバーサル型という高等教育の発展段階の理論(トロウ・モデル)を提唱したアメリカの教育社会学者である。

 日本においては、天野郁夫氏と喜多村和之氏が翻訳に尽力され、その高等教育論を知るには、『高学歴社会の大学ーエリートからマスへー』(1976)と『高度情報社会の大学 マスからユニバーサルへ』(2000)の2冊を読むのが良い。しかし、現在のところ、2冊とも新刊で入手することはできず、中古で購入するか、図書館で読むしかない。そのため、トロウの議論の射程や意義を理解している者は、多くないのではないか。

 今回は、トロウの議論を簡単に整理するとともに、彼の議論が日本に紹介されてから、おおよそ50年が経とうとしている今、あらためてトロウを読む意義について考えてみたい。

はじめに

 最初に確認しておきたいことがある。それは、トロウは、エリート型、マス型、ユニバーサル型について、まとまった1冊の本を書いたわけではないということである。上記の2著も、トロウがこれまで記した論文等のうちから訳者が選び、書籍にしたものである。上記の2著それぞれにおいて、訳者が、3つの型を表にまとめており、それが現在、日本において、トロウ・モデルとして理解されているものの実質である。

 もちろん、だからと言って、「マルクス主義」がマルクスの思想とは異なるように、「トロウ・モデル」とトロウの主張も異なると言いたいわけではない。ただ、トロウは、3つの型の議論を、長年に亘り考え、アップデートしてきたため、この表だけを見て、分かった気になるべきではない。また、トロウは、それぞれの型の中身だけでなく、移行にあたって発生するであろう問題点を洗い出すことにも多くの誌面を割いたが、表にはその言及がない。トロウ・モデルを離れて、トロウを読むこと、その意義は大きい。

トロウ・モデルとは

 とは言いつつも、トロウ・モデルとは何かについて全く説明をせずに、話を始めることもまた難しい。そこで、簡単に、その紹介をしたい。トロウは「該当年齢人口に占める大学在学率」が15%未満の社会を「エリート型」、15%~50%未満を「マス型」、50%以上を「ユニバーサル型」と定義し、段階的に移行すると仮定した。

 エリート型においては、大学へ進学することは少数者の「特権」と理解され、大学の目的・役割は、エリートや支配階級の精神や性格を形成することにあると言う。一方、マス型においては、大学へ進学することは「権利」と認識され、大学の目的・役割は、専門分化したエリートを養成することと社会の指導者層を育成することにあるとされる。そして、ユニバーサル型においては、大学へ進学することは万人の「義務」と認識され、大学の目的・役割は、産業社会に適応しうる全国民を育成することにあると言う。

 それぞれの型は、現実に実在した、実在する大学ではなく、マックス・ウェーバーが言う、「理念型」として定義される。多くの研究者は、例えば「アメリカの大学と日本の大学はどこが違うのか」といった「差異」に着目した問いを立てることで、研究の独自性を出そうとする。しかし、トロウの議論は、アメリカやヨーロッパ、日本など国を問わず、大学が辿るであろう段階を、3つの理念型に整理しており、その射程が異常に広い。

 例えば、ドイツの大学(フンボルト理念-ベルリン大学)とイギリスの大学(カレッジ教育-オックスフォード大学)では、その辿った歴史的経緯は異なり、制度的基盤も全く異なる。しかし、一部の特権階級が大学に進学し、そのエリート性を再生産してきたという意味では、両大学は同じエリート型として整理することが出来る。その意味で、この議論は画期的なのである。

 また、トロウが3つの型を提起した1970年代という時期も絶妙である。この時期は、アメリカの大学がマス型からユニバーサル型に移行する目前であり、他の先進国は、エリート型からマス型に移行しつつある時期であった。すなわち、マス型が実現した国はアメリカのみであり、ユニバーサル型の全貌が未だ判然としないうちにこの3つの型は提示された。

 トロウの議論は、すべての国が、エリート型からマス型へ、マス型からユニバーサル型へ移行するにあたり、起こるであろう問題や検討せねばならぬ課題をある程度まで先取りしていたという意味で、画期的であった(だから世界中で参照された)。そして、(後述するが、)ユニバーサル型への移行に躓いている現在の日本の大学にとっても、トロウの議論は参考になる。

日本のマス型への移行の特徴と問題

 トロウは、「エリート型からマス型へ移行するにあたり、エリート型を拡張するのか、大学制度自体をエリート型からマス型へと移行させるのかを選ぶこととなる。イギリスをはじめ、前者を選択する国が主流であり、そうなると、エリート型には費用がかさむため、財政支出の膨張が問題となる」といった主旨のことを述べている。

 戦後日本は、この問題、すなわち、教育の民主化=高等教育へのアクセスの問題を、「私立大学の定員を拡充し、マス教育を私立大学に委ねること」で解決してきた。1976年に私立学校振興助成法が施行され、私立大学にも補助金が交付されることとなったが、他国に比べて、高等教育への財政支出は明らかに少ない。日本は、主として、授業料によって、その運営費を捻出する私立大学に、その責務を負わせることで、財政支出を抑制することに成功したのだ。だから、私学関係者は、マス型教育の普及に大きな役割を果たしてきたにも関わらず、その補助金額が少ないことに対して、怒っている。

 トロウは、当該社会において、異なる3つの型が併存することはあり得るし、マス型の社会に移行したからエリート型の大学あるいは、エリート型的要素がなくなるわけではないと述べている。(その是非は別にして)日本が、東京大学や京都大学にエリート養成機関としての役割を担わせていることは、その補助金交付額からしても明らかである。

 以上のように、大学ごとの役割の違いは、暗示的に存在したわけだが、中央教育審議会が、2005年に『我が国の高等教育の将来像』答申を出すに至り、それは明確化される。どういうことか。本答申において、各大学は、7つの機能(①世界的研究・教育拠点 ②高度専門職業人養成 ③幅広い職業人養成 ④総合的教養教育 ⑤特定の専門的分野(芸術、体育等)の教育・研究 ⑥地域の生涯学習機会の拠点 ⑦社会貢献機能(地域貢献、産学官連携、国際交流等))のうち幾つかを併有し、分化すべきとの指針が示された。そして、この指針は、現在でも、高等教育行政の政策論争において有効性を持っている。

 これは、トロウの用語を用いて言い直せば、「日本国内において、エリート型大学(①、②、④)、マス型大学(③、⑤、⑦)、ユニバーサル型大学(③、⑤、⑥、⑦)が併存することを肯定しましょう」ということであり、「日本の全ての大学が授与する学位の質を一律で保証することは諦めた」という白旗宣言とも理解できる。

 イギリスやフランス、ドイツのように、エリート型の大学を徐々に拡張していき、学位の質を保証しようとしてきた国に比べて、日本は非常にアメリカ的であり、学位の価値は雲のように軽い。しかし、大学進学率が50%を超えた現在でも、すべての大学に同じ質と同じ役割を求めること自体が、ナンセンスになってしまっているのも、事実である。2019年に専門職大学制度がスタートしたが、これも機能分化論の一環として理解すると、納得が出来る。

質の低下の問題。リメディアル教育は必要?

 トロウによると、エリート型からマス型へ、マス型からユニバーサル型への移行にあたって問題になるのは、第一に、入学者の質の低下である。日本においては、18歳人口の減少に伴い、質の低下は、輪をかけて進行している。学位を取得するに相応しくない者に対しては、リメディアル教育や高大接続教育などを通じて、高等教育を受けるに値するレベルまで引き上げる必要があり、各大学に多大なコストを強いているのが現状であろう。

 先ほどヨーロッパの大学とアメリカの大学の違いについて言及したが、この問題においても、両者のスタンスは大きく異なる。トロウの整理を見てみよう。

ヨーロッパ・モデルの高等教育は、(略)大学入学前にすべて予備教育をほどこされ、そのための資格を与える中等教育の頂点に位置しているのが特徴である。(略)
アメリカの大学で行われている教育が、最初の二年間に限らず、ヨーロッパでは上級の大学予備中等教育にあたる機能を果たしていることに、ヨーロッパ人は驚く。事実、アメリカでは一九世紀末に至るまで公立の中等教育制度が十分に発達していなかったので、歴史的にもアメリカの大学は中等教育レベルの授業をかなりの部分引き受けてきたのである。
『高度情報社会の大学 マスからユニバーサルへ』(2000,86-87頁)

 この点においても、一般教育≒教養教育において、後期中等教育と専門教育との橋渡しを図ろうとしてきた日本の大学とアメリカの大学との近似性を見て取ることが出来る(戦後にアメリカの大学を真似たのだから、近似しているのは当たり前ではあるが)。

 ただし、アメリカの大学は、その発明品である「大学院」での教育・研究が充実しており、学部段階では不十分にしか出来なかった専門教育を大学院で補うことが出来ている。トロウはアメリカの大学院は、ある種のエリート型として機能していると言う。

しかし、日本社会における大学院の位置づけは決してそうはなっていない。日本の学部生は、4年間のうちに、リメディアル教育、教養教育、専門教育を受け、その上で、就職活動を行わねばならない。日本の学部教育の質が上がらないのは、当然と言えるだろう。

 この問題は、リメディアル教育を必要とする偏差値帯の大学とそうでない偏差値帯の大学とでは、考え方が大きく異なるであろう。何はともあれ、リメディアル教育の在り方を考えるにあたり、学部段階の教育において、どこまでの教養教育と専門教育を実施するか(出来るか)という問題をセットで考えなけれればならないだろう。

日本の大学はユニバーサル化するか?

 2022年度の学校基本調査によると、高等教育機関への進学率は、83.8%、大学+短大への進学率は、60.4%、大学(学部)進学率は、56.6%であり、(統計上の考え方の違いは無視しても)日本は、トロウが言う、ユニバーサル型の時代に突入したことは間違いない。

 しかし、2つの意味で、トロウの描くユニバーサル型への移行を果たしていないように感じる。1つ目は、大学進学率の伸び悩み問題、2つ目は、成人、勤労者の進学・学びなおし需要の低迷の問題である。それぞれ見ていこう。

①大学進学率の伸び悩み問題
 トロウは、ユニバーサル型の段階においては、大学への進学が、万人の「義務」と認識されると整理していたことを最初に確認した。しかし、専門学校への進学率が30年近く20%以上を維持しており、15%以上の者が、後期中等教育修了後に、就職することも事実としてあり、万人が大学への進学を「義務」と感じているとは、考えにくい。文部科学省も少し古いデータではあるが(2018年予想)、2040年時点の大学進学率を57.4%と予測しており、これ以上、伸びるとは考えていない。

 この背景には、①家計が私立大学の高い学費を支払うことが出来ないという経済的問題、②高い学費を払い大学を卒業するよりも、専門学校に進学し、安い学費で手に職をつけた方が経済的であるという消費者の判断の2点があるように思う。そして、さらにその裏には、これまで大学の拡張を私立大学に一任してきた、つまり、家計負担に一任してきたという問題と、大学学部卒に相応しい職(とそれに見合った年収)を、日本社会が提供できていないという問題が伏在しているものと思われる。

②成人、勤労者の進学・学びなおし需要の低迷
 トロウの議論の分かりにくい点は、「マス型大学とユニバーサル型大学の本質的な違いをどこに見出すか」という点にあるように思う。トロウは、「該当年齢人口に占める大学在学率が50%以上であること」をユニバーサル型と定義する一方で、ユニバーサル型大学の重要な特徴として、「該当年齢人口だけでなく、成人や勤労者が大学で学ぶようになること」を挙げているのだ。トロウは、情報化の進展による大学教育へのアクセスの簡易化と生涯学習需要の高まりが大学教育に与える影響に熱視線を送ってきた。

 しかし、日本は他国に比べて、大学進学者に占める該当年齢人口の割合が異常に高く、生涯学習を担う機関として大学が機能していない。理由はさまざま想定しうるが、一つ大きいのは、(これまで何度も記載してきたことだが)日系企業が、ジョブ型雇用ではないからだ。

 日系企業の労働者≒総合職は、専門的技能を身に着けるわけではなく、その職場内において、ジョブローテーションで経験を積み、出世していくというスキームで動いている。そのため、大学で専門的な知識を身に着けるということへの需要が生まれにくく、また、そう希望したとしても、勤続年数が出世に影響するため、大学で学んでいる期間、その職場を離れることがデメリットとして機能しやすい。

 もちろん、トロウ・モデルはあくまでモデルであり、日本の大学が、ユニバーサル型に変貌しないから「悪い」とはならない。単に、トロウ・モデルの限界を示す一つの事例となるだけである。それよりも、大事なことは、日本社会のために、あるいは世界のために、大学はどのような役割を果たすことが出来るか?という視点であろう。例えば、エリート型とマス型のハイブリッドが良いのか?ユニバーサル型に移行すべきなのか?など。

最後に

 とりとめもなく長々と書いてしまったし、にもかかわらず、トロウの議論を網羅的に紹介することも叶わなかった。ただ、ここまで書き、あらためて思うことは、トロウの議論は、モデルとして教科書的に覚えるよりも、議論の題材として活用し、「大学とは何か」について考えを深めることの方が、一層、重要であるということである。

 なお、少し古いが、潮木守一氏は、2004年に『世界の大学危機―新しい大学像を求めて』を世に問うており、トロウの議論の延長として読むと非常に面白い。皆さんも、上記2著とあわせて、一度手に取ってみてはいかがだろうか。

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