大学論②~学位の価値とその質保証を問う〜【後編】

 本論は、次の記事の後編であり、「なぜ日本では、学位の価値が認められていないのか」という問いに答えるとともに、解決の方向性を示すことにある。では、さっそくはじめよう。

問題の所在
 「価値」の有無を議論することには、独特の困難さが伴う。なぜなら、「価値」は、学位それ自体の「内容」では決まらず、その学位を日本社会が、どう「認識」するかに依存するからである。もう少し噛み砕いて言うと、どれだけ日本の大学関係者が良いと思う教育を行ったとしても、日本社会がそれを「良い」とみなさなければ、それは「価値がある」とはならないからである。前編では、学位を価値あるものにするための大学関係者の努力の跡を追ったわけだが、一旦、社会の側からこの問題系を眺めて見ることにしよう。結論から先に述べると、次の2点が問題の中心にあると私は考えている。

  1. 日本的雇用慣行を前提とする日系企業等が、学卒者に求めてきたことは、コミュニケーション能力や問題解決能力など、抽象的なポテンシャルであり、「専門知識」ではなかった。それゆえ、大学での学びそれ自体に、期待が集まらず、それが「学位」に価値を見出さない土壌を作った。「専門知識」(技術含む)を前提とするジョブ型雇用の社会においては、その専門的知識を保証する学位の価値は(少なくとも日本社会よりは)高いはずである。

  2. 「学歴」が持つ価値と「学位」が持つ価値を比較した際、「入学するのは難しいが卒業するのは簡単」と言われる日本の大学において、大学で学んだことの実績(≒学位)より「大学名」(≒学歴)の方が、価値あるものとして認識されてしまう。前編での具体例を再度用いると、東大生と亜細亜大生では、入学時の偏差値(入学の難易度)の開きが大きいため、同じ経済学を学んだと言っても、両大学の学士(経済学)の価値を同一視することはできず、結局、東京大学に入学出来たという事実の方が価値あるものと認識されてしまう。

 1の論点については、単位制度の実質化に関する次の記事で考察をしているため、そちらを参照していただきたい。以下では、2について詳しく見ていこう。

入試制度と学位の質保証
 現在の日本の入試は、大別すると3つに区分けすることが出来る。(ほとんど)学力を問わない①総合型選抜(旧AO入試)、学力や部活動への取り組み等の評価を基本的には高等学校に委ねる②学校推薦型選抜(公募推薦や指定校推薦、スポーツ推薦など)、あくまで筆記試験のみで合否を判定する③一般選抜(大学独自の一般選抜と大学入学共通テスト利用選抜とその併用型)である。

 仮に、③の一般選抜に話を限定したとしても、東京大学文科二類と亜細亜大学の経済学部とでは試験科目の数や難易度が大きく異なる。東京大学では数学ⅠAⅡBが試験に課されているが、亜細亜大学では数学を選択しなくとも国語と英語のみで合格できてしまう(仮に選択科目において数学を選んだとしてもあくまで数学ⅠAまでである)。

 私は(自分が大学の入試広報担当者であることを、一旦忘れるとしたら)経済学を学ぶ上で、数学の知識は必須であり、高校数学が全く理解できていない者が、経済学の学士号を取得できて良いはずはないと考えている(ちなみに、私は経済学部卒であり、その経験を下に述べている)。

 もし東京大学の学士号と亜細亜大学の学士号が同価値なのだとすれば、亜細亜大学の教員の教育力が圧倒的に高く、東大生の水準まで学生を4年間で引き上げれているか、または、東京大学では、全く努力しなくとも卒業できるようになっているかのどちらか又はその両方ということになるが、そんなことはないだろう。もちろん、総合型選抜やスポーツ推薦などのように学力をほとんど問わない入試で亜細亜大学に入学した者と東大生とを比較したら、なおのこと、その学力差は歴然であろう。

 前編では、(モデル)・コア・カリキュラムという教育課程の統一性を図ることで、学位の質を保証しようとする取り組みが存在することを紹介したわけだが、それをするのであれば、入学者選抜の統一性も同時に図らないと、大学で同じメニュー、同じトレーニングを履行することは出来ず、学位の質保証も出来ないのではないだろうか(10kgのダンベルしか上げ下げすることが出来ない者に、50kgのダンベルを上げ下げしろと言っても、それは無理な話だろう)。

 これは、これまで学位の質保証の議論において、あまりなされてこなかった議論であり、私が本論で強調したい論点である。なお、入試制度改革に関する議論は、センター試験から大学入学共通テストへの移行期に散々なされたが、その時の主要論点は、高校教育と大学教育の接続(高大接続)に力点があり、大学教育の質保証とは切り離されていたように思う。

 ちなみに、学士号を取得する上で、その水準に達する見込みのない学生が入学することは、大学にとっても問題であるため、年内入試の合格者を対象に「入学前教育プログラム」を実施している大学は少なくない。

 しかし、それは、入学者選抜が、本来の意味での入学者選抜ーーすなわち、アドミッション・ポリシーの要件を満たし、学位を取得出来る素養を有した学生に合格を通知することーーとして機能していないことを認めているようなものである。

ドイツの入試制度から考える
 ここまでの議論をお読みいただいた方は、「入試とはそういうものであり、その指摘自体からは何も生まれない」と思われたかもしれない。偏差値至上主義の日本社会に生きる我々にとって、偏差値の高い生徒が、偏差値の高い大学に進学することは自明の事であろう。今回は敢えてこの事実を疑ってみよう。

 常識を疑うにあたり、手っ取り早いのが、日本の常識とは異なる国の制度を参照することである。今回はドイツの入学者選抜を見てみよう。ドイツでは、アビトゥーア試験という大学入学資格試験に合格をすれば、原則、希望する大学・学部・学科に登録することが出来、入学できる制度が取られており、大学が個別に実施する試験はない。偏差値の高い高校生が偏差値の高い大学に行く日本とは異なり、大学に入学出来る生徒の最低ライン(質保証!)を国として設定しているのである。

 もちろん、①私立大学がその大半を占める日本において、この方式は実施不可能であるという批判や②大学が横並びになってしまい、大学が独自性を確立することが出来ないという批判などが、想定され、その指摘は尤もである。決して、ドイツの入学者選抜が万能だとは、私も思わない。

 しかし、例えば、「認証を受けた日本の大学、その経済学部に入学するためには、最低限、大学入学共通テストの『数学Ⅱ・数学B』において、50点以上を取らなければならない」といった基準を出願資格として設定するという方策は、一つあり得るだろう。要点は、入学者の質を保証するための「最低基準(=入学資格)の設定」である。大学にも、入学者を選ぶイニシアティブは必要である。だから、あくまで「最低基準」で良いのである。

 本論はこれにて以上とする。学位の価値を問うにあたり、議論すべき論点は、ほかにもたくさんあるだろう。例えば、学士号(&修士号&博士号)とは何か」というそもそも論の問い。例えば、単位認定の基準(=アセスメント・ポリシー)はどうあるべきかという問いなど。それらを割愛しているという意味では、議論としては不十分であることは筆者も自覚をしている。そういった不十分な点を含めて、忌憚のないコメントをいただけると幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?