西行の和歌+自作小説
① 藻塩焼く浦のあたりは立ち退かで
煙あらそう春霞かな
西行
砂浜に立っている男女の前には、霞に覆われた海が広がっていた。
浜辺に打ち寄せる波の音は優しかった。
浜辺のはずれで、流木を焼く煙が、空高く立ち上っていた。
美沙子は、心地よい興奮に身を任せながら恵三の腕にそっと手をかけた。
恵三はしばらくすると、美沙子の手を振りほどくように腕を抜いた。
「いやなのね」
「いやということはないが、目立つよ」
「誰もいないのに!」
「用心にこしたことはないよ」
「じゃ、いつものようにホテルでお別れしたらよかったのに!」
「君があんまり海へ行こうと誘うものだから」
「じゃ、もう腕は組まない。でも、あそこの岩に腰掛けて、もう少し海を見ていたいわ」
「いいよ」
美沙子は恵三を促すように先に立って歩き始めた。
二人は岩場に身を隠すように腰かけた。
二人の足元で、波が飛沫をあげていた。
美沙子は、恵三のご機嫌をうかがうように横顔を眺めた。
「ねえ、今何を考えているの?」
「仕事のこと考えていた。明日から新しいプロジェクトが始まって忙しくなる」
「新しいプロジェクトって、どんなもの?」
「うーん、君に言っても分からないと思う」
美沙子は、ぐさりと胸に刃を突き付けられたように、落胆した。
恵三の全てとともに歩んでいきたいのに、恵三の方ではそれはどうでもいいらしい。
美沙子の肉体が欲しいだけなのだ。
「そろそろ帰らなくっちゃ」と恵三は立ち上がった。
「もうちょっと、あなたと居たいわ」
「今日は約束があってね」
「何の約束?」
「ちょっとね」
恵三は背中を見せて歩き始めた。
美沙子は仕方なく立ち上がって恵三に従った。
砂浜に降りて、美沙子は恵三にすり寄っていき、肩を並べて歩き出した。
「ちょっと離れてくれないか。向こうからくるカップルは同僚かもしれない」
恵三は小声だが怒るような調子で言った。
美沙子は慌てて恵三から離れた。
恵三は、早足で歩き、どんどん美沙子を離して行った。
美沙子は歩くのをやめた。
涙で覆われた目に、流木を燃やす煙が、浜の遠くで立ちのぼるのが見えた。
② 恋
数ならぬ心の咎になし果てじ
知らせてこそは身をもうらみめ
西行
(653・7645)(日本古典文学大系・歌番号)
日出子は繁華街にあるジャズ喫茶のドアを恐る恐る開けた。
今日は来ているかしら、来ていないかしら、と、胸がドキドキする。
細長い店内の一番奥の薄暗い所にたむろしている人がいるなら、
その中に谷川さんはいる。
奥にうごめく人影がなければ、がっかりするが、居れば居るで、心臓が張り裂けそうになる。
日出子は、ドアを開けると一瞬で人影のうごめくのを見た。
ああ来ていると思った瞬間、悦びよりも緊張が心を占めた。
さりげなく奥から一番遠い入り口近くの席に座った。
日出子はレモンスカッシュを注文して、英語の問題集を開いた。
目は英語の上をなぞっているが、頭には何も入ってこない。
谷川洋二郎のことで頭がいっぱいだった。
谷川洋二郎が生徒会長に立候補した。
講堂でした選挙演説の時に、途中で言葉が詰まって、一秒ほど沈黙した後に、
「あっ、忘れた!」と言って頭をかいた。
その時、日出子の心にビビッと電流が走った。
素朴な人、可愛い方と日出子は思ってしまった。
それ以来日出子は勉強が手につかなくなった。
期末試験の勉強も手つかず、物干し台に上がっては月を眺め星を眺め、洋二郎のことを思った。
洋二郎は、仲間とたむろして遊んでいるにも関わらず、東大を受けるという噂が流れた。
日出子は洋二郎が好きだと女友達にも言えなかった。
お好み焼き屋で生計を支えている母子家庭を卑下していた。
大学教授の父を持つ洋二郎に告白できる身分でないと、心まで閉ざそうとしていた。
だが抑えても抑えても、洋二郎が好きで好きで抑えきれなかった。
洋二郎に自分のことを気付いてもらいたいと、せっせと喫茶店に通ったけれど、洋二郎に自分の心は通じなかった。
たむろしている連中の中の一人が、たまに帰りがけに日出子に気づいて、
「おっ、大内も来ていたのか」と声をかけるぐらいだった。
日出子は洋二郎が振り返りもしないで出ていくのを、いつも見送るのみだった。
日出子は洋二郎に告白する勇気はなかった。
やがて洋二郎は東大に進み、日出子は地元の短大に入った。
東大を卒業して官吏の道を歩み始めた洋二郎は、地元には帰ってこなかった。
日出子は、あの時告白していれば自分の人生は変わっていたかもしれないと考えることもある。
でも、すぐに、告白したとしても、しがないお好み焼き屋の娘では、あの方に受け入れてもらえるはずはなかったのだと思い返す。
日出子は、洋二郎が東京の上司のお嬢様と結婚したということを聞いても、洋二郎が忘れられなかった。
日出子は、一生独身を通し、いつまでも洋二郎を恋していた。
③ 高野の奥の院の橋の上にて、月明(あ)か かりければ、
諸共に眺め明かして、その頃、西住上人京へ出にけり。
その夜の月忘れ難くて、また同じ橋の月の頃、
西住上人の許(もと)へ言い遣わしける
事となく君恋渡る橋の上に
争うものは月の影のみ
西行
(1157・81152 日本古典文学大系・歌番号)
京子はタワーマンションの12階の寝室の大きなガラス窓から夜空を見上げた。
雲一つない空に満月が輝いている。
今夜の満月はローズムーンだ。
京子は振り返り、昨日まで達子と一緒に寝たダブルベッドを見た。
達子の抜け出た跡が、蝉の抜け殻のように盛り上がっていた。
他に寝る場所がなかったから、二人は一つのベッドに横たわっただけのことだが、気の合う者同士、夜を徹して美術について語り明かしたのは楽しかった。
達子は、妖精を描くのに夢中だった。
達子は言った。
「ラヴェルの『夜のガスパール』の『オンディーヌ』というピアノ曲を聞いたのよ。その時私の頭にビビット来たの。オンディーヌというのは妖精の名前なんだけど、人間に恋をするのよ。その恋は破れるの。そうしてオンディーヌは泡となって湖に消えていくのよ。その泡となって消えていくところを私は書きたい!」
ああなんて美しい情景なんだろうと京子は思った。
達子自身がオンディーヌになったみたいに美しかった。
京子は、額にかかった達子の前髪を掻き上げたいような気持になった。
そして赤子のように柔らかい唇に唇を重ねたいような気になった。
心臓が一瞬ドクッと音を立た。
そして京子は辛うじて自制した。
達子が残していったパジャマを掛布団の下から取り出すと、
かすかに化粧の香りがした。
京子は枕元からスマホをとると、達子にラインした。
<寝室の窓から、ローズムーンの美しい光が差し込んでいます。昨日までここにいたあなたと、この月を一緒に見ることができないのは、なんと寂しことでしょう。月はむなしく貴女のいないベッドを照らしています>
京子はしばらく月を眺めていたが、思い切って送信ボタンを押した。
④ 老人述懐
年高み頭(かしら)に雪を積もらせて
古りにける身ぞあはれなりける
西行 (聞書集)
佳寿(かず)は姿見の前に立って最後に帽子をかぶった。
さあこれでお出かけの準備は整った。
帽子を被るのは、白髪染めに行きそびれて、くっきりと白髪と黒い染毛の部分が分かれるのが見苦しいからだ。
駅に着いた。
佳寿はホームをよろよろと歩いた。
自分でも信じられないほどよろめいた。
なぜこんな歩き方になるのだろう。
こんなはずはないと思って普通に歩こうとするが、どうしても普通に歩けない。
ホームの狭い部分では、線路に落ちるのではないかと、細心の注意が必要だった。
佳寿は老人優先座席に座って目を閉じた。
龍宮城で遊んでいた過去の想い出が蘇ってきた。
高膳に盛り付けられて運ばれてきた数々の御馳走。
鯛や平目の刺身、水底の洞穴で醸造された酒にあわび。
それらを捧げつつ運んでくれた妖精たち。
龍宮城の神様が与えて下さった天の羽衣の着物を着て、
妖精たちと踊り暮らした日々。
ある日はこの妖精と、またの日はあの妖精とと、水を切って踊り暮らした日々。
佳寿は今白髪を頂き、足元おぼつかなく街をさまよう。
妖精たちが泡粒となって水底に消え果てた龍宮城を胸に秘めて。
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