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「成長」の定義

就職活動の現場において「成長」というワードはそこかしこで謳われ、一種の胡散臭さまで発するようになってしまった。だが、経済成長が手放しで賞揚される時代が終わりつつあるとしても、自己についていえばまだまだ我々は、「成長したほうがいい」という価値観からは離れがたいように思える。だからこそ、「自己成長」は労働者をやりがい搾取へと導くための常套句となり得るのであり、自分もまたその磁場から完全には逃れられないでいる。

では、自己における「成長」とは、具体的にどういったことを意味するのだろうか。逃れられないなりに定義してみようと思ったとき、考えるための材料にできそうなできごとが2016年にあった。

その年自分が受験に失敗して浪人を決めると、同じく浪人した同期の多くはツイッター上から姿を消した。「浪人生たるもの勉強に専念するべし」との判断からそのようになったと思われ、自分自身もそれに異存はなかった。
ところが、いざ自分がツイッターを止めようという段になって、自分は無視できない大きさのひっかかりを感じた。本当にツイッターは断つべき娯楽であり、嗜好品なのか。順当にいけば考えるはずもなかったようなことを、自分は真剣に検討する必要に迫られた。

考えた末に自分が得た結論は、ツイッターは単なる娯楽にとどまらない、貴重な情報源であり、アウトプットの場であるというものだった。そのとき明確に、自分はツイッターに娯楽以上の価値を認めることとなった。晴れてツイッターをやめるという選択肢は否定されたのである。

4年を経たいま、浪人時代は過去の話で、そんな悩みもあったよねと思い出話のように捉える人もいるかもしれない。だが、時が過ぎたとしてもその熟慮の末の「決断」が廃れることはなく、思い出したかのように効力を発揮することがある。体感であるが、今でも年に2回ほどはツイッターの意義について話が及ぶことがあり、そのたびに自分は「その点については浪人時代、これこれこういう結論を出したんだよね」とある種の自信をもって答えることができている。少なからぬ思考の末に導き出された結論は、自分の血肉となって生き続けている。

翻って普段の生活に目を向けると、我々は思考の元となる情報を手に入れる機会が増える一方、思考する機会というのはそう多くないような気がする。情報に接するうちに漠然と「意見のようなもの」が醸成されることはあるかもしれないが、形を伴っていない以上、それを前提としてまた新たな思考を展開することには繋がりにくい。土台のないまま、我々は一過性の「考え事」と蒸発を繰り返すことになる。

大学の授業はその縮図のようなものではないかと思っている。講義において、我々は過去の議論や既存の学説といった知識を多く手に入れることになるが、よほど自身の経験に結びついたりして印象に残ったものを除けば、後の生活でその知識が呼び出されることはそうそうない。だが、ひとたびレポートを書くことになれば、知識を参照して少なからず手中に収めた上で、筋の通った独自の論を紡ぎ上げる必要が生ずる。人の目に入る以上、それは漠然とした「感覚」や「意思」のようなものではなくて、言語化された「論」でなければならない。批判に耐えうるものにするには自説を子細に検討することが求められ、そこには産みの苦しみが伴う。
だが、そうして得た結論というのは、多少のことでは消えてなくなったりはしない。むしろ、自ら考え言語化した結論は、また別のことを考える上での確固たる「前提」のような役割を果たし、我々の思考を助けてくれる。その結論について人から疑問を呈されたときも、その結論に至った過程を解いて説明することができるし、必要であれば修正を加えることもできる。

他方で、こうした「考え抜いて結論(らしきもの)を出す」という経験がないと、我々はなにに対しても「どちらかといえばこう思うけど、そういう意見もあるよね……」という漠然とした意思表明に終始することになりかねない。もちろん、実際には自己の経験や身近な人の存在などから、何かしらに対する「確固たる意見」を得る機会は存在する。仮に自分がいわゆるセクシャルマイノリティであれば、自分はそれに関するトピックを切実に考え、何かしらの確固たる意見を持ち合わせていたかもしれない。だが、実際に自分はシスジェンダーのヘテロセクシュアリティであり、そうしたトピックを「他人事」として見過ごしていてもおかしくはない。自己に関連しないあらゆるトピックについて、本当にそれでいいのかということである。

そこにとどまらないためにも、我々は第一にものごとを知る必要がある。そして可能なら、それをもとに考えた成果を話したり書いたりして言語化するところまで心掛けたい。言語化まで至らずとも、考え抜いてはじめて我々はなにかを得ることができる。そして、形を持った「前提」をもとにさらなる議論を積み重ねることで、我々は知的に前進することができる。この一連の営みこそが自らのアップデートであり、「成長」なのではないかと自分は考える。

とはいえ、そうした「考え抜く」機会というのは自ら意図して用意しない限りまれなものである。大学の授業におけるレポート作成はそうした数少ない機会の一つであり、利用しない手はないと思うが、卒業してしまえば機会が用意されることもなくなってしまう。
だからこそ、自ら文章を書くという営みが意味を成す。言語化することで考えがまとまったという経験は多くの人にあると思われる。欲を言えば思考の成果を誰かに見てもらい、議論する機会があれば最良だと思うが、それが叶わずとも言語化することで、曲がりなりにも自分は前に進むことができるのではないか。

これで表題についての話は以上になるが、最後に「文学部不要論」を唱える方に向けてひとつ加えたいことがある。

たしかに文学部は何らかの技術の習得といった、コンピューターでいえばソフトウェアをインストールするかのような経験をすることは少ない。だがその代わりに、我々は日々の学習を通して、自己を司るOSそのもののアップデート作業を進めている。当然、数年間の過程を終えて出てきた人間は、それ以前と比較して幾分「成長」している。それを評価するかしないかという話である。

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