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訪朝記 6(軍事境界線訪問)

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2019年9月16日、訪朝3日目の今日は初めて平壌を出て開城へと向かう。
目的は韓国との間に敷かれた軍事境界線の見物である。朝食を済ませた我々はバスに乗り、平壌から3時間ほどかかるという開城に向けて南下を開始する。

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10分ほど走り、さっそく平壌市の出入り口を示すであろう像の前で降ろされる。祖国統一三大憲章記念塔といって、南北統一を願う像なのだという。 このアーチの下を通っているのが平壌と開城を結ぶ高速道路で、軍事境界線まで通じているとのこと。

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高速道路というだけあって片側2車線の道路をバスは快走するが、市内ほどではないにせよ舗装が劣悪であるため突き上げるような揺れに始終襲われる。朝も早いので一眠りしようかと思ったが、それを許してくれるような環境ではない。

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車窓は水田地帯と丘陵とが入り交じったような地帯(北海道に似た景観だと思った)を走り続けるが、何度かこのような街めいた場所を通過した。集合住宅主体なのは平壌と変わらないが、古色蒼然とした住居も一定数見られるところが異なる。

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行程の半分ほどを消化したところで、ドライブインのようなところで小休止を挟む。トイレなどを備えた建物があったほか、その前ではお菓子や果物、コーヒーなどを売る露店が出ていた(2枚目は秋君撮影)。

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ドライブインを出ると車窓は次第に山がちになる。ガイドから「この先何カ所かチェックポイントがあるから、差し掛かったときはカメラを下げるように」とのお達しがある。どうやら検問所のようで、通る際にはガイドの一人が下りて軍人となにやら話す必要があるようだ。

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束の間うとうとし、気がつけば板門店の入り口にあるらしき建物の前に到着するところであった。
建物には売店があり、ポストカードやポスターといった北朝鮮土産のほか、Tシャツやキャップといった板門店土産も売られている。我々のほかにも欧米人の団体や中国人の団体がやって来ているようで、かなりの賑わいである。我々が何も買わずに外で佇んでいると男性ガイドのO氏がやって来たので、「経済制裁のせいで、北朝鮮で買ったものは日本に持ち込めないんですよ」などと説明すると、「まじか……」といった感じの反応をしていた。

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程なくして、売店に併設された部屋で軍人による解説が始まる(秋君撮影)。ここが境界線でここが、といった地理的な解説を軍人がすると、まず我々のガイドO氏がそれを英語に訳し、ついで中国人団体に随行しているガイドが中国語に訳すという手順を一文ごとに踏んでいく。

ところで、板門店にもやって来ると、屋外で警備に当たる軍人は上の写真のような制服制帽ではなく、迷彩服にサングラスといった戦闘服に身を包んでいる。おそらくこれが秋君の言葉を借りれば「ガチ軍人」で、対する制服組は案内といった業務を担当する「観光用軍人」なのであろう。

説明が一通り終わると、各バスに観光用軍人が1人ずつ乗り込みさらに先に進む。にわかに舗装がよくなり、周辺は草むらのような景観へと一変する。

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まもなくバスから降ろされ、いくつか小屋のような建物を見学させてもらう。上は(自分の英語力に問題がなければ)停戦協定調印場のようである。

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いよいよ北朝鮮側の施設(板門閣)にのぼり、軍事境界線を臨む。

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数件の青い建物を横切っているのが軍事境界線。正面の建物は韓国の「自由の家」である。
撮影は自撮りなども含め全くの自由である。一通り撮影を済ませた後、観光用軍人を交えて集合写真も撮影した。

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来た道をバスで引き返し、開城の市街地へと向かう。
市内は見ての通り高い建物はまばらで、自動車もまれにしか見ることができない。人々はみな自転車で移動しているようである。

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到着したのは高麗博物館である。開城は高麗時代に都として栄えた歴史を有する。史跡の数々は「開城の歴史的建造物群と遺跡群」として世界遺産にも登録され、この博物館もその一部とされている。

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やはり同じ東アジアだけあって、伝統建築の雰囲気は日本の太宰府天満宮などに通ずるところがある。時代的にはよほど隔てられているというのに、むしろ現代の北朝鮮の街並みを見ているよりもはるかに「違和感が少ない」のが印象的であった。
建物の中には青磁といった品の数々や壁画などが展示されていた。

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博物館には絵葉書や切手を扱う店が併設されており、外国人向けに商売をしている。切手セットは100元ほどと特別安くはないが、一級の記念品にはなるだろう。

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その後は市内にある外国人向けと思しきレストランで昼食をとる。ここでは伝統的な様式の料理がふるまわれた。あらかじめ行きのバスの中で予約をした者にはサムゲタン(別料金)が提供される。
例によってなかなかのボリュームであり、隣のモーリシャス人から「これいらんわ、あげる」などと言われ数皿余計に食べたからすっかり満腹になってしまった。東洋人の自分はそこそこ見慣れた料理を、しかも箸を用いて違和感なく食べることが出るが、それ以外の地域から来た人には食べがたいもの(海苔や小魚など)も多いようで苦労が推察された。

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食後は小高い山にのぼり、開城の伝統的な街並みを眼下に見る。純粋に散策してみたいと思わせる街並みであった。

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ちなみに開城中心部のこの丘には金父子の銅像があり、結婚の報告に来たと思しき男女および数人の軍人(新郎の同僚か)の姿が見られた。昨日万景台でより大きなものを拝んだためか、我々は特に寄ることもなく丘を後にした。

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その後は平壌へと来た道を引き返す。2枚目は高速道路に並行している一般道を撮った画像だが、柱状のコンクリートが整列している様子が見てとれると思う。これは有事の際に引き倒して道をふさぐことで、韓国軍の侵攻を止めるべく用意された設備ではなかろうか。

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ヤギ。

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平壌に戻るとすぐにレストランへと連れて行かれ、アヒルの焼き肉を食べる。店員が次から次へと勝手に焼いてくれるシステムで、肉は軟らかくておいしく申し分ない。

ここで隙を見てガイドへのお土産を渡す。本来であればガイドとバス運転手の計4人に渡すべきところであるが、ガイドが3人付くことを想定しておらず、3人分しか用意してこなかったことから、運転手のいないこのタイミングでということになったのである。

秋君は行きの茨城空港で買った馬油のハンドクリームを、自分は日本のスーパーで買った真空式の醤油を贈呈した。醤油を用意したのは、日本の「いつでも新鮮 しぼりたて生しょうゆ」が北朝鮮人ガイドに好評というネット情報を見てのことであったが、さすがに英語ガイドが醤油をもらうことは珍しかったらしく「醤油!?笑笑」といった様子だった。賞味していただけたら幸いである。

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食後は「未来科学者通り」と呼ばれる高層住宅街を歩く。太い通りではあるが、街灯は少なく数メートル先は漆黒の闇である。

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呑気に歩いていると後ろからチリンチリンとベルが鳴らされ、自転車が通過していく。あまりにも暗いゆえ、市民も相手が外国人とは気付かないのだろう。こちらとしては市民との壁が一つ取り払われたようで嬉しくもある。

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疾走するJR四国バスの姿を自分は見逃さなかった。

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滞在中よく見かけたタクシー。

ガイドのマーカスが夜の柳京ホテルを見たいとリクエストしてくれたらしく、回送されてきたバスに乗り込んでホテル前へと向かう。車中ではそれぞれのガイドが歌を歌ってくれるというサプライズがあり、一同は大いに盛り上がった(お返しに何人かの観光客が祖国の歌を披露していた)。

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驚くべきことに、夜の柳京ホテルはど派手なライトアップが施されていた。

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刻々と移り変わる社会主義的スローガンをカメラに収め、羊角島ホテルへと撤収する。明朝は飛行機で帰る面々が先に出発し、列車で帰る我々のほうが後ほど出発する予定になっているから、ツアー全員で行動するのはこれが最後となった。

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