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訪朝記 終(出国)

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2019年9月17日、残す行程は列車での北朝鮮出国のみとなった。
3泊お世話になった羊角島ホテルを出て、もはや乗り慣れた我々の観光バスに乗り込む。全部で20人ほどのツアーであったが、平壌駅へと向かうバスに乗ったのはその半数ほどであった。残りの10人は朝早くに平壌空港へと向かい、8時発の飛行機に乗っているはずである。飛行機が北京に着くのは10時ごろとのことだから、我々の列車が平壌駅を出る時刻(10:25)には既に中国に着いていることになる。列車組である我々の中国入りは17時過ぎ、そこから夜行列車で一晩を過ごし、北京着は明朝8:30(中国時間)の予定である。

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バスはホテルから10分も走らず、10時ごろに平壌駅に着いた。バスを降り、雑踏を横切って駅の中へと案内される。途中、ガイドのY氏に「君たちの顔は朝鮮人に似ているから見失いそうになるよ笑」と言われ、なぜか「ソーリー」と返してしまう。

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改札のようなところをくぐり抜けると嘘みたいに広いホームが現れ、丹東行きの国際列車が停まっていた。ひとまず荷物を置きに列車へ乗ろうとすると、同行の欧米人が乗り込んだところで我々は制止されてしまう。どうも顔つきから別の団体の中国人と思われたらしい。

中国国鉄でいう硬臥(三段寝台)タイプの車内は、すでに中国人であふれていた。雰囲気はもはや中国国内のそれである。

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我々の乗った客車。北朝鮮所有の車両のよう。

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ここでお別れとなるガイドと列車の前で写真を撮る。一番左はツアーガイドのマーカスで、このあと我々と一緒に北京のオフィスまで戻る。その左からガイドのO氏、秋君、自分と続き、右の女性が主任ガイドのK氏、その右がY氏である。

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発車時刻となり、一同ガイドに手を振りながら平壌駅を後にする。

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駅を出てしばらくはデッキに立って留置車両を撮影する。(2枚目に写るパンタグラフつきの客車は、サービス用電源を架線から集電しようというものか)

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読者諸兄姉にとってはもはやお馴染みとなったであろう柳京ホテルが我々を見送ってくれる。

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その平壌市街を出るか出ないかといったところで展開されたのが、このような光景だ。のろのろ走る列車の傍らで、駆り出されたであろう市民が保線作業に勤しんでいる(秋君撮影)。いきなりの前時代的な景観に目を瞠る。

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列車が平壌市を出ると、あとは開城に行ったときと同じような車窓が広がる。ときおり街が現れる以外は田園風景が広がり、未舗装の道路が線路に並行して走る。エンストでもしたのだろうか、バスがエンジンルームを開けて停車していた。

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線路上には貨物列車が多い。日本では見ることのできないような、荒んだ見た目の有蓋車や無蓋車が機関車の後ろに連なっている。
列車はいくつかの駅に停車したが、駅周辺の写真は撮らないようにと旅行会社から言われていたから(駅周辺には軍事施設がありがちだからという理由だったと記憶している)写真は残っていない。ただどの駅にも金父子の肖像画がこちらを向いて掲げられていたということだけは申し添えておく。

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体感で出発から2時間ほど経った頃、女性乗務員から我々のグループにお呼びがかかり、揃って食堂車へと赴く。どうやら予約が済んでいたらしく、中国人で埋められた車内の一隅が我々のためにぽっかりと空いていた。コース料理のようで、2人分の料理が一つの皿に載せられて次から次へとやって来る。テレビにはモランボン楽団と思しき歌手ユニットの映像が流れている。
隣に座っていた英国人2人は往路も列車を利用したらしい。このあとに控える出国審査と荷物検査のことを"Strange."と一言で形容していた。

そのstrangeな出国審査に先立って、入国の際とほぼ同様の内容の出国カードを記入する。持っている書籍や電子機器の個数まで記入するあれである。ただし慌ただしかった往路のフライトとは対照的に、列車は時速50キロほどの速度で変わり映えのしない景色の中をのんびりと走っているから、こちらも暇つぶしだと思って呑気に記入すればよい。

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しかしいよいよ新義州の駅が近づいてくると、こちらも否応なく緊張を帯びてくる。
過去の旅行者のブログを見る限り、新義州駅での出国に伴う荷物検査はかなり厳格であるらしい。荷物の中身はもちろん、撮影した写真も全てかは定かでないにしろ検閲されると聞く。なにも後ろ暗いことがなければ泰然自若としていればいいが、なにしろ自分は持ち出しが禁じられている朝鮮ウォンの紙幣を持っているから旗色が悪い。
もし見つかっても「うっかりしていた」と申し逃れできるように、紙幣を財布の中に移動させようと自分はスーツケースの開封を試みた。ところがそれと前後して、謎の北朝鮮人男性3名ほどが我々のコンパートメントにやって来る。彼らはガイドのマーカスに「ここに座らせてくれ」と願い出たらしく、まもなく荷物を持って転がり込んできた。自分と秋君は通路を挟んだ補助椅子からそれを眺めていたが、出国を前にしたこのイレギュラーな動きには漠然とした不安を強めないわけにはいかなかった。

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出発から約5時間後、車窓に平壌以来の都市が現れる。マーカスから補助椅子の我々もコンパートメントに戻るよう言われ、北朝鮮人男性らの横に腰掛ける。

列車は新義州の駅に停車した。固唾を呑んで座っていると、もはや見慣れた制服制帽の軍人が1人乗ってきた。初老といった年齢であるが、存外に陽気である。手始めに自分のパスポートと入国カードを手にすると、「イルボン(日本)!?笑」とのけぞったあと、ローマ字で書かれた僕の名前を発音しようと僕に確認しつつ何度も試みるといったフレンドリーさをみせた。
ただし、行きの空港でもあった携帯電話の製造元チェックが困難を極めた。iPhoneといったメジャーな端末であれば何ら苦労しないところを、たまたま自分の端末が「Essential Phone PH-1」というマイナーな端末であり、しかもミニマルデザインをうたって一切のメーカー名表記などが本体に施されていなかったことが災いした。繰り返しあれこれと説明するも軍人は記録のしようがなかったらしく、最後は「ここにでっかく大文字で書いて」と請われ自分が「ESSENTIAL」と大書することで決着をみた。

我々の団体の全員がパスポートチェックを済ませると、荷物を持ってホームに出るように言われる。ホームに出ると、ここに一列に並べなどと指示が細かい。その間に列車は解結作業を行っている。ここで新義州止まりの客車を切り離すのであろう。
列を成してホームに隣接した建物へと進む。中にはX線検査機があり、ひとまずそこに荷物を通すらしい。
全員がX線検査をスルーする。するとそのまま客車内へと戻るように言われるではないか。これで検査が終わりだとしたら御の字であるが、そんなことがあるだろうか。

コンパートメントに戻ると、例の北朝鮮人男性がスーツケースを開けて中身を軍人に見せていた。我々も改めて車内で検査を受けるのだろうか。

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目の前のポルトガル人女性がスマホでの通信を開始していたことから、自分も倣ってデータ通信をオンにしてみる。すると北朝鮮国内である新義州駅にいながらインターネットへの接続を果たすことができた。いよいよ(北朝鮮と比べた)自由世界が見えてきた。

などといったことをしていたら、隣に座っていた北朝鮮人男性から「日本から来たの?」と日本語で話しかけられる。驚きつつも会話を重ねていくと、その男性は約30年前の1年間日本に居住していたということが判明した。その向かいに座っていた男性もかつて新潟にいたことがあったようで、片言ながら日本語を話すことができた(今着ているシャツは日本製などと教えてくれた)。
自分の隣の男性は「全然使わないからね、日本語忘れちゃったよ」などと言いつつも流暢な日本語を操る。日本に住んでいただけあって地理にも詳しく、「成田から来たの?」などと込み入った質問も飛んでくる。我々がいかにして北朝鮮までたどり着いたか(上海から上陸し中国経由で来たことや、国交がないためパスポートにはスタンプが捺されなかったことなど)を話すと、自由な往来が実現していない現状について苦笑しつつ「おかしいよねえ」とひとこと。
次いで質問は我々の平壌滞在について及び、平壌はどうだったと訊かれた自分が「きれいな街でした」と答えるとシニカルな笑い。また板門店にも行ったと答えると、「同じ朝鮮人なのに、線を越えただけで鉄砲で撃たれちゃうんだよ。おかしいよねえ」とまたひとこと。

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「一緒に写真を撮ってもらえますか」という秋君の頼みを快諾してくれたため、一同で写真を撮る。赤い服を着ているのが日本語の流暢な男性で、その向かいの2名も北朝鮮人男性である。残る6人が我々一行(日本人×2・ポルトガル人・オマーン人・ドイツ人・ガイド)。

いきなり我々と現地人が日本語で会話しはじめたものだから、ツアーメイトたちは黙って見ているほかない。それでも次第に我々の英語を介して交流の輪が広がりはじめる。各国のことばで挨拶を交わしたり、ポルトガル出身と言う例の女性に対し、北朝鮮人の一人がクリスティアーノ・ロナウドの名前を出したりという具合である。
軍人がやって来てこちらを見やると、赤い服の男性になにやらささやく。男性が「あのポルトガルの人、いい女だって」と我々に日本語で伝え、それを秋君が"He said you look beautiful."と気の利いた英訳で当人に伝える(彼女は照れて顔を覆う)。つい北朝鮮軍人と西洋人観光客との間に、朝鮮語・日本語・英語を介した交流が成立してしまった。
最後に自分は気になったものだから、「丹東(中国側の街)には何をしに行かれるんですか」と尋ねてみた。すると赤い服を着た、石原慎太郎似の赤ら顔の男性は笑みを浮かべながら、「なんのことかね、あるんだよ」とだけ答えた。

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まもなく列車は国境に向けて動き出した。やはりX線検査が出国検査の全てであったらしい。「北朝鮮はもうそこで終わりだよ」と傍らで男性がささやく。何となく北朝鮮を出るときは解放感から一同盛り上がるのではないかと想像していたが、予期せぬ出会いが「脱北」を相応にしんみりとしたイベントに変えてしまった。

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列車はごく低速で鴨緑江に差し掛かる。向かいには早くも中華人民共和国・丹東の繁栄した町並みが見えてくる。

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橋に見物客の人影が見えた。もうそこは丹東である。

列車は橋を渡るやいなや、広くて明るい丹東の駅に滑り込んだ。美しい流線型をした高速鉄道の車両が目に飛び込んでくる。残酷だと思った。北朝鮮のどこを見渡しても、あんなに流麗な形状をした製品を見ることはできなかった。平壌の一等地を見回してもお目にかかることのできない形だった。時速60キロにも満たないであろう旧態依然とした乗り物に乗って川を渡った矢先、一介の都市にすぎない丹東においてこれほどまでの現実を見せつけられる北朝鮮人は何を思うのだろう。

「なんのことかね、あるんだよ」ということばを残した彼らは早々に列車を降り、ある種の達成感を抱いた我々一行もまた4日ぶりの中国の土を踏んだ。入国審査場には赤いバッヂをつけた人々が列を成していた。彼らは何のために国境を越えたのか。それを知る術は自分にはない。4日間にわたりいろいろなところに連れ回されて、それなりに北朝鮮のいろいろを分かったつもりだったけれど、肝心なところで自分はまた分からなくなった。北朝鮮という国が、自分にはよく分からなくなった。

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