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愁活記(前編)

この記事は、就職活動に関するやる気のまるでなかった者がその模様について省みたものです。なんの「生産性」も意義もございません。

第1部

就職活動ほど、当時の自分にとって忌まわしいものはなかった。ようやく学部生として脂が乗りつつあった2年次の終わりごろから、就活の足音は聞こえてきたように思う。勉学という明確な目的を持って大学に入ってきた者にとって、それは耳障りな存在にほかならなかった。誰だって、売り出し中の20代半ばかそこらで、やれ墓だの遺言状だのと「終活」の話題でも持ち出されたらうるさくも思うだろう。それに自分は性分として、目先のもの、目下取りかかるべき課題に全力を注ぎ、妥協を許さない傾向にあった。自分にとってそれはすなわち専門の研究であって、たとえ就活に人生がかかっていようと、研究の先に未来などなかろうと、疎かにすることには全く気乗りしなかった。つまり自分における就活とは、始まりもしないうちから負の要素でしかなかったのである。嫌う理由はあれど、好む理由は皆無であった。

自分は、労働に含まれる原初的な悦びの存在を認める一方で、賃金労働のことを必要悪くらいに思っていた。金は入り用なのでアルバイトには手を染めていたけれど、「バイト」などと称して何かいいもののように扱うのは、学生を低賃金労働へと駆り立てたい資本家の欺瞞のように思えて、頑なに「賃金労働」と呼称していた。そんなわけで、自分は「やりがい」だとかそれに紐付けられた長時間労働にことさら敏感であった。そして幸か不幸か、自分のまわりにはそのような考えをしている友人が何人かいた。みな生活のために労働が必要であることを認めつつも、文学部生らしく労働に対する抽象的な愚痴をこぼすことに熱中していた。ようやく手に入れた、何事も好き勝手言える環境に浸潤してきた現実に抗っていたのかもしれない。

とはいえ、3年に上がるかどうかというタイミングにおいては、比較的就活に真摯な友人に連れられて、キャリアセンターが学内で催すセミナーに足を運んだこともあった。そこで、電通の採用担当者が過労死のことなどおくびにも出さず嬉々として語っているところや、講談社の担当者が「働き方改革により、最近では終電までには帰るのが目標」とのたまう場面を目にして帰ってきた。

実家に帰ると、特に母親からは「キャリアセンターに行きなさい」などとよく釘を刺された。折しも県職員である母親が県立大学に勤務していたときであり、学生のキャリア事情にも明るかったからである。ただしそのときの自分はこれといって就きたい職はなく、むしろ前述のように就活へのもやもやとした反感や、労働全体への後ろ向きな気持ちで占められていたから、相談したところでどうにかなる問題ではないと内心で思っていた。まさかキャリアセンターに行って「働きたくないです」と言えるほど無恥ではなかったし、ましてや働いて自分を大学に行かせてくれている母親にそういった事情を打ち明ける勇気もなかった。そう、働かざるを得ないということは人並みかそれ以上に知っていたし、そうである以上就活に背を向けるのは恥ずべきことであるとも思っていた。だからこそ就活をすると決めたわけだが、何になりたいとか何をやりたいとか、「働く」以上のことは何もなかった。

この「目標不在」という事態が、自分の就活を決定的に難しくした。いまの就活は、学生側が「なにをしたいか」ということを前面に押し出すことで成立している。応募書類にしても何にしても「自分はどのような人間か」に端を発し、「なにをしたいのか」を打ち立てたあと、「なぜ貴社なのか」という答えに繋げていく。それで相手を納得させなければ面接にも呼ばれない。3年の夏、自分はインターンシップという名の就業体験に応募しようと試みたが、選考のための提出書類に「我が社で何をしたいのか」「十年後の自分は何をしているか」といった設問が並んでいて途方に暮れた。その端緒を見つけるための就業体験であったはずなのに、そこでは既に目的意識や問題意識を確立した「就活生」の存在が前提とされていた。十年後の理想だなんて、入った先で見た光景とそこで得た経験をもとに描いていけばいい。絵空事を描くことに意義が見出せなかった。手間と時間をかければ即席の募集理由くらい作れたのかもしれないが、そこまでして応募したいと思うような動機がないから困っているのであって、結局「労力の壁」を越えられずに自分の夏は終了した。やりたいことがないのなら、いっそ福利厚生や賃金といった条件で選んでしまえばいいと思う方がいるかもしれないが、結局そういった「不純な」動機をそのまま書類に書くわけにはいかないから、改めてそれらしいものを作文する手間が生じる。そのことを考えただけで自分はぞっとしたし、本心を偽ることをよしとしない潔癖症のきらいがあったので断念せざるを得なかった。「インターンに行かないとまずい」という言説の存在は知っていたが、単純に職を知りなさいという話ならまだしも、担当者に顔を覚えてもらうだの早期選考に乗るだのといった胡散臭い話になってくるのが就活というもので、そうなると「勝手にやってろ」という謎のスポーツマンシップのようなものが邪魔してくるからだめだった。公明正大を尊ぶ気風は、正義も正解もない民間の採用とは決定的に相性が悪いようであった。大事な大事な授業を休み、飛行機代を投じて東京に馳せ参じていく同期を横目で眺める日々が続いた。

自己分析らしきことも試みた。そうでなくとも内省を重視する自分は、比較的自分のことをよく知っているつもりだ。ものを作るのが好きで、粘り強く、納得のいくまで作業を続ける。妥協を嫌うこだわりの強さは自他共に認める「研究者向き」の特性であった。けれどもこの時世に人文系の自分が学者を目指すのは、あまりにも茨の道過ぎる気がした。「院に行かないのか」と何度訊かれたかわからないが、余計なお金と時間と卒業後のリスクを負ってまで研究したい対象が見つからなかったことから断念した。記者を勧められることも多かったが、「私生活が確保されないと身を滅ぼす」という高校時代の数少ない教訓からして、夜討ち朝駆けのような仕事が不向きであることは間違いなかった。もっとも記者を志望するような芯の通った人は、その頃にはとっくに筆記試験の勉強などに着手していたはずである。自分はそういった明確な指針のある人を心から羨ましいと思った。勉学が邪魔されることへの反感、費用と労力への抵抗、採用担当者におもねるあほらしさ──自分が就活になかなか取りかかれない理由が極めて複合的であるにしろ、どれひとつとしてでたらめなものはなく、これまでに長々と列挙したようにすべて説明することは可能である。けれどもどれだけ言葉を尽くしたところで、就活をしなければ生きていけない自分にとっては何の解決にもならない。なにものをも絶対的に信じないというのが文学徒のあるべき姿であると自分は思っているが、金、名誉、使命、やりがい、ひとつとして至上の価値を置けず、そこに向かって進むことのできない自分を自分は「不幸」だと思った。

結局時が経っても自分に「目標」が生じることはなく、「目標不在」のまま自分は3年の2学期に突入した。浪人時代に買った業界地図を読んだり、ブース式の説明会に何度か足を運んでみたりした。けれども、「ここではやっていけないな」という業界が増える一方で、「ここでやっていこう」と思うような業界というものが現れる気配はなかった。説明会に行っても、真っ黒く日焼けした銀行員の話に嫌気だの胸焼けだのを催したりして、数社の説明だけ聞いて帰ってきてしまうのだった。同期からは「スタミナな笑」と笑われたが、まさにそのとおりだった。相も変わらず、自分は理想を愛でることに長けており、現実と和解することに不得手な人間であった。

第2部

インターンに足を運ぶことのないまま冬も半ばに差し掛かり、自分はついに尻に火がつくのを待つしかないのではないかと腹をくくり始めた。さしもの自分も解禁日が迫ればエントリーというものをしなければならず、そうなると御託を並べる余裕もなくなるだろう。業界を絞るには至らないかもしれないが、こうなったら選考の過程で向き不向きを判断してもらえばよい。最終的に残ったのが自分にとって最良の選択肢なのだと、そう考えた。思えば最初から自分は就活とか恋愛とか、他者が密接にかかわる問題について自分の力でどうにかなるとは考えないタイプの人種だった。そういう話をしたら友人からは「決定論的な就活だね」と言われたが、まさにそうなのだろう。企業の数だけ「正解」が存在し、しかもその存在が公表されてもいない場において、所定の目的を達成しようとする方が無理な話ではないのかと、そこまでこのとき考えていたかは記憶にない。ともあれ、学期を終えた後の自分は半ば安らかな気持ちでそう考えていた。

実際、2月が終盤に差し掛かっても自分は確たる志望を固めることができず、解禁日を前にして過去の関心などから志望企業「らしき」ものを見繕い、3月1日に備えた。遅ればせながら企業を紹介してくれるような支援サービスにも登録し、本腰を入れてやっていこうという体制になった。ところが、このあたりからコロナウイルスが幅をきかせてきて、事態は妙な方向に推移し始めた。まず弊学で行われるはずの合同説明会が霧消し、次いで都内で開かれる予定の合同・個別説明会等の一切が消滅した。都内に出向いて説明会行脚をするはずだった自分は面食らった。参加が容易なweb説明会に移行したのは喜ぶべきであったが、合説で不特定多数の企業と知り合える最後の機会を失った。

プレエントリーが済むと、次はいよいよエントリーシートなるものを書く必要に迫られた。自己PR、学生時代に頑張ったこと……唾棄したくてたまらなかった。「謙虚である」という生き方が許容されるのであれば、自らのやったことをことさらに喧伝するような真似も拒否できて然るべきだった。自分で自分を持ち上げることの一切を、これまでの自分は徹底的に避けてきた。自分の良さというべきものが仮にあるならば、それは生活を共にする中で自ずと人の目に現れているし、逆にそれ以外で自分の持ち味を表現できるなどとは思っていなかった。けれども、就活の現場では唯一、そうした謙虚さといった美徳の存在だけは許されていないようであった。許されないは言い過ぎにしても、決定的に相性が悪かった。それ以上に、陳腐な言葉で自らの過去を包装する作業はすなわち、自らを陳腐な存在へと貶めているように感じられて苦痛だった。限られた字数で相手に訴える必要のある以上、そこには「わかりやすさ」が不可欠である。言葉を尽くしてもなお説明し尽くすことのできないであろう自分という存在を、「端的に」「わかりやすく」表すことは拷問に等しかった。

サークル活動には人並みにかかわってきたけれど、自分に留学の経験はないし、賃金労働で顕著な働きをした覚えもない。いわゆる「ガクチカ」のテンプレたる留学談やボランティア談、賃金労働談に対しては、「自分は就活のために生きてきたのではない」という反感を禁じ得なかった。自分は自分が大事だと思ったこと、学業やその他諸々に時間を費やしてきたという自負がある。だが、それをわかりやすく端的に伝えるとなると話は別であった。自分があらゆる経験を通して得てきたものだなんて、ぼんやりとして、不定形で、時間が経たないとその効果もわからないものばかりである。よしんば確信に近いものがあったとしても、それが私企業での労働に効果的に作用するのかは自分でも疑問であった。自分が愛でる傾向にあるものと企業が求めるものとは基本的に方向性の違いがあるように感じてならなかった。

だが結局、自分はその学業を「ガクチカ」として採用することに決めた。企業の方向を見ることをひとまずやめにしたのだ。誰が何を言おうと、自分の「ガクチカ」は学業をおいてほかにない。そうである以上、学業から得た経験で堂々と勝負すればいいのではないか。この発想が、「テンプレ」に支配され、齟齬に悩んでいた自分をなんとか前向きな方向に引き戻した。言語化することは相変わらず苦痛であったが、自信を持ってやってきたことであったから何とかなった。かくして3月上旬、自分は初のエントリーシートなるものを企業に提出した。

次なる試練は企業選びだった。自分には人生において「やりたいこと」に相当するものが欠落していた。身近なところに「車を買う」というささやかな願望があるものの、そこに続く「ものを作りたい」「国際的に働きたい」「年収1000万」といった希望がまるでなく、とどのつまり「世界から不平等を一掃したい」といういかにも理想主義的な、漠然とした願いにまでたどり着いてしまう。前者はたいていの職において可能なことだし、後者は壮大過ぎて自分がどのように関与していいのかわからない。企業を選ぶ上では全く参考にならなかった。それでも自分は後者にとっかかりを求めようと、エントリーシートにおいて性別の選択を必要としない企業にエントリーしてみたり、「ダイバーシティ経営企業100選」なるものを参考にしてみたりしたが、企業選びの方法として全く実用的でなかった。そうした使命を経営の目的としている私企業は存在しないし、倫理的な共感を新入社員に求めているはずもない。よしんばエントリーするとして、志望理由に「倫理的な姿勢に共感した」などと書くわけにはいかないのである。

多くの企業を知るべく、企業を紹介してくれるようなウェブサービスにいくつか登録してみた。ただ、そういったサービスを経て紹介されるのは中小企業、とりわけITベンチャーが大半だった。自分は大企業に行きたいと特に考えていたわけではなかった。ただ、何の決め手もなく就活をやっている身からすると、規模の大きな企業のほうが安心であることはたしかであった。仕事の幅も広いし、待遇も極端に悪いということは考えにくい。最初に業界を絞ることができれば、その中で大手から中小までを一括して志望企業にということもできたのかもしれないが、自分はそうではなかった。

だいたい、自分は志望業種を定めるというやり方が理解しかねた。業種の希望がないわけではなかったが、それ以上に個々の企業の差というものは大きいというのが自分の所感であった。仮に自分が新聞社を志望するからといって、道新はともかく、朝日から毎日、読売、産経、果ては琉球、八重山と遍くエントリーするだろうか。どことは言わないが、約半数の新聞社においては自分が幸せに働けるとは思えないし、働きたいとも思わない。北海道で名の知れたドラッグストアにしても、かたや海外進出志向、かたや地域密着志向と目指す方向はまるで違うのだと、弊学に来た就活のプロっぽい人が講演していた。業界も規模も似通った2社の間でも、社風において体育会系/文化系の差異が存在していることが企業口コミから窺えることもあった。そうした理由から、自分が勤めるただ一社を見つける作業において、業種ごとにエントリーするというやり方には倣いかねた。

選考を兼ねた小規模の合説みたいなものにも参加してみた。SE、警備員の派遣業務、携帯電話の販売、水道管の凍結、駐車場の営業など、さまざまな企業の採用担当が来ていた。おそらくどれをとっても立派な企業だったし、収入を得るという点でも及第点には達していると思った。けれども、その中で自分が働きたいとまで思える会社はなかった。職業に貴賎はない。自分は大それた人間でも何でもない。でもなんとなく、自分が携帯電話を売ったり駐車場の契約を取り付けたりする職に就くことは、自分を安売りしているのではという印象が(その時点では)否めなかった。背景には、自分が曲がりなりにも県内随一と評される高校を出て、腐っても旧帝大の一隅に立ち位置を得ているという事実があったことは間違いない。繰り返すようだが、だからといって自分が特段大したことのできる人間だと思っていたわけではない。でも事実として、大学に現役で入った高校同期は押し並べて人がうらやむような企業/職種に内定していたし、大学の同期が受けているのも聞くところによると名の知れた企業が多かった。自分が彼らと同等の能力を有し、同等以上の努力を行っているとはお世辞にも考えづらかったが、大きく劣っているともまた考えにくかった。だから大企業を志すというわけではなかったが、最初から見切りをつけ、特段行きたいとは思えない企業を視野に入れることは少なくとも早計であるような気がした。

「軸」は何たるかという問いが就活にはつきものであるが、自分の就活は確たる軸もないままに進み始めた。業種一つ絞ることができない。公共交通への関心、文字を書くことへの親和性、現場へ赴くことを重視する姿勢、公平性を重んじる価値観など、自分の属性は一つではない。それを丹念にたどると、鉄道会社、メディア、財団法人などいくつもの業種が見えてきた。その中から会社所在地や社風、理念などを総合的に考慮して、やっていけそうだと思ったものにエントリーする。一本の軸に沿ってやるというイメージではなく、自分には関心という名のレセプターいくつかあって、そこに結びついたものにエントリーするという図のほうがよっぽど自然で丁寧で理に適っているような気がした。

けれども、いまとなっては自分が漠然と思っていたことを言語化することができているが、当時は確立されたセオリーに乗っかることのできない自分をもどかしく思っていたし、どこか恥じていた。自分は中途半端に真面目だったから、「自己分析セミナー」的なものに出かけていったこともあるし、就活支援サービスからかかってきた電話に提案されるがまま、無料の就活相談を受けてみたこともある。そうした場面においては「志望業種は」「軸は何だ」と訊かれてもうまく答えられない。違和感を口にできるだけ自分を客観視できていなかったし、だいいち自分は素人、相手は「プロ」である。理屈をこねるばかりで人の助言に従うことのできない自分を「しょうもない人間」であると責めるようになった。そうしたあらゆる苦悩の中で、あるときから自分は就活のことを「愁活(愁色活動)」と呼ぶようになっていた。

もっともこの記事を書いたときはまだ序盤ということもあって、就活を巡る昨今の情勢を他人事のように論じる余裕を備えていた。

第3部

3月の後半から4月にかけては、リストアップした企業のESを書き、求めに応じてwebテスト(適性検査)を受けるという作業に勤しんだ。締切ぎりぎりが常であったことから先方がどう思っていたかは分からないが、目に見えない人の顔色を気にする余裕はなかった。自分は企業選びを総合的に行うと述べたが、その観点の中にはワーク・ライフバランスだとか「不純な」ものも含まれるわけで、そういったものを除きつつ、過去の経験などに絡めて「説得力のある」志望理由などを作っていく工程は骨が折れた。元来体力のないほうなので、執筆に要するコストと志望度が釣り合わない場合、さじを投げてしまうこともあった。それでもここで撒いた種が未来に繋がるかもしれないと自分を奮い立たせ、大筋では一社でも多くエントリーするように心掛けた。一度諦めて布団に入った後、うまい具合の志望理由を思いついて飛び起き、23時59分の締切に間に合わせるといったこともやった。

それでも自分はおもしろいように書類で落ちた。一口に書類でといっても、経歴から資格、ガクチカ、志望理由など要素は多岐に渡るわけで、併せてwebテストといった適性検査まで行われていると、一体なにが原因で落ちたのか推し量ることはナンセンスにもほどがあった。そもそも就活に正解があるかどうかを自分は知らないし、あったとしてもそれは企業一社ごとに異なると考えるべきである。失敗を次に活かすことなどできるはずがない。腐りはしないが、奮起もできない。

折しも巷ではコロナが猛威を振るっており、就活もすっかりコロナ禍に飲み込まれていた。4月の中頃、道内の就活生の現状を知りたいこという触れ込みで、友人に頼まれて札幌の朝日新聞から電話取材を受けた。面接のオンライン化がどうこうという問いについては、そもそも書類で落とされている自分には関係のない話であった。コロナの影響について訊かれても、自分の現状のどこがコロナによるものでどこが自らの要因に帰するものなのか判るわけもなく、答えようがなかった。「もしコロナが来るとわかっていたら」という質問に対しては、早期選考で既に内定を得ている人の存在が念頭にあったから、まあインターンには行ったかもしれないと答えてはおいたが、仮定に仮定を重ねた話すぎて虚しくなった。「早期選考やってます!」と明言しながらインターン生を募る企業などないのである。自分は闇市を頑なに利用せず、配給品だけを口にすることにこだわって餓死する類の人間であるので、そうした「地下採用」のようなものをあてにはしなかっただろうことは自分がよく知っていた。

とはいえ、選考中の企業が減っていくことは、就職の可能性が減じていくことを意味していた。エントリーの合間を縫って補填に努めたが、企業選びが難しいことは以前となんら変わらなかった。大学の授業開始が5月に延期されたことから時間には事欠かなかったが、人と会って何かをするという「正の用事」がことごとく消滅するなか、ひたすら選考落ちという負のイベントばかりが嵩み、精神的な収支は恒常的な赤字であった。オンラインで人と話していても、先行きの何もかも不透明という状況は自分を限りなく憂鬱にした。

このあたりにはすでに、友人などから「就活がんばってね」と言われても「がんばらないけど、ちゃんとやる」と返すのが恒例化していた。自分には就活ががんばってどうにかなるものだとは思えなかった。もちろん、企業探しにしろエントリーにしろ、必要なことをこなさない限り道は開けない。でもそれ以上をがんばったところで、別にそれ自体が評価されるわけではないし、がんばりの方向が適切かどうかだなんて企業にしかわからない。それに前にも述べたが、自分は他者が密接にかかわる問題の行方についてまで、自分の力でコントロールできるとは思わないタイプの人間であった。やることをやって、あとは企業なり運命なりの審判に委ねるしかないという考えは変わらなかった。

5月に入ると、書類なりwebテストなり作文試験なりをくぐり抜けて、面接にまで進む企業が現れた。その数からして危機感を抱いて然るべきだったのかもしれないが、とりあえず自分は安堵し、友人に協力を仰いでオンライン面接の予行練習をするなど活力を取り戻した。5月31日のものを皮切りに、自分はいくつかの一次面接をこなした。すべてがオンライン形式で、家を出ずに済む簡便さはあったが、機材のセッティングで神経をすり減らすのは困りものであった。一度などはうまく接続がなされず、散々試行したあとに電話をして、なんとか日程の再調整を取り付けるということもした。先方からすると自分が接続を拒否したことになっていたらしく、ネットワークのいたずらで危うくそれまでの苦労が水泡に帰すところだった。

だが、就活のステージがようやく面接へと移行したことで、影を潜めていた就活への違和感が再び頭をもたげ始めた。それは「一貫性」に関するものだった。

就活でとかく重視されるのは「明快さ」であるとこれまでにも述べた。限られた時間で自分の人となりを伝える。そのためには、ガクチカ、志望動機、他社の志望状況、そういったものに一貫した何かが通底しているという構図が好都合であった。そこから立ち現れてくる性質をもとに「自分はこういった人間です」といったほうが、先方も自分という人間について納得してくれる。でも自分にしてみたら、今まで自分が携わってきたものごとの事由とは、時々の状況や文脈の中において個別具体的に説明されるものであっても、なにか普遍的な原則に基づいて単純に説明されるものではなかった。「深掘り」がなされるほどそう思うことが顕著になった。自分が中学で科学部、高校で合唱部を経つつ文芸部・物理部・鉄道研究会、そして大学で書道部・鉄道研究会に所属していたのはその時々の考えによるものであって、個々に説明することはやぶさかではないが、それは一貫した方針であるはずがなかった。選考中の他社についてもご存じのように、特定の業種に絞っているわけでもなく、ただ一つの共通項が内在しているというわけでもなかった。その理由は個々に説明されるべきものだった。けれども、明快さを追求する者の中には、そうした一見支離滅裂なものの理由を紐解こうというだけの忍耐はなかった。否、そうするだけの義理も責任もなかった。そうした理解に苦しむ一貫性のなさを本質的な悪として斬ってしまうことのほうが合理的であり、自分にはそれに抗弁する機会は与えられていなかった。すべては内々に処理された。そのせいかは知らないが、自分はことごとく面接に落ちた。

自分は今に至るまで、人間のことをなにか一貫した意思のように捉えたことはない。人は性質の集合であり、考えることも時によってまちまちの複雑怪奇な存在だと思っている。けれども彼らはweb上の「性格検査」なんぞで人を推し量れると思い込んでいる。それならば大人しく人間「の表象」を見て評価していますと言うべきだったのだ。そしたら自分もそのつもりで、自分の表象作りに励んだかもしれない。けれどもそこまで思い及ばない自分は、そうした人間に虚構の明快さや一貫性を求める欺瞞にたまらない不快感を催していた。

夢を描いては閉ざされ、描いては閉ざされを繰り返した先に袋小路を見た自分はいよいよ暗澹たる気分になり、マンションの11階にある自室を「死まで徒歩5秒の立地」などと形容するようになっていた。さながら賽の河原で石積みの刑に励む子供のようであった。(後編へ続く)

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