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愁活記(後編)

第4部

夢を描いては閉ざされ、描いては閉ざされを繰り返した先に袋小路を見た自分はいよいよ暗澹たる気分になり、マンションの11階にある自室を「死まで徒歩5秒の立地」などと形容するようになっていた。さながら賽の河原で石積みの刑に励む子供のようであった。けれども6月の後半、自分はちょっとしたことを契機に絶望の淵から脱出することとなった。

一つのきっかけは久しぶりに会った友人との会話であった。簡単に言えば、その友人は自他の人生について「死ななければいいのだ」と端的に言い切った。英語ができなくたってワーキング・ホリデーでもすればいい。かじれる内は親のすねをかじればいい。至極単純な理屈だったが、これまで自分を苛んでいた「『うまく』就職をしなければ」という呪縛から解き放たれるのを感じた。折しもnoteで、大学を卒業後にオーストラリアのオレンジ農園で働き始めた人の話を目にしたのもあって、自分の口癖は「だめだったらオーストラリアでオレンジの収穫をして生きていく」というものになった。そして死なないことが決定した以上、就活の面でもできることを少しずつでもやっていこうという気になった。幸いであったのは、コロナ禍によって企業の採用スケジュールにばらつきが出た結果、7月を目前にしたタイミングでもエントリー可能な企業が少なからずあったことだった。それに加えて、3月にエントリーした企業の中でもまた一社だけ、スケジュールの後ろ倒しによって未だ選考中の企業があった。

それは北の大地を走る瀕死の鉄道会社であった。エントリーシートに始まり、健康診断に適性検査に学力検査、一次面接に二次面接を経て、初めての最終面接に呼ばれたのは7月の上旬であった。北海道で数十年を過ごすというのは大事のようにも思えたけれど、ひとまずこれに賭けてみようという気になった。

いい加減自分は就活に疲れていた。就活が始まってからというもの、言いたいことが言えなかったり、思ってもいないことを口にする事態が雨後の筍のように出てきたという印象があった。それは人生において初めて、自分の「生活」が手玉に取られたことに起因していることは明らかであった。

最終面接の日、数日ぶりにマンションを出ると、目にも鮮やかな街路樹と、澄み渡った青空とが眼前に広がっていた。午後2時の太陽の下、薄着の老若男女が行き交っていた。これらの人々の目に、漆黒のスーツをまとった自分の姿はどのように映っているのだろうか。わけもなく、自分がゆらゆらと現れた「亡霊」であるような気がしていた。7月の暑熱を含んだ日差しの下にあっても、ときおり札幌らしい爽やかな風が吹き抜けていた。だが自分がその感触を肌で感じることはない。固められた髪、スーツにネクタイ、革靴──頭の頂点から足の先まで、社会性という名の鎧で身を包んでいるからだ。この期に及んで、自分はビジネス界隈という「ムラ」の扉を自分が叩こうとしていることを自覚した。そこはコードに則った服装をしない限り爪弾きにされる、純然たるムラ社会であった。人類学の授業に出てくる、ボディーペイントを施された人びとや女子割礼を行う人びとと何も変わらなかった。就活というたったそれだけの儀式の掟にも従えない自分という人間が、門前払いを食らうのは言ってみれば当然であったのだ。よくここまで来られたと思った。

初の対面での面接を終えた自分はまさに、人事尽くして天命を待つといった境地であった。呪縛から解き放たれたこともあって、すでに就活は自分にとって息を詰めて行う無酸素運動ではなくなっていた。将来についてなんの保証もないのに時刻表をめくっては、来たる日に決行する旅行の計画を立てたりしていた。だから面接の翌週、不合格を伝えるにべもないメールを目にしたときも、それが春にエントリーした企業からすべて落選したことを意味するにもかかわらず、自分は冷静かつ淡々と、予定通り翌日ウポポイに行く算段を進めていた。

この頃になると、定期的に電話を通して自分の就活模様について尋ねてきた祖母からも、その成り行きについて訊かれなくなった。エントリーを再開すべきだと分かっていたし、事実細々と作業を続けてはいたものの、どこか他人事のようにも思えて、構わず友人とドキュメンタリー映画など観に行ったりしていた。職を探そうとパソコンを立ち上げては、延々とタスクマネージャーに表示されるグラフを眺めている日もあった。

第5部

ここまで来ると、友人や家族から「本当に就職するのか」「今年就職するのが本当に良いのか」と尋ねられることもちらほらと出てきた。自分はあくまで就職するつもりだった。退路を断つつもりで院試は受けていなかったし、来年また同じことをしても結果がそう変わるとは思えなかった。代わりに、休学して公務員試験を受けるとか、新聞赤旗の記者試験ならまだ間に合うとか、いっそ関心のあったwebデザインを勉強してそれで就職したらとか、無数の選択肢が提案されたり、あるいは自分の脳内を去来したりした。自分にとって就職はこれまでになく、唯一の選択肢ではなくなりつつあった。それに自分からすると、いつまでたっても就活ばかりにかかずらうわけにもいかないという事情もあった。短期的には期末レポートの提出が迫っていたし、いい加減卒論にも着手する必要があるし、何より大学4年の夏はこれが最後であることに疑いはなかった。自分は友人と2人でしれっと道南へ出かけたかと思えば、今度は4人で道北へと繰り出したりした。SNSではこの小旅行のことはおくびにも出さなかった。自分の中での整理はついていたものの、端から痛々しく思われるのは本意ではなかった。

結局いくつかの企業にエントリーした後、8月の末に自分は埼玉の実家へと戻った。安倍首相が辞任した翌日のことであった。自分は生まれ育った首都圏で職に就くべきか、北海道で職に就くべきかすら判断がつかず、成り行きに任せていた。けれども、北海道のほうが幾分自分を受け入れてくれるという考えも幻想であった以上、今回の帰省で職を見つけて札幌に戻ろうという心づもりであった。

残暑の厳しいさいたまで、自分は再びの作文試験をこなしたり、web面接を受けたりした。web面接は学生3人と担当者1人で行うという、自分からすると初めての集団面接であった。所要時間は30分程度で、エントリーシートなり適性検査なりキャリアデザインシートなりをこなした後の面接としてはずいぶんと質素だなと思った。これでどうやって人を落とせるんだろうと首をかしげているうちに不合格の通知が届いた。そのとき自分は高校同期と星を見に行く車中にいた。困惑はすれど動揺することはなく、自分は伊豆半島の突端で星を眺め、レンタカーのシートを倒して眠りに就こうとした。

けれども寝られなかった。それは海の湿気を多分に含んだ暑熱のせいでも、トランクの床がめっぽう固いせいでもないように思われた。個々の現象について、自分は極めて理性的に峻別を行い、どうにもならないものはどうにもならないと切り捨て、自分がすべきことに注力することでここまでやって来た。我ながらその振る舞いは、進路決定の上で順調といえるモデルケースから乖離しているわりには楽天的と思えるものだった。そうでなければ、呑気に車を運転して星を見て帰るなんてことはしない。けれども、人と同じことを同じように成し遂げられず、結果として自らを「失業者志望」と揶揄するような状況に陥っていることは、真綿で首を絞めるように自分の核心を苛みつつあった。3月のある日、「自己分析セミナー」なるもののために赤坂見附へと出た自分は神保町まで歩く道中、すれ違うすべてのスーツ姿の人びと全員に顔向けができないと思った。職に就くことに半分背を向けている自分は、社会性を纏って歩くすべての人に劣っている。自分はこう見えて、自己の社会における相対的立ち位置に敏感な人間であったし、それをはねのける図々しさまでは持ち合わせていなかった。9月になったいま、自分は消費活動を支えるすべての人びとに対し顔向けもままならないと感じていた。レンタカーを借りるときも、コンビニで飲み物を買うときも、高速道路を走るときも、それを享受するばかりで輪の中に入ることのできない自分を恥じた。人よりも現実を退けたいと願った人間がまさに、「社会」そのものという圧倒的な現実に呑まれようとしていた。

第6部

9月半ば、札幌に帰る前日に設定された面接は、この時点で最後の選考中と呼べる企業のものであった。7月のある日、大学に来た求人票を眺めているときに発見した、規模的には零細ということになるであろう、ドキュメンタリーなどを作る映像制作会社であった。いま自分がやっていること──すなわち文化人類学──に照らせばこの上なく合致している業務内容であったが、給与面等の条件がお世辞にも良いとはいえなかった。それでもこれが自分にとって最後の「前向きにエントリーできた企業」になるだろうと思い、締切の数分前に志望動機を提出した。自分の忌み嫌う適性検査などは特になかった。その一次面接が明日、港区の雑居ビルの3階で行われる。

やはりというか、そこは異色な会社であった。自分は3人の面接官の歓待を受け、学業の内容から自己の経歴まで根掘り葉掘り訊かれた。いくらか政治的なものとか思想信条にかかわるものとか、おそらく一般の常識からすれば「アウト」になるだろうという問いもあったけれど、自分としては構わないから正直に答えた。研究についてはこちらも自信を持って取り組んでいたから、いくら深掘りされようと答えに窮することはなかった。

終盤、在学中の海外旅行経験について問われたときも、偽る必要はないだろうと思い「中国、北朝鮮、台湾」と答えた。すると一通り笑われた挙げ句、「なんだ履歴書に書けばよかったのに」と言われた。「いや、幸と転ぶ会社ばかりではありませんから」と言うと、「そうだよね。でもうちはこういう会社だから」と言われた。聞けば目の前の面接官はいま、いわゆる朝鮮人妻の問題について映画を撮っているらしく、訪朝歴も3回ほどあるということだった。

面接通過の報せはさほど待たずにやって来た。この二次面接の後にまた最終面接があるのか、それともこれを以て最終面接になるのかすら知らなかったが、そんなことはどうでもよかった。言われるがままに再び実家へと戻り、スーツを着て都内に出た。

面接の冒頭、一番年長らしき面接官から「あなたの夢は何なの? なにがやりたいの?」という直球の問いが提示された。それは明確な目的を設定し、そこへの逆算で生きていくという人生観を前提としたもので、その時々の決定の末に未来の自分があるという自分の人生観とはそもそも相容れないものであった。従来の自分であれば、困惑しつつそれらしい答えを作り上げようとしたかもしれない。けれども、このときの自分には不思議と迷いはなかった。

「誤解を招くかもしれませんが、自分にはなにか目的を定め、そこから逆算するという生き方は採っておりません。自己の価値観に照らし、そのときどきの判断を適切に行った末に、目指すべき自己像が現れるというのが自分の人生観です」
「すると、今回志望したことでいうと、その価値判断ってのはなんなの」
「現場に赴き、自分の目と耳で物事に当たることを重視するという点です」
「なるほど。じゃあ今の段階で何がやりたいっていうのはないのね」
「ありません」

それは「夢を持つこと」を大前提とする就活への挑戦であり、現代の多数の人が念頭に置く「直線的な生き方」への挑戦でもあった。正直、これを以て意志薄弱だの芯がないだのと思われても仕方がないと思ったが、空疎ではなく、中身の伴った言葉を言えたことに自分は満足していた。

面接はつつがなく終わり、自分は制作した番組のDVDなどお土産まで持たされて札幌へと戻った。さらなるエントリーを行う準備はあったが、そこまでする気にもならなかった。自分はこれまで就活を始めたのが遅かったという事実などから、時期は長引けど人よりも就活を「ちゃんとやっていない」という自覚があった。受けた企業の数も総計で30かそこいらだから可愛いものである。けれども、遅ればせながらスーツを着て飛行機に乗り東京に出向くということをしたおかげで、ある程度人並みに就活をやったという実感が生じていた。そろそろ卒論に取りかからなくてはどうにもならず、細々と就活を続けるにしても、その結果までは関知するところではないという心境であった。憂鬱は依然として健在だったが、友人とドキュメンタリー映画を観に行ったり、また別の友人宅で餃子を作って食べたりした。

10月13日、初めて見る内定がやって来て、自分の「愁活」は幕を閉じた。

就活を終えて、なにを思うか

おそらく自分の就活模様を読んだ方が得た印象はさまざまであると思う。共感、軽蔑、戦慄、憐憫……自由に思っていただきたい。教訓を得るのもまたよい。

自分のごく親しい友人が記したnoteに、こういったものがある。自分よりもはるかに真摯に就活に取り組み、得るべくして内定を得た友人である。

自分の側から一つ「就活を通して得たこと」を提示するとすれば、それはさしあたり「以前よりも自分に対しても、他者に対しても正直になれた」という点だと思う。究極的に嘘偽りが、そこまでいかずとも誇大、強調、修辞といったあらゆる技法が求められる場において、自分は自分に対して正直な言葉を吐くことをこれまで以上に心掛けた。政治の場においても耳を覆いたくなるような空虚な言葉がやりとりされる昨今、中身の伴った言葉を用いて行き着くところまで行き着いたことに安堵しているし、その過程を通して自分は、今まで以上に一層誠実な発言を心掛けられるようになった。それはあらゆる要素の中で見失いがちな、しかし根源的で重要なことだと思っている。

就活とはいま見ても滑稽だ。やっていることを端的に表せば、

「あなたは自転車に乗るとき、どのような乗り方をしてきましたか?」
「私はクロスバイクに乗っており、その性能を遺憾なく発揮し、人よりも速い速度で移動しています」
「なるほど。(もしこの人が我が社に入ったら、きっと自動車も人より速い速度で運転するのだろう。法令遵守意識に欠けており、我が社の社風には合わない。落とそう)本日はどうもありがとうございました」

当然であるが、自転車の運転と自動車の運転ではまるでわけがちがう。自転車ではスピードを出すといっても30km/h程度だし、車道を走っている分には特段危険はない。だが車で人よりスピードを出すことは危険に直結する。絶対的に速度が高いし、人間工学的な限界にも近づくからだ。だから現に自分は自転車では速い部類だけれど、自動車の運転は人並みかそれ以上に慎重に行う。

けれども、我々がまだ自動車を運転したことがないと強引に仮定した上で、「自動車の運転=会社で働くこと」と捉えると、すなわち企業は自分を実際に車に乗せてその運転ぶりを見ることはできない(長期インターンでも実施しない限りは)し、普段どのように自動車を運転しているかを訊くこともできない(=就労経験がない)。だから、過去に実際に行った自転車の運転の模様を訊くことで、間接的に自動車を運転した姿を推し量ろうとする。だが、自転車の運転の仕方と自動車のそれとの間に相関関係は何もない。さっき言ったように両者では事情が異なっており、自分の上で両者の間には「一貫性」など存在しない。その運転ぶりは個別的に規定され、説明されるべきだ。にもかかわらず、企業は人間に過度な一貫性を期待し、両者の間に擬似的な相関を勝手に想定するという思考を元に選考を行う。自分に言わせれば、これは「受験に滑りたくないからスキーで滑らない」というのと同じくらい呪術的な思考である。とはいえ、これに我々が異議申し立てを行う場など存在しないから、学生の側はそれを見越して「私は自転車を常日頃から安全に運転しており」といった虚構の自分像を用意し、選考に備える。そこに就活の「残念さ」があると自分は思っている。

結局、そうした残念さとは元をたどれば「働いているところを見ることができない」という制約に起因したものである。「一貫性という名の信仰」が求められるのも同様である。そうした事実に対処しない限り、呪術的で秘匿された選考を行う企業と、それに精一杯の忖度で応える就活生という構図は変わらないだろう。

最後になるが、自分の愁活を助言や励ましを以て支えてくれた友人たち(や家族)や研究室の方々、そしてnoteやツイッターのフォロワーのみなさまに、この場を借りてお礼申し上げる。

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