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車椅子バスケチーム・千葉ホークス・村上慶太選手


写真:市原 隼人
文:金田 昇士

バイク事故で下半身不随に・・・絶望の淵から立ち上げるきっかけとなったのは??

今でも自分の足で歩く夢を見ることがあるけれど、車椅子と周囲の人たちの支えによって歩む道のりをどう彩っていくかは、自分自身の考え方次第。村上慶太氏が、思い描く未来とは!?


今だから大切なパラアスリートのセカンドキャリア


Q1.まず、村上さんのお仕事とご活動内容について教えていただけますか?

A:リクルートオフィスサポートにフルタイムで勤務しながら、車椅子バスケットボールチーム「千葉ホークス」に所属しております。

Q2.フルタイムで働かれているのですね。その中で、バスケットボールの練習や試合の時間をつくれているのですか?

A:元々はフルタイムで働いていましたが、東京パラリンピック(2021年に開催された東京2020パラリンピック競技大会、以下東京パラ・パラと表記)出場という目標があったので、会社に競技を仕事として取り組めるアスリート支援制度を起案した上で、サポートしてもらいました。約7年間、練習に集中させていただいていました。現在は、パラも終了したので、フルタイムで仕事をしています。

ある朝の事故で・・・


Q3.村上さんの障害についてもお聞きしてよろしいですか?

A:胸椎5・6レベルの「脊髄損傷」で、下半身機能は完全に麻痺しています。なので、上半身を動かすことはできますが、足を動かすことはできません。

Q4.障害を負われたときの状況についても教えて頂けますか?

A:19歳のとき、バイクで通学していたんです。ある朝、いつもの通学路を走っていたら、脇道から原付バイクが飛び出してきたんです。それを避けようとしてハンドルを切った先で、走っていたトラックと衝突してしまいました。

事故の瞬間の記憶はほとんどなく、意識が戻ったときは、病院のベッドの上でした。

Q5.トラックとの衝突事故だったのですね・・・しかも意識を失うほどの大事故だったなんて、周りの人たちも相当心配されたでしょう・・・。

A:厳しかった父も、そのときばかりは言葉を失ったようです。その横で、母はずっと泣き崩れていたと聞きました。

絶望の淵から臨んだのは?


Q6.意識が戻ってからは、どのようなことを考えていましたか?

A:とにかく受傷したケガの痛みに耐える日々でした。そんな絶望的な状況ではありましたが、「とにかく歩けるようにならないと!」いうことばかり考えていましたね。

当時の担当医師からは、「もう歩くことはできないでしょう。」と伝えられましたが、「何を言ってるんだ!?」という風に思っていました。その言葉を受け入れてしまうと、本当に歩けなくなってしまうのではないかという気がして、自分なりに必死で前向きになれるよう抵抗していたのだと思います。

その後、歩けるようになることはないのですが、絶望の中では幻想を抱くことでしか希望をもつことができませんでした。

車椅子バスケとの出会い


Q7.凄まじい精神力が必要だったでしょうね・・・脊髄損傷になってしまうと、ご自身の思うようにリハビリも進まなかったかと思います。どのようにして苦難を乗り越えていったのですか?

A:ひとつは今でも強豪チームとして挙げられる「車椅子バスケットボールチーム「埼玉ライオンズ」の試合を観たのがきっかけでしたね。

選手たちがプレイする姿は、障害者のイメージとは程遠く、まさにアスリートでした。屈強な選手たちに、とても勇気づけられました。

もうひとつのきっかけは、見舞いに来てくれた友人が何気なく車椅子に座った姿を見た時です。その友人がカッコ良かったというのもあり、乗る人物さえカッコ良ければ、車椅子であろうと関係ないと思えました。

退院後の生活


Q8.病院を退院後は、どのように過ごされたのですか?

A:入院中のリハビリの先生の人脈で、24時間テレビへの出演依頼がきたんです。車椅子生活になったばかりだったので、抵抗もありましたが、そこで、自分自身のありのままの姿を世間に晒すことで、社会復帰の一歩を踏み出すことができました。

運が良かったと思います。また、その時にお世話になった方々には今も良くして頂いており、その経験はパラアスリートとしてのセカンドキャリアを切り開く原動力になっています。

Q9.車椅子で生活していて、不便さを感じることはありますか?

A:公共交通機関を利用して自宅から会社に通っているんですけど、通勤時にストレスを感じることがあります。

Q10.バリアフリー化されていない場所があるのですか?

A:環境整備は進んできていると思うんです・・・なので、環境というよりは、配慮してくれない人がいたりすると、ついイライラしてしまうこともあります。みんな余裕なく生活しているので、仕方ないことだとは思うんですけどね。

Q11.それは、イライラしますよね。自分も車椅子介助をしているときに、邪魔な所に人がいたり、元気そうな人がエレベーターを使用しているのも見ると、心の中でニラんでいることもあります(笑)健常者・障害者問わず、他人への配慮というのは、中々難しいことでしょうね?

A:健常者の人でも疲弊しているときはあるだろうし、一見元気そうに見えても内部障害があるかたかもしれないので、そうしたことも含めて想像力を働かせなくてはいけませんね。

Q12.お仕事でハンディを感じることはありますか?

A:会社が、パラアスリートや障害者のキャリアについて理解を示してくれるので、やりづらさでなく遣り甲斐を感じています。

現在の私は、車椅子バスケットボール選手、特にパラアスリートとしての活動には一線を引き、次のステップに挑戦させてもらっています。

ネクストステージ


Q13.次のステップとは、どのような内容ですか?

A:パラアスリートのセカンドキャリアについての取り組みです。

東京パラリンピックの開催が決まった頃、あらゆる企業が、パラアスリート雇用を積極的に進めました。

しかし、東京パラ終了をきっかけに企業に所属しながら選手活動していた人たちの就労方法が問われていくと思います。

Q14.居心地が悪くなってしまったということでしょうか?

A:パラアスリートの雇用は障害者雇用促進法によって、立場が守られているところもあります。

しかし、選手生命もありますので、いつまでもアスリート雇用という体制に乗っかっていられる訳にもいかないのです。なので、状況に応じて、競技に頼らない働き方、つまりパラアスリートのセカンドキャリアを追求していかなくてならないと思っています。

Q15.合理的配慮を受けることはできても、状況に応じて雇用の在り方も問われるのですね。また、その在り方も、障害者の方によってそれぞれ異なるでしょうから、それを一律化するのは難しいことですね?

A:まさにそうですね。健常者でも各々の能力は異なるかと思いますが、障がい者は、障がい内容や障がい度によって、その相違が露骨に出ます。能力によって、できることが異なる訳です。

Q14.障がい者の人たちが、その人のもつ能力を最大限発揮するためには、どうしたら良いでしょうか?

A:ありきたりな答えになってしまいますが、障がい者の特性が社会的に認知される必要はありますね。

その上で、障がい者の職域拡大をしていけたら、元パラアスリートの能力を発揮する機会や幅も拡充できるかと思います。

Q15.村上さん自身のセカンドキャリアとしては、どのような取り組みをされているのですか?

A:「MAKE MEANINGS」という個人事業を開業しました。さまざまなパラスポーツ・領域とコラボした体験会や講演会などを開催して「障害理解」の啓蒙活動を行っています。

また、所属している企業でも、元パラアスリートの私が就労する姿を見てもらい社内で評価してもらえるよう努力しています。

2つの取り組みでパラアスリートのセカンドキャリアの啓蒙・障害者の雇用拡大に繋がるよう、社内外の両側面からアプローチしています。

「村上慶太」として!?


Q16.幅広く活動されているのですね。失礼ながら、車椅子バスケは、障がい者競技という認識をしていました。認知度によって物事の解釈まで変わってしまうことに関しては、どう思われますか?

A:無知が招く誤解は多いかと思いますが、それも仕方ないことですね。

私個人の考えとしては、障害者だからというフィルターで見るのでなく、「障がいの有無に関わらず、あくまで自分自身“」で捉えてほしいです。

Q17.学歴や職業、生い立ち、アイデンティティ・・・人は目で見える・耳で聞こえることで判断しがちですよね。判断だけでなく理解も深めていきたいですね?

A:それこそ究極的なバリアフリー化ですね。

アンコンシャス・バイアスをつくっているのは、非当事者だけでなく当事者自身にもあるかと思っています。

無論、原因が必ずどちらかにあるということはないですが、自分たちからもバイアスを変えられるよう尽力していきたいです。その努力に、障害の有無は関係ないと思いますし、その行動こそが、豊かな人生(セカンドキャリア)を送る上で、なにより大切な挑戦だと思います。

今後のビジョン


Q18.村上さんの今後のビジョンを教えて頂けますか?

A:人生を振り返ってみると、家族や友人たち、車椅子バスケットボール、会社・・・もうダメかと思うような絶望の淵から救い上げてくれた人たちの存在がありました。

辛い状況から1人で立ち上がるなんて不可能に近いですが、世の中には、1人でもがき苦しんいる人もいるでしょう。あるいは、孤独ではないことに気付かず、彷徨っている人もいるかもしれません。

私を救ってくれた人たちがいてくれたように、今後は私も人を救える存在。また、その様な人達を救える社会を作って行きたいと思っています。

それが、私のことを救ってくれた人達への恩返しだと思っています。

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