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「求めよ、さらば与えられん」は本当か


求めよさらば与えられん


「求めよ、さらば与えられん」
この言葉は、キリスト教からの有名な言葉ですね。
新約聖書「マタイ伝」7章7~12節に由来しています。

この言葉は、日本語の聖書では以下のように
なっています。

求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

キリスト教新約聖書

この言葉が誤解を与えているかも

じつは多くの人がこの言葉の意味を誤解してい
ると感じています。

例えば、どんなことでもまずは求め(欲求)なければ
何も始まらず、さらに一生懸命求めさえすれば、
それを得ることができるといったように

「成せばなる、成さねば成らぬ何事も、
成せぬは人の成さぬなりけり」

日本の諺

という日本の根性論的なスタイルとして受け止めている人が
多いと思います。

しかし、例えば金塊を求める者が、一生懸命に裏庭の
砂場に穴を掘って掘り進めていたらどうでしょう。

お目当ての金塊は与えられるでしょうか。
これは「成せば成る」理(ことわり)で合っているでしょうか。

言わずもがな、もちろんダメだろうと思うのです。
金塊を求めるなら金塊のある山や土地を調査し、検証し、
目当てを立てて穴を掘らなければならないわけです。

つまり何が言いたいのかというと、ただやみくもに
「求める」だけでは意味消失。ダメなのです。

お金しかり、幸福しかりです。

これは世の理です。スピリチュアルであろうが
宗教観であろうが、ただ「求める」だけでは
世の理の力を活用できないものといえます。

主体的に求める姿勢の重要性

求める時には、まずそもそも誰に求めるのか、
そして、何を求めるのかという2つのポイントが
とても大切なのです。

ここで大切なことは、キリスト教の聖書は、
「求めたら得る」と記しているのではないことです。
「与えられる」と記されています。

「受け身」として表現されているのです。

受け身であるということは、我々が求めて構えた
キャッチャーミットに投げいれるなにかがあり、
キャッチできたら、それを受け入れ、受容し、
活用することが必要だということです。

追い求める物事を成就するためには、与えられるそれを
受容する潔さと臨機応変さ、柔軟性とそれをどう活用するかを
思案していく創造&想像力が必要となります。

ただ待つのではなく、自ら進んで求める姿勢、活用する姿勢が
大事だという意味です。

世の理を理解することで人生を開墾する

このように世界中に知れ渡る言葉の中にも「世の理」を
探し出すことができます。

そして、その「理」の中心には、「主体性」が重要なカギ
になっていることをにおわせる物も多いですね。

今回の言葉も、「求めよ」されば与えられん。です。
まず初めに主体的な「求める」行動が必要であるわけです。

主体的に行きましょう。自分から探し(因を起動)、そして
与えられたもの(果をキャッチ)し、それに応じて工夫して
活用しましょう。(応報)

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