描くということ
昨日、乱歩の話を少ししたので、今日も引き続き、創作に纏わる話を。
オレは高校時代から、やれユリイカだの、夜想文学やら銀星倶楽部だのを読んでいた、いわゆるかなりイタいヤツだったし、その流れから稲垣足穂や南方熊楠も読んでいた。しまいには月刊ジュネにまで手を出す始末。もちろん、そこからヴィスコンティやらタルコフスキーにも辿り着くんだから、軽率にバカにもできないけどね。
そんな下地があったからこそ乱歩の「孤島の鬼」を最初に読んだ時は「これ、男同士の恋愛小説?」と思ったぐらいだ。それにしても、かなり時代を先取りし過ぎだけどね。
オレ自身は、過去も含めてヘテロのつもりではいるんだけど、それにしたって「心奪われるほどの同性にまだ巡り合っていないだけ」な可能性も完全には否定できないという程度の客観的な理解と認識はあるつもり。
つまり、人が人を好きになったり付き合うのに、あまり性別は関係ない。
それが、上京生活の大半を夜の新宿で過ごしたオレなりの結論かな?
そんな、こまい事を言ってたり気にしてたら、あの街では誰とも付き合えませんよ。
そして、言葉にしろ絵筆やカメラにしろ、人を描写する際には、その筆致や画角構図には少なからず自分の好みが反映されます。オレにしても以前、やたらフォルムと質感にこだわり過ぎと指摘されたことがある。
乱歩でいうと、美女に対する描写がごくありきたりを決してはみ出さない印象に比して、なぜ小林少年の頬の赤らみを執拗に言及するだけでなく、なおかつ彼をことさらに拘束したり、危険な目に遭わせるのか? 執筆当時、同性愛テーマは孤島の鬼を書く際の足枷になったという、後になってからの本人の述懐をオレはまったく信用していません。
美少年、奇形、肉体改造、被虐と嗜虐、暗闇と皮膚感覚、洞窟をあなたから取ったら、後に残るのは如何ばかりなものか? それは乱歩自身がわかっていたことでしょう。蔵の中で蠟燭灯して執筆してたというのは、単なる都市伝説にしてもさ。
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