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7/7 ここ数日の総括 - 免許合宿編①

画像は仮免試験合格の次の日に食べた白玉クリームぜんざい。LOVE & PEACE。

6/21 「スプリガン」を観たら古臭く感じてしまって悲しかった話

Netflixで「スプリガン」のアニメの1話を観た。そもそもあまり知らない漫画ではあった。私がサンデーを買い始めたとき(「金色のガッシュ!!」がきっかけだった気がするので、2003年くらい)には同作者の「D-LIVE!!」が連載していたから、作家の名前は知っているという程度だった。

「D-LIVE!!」も途中からだとよくわからなかったので読んでいなかった(同様に途中からだとよくわからないはずの「からくりサーカス」は好んで読んでいた。単に好みの問題かもしれない)のだが、長期連載を何度もやるということはきっと面白いのだろうという信頼のもと「スプリガン」を観た。

が、ダメだった。長々と書いてきたが要は合わなかった。オーパーツを悪用するものから守る、という設定が古臭く感じるというだけでなく、悪役の側の心情が同情に足ると思えるほどには書き込まれていない(潜在的には深みがあるように見えるのに。キリスト教的終末 = ハルマゲドンを自らの手で起こそうとするキリスト教徒の宗教的倒錯は長編1本にも値する内容だと思う。こういう「狂信者」は、地下鉄サリン事件を経験した日本人や、イスラム教徒の自殺テロを経験した現代人にとっては、またアレね、というような食傷すら覚えるものかもしれないが……)のにがっかりした。主人公に負けたHB(ハミングバッド)が死の際で「この世界は生きるに値する」と理解する展開には確かに深みがあるのだが、それがHBのような殉教者にとって何を意味するかを作者は理解していないのでは、と強く疑う。

6/22 「かもめ食堂」を観た

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最近コーヒーにハマっていて、「コピ・ルアク」について調べていたら「かもめ食堂」の名前が出てきた。有名な映画だと思うが、観ていなかったので観た。

私はもたいまさこを見るとサイコパスだと思ってしまう病気に罹患しているので(理由不明)、いつもたいまさこが全身に巻き付けたダイナマイトを見せつけながら自爆し、かもめ食堂の静謐で平穏な日常を破壊するのかとソワソワしながら見ていた。当然そんな映画ではない。

物語は、ヘルシンキに「かもめ食堂」をあいまいな理由で開店したサチエ(小林聡美)と、勢いでフィンランドに来たが行き場もなくさまよっていたミドリ(片桐はいり)が出会うところから始まり、最初は閑散としていた「かもめ食堂」がだんだんと賑わっていく様子が描かれている。

私は片桐はいりも隠れサイコパスに見えるので、フィンランドでおしゃれで丁寧な暮らしをする小林聡美(もはや「丁寧な暮らし」の象徴のようにさえ見える)のもとに2人のサイコパスがそれをめちゃくちゃにしに来たように見えたのだが、全然そんな映画ではなかった。

よかったのは、もたいまさこ演じるマサコがヘルシンキを離れるかもしれないというときのやりとりで、ミドリが「マサコさん日本に帰っちゃうんですかね」といかにも寂しげにするのに対して、サチエはあっさりと「どちらにしてもマサコさんが決めたことを喜んであげないといけない」とだけ言うところだ。

サチエはずっと、誰かの人生に深入りすることを避けようとしている。出会って以降自分の家に住ませているミドリに対してもそうだ。そんなサチエにミドリは「私が日本に帰ることになったら寂しいですか?」と聞く。サチエは「ミドリさんにはミドリさんの人生があるし」と割り切った態度を見せる。「ずっと同じではいられないものですよね。人は変わっていくものですから」。このサチエの人間関係に対する過剰なほどのデタッチメントがこの作品を現代的にしている。

そこで「寂しい」と言えば、その言葉はあまりにも容易にミドリを縛りつける。人は変わる。ずっと同じでいてほしいと思うことすら、おこがましいことだ。そう思うことは人を孤独にするが、同じだけ幸福にもする。期待しなければ裏切られることもないからだ。

この会話の前のミドリの「この世の中には知ってるようで知らないことってたくさんあるんですよね」という発言にサチエがやや苛立っているように見えるのも面白い。苛立つ理由は正確にはわからないが、ミドリがサチエを好いているほどには、サチエはミドリを好いていないかもしれないと思わせる(=2人がけっして等質ではないことをさらに際立てる)ような演技だ。感傷的で無神経なミドリと、ドライだが神経質なサチエという対称。映画冒頭で提示される「おいしそうにご飯を食べる太った生き物」という隠喩は、この対称性を軸にすればうまく解釈できるかもしれない。

6/23, 24 記憶なし

これまで記憶がない日や書くことがない日は単にスキップして書いていなかったのだが、今後は「記憶がない」とか「書くことがない」とか書くことにする。

ツイートもほとんどしていないので、おそらくStellarisをやって、YouTubeで観なくてもいい動画とかを観て、残りの時間は気絶していたのだと思う。ここのところは毎朝コーヒーを淹れているのだが、この2日間はもう豆がなくなってしまっていて、淹れていなかった。

睡眠リズムがぐちゃぐちゃになってしまっていたのだが、27日から免許合宿に行くことが決まっていたので直さなければという焦燥感がかなりあったことは覚えている。

4日後の君は、クソ遅いWi-fiと弟に借りたノートPCと食事とオナニーだけが娯楽の陸の孤島で、普通自動車免許の取得に集中することになるよ。
よかったねえ。

6/25 めちゃめちゃコーヒーを買った + 読書会改め輪読座 新約聖書ヨハネ9・マタイ27

コーヒーについて

27日からの免許合宿にもコーヒー豆と道具を持っていくことを決めていたので、2週間分の豆を買った。まあ、挽いた豆の鮮度は2週間も持たないのだが……。

今回は味の違い(と挽いた豆の酸化)を知るために、

  • スーパーの300g500円くらいのキリマンジャロ(キリマンジァロ)浅煎り

  • 200g700円くらいのコロンビアブレンド深煎り

  • 300g1,500円の常盤焙煎所の焼きたてルワンダ浅煎り

の3種類を買った。
結論から言えば、やはり値段通りの味と言うしかない。キリマンジァロは焙煎からおそらく時間が経っているせいか私には酸味がキツい。というか浅煎りなのもあって酸味しかない。だが同時に世の中に多く流通する「キリマンジァロ」の悪いイメージ通りの味でもあったので、私の抽出がミスっているというよりこういう豆、こういう焙煎なんだろうと思う。

コロンビアブレンドは買ったばっかりの時はやや焙煎香が過剰な印象があったが、1週間後(7/1)にもなるとだいぶ落ち着いて、個人的には美味しくなってきたと感じた。本質的にコロンビアの深煎りが好きな人間なので安心して飲める(もともと合宿中の主力としての活躍を見込んで買った)。だがコロンビアにしてはやや酸味が尖っている印象がある。ブレンドされた豆の味なのかもしれない。

ルワンダのコーヒーを飲むのは初めてだし、浅煎りの豆で淹れるのも初めてだったのだが、「柑橘系」と形容するのがふさわしい、みずみずしい酸味が強く感じられて、これぞ浅煎りという感じの味に淹れることができた。上のキリマンジァロの思わず顔をしかめてしまうような酸味とは違う、甘さと一体になった丸い酸味。コロンビアとはまったく別物として楽しんでいる。が、合宿の環境で毎朝飲みたいと思うような味では残念ながらない。

読書会改め輪読座 - 聖書回

イエス・キリスト誕生以来の世界的大ベストセラーこと聖書。
誤字脱字などあるようだがこれもただで読めます。聖書の翻訳の著作権が同管理されているのかまったく知らないので、貼って良いものかわかりません。誰か教えてください。
この会では、非キリスト教徒が聖書を「物語」として読みました。為念。

ヨハネによる福音書 9 : 聖書日本語 - 新約聖書 (wordproject.org)

ヨハネ9章は、イエスが「盲人の目をひらく」有名なシーンだ。ここでイエスは、イエスを「神の子」と認める「盲人」と対比する形で「見えていると思っていることに罪がある」とパリサイ人を批判している。パリサイ人というのは、簡単に言えば、自らはユダヤ教の正統な信仰を実践していると信じている、当時のユダヤ教における主流派集団のことだ。ユダヤ人は、ほとんどの場合においてユダヤ教徒のことを指す。そのため、パリサイ人はユダヤ人である。キリスト教における「神」と、ユダヤ教における「神」は同じものを指しており、そのためイエスはパリサイ人たちに遠回しに「あなたたちの信仰のありかたは間違っている」と示しているということになる。

新約聖書でパリサイ人はことあるごとに引き合いに出され、そしてイエスに論破されるのだが、それだけ原始キリスト教成立当時のユダヤ教世界において大きな存在であったということも意味しているだろう。そのパリサイ人を、イエスは「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある(41節)」と切り捨てるシーンには、どこか「異世界転生」ものにも通じるような、物語の根源的快楽があることは否定できないだろう。

同時に、このような形でキリスト教が持ち出した、「社会的強者(ここではパリサイ人)をやり込め、弱者に救いを与える物語」という道具は、キリスト教が世界宗教となるために大きな役割を果たしたと言えるだろう。単なる弱者に対する施しであったり、その場しのぎの甘言ではない、「弱者こそが強者である」という論理は、こういう形で準備されたのだ。

イエスの物語の全体像をよりよく把握してもらうために、キリストの死の場面にあたるマタイ27章も読んだ。

マタイによる福音書 27 : 聖書日本語 - 新約聖書 (wordproject.org)

イエスがなぜ死に際して「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と言ったのか、理解できないユダヤ人たちと、理解できる読者 = キリスト教徒の構造がパラテクスト的に存在している。
イエスの「エリ・エリ(略)」をユダヤ人たちは「イエスは(助けてもらおうとして)預言者エリヤを呼んでいるのだ」と的違いな解釈をした。実際には、イエスのこの言葉は旧約聖書詩編22章の予言の成就を告げる言葉である。「エリ(略)」とは、その文字通りの意味とは正反対に、神の実在を告げる言葉なのだ。「パラテクスト的」と言ったのは、この旧約聖書詩編との関係性のことだ。旧約聖書は本来ユダヤ教の経典であるにも関わらず、彼らはそれに気づくことはなくキリストの言葉を誤解するのみで、ユダヤ教に対するキリスト教の優越が結論として示されている。

聖書は本当に面白く、キリスト教徒でなくても読む価値のある本だと思う。物語を書く人も、読む人も、一度は読んでおいて損はないと思うが、宗教的文脈を抜きにしては語れないテクストなのも事実なのでなかなか強くは勧められない。

6/26 「筋」について

私は筋が通っている人が好きだ。言っていることとやっていることが一致している人が好きだ。でも、それを実際にするのはとても難しいことだと思う。人はみな自分をごまかす達人で、ごまかしたことにすら気づくことがない。誰がどうというのではなく、みんなそうだから、そうでない人を貴重に感じて私は好きになる。だが、好きになった人に筋を通してほしいと願うのは、単なる私のわがままで、かなえられることのほとんどない期待だ。そのことを自分はよくわかっていると思っていたので、自分がその期待を持っていたと知ったとき静かにショックを受けた。

翌日から免許合宿だったので、この日の前日から早く寝ていて、早く起きた。悔いのないよう思う存分Stellarisをプレイして、荷造りをして寝た。

6/27 免許合宿初日

ありえないほどの早起きをした。眠りは浅かった。起きなければならないというプレッシャーが強すぎたのか午前5時ぐらいに起きた。時間があったので、コーヒーを淹れて飲んだ。時間になって、私は母の車で免許合宿に送り届けられた。

合宿所についたらすぐに共用の冷蔵庫にコーヒー豆を入れて、そのビニール袋に名前を書いた。私はこういう場所の民度をまったく信用していないので、盗られなさそうなコーヒー豆の奥に、冷蔵の食品やペットボトルの飲み物を隠すように入れることにした。

昼食のカレーは美味しかったが、夕飯の謎丼はどう見てもドッグフードだった(味はドッグフードではない)。

食器の並べ方が適当すぎる

消灯なので22時には寝る。朝早く起きて朝食を食べる。そして22時に寝る。そんな健康的な生活をするのはたぶん5年前のゼミ合宿ぶりだと思うので、生活リズムの調節に苦労すると思ったが杞憂だった。
人間は疲れていたり寝不足で、かつやることがなければ(こっちの条件のほうが重要だ)寝れるし、早く寝たら早く起きられる。ただそれだけ。

6/28 免許合宿2日目

この日も過剰なほど早く目が覚めた。というか、慣れない寝具でたんに眠りが浅く、深い眠りにつけないまま朝を迎えた。学科と技能教習がとにかくギチギチに詰まっていて、寝不足だったのもあってもうほとんど記憶がない。

Twitterをやっててよかったと思うのは、自分のこういうツイートを見つけたときだ。

6/29 免許合宿3日目 マイルドヤンキーに共感した

毎日誰かに決められたスケジュール通りに何かをする必要があって、そうできなければなんらかのペナルティが課される。学校とは概してそういうもので、お前が最後に通った大学院もそうではなかったかと言われればそうなのだが、自分はそれができないという感覚がずっとある。嫌いだという感じもあるが、たぶんできないから嫌いになったのだと思う。

何かに集中すると時間感覚を容易に失うし、日付や曜日も理解していないので、これを書いている間にも学科教習に遅刻しかけた。

そんな人間なので、通いで免許を取るのは到底不可能だ。だから思い切って合宿で免許を取ることにした。今の生活を続けるために免許が必要なのは明らかだったし、祖母も日々老いていく。今は自分で自転車や徒歩で買い物に行けているが、先々月あたり坐骨神経痛でたいへん弱っていた(それでも買い物に行っていた。ど根性おばあちゃんである)こともあるし、いつそれができなくなるか誰にもわからないのだ。

免許合宿に来たのは上記のような理由なのだが、合宿に来る前はモチベーションが上がらなかった。必要だから取るだけで、行きたくないなあと思っていた。2週間我慢するしかないと思った。

だが来てみたら意外に楽しい。自分の能力が伸びていくのを実感できるし(スタートがゼロなので当たり前だ)、もともと授業を聞いて理解するのは得意分野だ。車の運転もやってみたら楽しくなってきた。そういう気分でSOUL'd OUTの「Dream Drive」を聴いたらマイルドヤンキー的な世界観が一気に理解できた気がして楽しかった。国道沿いのチェーン店の連続も、自分の車に友達を乗せて、大好きな音楽をカーステレオから大音量で流して走れば笑い止まんねぇよ。

SOUL'd OUT 『DreamDrive』 - YouTube

6/30 免許合宿4日目 ホームシックのピークが来た

そんなことを言っていたら、4日目にしてホームシックのピークが来た。私は自宅でない場所で寝るのに慣れるのが苦手なタイプの人間だ。分かっていたので、入眠に苦労しないよう、無印の香り油と香り石を持ってきた。精神統一のためのコーヒー道具も持ってきた。

最寄りのセブンイレブンへ行って宿舎への道を歩いて戻っているときに、ふいにホームシックが襲ってきて、泣きそうなくらい帰りたくなった。28歳になってホームシックで泣きそうなほどつらくなるのもどうかと思うが、事実としてつらくなってしまった。

家族と離れて寂しいとかそういう感情ではない。そのときは、家ではない場所に帰ることを私の心が拒否していた。ここは私の帰る場所じゃないという感情でいっぱいになり、つらかった。これからまだ10日以上ここで暮らすしかないのか、と思った。泣き出す寸前のような感情でとぼとぼと宿舎に戻ると、自分ができる範囲で最大限居心地よくした自分の部屋があり、ホームシックは少し落ち着き、眠ることができた。

7/1 免許合宿5日目 政見放送を観た

暇だったのでなんとなくテレビをつけたら政見放送がやっていて、10日が投票日だったのを思い出した。11日が卒業検定の予定だったので、投票日がその前日かつ合宿期間中でいけないことにその時気づいたので、7/7に期日前投票に行くことにした。

参政党という政党があることを知ったのは、政見放送を見た収穫だった。この政党の候補者は、自民党や立憲民主党のほとんどの候補者よりも演説がうまいように感じた。良心ある有権者にとって、候補者の演説がうまくても良いことなどほとんどないが、民衆に訴える力もまた政治家の実力だと思う。私は投票しないが、このやり方なら熱心な支援者を集められそうだと思うので、近い政治的立場の人にとっては有望な政党だと思う。

7/2 免許合宿6日目 ガチでムカつくこともある

この日は指導員にキレかけた日。「ハイ、戻して」と言われて、合図(ウインカー)を戻すのか、ハンドルを戻すのか、ハンドルを戻すとしたらどの程度戻すのか分からず、「戻すって何をですか?」と訊いたら「早く戻せ」と言われ、「何を戻すのかわかんないです」と訊きなおすと、「ハンドルだよ」と不機嫌そうに言いながらハンドルをぐいっと戻しながら「戻すって言ったらハンドルに決まってるだろ」と言われた。

そもそもその前から、口頭で指示をするのではなく、あいまいなジェスチャーで指示をしていたので、わかりにくいなと感じていた。口頭で指示をする場合もはっきり聞こえない声量で言われるので、何を言ったか理解するまで少しかかってしまったり、聞き直さなければならなかったりした。

指導員の意図は、今となってはある程度わかる。彼にとって運転も指示の内容もそう難しいことではないのだから、ちゃんと聴いてさえいれば聞き取れるように言っている。それに注意力を割かれて操作を間違えるようなら、路上に出すことはできない。おそらくそういう意図で、常にそういう態度で指導をしているのだろう。

ただ、指示の意味が分からず訊き返しているのに、「わかるだろ」と言わんばかりの態度なのはさすがにどうかしていると思った。横柄で厳しいだけなら、指導の一環として理解できるが、そういった仕方で教えることを拒否されてしまったら、私はできるようになることはできない。

そういうわけで、この日はその指導員に非常に苛立ち、その次の技能教習はいわゆる「みきわめ」、つまり仮免試験を受けても大丈夫かどうか指導員が見極める時間だったのだが、正直ひどくボロボロだった。結果的には、それでも最低ラインには達していたようである。

7/3 免許合宿7日目 仮免試験に受かった

仮免試験を実技・筆記ともに1回で合格することができた。私は筆記で100点を取るつもりでやっていたが、自己採点で96点だった。ロータリーの標識と環状交差点の標識がどっちがどっちかわからなくなって間違えたのがいちばん悲しかった。

さてどっちがロータリーでしょう? ウゼー

より不安だったのは実技だったが、これも、脱輪などすることなく最後まで落ち着いてできた。よかった。

私の合宿は、最短スケジュールなので、翌日にはもう路上に出る予定になっていた。

7/4 免許合宿8日目 交通事故を見た

前日が日曜日で、仮免の発行業務がない日だったので、この日に仮免がもらえた。初めての路上教習は、顔見知りの指導員と何事もなく終えたが、2時間目の路上教習は2日前にガチでムカついてしまった指導員だったので、最悪な精神状態で路上に出た。

出てみれば、その指導員は今日は不機嫌ではなかったからなのか、それとも仮免試験を突破したことが分かったからか、そこまで嫌な態度ではなかった。教習ルートを把握しながら安全運転をするだけの教習内容であったこともあり、私はさしてプレッシャーも感じずに落ち着いて運転できていた。

その時間の最後のほうになって差し掛かった交差点で事故があった。先頭で赤信号を待ち、青になったのを見て発進したその直後、左から信号無視で直進してきた軽が、対向車線から直進しつつあった別の車の横っ面に思いっきり衝突した。

お互い軽だったのが被害を小さくしたのか、それとも大きくしたのか、私にはわからない。私にわかったのは、ぶつかられたほうの車は明らかに廃車レベルで損傷していたことと、両方の運転手が軽傷であったことだけだ。私の車はほぼ停止していたためかなりの速度に見えたが、20km/hぐらいだったのかもしれない。

交通事故を目撃した直後、指導員は「車に乗ったまま動くな」という指示をして、両運転手の無事を確認しに行った。その判断の早さに私は感心した。戻ってきた指導員は「頭上げてたから大丈夫そうだ、行くぞ」と事故車両を避けて交差点を通過するよう指示した。

そのすぐ後、指導員は「しかし面白かったな~」と言って笑いっぱなしになってしまい、緊急事態にアドレナリンが出たというのは大いにあるだろうが、テンションが高くてびっくりした。「交通事故は2人の愚者が出会ったときに起こる」とその後に受けた危険予測の講習で聞いた。

7/5 免許合宿9日目 指導員の失恋の話を聞いた

この日も路上教習。教習に用いるルートを一通り覚えることが教習の目的であるためか、それとも指導員のやる気の問題か、その両方かはわからないが、雑談が多めだった。私は前日に目前で事故を見ていたため、とてもそんなリラックスした雰囲気ではなかったはずなのだが……。

同年代くらいの若い指導員の「昨日彼女の浮気が分かって、別れた」という失恋の話をひとしきり聞いた。失恋の悲しみからかあまりにも常識的ではない発言がいくつかあり、「結婚して、子どもが生まれて、休みの日は家族で出かけて……自分が子どものころにあったような、そんな当たり前の幸せが欲しいだけなのに」と嘆いた。彼が保守的な指導員だということはすでに分かっていたので、驚きはなかったが、「そんなこと素面で言う人本当にいるんだ」的ショックはあった。

人間観察的に、私見を述べさせてもらえば、その指導員は控え目に言ってもイケメンと言われるタイプの見た目で、おそらく付き合っていた彼女も相当程度に可愛い、モテるタイプの女性なのだろうと思う。同時に、種々の発言から年下好きと推定したうえで言えば、両者が恋愛市場において「選ぶ側」で、指導員は「付き合うまでに時間をかけた」と言ったので、実際に選んだのだ。そして同様に「選ぶ側」の彼女は、自分が選ばれたように、自分も選ぶ権利を行使したいと思ったのだ。この場合の選ぶ権利とは、もっとも最適な解を選択する権利ではなく、「選択する」という権力を行使する権利である。

7/6 免許合宿10日目 「神さまっていると思う?」

応急処置の講習中に、指導員がそんな質問をした。むろん私は神は実在すると知っている。真円が実在するように。指導員は続けざまに「いるんだよ。君らの良心がいつも君たちの行動を見ている。それが神さまだ」と言った。

「神さまは何が悪いことで何が良いことか知っている。君らがそれを無視して悪いことをしても、君らの良心はちゃんとそれをとがめるだろう」。そんな感じのことを言った。私はそんな神さまはいないと思った。それは、良心がある人間は自らの良心によってまず裁かれるというだけに過ぎない。私の信仰では、最後の裁きはつねに絶対者にゆだねられ、それを人間が代行することはありえない。

私は、前に別の授業で触れられた東名高速飲酒運転事故のことを思い出す。神さまなんていないと言いたくなるような、悲しい事故だ。指導員の「良心=神」説は、この事故のことを考えるとき、どのように機能するだろうか。飲酒運転を繰り返すような人間には良心がないのだろうか? だから彼の良心に代わって、私たちの良心が加害者を裁くべきだろうか? 現実はそうなった。私たちの良心は、司法が加害者を裁けなかったことに呵責を感じた。だから結局飲酒運転は厳罰化されることになった。だが、はたしてそれだけで終わったのだろうか? 私たちの良心は、被害者を思って涙を流し、その魂に報いるだけではない。私たちの良心は、そんなに出来のいいものではない。もっとグロテスクなものだ。

その指導員がリベラルな思想を持った人間であることは前からわかっていた。思想のない指導員はほとんどいない。そしてこの話を聞いたときに私はやはりそうだと確信した。リベラルはいつも「よく考えて間違ったことをする人間」や「正しいことをやりすぎる人間」に弱い。だが、それは人間の理性を限界まで信じているからで、それは彼の美徳である。

そのあと、指導員は松下幸之助の美談をありふれた仕方で語った。私はすべての話を、話し手にとって理想的と思える仕方で聴いた。私はほとんどの場合そうする。できるだけたくさんのことを話してほしいからだ。

講習がすべて終わった後、同じ講習に参加していた左斜め後ろの、金髪の若い女が「松下ナントカって誰だよって感じ」と笑っていて、これもまたリベラルの弱点の一つだ、と思った。

その前にあった技能教習では、別の指導員が「平常心で運転をするには、自分の今の心理を理解することが大事なんです」と語り、そのあと「抑圧」とか「置き換え」とかフロイトの精神分析の用語を使っていろいろと説明してくれた。そして運転中に私に現れた兆候から私の精神状態を読み取り、必要なタイミングで必要なだけ助言をくれた。私は上に書いた講習の時と同じように、自分が話すときにはそうしてほしいと思うような仕方で精神分析の話を聞いた。そして彼は最後に、「自分の行動やそれが与えた影響、あるいは自分の精神状態を客観的に見なければならない機会というのは、日常生活ではほとんど訪れないんです。でも、それができない人と付き合うのは疲れますよね」とこぼした。

たぶん私は運転しながら「そういう人が変わることって難しいですよね。変わるまで待つのも大変ですし、変わるきっかけを作ることも大変ですよね」みたいなことを言った。「そうなんです。だから、私のいる環境ごと変えようかなと思っているんです」。

その言葉の具体的な意味を訊くことはできなかったが、やや神経質そうで血色の悪い指導員の横顔を覚えている。私が教習所で接した人たちの中で、いちばん自分と近い生の感覚を持っていると思ったのはこの人で、私はこの人に出会えてよかったと思った。

7/7 免許合宿11日目 選挙に行った

昨日まではそう感じていなかったのだが、この日の指導員に「終わりが見えてきてよかったね」と言われて、免許合宿の終わりが近いことを実感した。一度気づくと、教習の内容も心なしかアフターフォロー的な内容に感じられてきた。学科はこの時点で危険予測のセット教習を残すのみになっていたし、技能教習も新しい内容はとくになく、すでに習っていた内容を路上で実践してみたり、行ったことのないルートに行ってみたりするだけになっていた。

11日に卒業検定を受ける予定だったので、検定の前日を避けて、この日に期日前投票に行くことにしていたため、夕方に母に迎えに来てもらい、投票所に行った。今回も前回の衆議院選のように備忘録を残そうかと悩んだが、いろいろあってあまりモチベーションがないのでやめて、今の時点で書いておき残しておきたいことをここに書く。

非政治的な生を生きられるなら、それほど幸福なことはないと思う。老子の「上善は水のごとし」とはよく言ったもので、それを旨とする国民が多数なら、その国はなんと治めやすい国になるだろうか。争わず、戦わず、ただそこにあるものを享受する。私は、そんなふうに生きることはできない。私の欲しいものは、まだここにはないからだ。私の欲しい自由はまだこの国のどこにもない。

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