魔の水曜日よ、こんにちは。
たまに行くゴールデン街のスナックのママに言われる。
「魔の水曜日に来てくれてありがとう」と。
水曜日の夜はいつもお客さんが来なくて本当に暇らしく、ママは『魔の水曜日』と呼んでいた。
5、6人横に座ったらもういっぱいになってしまう狭い店舗の真ん中の席に座る。
黒ビール。
カウンター越しに、ママが唯一するメイクである目尻のところを持ち上げるラインを引いている。
「やる気なかったけど、ここから気合い入れるわ」
「どうも」
「水曜日すき?」
ママが僕にそう聞いた。ママは僕がどうぞと言った飲み物を飲んだ。
「いや、どうかな」
水曜日が好きか聞かれて気づいた。
もちろん嫌いだ。
── 別れの水曜日。
思い出さないようにするために、ここへ来たのに。
ダメだった。
ずっと黙っていた。ラテン系の音楽が店内でかかっていた。
人は30歳を過ぎるとそれまで聴いてなかった新しいジャンルの音楽を聴かなくなるんだそうだ。
僕は水曜日だけは新しい音楽を聴いていたい。懐かしい音楽じゃなければなんでもいい。
ガラガラと音を立てて扉がこちら側に開き、常連さんが入ってきた。
「いらっしゃーい。珍しいわね、水曜日に」
「いやー、時間できたから、ちょっとだけ来たよ」
僕とその常連さんは水曜日的な小さな会釈を交わした。
ママは常連さんの座った席の前に立った。
「ビールでいい?」
「そうだね」
「お忙しいの?最近」
「決算期だからね。ママは相変わらず猫やってるの?」
ママは家にネコをいっぱい飼っている。店の客には猫好きで通っている。
「変わらずよ。あたしは」
そろそろ行きます、と言って僕は席を立った。
ママはありがとうと僕に言った。
店を出るとゴールデン街に若者がたくさんいた。
今夜はこれから気温がぐっと下がるらしい。
ママには言いそびれたけど、僕の魔の水曜日はこれから始まる。
終