第四章 - 暗夜の吸啜 1
目次 → 「煉獄のオルゴール」
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開け放たれた自宅の扉をくぐり抜けると、最初に聞こえてきたのは罵声だった。大方、両親の口論であることは目に見えているが、どうやらこれは随分と毛色が違う。
というのも、これまでに聞いてきた口論はどちらも、当事者のいないところで文句を投げつける、いわば「内輪」で終わる内容だったが、こればかりは違う。
話の内容は断片的ながら、進学についての話をしているらしい。記憶の中でも自分が公立に進むか私立に進むかで揉めていたところがあり、しかもこれについても本人の日記から怒りがにじみ出ていたことも考えれば、これがある意味でターニングポイントになっているのだろう。
「ただでさえできが悪くて困っているのに、本当に公立になんていかせると思ってるの?」
「母さんの言う通りだ。今から死にものぐるいで努力して、なんとしても進学私立に入るんだ。金は出してやるんだから、子供として当然だろう?」
なんと傲慢な両親であるとは思いつつ、即座に音が聞こえてきたエントランスの真正面にある、リビングと思しき部屋に視線を向ける。くもりガラスでよく視認できないが、どうやら三人分の人影があり、僕自身もその場に居合わせているようだった。
恐らく、相手がこちらのことを視認することはない。
この世界が自分自身の妄想の世界であると仮定すれば、この扉を開け放って、直にそれを見ても問題はないはずだと思う。
確証はないがどこか確信めいた気持ちで扉に手をかけて、静かにリビングに続く扉を開こうとするが、扉はまるで壁のように開こうとしない。どれほど力をかけてもビクともせず、訝しげにその扉を見回してみるが、その行動を見透かすように、扉の向こうから自分の声が響き始める。多分、先の真っ暗な世界で見た「僕」の記憶から呼び出されたものであろう。
「……僕は、友だちと一緒にいたいだけなのに、どうしてそんなことを……」
絞り出すほどのか細い声で、「僕」の声が聞こえた。
現実で自己主張の乏しいであろう彼が、どれほどの胆力を込めてこの言葉を言い放ったかは推して知るべしである。けれどもその言葉、その背景を両親が汲み取るはずがなく、母親はヒステリックに怒鳴りつける。
「そんな甘ったれた考えが許されるわけないでしょう……? ただでさえ、穀潰しの出来損ないだっていうのに。あぁ気持ち悪い」
最後に飛び出た「気持ち悪い」という言葉は、恐らく病気のことも一枚噛んでいるのだろうか。僕が典型的なジェンダーロールを持って生きてきたわけではないだろうが、それを押さない僕に言い放っていると考えれば、酷烈極まりないことだった。
そしてその言葉を聞いた「僕」はなんの反応もせずに、ただぎゅっと拳を握りしめて涙をこらえている。くもりガラスを噛ませているというのに、自身の視界に幾分流麗な景色を捉え、僕自身拳を握りしめてしまう。
更に極めつけは、父親までそのことに言及してきたことだ。
「それは母さんの言う通りだ。男ならもっと強くなれ。友達なんてものが必要ないくらいな」
「……もうこの際、早く出ていってくれたほうがいいわ。おとこおんななんて、私は気持ち悪くて仕方がないし、それに重ねて学校も公立だなんて、恥の上塗りだって想像すらできないの?」
「お前は自分がどれだけ恵まれているのかわかっていないんだ。だから、友達といたいなんて甘っちょろいことを抜かす」
今すぐ扉を蹴り上げて中に入っていきたいが、扉は依然として固く閉ざされたままだった。
仕方なく扉を叩いてみるが、中の誰も気がついていないのか、これまで以上に強い口調で「僕」のことを責め立てる。本来であれば、守ってくれるはずの両親にこんなことを言われれば、誰だって人間不信に陥るし、ましてや自分のことを愛してあげることなんてできないだろう。
そう、「僕」を本格的に壊したのは、この両親にあると言っていい。現実の記憶を見れば、この後「僕」は公立中学校に進学した事になり、それ以降のこの二人の態度はまさに想像に難くない。下手をすれば、存在をないものとして扱っていてもおかしくはなく、家を留守にすることも多かったかもしれない。
両親から惨憺たる態度で臨まれ続けた「僕」が見出した唯一の希望、それが優一であり、同時に彼に見ていた憧憬の眼差しは決して相容れることのない存在であることが前提だったのだろう。
悲しかった。理解できなかった「優一を突き落とす」という行動も、少しずつ点が線になりつつあり、同時に強烈な怒りが鳩尾が燻って揺れる。これらの光景すべてが、その怒りに焼べられる薪であり、握りしめた拳はやがて扉へと放たれる。
これほどの怒りを感じたことがあっただろうか。僕は今、明瞭な怒りを覚えていて、その怒りを扉へと向けて振り上げる。
きっと「僕」は、悲しむことはあれど、怒りを向けることはなかったのだろう。それはそうだ。こんな両親であっても、紛れもなく自分の親なのだ。愛してもらいたいし、受け入れられるように振る舞うのは欠片もおかしなことではない。
だからこそに僕は怒っている。未熟な子供にこれほどの突き放し方をして、しかもその報いを少しも受けてはいない。彼はこれほどに苦しんでいるというのに、彼らはただ理不尽な怒りをぶつけているだけ。しかも「僕」自身はそれでも両親のことを庇っている。
腸が煮えくり返り、その業火が喉元までせり上がってきていた。怒りで心拍数が上がれば、自然と握りしめられる拳に力が入り、くもりガラスに怒りを叩きつけた。
そんなことをしていると、部屋の中から、「僕」の叫喚に近い声ともに「母さんも父さんも、僕のこと……なんとも思ってない!」と言いながら階段を駆け上がる音が追随する。
その途端、扉は先程までの頑強さを一気に失い、静かに開け放たれる。
飛び込んできた景色に思わず顔を歪ませてしまう。
今まさに自分が見ている光景を、現実にそれであると言われれば誰一人として信じないだろう。
飛び込んできた室内は目眩を起こすほどの鮮血で染まっていて、まるで本当にこの場で殺人事件でも起きたかのような色彩を放っている。
壁や床に飛び散った赤い絵の具を、手で拭ったかのように部屋全体に向かって広がっていた。すべて赤色のはずなのに、強弱が非常に激しく、部分的に赤の強いところは本物の動脈血を彷彿とさせる。
そんなリビングルームで、両親と思われる存在はおらず、代わりに、櫛歯が剥がれ落ちたオルゴールが残っていた。
側面を見てみると「arabesque-No.1」と書かれており、間違いなく優一が誕生日にくれたものだと判別できた。しかし、まるで人の手によって壊されたような凹みがあり、これでは音を鳴らすことはできないだろう。
一体、今度は何があったのだと疑問符を浮かべてみるがなにひとつとして浮かばない。怪訝な気持ちがありながらも、そのオルゴールの文字盤に手を触れる。
指先が銘板に触れた瞬間だった。まるでフラッシュバックのような感覚に体が打たれ、思考が上手くできなくなってしまう。脳に直接映像と音が流れ込んできて、強烈な痛みに思わずその場にうずくまってしまう。
ほんの一瞬、僕はこのオルゴールの末路を知る。
同時に、これが本当のターニングポイントであったことを理解する。「僕」の母親は、このオルゴールが優一からの贈り物であることを知っていたらしい。それでいて、「僕」の気持ちにどれほど気がついていたかは分からないが、少なくとも特別な気持ちを抱いていたことは知っていたのかもしれない。
そんな母親がこのオルゴールにしたことは明白だった。
わざと、オルゴールを叩き壊した。それもできるだけ原型が残らないように、オルゴールを開けて、その中にある櫛歯すらも叩き潰し、二度とオルゴールがなることがないように、陰湿とも言えるやり方で徹底して潰されていた。
僕は不意に、怒りを通り越して恐怖すらも覚えていた。陰湿や酷薄などという言葉がどれも薄く思え、しかもあれだけ無関心の素振りを見せているのに、方やこれほどの凶行に及んでいる。
この母親がしたいこととは一体何なのだろうか。気味が悪いにも程がある。むせ返るような感覚を前に、重い頭を上げてみると、そこにはもうオルゴールが存在せず、代わりに久しく見ていなかったあの存在が天井部を歪ませる。
何度も、これまでの世界を狂気に歪めてきたオルゴールを回す者だ。
だが、これまでのように異常性はもう感じなかった。なぜなら、あのオルゴールを回す者は、敵意のある存在ではなくて、むしろ僕に真実を気づかせようとしているのだ。
過剰な色彩や狂気を孕んだ悍ましい存在。それこそが、僕がこの世界をどのようにして見ていたかを十二分に表しているから。
これほどひどい仕打ちをされてきたからこそ、「僕」は全てに対して悲しみ、全てに対して怒りを顕にしてきた。だからこそ世界は歪み、記憶のないまっさらな状態の僕にとってこの世界は狂っていた。
僕のことをしっかりと見てみれば、この狂いに狂った世界が、精神的な破綻が原因であったことはすぐに見て取れる。ひしゃげたオルゴールの音色が、徐々に正しい旋律になっていくのがその証拠だ。
もう何度目かわからないオルゴールの音色に従って、再び周囲は激しい鳴動にさらされる。光と闇が数度行き来した後、僕は実家の階段の踊り場にたっている。いつ、階段を駆け上がったのかなんてどうでもいいけど、確かなことは目の前に「僕の部屋」があることだ。
さっき出会った「僕」は、彼の中にある気持ちがそのまま言葉を持っただけだった。でも、今度は違う。時間を巻き戻して、苦しみの最盛期にいた「僕そのもの」と対面することになる。
この世界の最終局面、なんとなく頭にそんなことがよぎりつつも、僕は静かにその扉を叩くことにした。
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