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創作の独り言 作家は何を描くべきか

 作家は文字であらゆるものを表現することができる。世界観からキャラクター、本当に多種多様な一方で、本質的に何を表現するべきなのかと問われるとこれにはかなり大きな疑問が残る。ただ単に自分が表現したいことを表現するのが一番だけれど、もっと大切なこととして私は「仮想現実的な世界のシミュレーション」だと感じる事が増えてきた。


・「小説」というコンテンツ

 第一にこれは私が勝手に言っていることであるため、「作家は絶対これを書くんだ!」という主張ではないことを前提にさせてもらう。私はもうそろそろ10年ほど文章を書いてはボツにするという作業を繰り返している。これから先もきっと、インターネットと言う辺境の中で自分勝手に文章を書いていることだろうが、その中でもこれから先はこれを意識していこうと思ったことが、先程から出ている「仮想現実的な世界のシミュレーション」ということだ。
 実際これを表現するにふさわしい言葉ではないことは承知しているけれど、一つずつ追っていくことにする。

 作品はジャンルが違えどいろいろなことを表現することができるのは多くの作り手が意識していることだと思うけれど、その中でも小説は他の媒体と比べるとやや伝える力が弱いと私は感じている。文章というものは、動画や絵といった他の表現物から比べると遥かに脳に対する負荷が強く、そこで語られている情報がどれくらい相手の理解に入っているのかというのはかなり難しい。

 それでは小説は、「読者の創造力を利用する」ことと「読者が有用であると感じるコンテンツを作る」ことに大別されると思う。どちらも他の媒体でも表現できることだけれど、この2つは特に文章とのかみ合わせが良いと思う。

 「読者の想像力を利用する」は特に、文章という媒体で表現される尤も大きなメリットである。なにせ書かれている情報は千差万別の捉え方をすることができるのだから、ストレートに読者が持っているあらゆるものと繋がり、雪だるま式の感情の増長を楽しむことができる。小説ならではの楽しみであり、他の媒体では味わうことのできない楽しみ。
 まさに小説と他の媒体を区別する最も大切な要素の一つであると言える。

 ではもう一つ、「読者が有用と感じられるコンテンツを作る」ということだが、これは一見他の媒体と差別化できていないと思われるかもしれない。しかし、小説は「文字」という媒体であることを忘れてはいけない。そして文字という媒体は、動画や絵など、詳細を説明することに対して特化しているため、事細かな物事の解説には当然ながら有利になる。

 読者が「これは役に立つ」と思うのは、やはりある程度詳細な情報を説明する必要がある。だからこそ、これが文字という媒介において大切なことであると思い至った理由でもある。
 やはりどんな媒体であったとしても、日本人である以上は「文字」を使用するし、その技量を極めていくというのはコンテンツの創造に大きく寄与するものであると私は考えている。

 ここまで、文字を媒体とするコンテンツを差別化する要素の列挙でしかない。そこから一歩進んで、「これから表現するべきこと」に、前述した仮想現実的な世界のシミュレーションではないかと考えた。

・仮想現実的な世界のシミュレーションとは

 先程小説というコンテンツ、もっと広げると文字を媒体とする創作物は共通項としてあるのは非常に詳細であるということ。純文学であれば、文章としてのクオリティの背景に、作品の世界観やキャラクターの造形が確実に関係しているし、ライトノベルであれば文章の緻密さや美しさよりもより読みやすくすることで、作品そのものの世界観を深く語っている。どちらも、表現しようとしている創作物をかなり細かく、詳細に表現されている。

 絵も、動画も、視覚的な部分に働きかけるコンテンツも詳細であるが、どちらも抽象的な概念を「画角」に押さえることで、相手に解釈をさせている。これは面白いところで、「文字」における詳細さを超えることができないことを同時に示していると思う。情報の負荷としては視覚的効果の大きいこれらの部分が強いと言うのに、それでもなお解釈が入ってしまう。その解釈を徹底的に排除するには、やはり「文字」というフォーマットに帰結するのは、なかなか奥深い気がする。

 それでは本題である「仮想現実的な世界のシミュレーション」の話になる。

 そもそもこの言葉は「自分が表現した世界が、どのように変化していくのかを表現する」ということである。
 ややこしい言い方であることは間違いないけれど、いわば「自分の作った世界」と「現実の世界」を比較して、どのようにして変わっているのか、どの程度ずれていくのかを表現することだ。

 表現される世界はどんなに現実の世界に寄せても、少しずつ現実から乖離していくはずだ。見ている世界が創作者というたった一人であるため、その変化が読み取れるかどうかわからない程度の誤差で乖離するのは当然のことである。創作である以上、そこで表現される世界は現実とは違う存在。この変わらない事実に対して、創作者は前向きに向き合うことができる。

 むしろそれを割り切って「自分が作り出した世界において、どのようにキャラクターが振る舞っていくのか」を想像して創作することが、創作における最も大きな現実的な価値なのではないだろうか。
 かなり抽象的な物言いになってしまっているが、これに関しては「SF」というジャンルが最もわかりやすい。

 「SF」という作品は、科学的な根拠に沿いながら現代では起こり得ない現象を非常に前向きに捉えている。人間が扱うには明らかなオーバーテクノロジーである場合や、近々本当に起こりうる可能性だってある。技術の面はなんだって良いが、その後に訪れる社会性の変化が、この場合の「仮想現実的な世界のシミュレーション」に当たる。

 別の例で考えてみれば、「現代文学」ではどうだろう。現代社会とはいいながら、独自性の高い法律が施行されている、多数派と少数派が逆転しているなど、現代を土台にして別の分岐を遂げている世界が語られることも多い。
 そこから先に展開される独自的な人間関係、社会の発達は紛うことなき「仮想現実的な世界のシミュレーション」に当たるだろう。

 このように、創作物は一から世界を創造して、それを表現するだけではなく、その後の社会性の変化や実際に起こりうることのシミュレーションができる可能性がある。

・絶対にこれを書くべきというものはないけれど

 「仮想現実的な世界のシミュレーション」は、創造物特有のものであるというような書き方をしているけれど、これはありきたりな未来の創造でもある。どのように人々が、どのように社会性へと変わっていくのかを考えるのは、知識自身が一般的において良くしていることでもある。

 だからこそ、このシミュレーションをしていくことを創作物で行うことは、作品が世の中に出ていくというところで意義のある作品になる場合が多いという話である。ただ、その一方で「作者が書きたいもの」を一途に書き連ねるということも忘れてはいけないとも思う。必要なのは、「何があっても描き続ける事ができる」ということなのだから。

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