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創作の独り言 書かれた文章=(ほぼ)自分

文章はまさに自分自身

 今までの独り言では、「小説」という媒体に限定していろいろなことを垂れ流してきましたが、ここで一つ趣向を変えてみましょう。

 小説を趣味としている人は、私は結構多いと思っているんのですが、ここでは「文章を書くこと」と限定して話をしてみましょう。勿論、小説のことも踏まえて、そのメリットを今まで感じてきたことをメインに記述します。

 ここで一つ、「自分は何も文章を書く習慣がないよ!」という方がいましたら、是非文章を書いてみるとことをオススメします。その理由については今から少し細かく独り言としてしたためていきます。
 なお、今回は1では文章を書く習慣がない人向け、2は書く人向けという意味のわからない構造になっているので、暇な人は是非ふたつともご覧いただけると私が幸せです。

1.書き連ねた文章は「別の媒体を持った自分自身」である

 表題はやや難儀な言い回しをしていますが、実に適切だと思っているのでこれを使わせてもらいます。

 皆さん、自分自身のことをどれほど理解しているでしょうか。ちなみに私は胸を張って、「一割も知れていない」と言う事ができます。そもそも、知るということの定義から話をスタートさせた上でそのようなことを抱いているわけですが、それは今回のテーマとは逸れてしまうため一旦は保留にしておきましょう。

 必要なのは、「自分がどう思い、どう感じ、そして考えているのか」ということです。これについて、最初は知っていると思いこむのですが、翌々考えてみると私達は以外に自分がどのような理由で、どのような結果にたどり着いたかということが分かっていません。それを表現して、咀嚼するのが言葉なのですが、実際に日常生活では言葉にならない感情があまりにも多く存在していることでしょう。
 そのため、「感覚的な領域」でしか、私達は自分自身のことを理解してないと考えて殆ど差し支えありません。

 どうしてそんなことが言い切れるのかと疑問に思う人がいると思います。そんな人にこそ、「文章を書く」という行動はオススメなのです。
 例えば何か悲しいことがあったとき、思うままに文章を書いてみるといいでしょう。すると、思った以上に言葉が出ず、結局自分が何に悲しんでいたのか、どうして悲しんだのか、そもそも悲しかったのか、よくわからなくなってしまうでしょう。文章を書き慣れていなければ尚の事です。

 それでも、わからないままに文章をしたためていくと、不思議とその思考が文字という形となって現れていきます。最初はチープで、自分以外の人が読んでも理解できないものになるでしょう。私だって未だにそうですし、けれどそこに面白さを抱いている節もあります。

 書き綴られた文章は、いわば「その部分の思考をそのまま文字として残すこと」に等しく、まるで数分前の自分の独り言を聞いているように思えることもあります。

 それは文章を書くからこそに生じることであり、振り返って自分の行動や考え方にある歪みに気がつくことになります。そもそも気持ちは一瞬で過ぎ去っていって、詳細というよりかはぼんやりとした輪郭だけを把握できるような逡巡の数々で構成されているので、当然ながらその歪さに気が付きにくいんですよね。
 だからこそ、その感情の刹那を一つ切り出して考えるということはとてもいいことなのではないかと思います。

 文字という自分とは別の、しかし本質をたどれば同じ存在だからこそ、我々は客観的になれるのだと思います。

2.小説は自分が思う以上に歪んだ自分自身が投影されている

 これはあくまでも私の一意見なのですが、必然性の担保された虚構の物語である小説には、思いの外自分の様々な考え方が投影されています。

 確かに小説は、ある程度の物語の動き、人物らの動きは必然で動くことになるのですが、大切なのは本当にその必然的な動きが人物たちにおいて不自然ではないか、という部分にもあると思います。
 素晴らしい物語があったとしましょう。ですがその素晴らしい物語の必然性を作り出すために、主人公が不可解な動きをしていたら、素晴らしい話は即座にとりとめのない物語に変貌します。

 例として、サスペンス小説の犯人がいるとしましょう。
 主人公の応答に対して、犯人は作者としてなにか知ってもらいたい情報を出すとしましょう。なんでもいい、犯人しか知り得ない情報を先に与えておきたい、という意図があった場合、作者はどうやってその情報を他の人物たちに伝えるのでしょうか。

 ここで重要になるのが、犯人の人物描写です。
 この犯人は残虐的な犯行を好んで行う人物であり、けれど犯人とは知らずに対面している人には随分と優男に思われ、丁寧な紳士的態度で話す人物である、というような描写がされていたとします。ですがどこか意味深な調子で供述をしました。
 この犯人が急に、意味深な説明口調をすることはありえません。犯行をほのめかすことはまずありえないでしょうし、この人物像であれば理知的で秩序的、犯行を隠蔽する方向に向かうはずです。

 場面を変えて物語は終盤に向かいます。
 優男の犯人は特定のなにかにトラウマがあり、それを晴らすために殺人をしていました。犯人は捕まってハッピーエンドです。

 これが明確に「ご都合主義」と言われるところでしょう。上手い例えになっていないのですが、致命的に魅せ方が死んでいます。
 人物としてやや突飛なキャラクター像を与えること自体は問題にならないのですが、人物のキャラクター像が思いっきりぶれた事になってしまうのが致命的です。
 人物が神たる作者に遊ばれていることと同じですし、不自然な何かしらの介入があることでしょう。

 さて、ここまでくれば表題とは何も関係ないと思われてしまいますが、実はこのような出来事は作っていると頻繁に起こりえます。

 先程の例であると、いろいろな事が考えられるでしょう。なんとなく犯人にはミステリアスでサイコパスなキャラクター像を作りたいという「自分の好み」。ここを一番に伝えたいという作者個人の「願い」などもあるかもしれません。
 大切なのは、作者である私達は自分でも気が付かないうちに、小説のなかに自分が求めているものを投影しています。

 なぜ必然性の話を蒸し返したかというと、小説の中において必然性が必要なのはあくまでも「物語としての一本筋」の中のみであるからであって、それ以外の、例えば人物たちが日常的な行動をする場合においては必然性ではなく、人物たちの「自然さ」を演出するものだからです。

 この「自然さ」を表現するのはまさに熟練の技術が必要になります。なにせ、物語の一発目で主人公が行動としてどんな人間かを表現するのですから。
 少し例を出しましょう。

説明的描写)
 私は長年勤めた警察を引退し、ほんの数年前から探偵業を営んでいる。警察のときからことさら、卓越された洞察力は誰に言わせても高水準らしく、ほとんど初対面の人間においてもよくそのことを言及された。
 ある日、私にもとに営業マン風の男が依頼を持ってきた。随分嫌味かつ尊大な態度であるが、私になにか依頼したいことがあるらしい。

 この抜群の説明感を減らすためにはどうすればいいでしょうか。
 一つ一つ、行動で示していただきましょう。

行動的描写)
 私は静かに卓上の机を眺めた。古ぼけた警察時代の自分が並んでいて、ふと探偵という警察まがいのことをしている自分と重なって不思議な郷愁に駆られる。
 「こちら探偵をしてるって?」その声に合わせて頭を上げると、そこには依頼人がぽつりと立っていて、訝しげな調子で「優秀だって聞いたから」と嫌味っぽい態度を浮かべる。
 見たところ若いが、すり減った高級時計は二十年以上は身につけているものだろう。おまけにスーツも革靴もある程度の値段に見合ったもので、清潔感も十分にある。皮膚の色、筋肉の調子はスーツの上からも確認できるほどで、継続的な運動で体型を維持しており健康そのものだろう。これらの情報から、人と接点を持つことが多く、尚且社会的地位のある職業についているということがわかる。

 伝えている情報はほぼ同じですが、焦点を変えるだけで随分と印象が変わりますね。
 なんとなく、説明的な描写を見たときよりもより日常を切り取ったような印象を受けます。私の技量の不足からあまり違いが感じられないとなれば、そこは真摯に受け止めるしかありませんが、なんとなく違いがわかれば良いこととします。

 ここで、私がこれを書いているときの気持ちを振り返りましょう。
 特に行動的描写の場合は、私が見てきた作品や生まれ育ってきた環境の影響を多分に受けています。
 例えば時計の描写です。私は父がロレックスの時計を身に着けていたので、20年と使っていればどれほど綺麗なものでも、見違えて手垢がついてしまっているのだわかります。しかし、周りに時計をつける習慣の人がいなかった場合、このような表現をしなかったと思います。
 他の部分でも同じことが言えます。一見上の描写はできているように見えますが、一つ一つ解体していくと粗が見えてきます。

 まず肉体的に健康で清潔感があるからと言って、「社会的地位のある職業」と直線的に結ぶのは、私自身の思い込みが原因であるかもしれません。統計をとっていないので分からないのですが、これが誤りである可能性も勿論あります。
 ちなみに私が今まで出会ってきた社会的地位のある職業、企業に勤めている人たちのほとんどは清潔な人で、そのような経験からこの思い込みは来ています。
 実際に清潔かもしれませんが、これだけでそう判断して、断定してしまうのは危険かもしれません。きっとこの探偵は、これからの会話の中でカマをかけたりして相手のことを断定していくはずですから。

 このように、意外に小説はそれを取り巻く「自然な描写」は思い込みと私達の暮らしているイデオロギーに強く影響を受けるんですよね。
 なので、その点を考えていくと、文章を書く習慣があって、小説を書いている人も、何度か自分の世界観を眺め直してみると、自分の中にある歪みに気がつくかもしれません。

結論

・文章は客観的に表現された「自分自身の感情」である。
・小説を書く人は、自分自身の思い込みや環境、生き方がメチャクチャ反映されるんだよーっていうことを理解しておくと幸せ。
・この記事のように一つの記事で読み手の対象をバラけるのは良くない。

 ということで本日はこれまで、独り言おしまい!

 

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