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苦しい気持ちを救うのは

「苦しい」は大抵自分で作り出しているもの

 私は常々苦しみを抱いていると思っている。朝起きる時、仕事に行く時、入眠する時、休みの前日までも苦しみに染まっていることがある。殊更、4月というときは環境が一変することと相まって苦しみを感じやすい時期であると思う。今まで過ごしていた環境が一変する、それだけでこれ以上ない苦しみが生じるかもしれないし、まさにその度合は人それぞれである。

 苦しみは人それぞれ。きっと多くの人はそれを知っている。
 だけどだからこそ、「この苦しみは人には理解できない」と思いこみ、頭の中でそれを延々と繰り返してしまうことがある。あの人から言われた言葉が過去と結びついて、そんなことは四六時中あるし、思考連合的にいろいろな嫌なことが結びつくことすらあるだろう。

 だからこそ私は、「苦しみ」とは本質的に何なのかを考えることがある。これがなければ無駄に悩んだりしないし、その悩んでいる時間を別の有益なものにすることができるのではないかと思うと、途端に「苦しみ」がこれほど厄介なものなのかと思わされる。どんなに丁寧に理由付けをしても、苦しみはすぐには消えてくれない。
 崇高な理論を聞いても、どんなに理にかなった説明を受けても、この苦しみは簡単に拭うことができなくて、漠然としたまま不安な気持ちと結びついて、感情のあらゆるところに黒点を落としていく。

 最も厄介なのは、「簡単に消えてくれない」というところだろう。先に言うように、苦しみに適当な理由付けをするのは比較的簡単なのだが、それに対して頭は受け入れてくれない。「あぁそうか、〇〇だから苦しんだ」と一時はなったとしても、何かと引き金は多くのところにあって、それが起こるたびに、「苦しい」と思ってしまう。きっと延々と苦しみに悶える人はそういう人だと思う。
 というより、私はきっとこのようなタイプである。表現をしていて思わされるのはなんと面倒くさいのだろうと思う反面、いい加減この厄介な苦しみという言葉と決別したいという意志である。

 朝、この苦しいという気持ちが存在しなければ、私はおおよそ年に365時間有益な時間にする事ができるだろう。それほど私は朝に苦しみを抱くことが多く、苦しみは生きる気力や意識を根こそぎ奪ってしまう。憂鬱な気持ちと表現しても差し支えないだろう。無限のように湧き出てくるこの気持、どうすれば留まってくれるのだろうか。
 いや、どうしてこんなにも「簡単消えてくれない」のか。ここで先程抱いた厄介なところに戻ってくる。頭が納得していないから、すぐに消えないのか、はたまたすぐに無尽蔵なほど湧き出てくるからすぐに消えてくれないのか。きっといろいろな考え方があるとは思うけれど、私の中でその理由は見出しの通りである。

 「苦しみ」は大抵、自分が勝手に作っているものだ。
 無意識に自分は苦しみたいと思っているとも言えるかもしれない。おかしな話に聞こえるかもしれないが、「苦しい」ことをするのは存外に気持ちが良いことだ。自分の中の多くの要素を一つずつ抽出して、未来に備えてアレヤコレヤ悩む、そういう手合のものを人間はいつだって好んで行っているのではないだろうか。
 だって、なんとなくその苦しみに酔うことができるから。自分はこれほど苦しんでいる、だからもう少し甘言をくれても良いのではないだろうか。ある意味では自分に対して同情的な眼差しを向けて、他人に期待しているような、そんな歪な構造。

 これは自分の中で、あらゆる気持ちを一つ一つ解体して考えた結論である。こんな姑息な気持ちに出ているということが自分の中で軽くショックなのだが、しかしながら「苦しい」について少し考察を加えてみればこんなところだろう。自分は間違いなく、「苦しい自分」に酔っている。何となくこれは、文章を書き始めた人が、やけに難しい言葉を列挙してそれっぽい内容ににして、自己陶酔的に陥るあの厄介な心理状況に似ているような気がする。
 自分に対して憐れむ、それだけで心は妙に苦しみ悶えることを肯定しているのだ。本質的に苦しむことを求めているからこそ、我々の苦しみは永遠に近いほどの円環を描くのだろう。その環から抜け出すには、まずその手の考え方をやめるべきだ。

 おおよそそのような苦しみにさいなまれるときは、肉体が暇な時だと思っている。基本的に人間は動きたくない生き物である。それは心理学的にもよく言われる話であるが、体が動いていないと頭を動かしたくなるものだ。
 その中で最も手軽に考えることができるのは悲観的な観測と自らの哀れみである。ややこしく言っているが、先程から話に上げている「苦しみ」がこれらである。
 要するに、体があまり活発的ではないとややこしいことに自分で自分を苦しめることになる。だから多くの場合、精神的にしんどいときこそ体を動かすことが必要なのだと思う。しんどいときこそ体を動かす、どんな心理本でもこの手の話は必ずと言っていいほど記述されているし、昨今様々な心理を取り扱うサイトでも同様の見出しが軒を連ねている。

 どうやら、我々は暇なときに、自分の事を「苦しみ」出し始めるのだろう。なんと厄介なことをしてくれるのかとほとほと呆れ果てるが、ではどうすれば、体を動かす初動の意欲につながるのか。その答えは未だ、模索中である。

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