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創作の独り言 表現される意味

 憲法にも規定されている「表現の自由」であるが、法的に記載されている表現の概念は極めて難しい。しかし日常でも頻繁に用いられる「表現」という言葉は、実際どのような意味なのか。

 自己表現というものが最もメジャーな言葉かもしれない。創作を行う人間は当然のように自分のことを「作品」として世の中に出していき、それで自らを表現しているという。この自己表現は、マズローの欲求階層説によると最も高次元の存在であるらしく、その意味についてはより深く考えていくことが必要になるのかもしれない。
 表現する、単純なようで意味を説明することが難しい言葉だ。自分の主義主張を相手に納得させられる形で出力するものとも言えるかもしれないし、自分という存在を相手に理解しやすい形で作られるものかもしれない。単純に「自己表現」という言葉だけでも、その言葉は非常に広域な意味合いである。それを作品として表現するということは、ある意味で突き詰められた意味合いが必要になると私は思っている。

 とはいうものの、私は創作において「楽しさ」を最大限に優先している。というより、それが失われてしまえばあまり意味がない行為であると思うからだ。確かにクオリティを突き詰めるのも大切だし、そもそもリーダビリティを考慮しないと作品は広がることもなければ、個人にすら咀嚼されない。それでもなお、私はどうしても楽しさを重視して創作を行ってしまうのはひとえに「アマチュア」であるからだ。それを作品として世に出して、金銭を受け取ることが「プロフェッショナル」である。
 金銭的な関与がないということは、作品の主体はあくまでも「作者」にあると私は思っている。だからこそ、私は趣味についてはある程度楽しさを優先している。しかしながら、それは作品を完成させない「エタる」というものに繋がる可能性もあるため、楽しみながらも一定の責任感を持つことが大切なのかもしれない。

 楽しむということに主眼を置きながら、私は「作品」に対して断言はしないようにしている。
 キャラクターの行動や人間性を提出した上で、彼らの考えている行動はすべて私とは違う存在であると、心のどこかで思っているのかもしれない。当然なのだが、キャラクターは作者である私から誕生したものである。一方で、どこか全く別の存在であると思えてならない。
 それは、自己表現になるのだろうか。到底、自己を表現していると言えないような気がしてならない。私とキャラクターはたしかに共有する点はあるのだが、一方で交わらない存在でもあるような気がする。
 これについては創作者で見解が異なるだろう。むしろ、異なっていてほしいというのが私の気持ちだ。どんな創作物も、断言はせず、価値のあるものは受け取った人が展開する思考やより高次元な存在へと歩もうとする努力への渇望であると思っている。
 その上で、表現を考えると更に良くわからないことになってくる。

 私は主に小説を作っているのだが、noteに投稿している多くの記事は「独り言」である。作品としての体を取ることができている小説に対して、これらの独り言はクオリティを有意に図ることは正直難しいと思う。
 今書いているこれも、私が暮らしの中で、もどかしく吐き出せるところを探した結果として作り出されたものだ。それに対して一定のクオリティを担保するのは難しい。一方でこれが、特定の誰かを傷つけるヘイトスピーチに繋がりうるということも考慮した上で、私は記事を投稿している。
 最低限、記事としてこれをインターネットに乗せる上で、私は唯一それを気にしている。どんな意見でも、決して交わらない意見が存在する。下手をすれば、私の書いた数千程度の記事でショックを受けてしまう人も世の中にはいるかも知れない。
 自意識過剰にも程があるが、実際数千万と存在する解釈の中でそれを否定するのは希望的観測であると思う。何事も、最悪を想定していることが人間に理性を与えると信じてやまない。

 さて、とりとめもなく綴られたこれは、まさに「表現」である。この記事をもし眺めている人がいれば、「とりとめのない記事だな」なんて思ってくれると私の気持ちとまさに合致しているといえる。
 私はこれもまた表現の一つであると思う。私が普段から抱いている感情や気持ちが、言語となってこの白紙の上で躍動している。形がとりとめもなく変形していても、これが私という日常の中の断片なのだと私自身理解させられる。
 作品として高次元の表現の一つ前の段階に、この記事は表現されていると言えるだろう。刻々と変わっていく私という存在の足跡、嫌な感覚でもあるそれを眺めると、私は実感してしまう。「こんなことを抱えていたのだ」それだけで表現された価値があるのかもしれない。

 これに則れば、日記などもまさに表現である。今回の記事では取り扱わないが、表現の中にも「自分の中で完結するのか」「他人にまで影響を及ぼすのか」の2つが存在するのだが、この記事は2つの性質を合わせている。
 とりとめのないこの表現で、私たちは自らを吐露し、どのような人間であるかを自分自身意識するようにしているのだろう。

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