見出し画像

創作の独り言 小説は感情の深淵


小説はとてもフリーダム

 文字を扱う作品には色々な種類があります。小説以外だと、エッセイや俳句、歌詞などなど、多くのものが文字によって構成されており、その中でも小説は「虚構の正確な描写によって作り出される物語」です。

 何より違いは、他の文字を媒体にしたものよりも、文字数が多いことでしょう。ある意味、特殊な制約なしに作り出される永遠の文字の世界とでもいいましょうか。
 思い起こしてみれば小説は、禁則処理や起承転結などのテンプレートの使用が推奨されているということを除けば、非常に縛りが少ない形式でしょう。エッセイは自分自身の体験談に限定されますし、俳句や文字数制限、歌詞に至っては韻を元に制限がかかります。

 であれば、私は小説という作品群はまさに作者の感情や経験、知識、心情の変化などが深く反映されているものであると思えてなりません。

1.小説に望むものは「実感」である

 皆さんはどのような小説を普段読みますか? この問いかけはこの話においてとても重要です。
 この世に流布している大量の小説というものに限定していますが、普段から読んでいるものの種類、数によって、もしかしたら我々はとあることを物語に望んでいるのではないか、と思えてきます。

 そのとあることは、「実感」だと私は感じています。

 私たちは読書を通して、自分の好きな物語を擬似的な体験をすることでしょう。一人称視点で物語が進行するのであればより没入感は強いものになるかもしれません。第三者視点であっても、物語を客観的に捉え、かつ自分の望む方向性の物語を咀嚼します。

 多くの本を読む人はどうでしょうか。他ジャンルのことを一つ一つに実感を持つというよりかは、「多くのことを見聞きしたい、実感したい」とすれば特段矛盾はしないはずです。

 これはおよそ書き手も読み手もさほど変わらないと思っています。ただ、書き手はより能動的な実感を求めていて、しかもその物語にある程度の自己が投影されていることが暫し多い、と私は経験的に思っています。
 勿論、人間である以上全く知らない、想像すらもできない人間の感情を覗いて書くことは困難を極めるどころか、土台不可能でしょう。人の気持ちなんて視認することもできない、ただ感じることしかできません。だからこそ私たちは文字という一つの媒体を通してそれを確認し、共有しあっているのです。

 では、「実感」とは何でしょうか。
 それは現実に近い次元で物語を体験することでしょうか。いわば、限りなく現実の妄想、とでもいえばいいのでしょうか。小説に書かれている非日常的な経験を、私達は文字を通して自分の感情と照らしているのかもしれません。

 突然ですが、私は恋愛小説が好きです。意外に思われることも多いのですが、甘酸っぱい青春の交錯が随分と愛おしく、そして羨ましいのだと自分で思っています。できることなら、こんな素晴らしい人との関わりを自分自身持つことができればなと思うこともあります。
 その時点で、私は「物語を実感している」のです。恋愛小説では当然ながら恋愛について語られ、それを主題とした起承転結のテンプレートに乗っかった物語が存在していて、主人公でもその恋人でも、どれかに自分の気持ちを投影させてニンマリとした感情を投影しています。

 ところで、ここ数年でメキメキとジャンルとして確立してきた「なろう系」と呼ばれるライトノベルジャンルがあります。見聞きしたことがある方は存外に多いでしょう。なぜなら、小説においてマイナスな話題性を持つことが多く、某ネット掲示板でも批判的なスレッドが多く立てられています。
 多くの場所で槍玉に挙げられるのは、難のある設定や主人公の性格、やたらとご都合主義なところなどなど、数え切れないほどに批判的な口撃をしている方も見受けられます。

 私は特に、これら代表的な著書を見たことがないので、作品のクオリティがどうのと言ったことに口を挟むつもりはないのですが、これらの掲示板でよく言われていたことが実に興味深いのです。

 なろう系小説って結局自己投影でしょう?

 これは検索ワードでも出てくるのですが、初見の私にとっては「自己投影的な小説としてこれほど多くの人が共通の意見が持たれるのか」と不思議な気持ちを抱くことになりました。
 勿論、これについては反論も多々あり、それらのスレッドも多く立っているのですが、多数に共通してそう捉えれているというのは一つの事実のようです。

 私は、この意見に対しては「使っている人がすべて、一様の意味で自己投影という言葉を使えていない時点で参考になるものではない」と思っているのですが、どうしてそのように受け取られてしまうのかということについては興味深いものがあります。

 なお、この「なろう系」という言葉は蔑称的な意味合いも含まれていることもあるそうなのですが、この文脈においては「サイト・小説家になろうに掲載されている作品群、もしくは類似した作品の呼称」としてのみ使用しています。

 さて話を「実感」に移して見ましょう。

 概ね、自己投影という言葉は、物語の主人公に対して自分の持っている憧れを求めて、自分と重ねているというような意味合いが適切でしょう。というのも、あまりにも「自己投影的」と表現されているサイトが多く、出処かわからないほどでした。
 私はこの言葉を「実感」というふうに別の言葉を使っています。この言葉は自己投影よりも広い意味であり、願望も憧憬も、苦しみも悲しみも、いろいろな感情を自分で経験したいという意味に近いでしょうか。

 少なくとも、読み手にとってこの意味合いは非常に咀嚼しやすいものでしょう。私達が作品に多く何かを求めていますが、その広い意味をこれらの言葉に収斂することができると自負しています。

 だからこそ、読み手は実感を求めて虚構の世界に手をのばすのかもしれません。ですが、書き手にとってこの実感は少しだけ違う意味になるでしょう。

2.書き手にとっての実感は「感情との面識」

 確かに書き手にとっても、「こんな経験がしてみたい」とか「こんなふうになりたい」ということは多くあるでしょう。

 ですが、少なくとも私は小説を書く理由がそれらの願望から生じているものではありません。
 何分、この手の創作の話を他の人と打ち交わしたことがないため、根拠もなにもないのですが、あくまでも私個人の意見としてここに記載します。

 私は、「感情と出会うことが実感」だと思っています。
 多くの小説を書く人たちがそうだと信じたいのですが、私は物語に大きな願望の輪郭はあれど、詳細に渡って私個人の意識できる感覚があるとは到底思えません。
 自画自賛に近い行動かもしれませんが、私はよく自分が書いた物語で泣いてしまいます。でも、それは不思議と、感動系の映画を見たときのような感覚であり、自然と、かつ滔々と流れてきた物語を見て泣いてしまっているような感覚を覚えて、「自分がこれを作ったんだ!」という実感があまりないのです。

 けれど確実にそれは私が作ったものであり、投影されている自己意識や願望、苦しみや悲しみなど多くの要素が複合的に存在していると思います。にもかかわらずこのように感じるということは、無意識的に存在している感情をさらって、それが一つ一つ物語の歯車になっていっているのかもしれません。

 これが災いしてか、私の作品はどこか取り留めがありません。まとまりが無いといえばより正確でしょうか。非現実感ということはまだいいのですが、完成しているのに未完成な感情が残留するのはこのようなところから来ているのでしょう。

 作品を作る目的はもちろん人それぞれ違うのですが、それでも「小説」という要素を通じて、書き手は自分ですら認識できない深い自分の底を見ているのだと思います。なんとも言えない感覚ですが、自分自身を実感する、といえば的をいていると、私は思っています。

結論

・読者-書き手が小説に求めているのは「実感」であり、それは数多たくさんの気持ちを自分のものとして、もしくはそれに近い領域で体験したいから、なのかも?
・書き手にとっての「実感」は、自分自身すら認識できない無意識の自分と対面すること
・なろう批判、ダメゼッタイ

以上、本日の独り言、閉廷!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?