第三章 - 軋む者 4

目次 → 「煉獄のオルゴール」
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対面した扉は奇怪だった。
 鉄製の扉にも関わらず、その質感は非常に気味が悪く、水面のような独特な揺れが生じており、その揺れが人の顔のように輪郭となっている。
 言うまでもない。恐らくこれは自分自身の顔。だが今のものではない。日記を書いていた時の自分の歪みきった表情が不意に思考を掠め、こちらも同じように顔を顰めさせる。

 今までこの世界は、自らの周りばかりを見せていた。
 学校のこと、優一のこと、そしてあの事件のこと。だが、粘着質なほどに語られていた自ら、それももっと深い内面のことがこの先に広がっていることを簡単に察することができるほど、この扉は「僕」のことしか語っていない。

 この扉の先にあるのは、紛れもなくあの日記の中で惨憺たる感情ばかりを綴っていた、最悪の自分自身。
 幾層にも作り出されたこの不可解な「死後の世界」に最終地点にして、その本質を十二分に語っているようだった。

 僕は漸く、この世界は「死後の世界」ではないことを知る。
 この世界は紛れもなく、僕の内面世界。死後の世界なんてきれいなものではない。もっと悍ましく醜悪な、僕自身の心が強く反映されたものだ。現実世界の僕自身が何をしているのかはわからないが、どちらにしても、この扉の奥にあるものを見れば全てはわかることだ。

 ドアノブに手をかけると、熱寒を伴った強烈な痛みが生じたものの、僕はそれを噛み締めてすぐに扉を強引に開け放って真っ暗な闇を一瞥する。
 そこは相変わらず真っ暗闇な世界が広がっているものの、今までのそれとは全く異なる形相を呈していた。

 地平線の向こう側まで広がっている闇はほとんど変わらない。光源不明の薄明かりが一面を照らしているというのに、不自然に揺らぐ床は静かに留まるばかりである。

 けれども、その揺らぎは地震でも起きているかのような波が生じており、薄明かりの光が一欠片も反射しないいびつな狂気を見せ続けている。不可思議だった。光を一つも反射していないのに、僕は間違いなくこの床が激動していることを理解できた。
 足を踏み込むことすら拒まれるが、それでもこの先に進まない限りは延々とこの世界を回り続けることになる。意を決してそこに入ってみると、自らの足元のみが静かな漣が生じ、辺りのみが凪いでいく。

 それに習って呼吸をしてみると、あれほど波に満ちていた世界が視界だけを取り残して他の感覚をさらっていく。不快な感覚だった。見ている世界に対して、聞こえてくる音や感覚のズレが著しく、不快な風が一面を覆い尽くしているようだった。

 そんな状況で、僕は聞こえてくる声に耳を傾ける。
 何を言っているかは聞き取れないが、およそその内容については十二分に理解ができる。あの日記、この世のすべてを恨み、憎んでいることが明瞭なあの感情の造形物にかかれていた大量の言葉たちだ。
 よく耳を澄ませば「優一」や「両親」などのワードが聞こえてくる。そのどれも口語体とは言い難いものであり、どちらかというと文章を朗読しているかのような感覚だ。

 それこそが、この世界の根源を十分表している。

 僕が現実世界で行ったすべての行動、抱いた気持ちが現実か、それに類推するようなものばかりがこの世界を覆い尽くし、決して現実と交わることのない、永遠の妄想の世界。
 僕が見てきた世界に名前を渡すのであればそんなところだろう。では、どうすればこの永遠の妄想の連鎖から抜け出すことができるのだろうか。その答えを探すよりも先に、僕は目の前に浮かび上がる自分自身を見ることになる。

 荒れ狂う闇波の最奥で、僕の形をしたなにかが蹲って泣いていた。
 けれども僕の視界の中に人影は存在しない。残留しているのは気配のみ。それも大量の波が押し寄せていて、近寄ることすらも許さない。すべての五感が滅茶苦茶に狂わされるこの状況でも、僕はそれを確実に知ることができた。

「……ねぇ、いるんだろう? 錫野、折人……」

 僕は、生前の僕の名前を呼ぶ。便宜上であるが、記憶がないことが長く続きすぎたからか、僕はその名前に一つも親近感がなくて、少し俯瞰した面持ちで泣きじゃくる彼のことをみていた。
 ひっそりと声をかけてみると、激しい鳴動とともに真っ暗な闇の中で液状の「僕」が渦巻いては形となり始める。憎悪と怒りがこちらまで侵食してくるようだった。

 この空間を覆い尽くしている負の感情、これほどまでの嫌悪と怒りに対面したことがかつてあっただろうか。
 僕自身を、全く別人と違わない調子で見ていると、形作られた「僕」が激しく声を上げる。

「お前は誰だ? どうしてここにいる?」

 地響きのような声だった。強烈な圧迫感を伴った声に武者震いすら覚えるが、冷静になって捉えれば、その恐怖すらも形骸に近いものへと変わってくる。僕は静かに歩きはじめ、その道筋が同じように凪いでいくところをみて、「僕」は更に強い拒絶を呈した。

「……やめろ、来るな。僕は、一人でいいから、来るなよ」

 「僕」は、誰も信用していないと言いたげな口調で話すけれど、それが強がりであることなど簡単に聞き取れた。全てに対して絶望してしまい、どんなものにも怒りをぶちまけ続ける存在。それがこの子と僕の間合いにぎっしりと詰まっている。

 けれど僕は驚くほど容易く、その間合いを詰めることができた。歩くたびに荒波が収まり、後方はすべて静謐の水面が広がっていく。

 そこで僕は、「どうしてこんなにも穏やかな気持なのだろうか」とふと疑問に思ってしまう。苦しみを通り越したのか、それか記憶がない状態があまりにも長く続きすぎて、逆に冷静になっているのか。
 最初は、没入感が強すぎて感情的になってしまっていたけど、そこを過ぎ去れば途端に離人感が強まって、ただそばに佇むだけで良くなってくる。だから僕は、気にすることなくゆっくりと、けれど猛然とそばに駆け寄っていく。

「やめてよ、来ないで……誰も、僕のことは……」
「愛さないって言いたいの? それは嘘だ。君のことを愛してくれる人はたしかにいたはずだ。けれど、君はそれを受け止めきれなかった」

 優しい言葉をかけたいと、不思議と思わなかった。僕が望むのは、この子に真実を告げることしかしたいと思わない、不思議な感覚である。
 勿論ながら、話を続けると「僕」は泣きじゃくりながら首を横に振っていく。

「……違う、誰も僕なんて愛さないし、僕だって何も愛さない」
「そう思い込むことでしか、自分を守ることができなかった、の間違いだろう? 君は自分自身が愛されている感覚をずっと持てなかった。だから突然の愛に戸惑い、絶望がそれを食いつぶしていった」

 僕は驚くほど流麗な口調で、しかも「僕」にとっては不愉快となる事実を語ってしまう。そしてその事実を聞いた「僕」は今までにないほど感情をむき出しにして怒鳴り続ける。

「煩い! お前に僕の何がわかる……父さんも母さんからも、少しも愛を感じることはできなかった……。子供の僕はそんな状況でどうして生きていけたと思う!?」
「簡単だろう? 何も感じず、何にも期待せずに滔々とすり抜けていくだけの日々を過ごしただけ。だから、その思考の癖に少しでも足を踏み入れてくる人間が耐えられなかった。不快な気持ちではなくて、その気持が露呈して、弱い自分と対面することが嫌だったんだろう。そうしてしまえば、今度こそ生きられないと感じてしまうから」

 感情から直接言葉が出ているかのような感覚だった。思考よりも先に連なっていく言葉に自分でも驚きながら、「僕」が流している静かな涙に再び心がざわめいた。
 「僕」は嗚咽混じりの涙を流すと、その感情に呼応するようにひたひたと巨大な雨粒が周囲に降り注ぐ。けれども僕の周りのみには雨は届かず、相変わらず凪いだ水面だけが静かに広がっている。

 そこで、僕はようやく自分の周りに広がっている光景がそのまま「僕」の感情に直結していることを理解する。
 この空間そのものが感情を表現したものであり、天候や感覚がぐるぐると回り続けているのだ。僕の周りだけが静かに在り続けているのは、僕自身の感情を表現しているだけ。僕の心は十二分に安息が広がっている。

 そう、僕は漸く自分が自分と向き合い、感情をむき出しにして語り合っていたのだ。そうでなければ、僕はこの世界で正気を保つことはできていないだろう。自分と向き合うということは奇しくも十二分な成功を示したことになる。

「ねぇ、君はもう十分苦しんだ。けどね、自分のしたことは変わらない。君はもう理解しているだろう? 君は、僕で、僕は君なんだ」
「……もう、やめてほしい。心から、出てっていてほしい」
「うん、僕もそうしたいところだけど、残念だがもうしばらくこの世界から出ることはできないと思う。僕らが、どうしてこんなところにいるのか、すべての出来事を知るまではね」
「……君が僕であるならわかっているだろう? 僕が、あのときに何をしたのかを」

 「あのとき」という言葉は、語るに忍びないが「優一」を手にかけてしまったときのことだろう。間違いなく許されることではないこの事実であるが、記憶障害にかまけて真実から目を背け続けることのほうが遥かに罪が重いことだろう。
 だからこそ、僕は「僕」に尋ねる。

「うん、わかっている。だから知りたい、僕はもっと、僕のことを知らなければならない。それが、彼にしてあげられる唯一の贖罪になると、そうは思わないか?」

 そういうと、雨音は少しずつ遠くなっていき、最終的に大きく首を横に振って、静かに闇の中に溶けてこんでいく。

「……僕は、優一を殺した。怖い、怖いんだ……どうして自分がそんなことをしてしまったのかが、分からないんだよ」
「そう、だから僕と探しに行かないと。彼にしてしまったことを、償わないに行こう。一人ではなくて、僕も一緒に行くから」

 僕はひときわ優しい言葉で「僕」にそう投げると、その回答なく、真っ暗な世界のいち部分が、扉のように切り取られて開き始める。

「……ともにいこう。もうお互いに、逃げることはないよ」

 深くそう宣言して扉に近づくと、すぐにその扉が何なのかを理解することができた。
 近くに転がった「錫野」の標識がそれを否が応でも語っていて、先程は侵入を拒絶された実家の入り口そのものである。今度はそれが口を開けたままあり続けていて、闇の中から手招きが見え隠れする。

 一瞬ドキリと心臓が高鳴るが、けれども漸くこの長い妄想の世界の最奥に近づいたことに安堵し、僕は暗夜の世界に足を踏み込んだ。

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