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コーヒーミル・メリーゴーランド

わたしの家には、今どき珍しくなった、手動のコーヒーミルがある。
回る取っ手が差し込まれた銀色の受け皿と、引き出しがついた木製の土台からなるそれは、さほど大きくないのにずっしり重い。取っ手をまわすと、ごろごろがらがらと鈍い音がする。受け皿の中を覗くと、取っ手の根元は多角形の刃物状になっていて、受け皿の根元のすりこ木になった穴に収まっている。受け皿に出された豆は、取っ手が回されると、この部分ですり潰されて粉になり、穴を伝って土台の引き出しの中に落ちる。コーヒーを淹れるときには、この引き出しを開けてこれをフィルターに移す。いたって単純だけれど、合理的な仕組みである。
コーヒーミルを買ってきたのは若かりし母親だ。渋くていいでしょう、などとといいつつもそれは長らく使われることはなく、わたしの記憶が正しければ軽く十年ほどキッチンで埃を被っていた。先日の掃除の際、書類の束や調味料の袋の下から発見され、遅咲きの大活躍をみせているというわけである。

コーヒーミルでコーヒーを淹れる。なんだか暑くなってきたので、最近は専らアイスコーヒーだ。
イタリアンローストというらしい、黒くていかにもぎゅっと苦そうな香りの豆をコーヒースプーンに一杯とり、受け皿にあける。ちなみに、この銅でできたスプーンもまた母の蒐集物である。
からからと豆をかるく均してから、取っ手を時計まわりに回す。すると鈍くて軽い、ごりごりした手触りと音がする。それとともにつやつやした豆たちが、浮き沈みし、すこし反発しながらおとなしく吸い込まれていく。
ゆったりと取っ手が回転すると、浮き沈みする豆たち。なぜかメリーゴーランドを思い出させる光景である。夢の国でぐるぐる回る、それだけでなんだか楽しくなるメリーゴーランド。取っ手をぐるぐる回す、するとおいしいコーヒー(の素)ができる。なんだか似ていませんか?
そんなことをぼんやり考えていると、メリーゴーランドから妄想がはじまる。ぐるぐる回せばおいしく楽しくなるコーヒーミルで、わたしに蔓延るもやもやまでもまとめて挽いてしまえたなら。

自分のなかのもやもや。例えば、面接の結果連絡が来ないとか、今も暑くてだるいのに八月はどうなってしまうんだとか、卒論はまったく進んでいないとか、あと一年足らずでモラトリアムが終わってしまう恐怖とかいったもの。こいつらはまとめて将来に向けた「漠然とした不安」の正体、諸悪の根源である。
そういった「漠然とした不安」たちをまとめてミルにざざっとあけて、手ずから思いっきりごりごり挽いて細かくしてしまいたい。メリーゴーランドにかけてやるのだ。ぐるぐる浮き沈みしながら致命傷を負ったそいつらに、熱湯でとどめをさしてしまいたい。濾されて有象無象の液体になったそれを氷でめちゃめちゃに冷やせば、アイスコーヒーもどきの完成である。牛乳を淹れればアイスカフェオレもどき、それにキャラメルソースを入れればアイスキャラメルマキアートもどきもできてしまう。心の中にあれば重苦しいだけの「漠然とした不安」も、コーヒーもどきになってしまえばわたしの敵ではない。勝敗は決まっている。ええい、一気に飲み干してくれるわ!!

――と、ここまで考えたところで我に返る。くだらない、寒い、しんどい、そしてあまりにも面白くない。
そんな馬鹿げた空想をしているうちに、取っ手の手触りと音がふっと軽くなった。最後の一粒を挽きおわったのだ。
ドリッパーの上にフィルターを敷き、そこに挽いた豆の粉をあけ、少量の熱湯で蒸らす。その上から改めて熱湯を回しかけ、下にセットしてある氷入りのサーバーにコーヒーがぽたぽたと落ちる。氷がジュッ、カランと溶け、あっという間にガラスのサーバーが汗をかく。

完成したアイスコーヒーはさっぱりと苦く、香りがよい。これを飲みながら、「漠然とした不安」でできたコーヒーもどき、ぐっと飲みほしたところできっとまずいから苦行だろうな、そしてお腹を壊すんだろうなと、そこまでいったら結局負けじゃないかと、またつまらないことを考える。夢の国育ちのメリーゴーランドも、やっぱりおいしいコーヒー豆でやらないと効果はないみたいだ。

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