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今この瞬間、この人生を生きている奇跡

Brightureの松井です。
昨日Twitterにて告知させて頂きましたが、Conel Marnito 先生が昨日6月24日、現地時間午後12時に逝去しました。まだ25歳の若さでした。

ナイスガイ

Conel 先生を一言で言い表すと、「ナイスガイ」でした。彼を雇用したのは2019年でしたが、すぐに会社に溶け込み、みんなから慕われていました。教えるのもうまく、すぐにアカデミックアドバイザーに昇格しました。

今年4月某日ライチタイム。
2019年のクリスマスパーティにて

僕は、彼に対してシャイという印象を抱いていたのですが、実は相当なふざけん坊で、冗談ばかり言っていたようです。それでいて人当たりが柔らかく、同僚たちからも生徒さん達からも慕われていました。パンデミック以降会えなくなった生徒さんたちともネットでやり取りを続け、お互いに気に入ったNetfixの番組などを共有していたようです。

一家の大黒柱だった

フィリピンでは、まだやっと20歳を過ぎたばかりの若者が、家計を負担したり、親の住宅ローンや兄弟の学費を払っているといったことがよくあります。

Conel 先生も例外ではありませんでした。

聞くところによると、Brightureに就職する直前に実家が火災に遭い、その修繕費用を支払いを負担していたようです。また、その少し前に母親を亡くし、事実上、一家の大黒柱として家計を支えていたようです。彼のFacebookの最後の投稿は、今年の母の日にアップした、母親とのツーショットの写真でした。

パンデミック

そこにやってきたのが、2020年3月に始まったパンデミックです。僕らはすぐにオンライン授業に切り替えたのですが、自宅に高速インターネットが引いてある先生たちがほとんどいなかったため、大急ぎで広いアパートを借りると先生たちに住んでもらって、合宿生活をしながらレッスンの提供を開始しました。そんな時に、率先してレッスンを始めてくれたのがConel 先生です。

どこにも出かけられない中、みんなよく働いてくれました。おかげで、この開業以来最大の危機を、無事に乗り越えることができました。

その後、オフィスでの業務を再開した後も、定期的にオフィスへと顔を出しては、そこからレッスンを提供していました。

こちらはConel 先生と同期の仲間たち。彼らはとても仲が良く、なんだかいつも戯れあっていました。

久しぶりの平和

2021年の中盤にはワクチン接種が進んだため、開校記念祭やクリスマスパーティを2年ぶりに対面で開催しました。1年半ぶりにみんなで顔を合わせ、相当楽しかったようです。

台風22号

でも、平和って長く続いてくれないものです。

昨年暮れには台風22号がセブ島を直撃し、甚大な被害を与えました。そして、Conel 先生が修繕費用の負担をした実家はその進路上にあったため、木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったのです。実は彼、実家があるオランゴ島では仕事がなく、セブ島の叔父の家に居候して出稼ぎしていたのです。そんなわけで、家族と連絡が取れない状況が何日も続きました。

ここが実家のあったところ。

僕らも授業が提供できなくなってしまい、パンデミック以来の危機に直面しました。そこで非常用電源を動かして毎日半日だけ授業提供を再開しましたが、この時点ではまだほとんどの先生たちと連絡さえついておらず、 水や食料の確保も困難でした。

そんな中、真っ先に授業再開を申し出てくれたのがConel 先生でした。すると他の先生たちも、彼に引っ張られるように授業提供を始めてくれました。 みんな自分の家族がすごく心配だったはずでしたが、毎日淡々と授業を提供してくれました。そこで役割分担を決めて、食料確保や水の確保に奔走してもらうことで、皆が安心して働ける環境を構築しました。

幸いConel先生は数日以内に家族と連絡が取れました。また、今年の3月には、皆様からの義援金によって実家も建て直すことができました。本当にありがとうございました。

パーティタイム!

そしてこの4月には、彼の所属する部の懇親会を開催しました。ずいぶん飲んで騒いで、相当楽しかったようです。参加メンバーたちから、わざわざ僕にお礼のメッセージが届いたくらいでした。台風の危機も乗り切り、一息つけた感じでした。

Conel 先生はこの懇親会の後、パンデミック以来初めて長期休暇を取り、どこかに旅行に出かけたようでした。本当によく頑張ってくれましたので、僕らもホッとしました。

入院

そんな彼から5月のある日、「咳が止まらないので今日はお休みします」という連絡が入りました。 コロナの可能性もあるのですぐに医者に行くように申し伝えましたが、すぐに行かずに騙し騙し働いていたようです。ようやく医者に行き、 診断が下され、入院となったのが5月16日のことでした。 結核であることがわかったため、 1ヵ月間の傷病休暇を与えました。 ただこの時点ではちょっとしんどい風邪くらいの感覚だったようで、本人もあまり深刻に受け止めていませんでした。

29日には一度退院し、そのまま自宅静養となりました。抗生物質を飲みながらおとなしく過ごしていたようです。医師からの指示も、自宅静養以外は特にありませんでした。

容態悪化

ところが病状が良くならないどころか再び悪化したため、1週間後には入院となりました。ここで初めて、肝臓にも結核が転移していることが判明したのです。

次に退院したのは13日でした。今度こそ良くなるかと思ったら、さらに悪化して、ついには起きるのも難儀になってしまったのです。ところが、この時にすでに医療費が健康保険の上限を超えてしまっていたため、本人が入院を渋ったのです。そこで、Conel先生のお父様と協議の上、Brightureの方で費用を半分負担することにしました。こうしてわずか数日後には、再々入院となってしまいました。

再度入院したものの、容態は日に日に悪くなるばかりでした。21日には弟さんから電話があり、すでに危篤状態であることや、本人が治療を拒否していること、また、生まれ育ったオランゴ島に戻ることを希望していることなどが伝えられました。慌てて現地のマネージャーに様子を見ていってもらいましたが、すでに目も当てられない状況でした。かろうじて意識はあるものの会話すらままならず、もう長くないとのことでした。

そこで、緊急ミーティングを開き、社員全員にConel 先生の容態を伝えました。経過報告したマネージャは、途中から涙声で続けられませんでした。あちこちから、すすり泣きが聞こえてきました。

帰省

翌日22日には退院。その足でオランゴ島へと運ばれました。現地の有志が酸素ボンベを確保し、自宅のベッドに横たわりました。

23日には、特に仲が良かった6人を自宅へと向かわせました。まだかろうじて意識があり、少し微笑んだそうですが、もう話すこともできなかったそうです。翌日24日には次の6人を向かわせましたが、到着直前に亡くなってしまいました。現地時間のちょうど12時頃だったそうです。

誰もがかけがえのない存在

彼の訃報を目にした皆さまから、たくさんのツイートをいただきました。ありがとうございます。

これらのツイートを読んで僕がしみじみ思ったこと、 それは「誰もがかけがえのない存在なのだな」ということです。Conel 先生がいなくなった穴は頭数的にはすぐに埋められますが、本当の意味で、彼の代わりになる人など、どこにもいません。彼の授業を気にいって受講していた生徒さんたちが、彼の授業を受けることはもう二度とできませんし、彼と仲が良かった同僚たちが、冗談を交わしたり、悩み相談をしたりすることもできません。飲みに行くことも、 カラオケや外食に行くことも、もう二度とできないのです。 他の誰かと行く事は今後もあるでしょうが、それはConel 先生とは同じ体験とはなりえません。そして、残された家族は、ずっと彼のことを思い出し続けるでしょう。

僕ら一人一人の代わりはある意味いくらでもいるのですが、本当の意味においては、誰一人としていないです。

幸せを知るには悲しみがいる

人生は皮肉なもので、人間は愚かな存在です。

幸せを知るには悲しみが必要で、静寂に感謝するには騒音が必要なようです。そして、そこに「ただ存在するというだけで価値がある」ことに気がつくには、「存在がなくなってしまうこと」が必要なようです。

そして僕らは、そんな大切な気づきさえも、覚えておくことができないのです。

僕も誰か身近な人が死ぬたびに、毎日を大切に生きようという思いを新たにしますが、あっという間に日常に押し流され、いつの間にか忘れてしまいます。

願わくば、今この瞬間、この人生を生きている奇跡を大切にする気持ちを忘れずにいたいものです。

仲良しのJuliet先生と

Conel 先生を頑張り無駄にしないよう、これからも質の高いレッスンの提供を続けていこうと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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シリコンバレー、フィリピン、東京の3ヶ所に拠点を置くBrighture English Adacemy 代表、松井博が、日々あちこちで感じ…

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