「芸人アイドル状態」の檻を破壊したビートたけしは後輩に憧れられる
20年近く前、ある日の『エンタの神様』のこと。インパルスのあるコントで板倉が堤下をピストルで撃ち殺して終わる(もちろんコント内で)といった内容のものがあった。
それ自体がギャグだとか、シュールに笑いを取りに行ったようには見えなかった。事実、エンタのお客の声も戸惑いのそれだった。
当時の光景を見て、子どもながらに「ああ、たけしになりたかったんだ」と理解した。正確には「武になりたかった」である。
今更言うまでもなく、ビートたけしに憧れる芸人は多い。同じBIG3の明石家さんまとタモリに比べ、彼に恋焦がれてお笑いを目指した人は多い。
ビートたけしになりたい若手と、松本人志のフォロワーは一時期のお笑い志望者の鉄板だった。
今、何かと騒がれている松本人志のフォロワーは「お笑いを追求して突き詰めている松ちゃん」に憧れていると思う。
対して、ビートたけしに憧れている人は「北野武にもなれるビートたけし」へのリスペクトだと思う。
本来、芸人になって売れるような人は、喜怒哀楽のすべてを表現できる。
毒舌芸人が「怒」の部分だけでなく、どこまで話して良いかの「哀」、すなわち人の心の哀しみを熟知していることからも分かる。
しかし、芸人が小説を書いたり映画を撮ると「芸人のくせに……」という非難が起こる。これが「芸人アイドル現象」だ。
アイドルが本気で俳優業を目指すと掌を返したり、グループを脱退した途端、歌唱力やダンススキルを馬鹿にすることと同じ現象が芸人にも起こる。
「芸人なんだから笑わせてれば良いんだよ」という檻だ。
ビートたけしは役者として悪人やアウトローを数多く演じ、遂には北野武の名義で映画監督になった。
手段を選ばない刑事の『その男、凶暴につき』、虚無感と死の匂いがする『ソナチネ』、バイク事故を経て『キッズ・リターン』では青春の持つ儚さと強さを演出した。
初期集大成の『HANA-BI』では「花=生きることや愛」と「火=死ぬことや暴力」を描き39年ぶりに日本映画にヴェネチア国際映画祭の金獅子賞(グランプリ)を引き寄せた。
その後も暖かくて切ない『菊次郎の夏』や、時代劇の斬新なリメイク『座頭市』、ヤクザの抗争をアート式に描く『アウトレイジ』シリーズを監督。新作『首』では本能寺の変を題材に、男の嫉妬という現代的な心情に挑んだ。
本来、喜怒哀楽を目いっぱい併せ持つ芸人に対する「喜怒哀楽の喜と楽だけで良い」という心ない声。
それを黙らせたからこそ、ビートたけし/北野武は若手から尊敬を受けている。俺もあの人みたいになりたいと思う芸人は後を経たない。
私は子どもの頃、テレビでビートたけしを見て「芸人に見えない、怖い人」と思っていた。私はツービートもひょうきん族も世代ではない。
物心ついた自分が初めて見たビートたけしは「映画で何かすごい賞を海外から貰ったらしいお笑いの大御所」だった。
でも今こそ思う。喜びも悲しみも、感情の全てを表現できるたけしは本当の意味で芸達者なのだ。
あの時、見る人をギョッとさせた板倉の銃声は、芸人をただの笑われ者に押し込めるなという心の声だったのだ。
その檻をぶち壊したたけしは、それは憧れられる筈である。