この粘り強さ、見習いたい『文盲』アゴタ・クリストフが回答する「人はどのようにして作家になるのか?」

 ベルリンでは、その日の夜、朗読の夕べが開かれる。人々が集まってきて、わたしに会い、わたしの声を聞き、わたしに質問を投げかけるのだという。わたしの本について、人生について、わたしが作家になった経緯についてーー。さえて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念を決して失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。

アゴタ・クリストフ『文盲』、白水社、2014年


ズバリ「人はどのようにして作家になるのか」というタイトル。アゴタ・クリストフの作家になるまでの経歴についての章。
いやもう全文引用したいくらいにはすごい、母語でないフランス語を学び、戯曲を書いたり、小説を書いたり。その原稿が溜まって、自分でも何だったか忘れてしまっても書くという。短い、キレッキレの文章を読んでいると本当に、この作者のこれでもか!という姿勢に圧倒される。自分なんてまだまだと、発破をかけてもらってる気がする。
後に『悪童日記』となる文章を何度も、何度も手直ししてとうとう人に見せられるという下りは、文章の書き方を勉強し始めたこちらに、刺激になる。どんな人でも苦労するのだって、ないところからあるものを書き出すのは、創り出すのは大変な作業なのだ。
やる気をなくして、上手くいかないと弱音を吐く自分の背筋が伸びる。下記がその『悪童日記』についての下り。


わたしは子供時代の思い出にもとづく短いテクストを書き始める。一本、また一本。それらの短いテクストがある日まとまって、一冊の本になるとは、当時わたしは思い描いてすらいなかった。ところが、それから二年経ったとき、私の机の上には、きちんと発端と結末がある一貫した物語、まぎれもなく小説のようなものの書き込まれたノートブックが載っていた。それですべてが完了していたわけではない。その後、わたしは原稿をタイプライターで打ち直し、修正を加え、改めてタイプライターで打ち、余計な部分をすべて削除し、これでもか、これでもかと修正を加え、その果にようやく、これなら人に見せられることができると思えるテクストを仕上げたのだった。

アゴタ・クリストフ『文盲』より、同上

もう一つ、アゴタ・クリストフの『文盲』で引用して置きたいものが。それは彼女が書く言葉について。「母語と敵語」より。

最初のうち、言語は一つしかなかった。物体、品物、感情、色彩、夢、手紙、本、新聞がとりもなおさずその言語だった。
 当時のわたしは、別の言語が存在し得るとは、ひとりの人間がわたしには意味不明の単語を口にすることがあり得るとは、想像することもできなかった。

アゴタ・クリストフ『文盲』より、同上


わたしはフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば誤報を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなけれがならない。
 そんな理由から、わたしはフランス語をもまた、適語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。

アゴタ・クリストフ『文盲』より、同上

アゴタ・クリストフはハンガリー出身で、冷戦期にオーストリアを経由しスイスに亡命し、移住する。
作家にとっての敵語はまずロシア語、ソ連という大国の言葉として学ぶけれども、教師も生徒もやる気がなかった。分かりやすくアイデンティティを攻撃してくる適語としてのロシア語。
もう一つが、習得し使いこなし、出版までにこぎつけたフランス語。これがじわじわと母語を殺してくる、ロシア語よりも難しい適語。

日本という社会では、母語と国籍が一致している立場の人が大半で、何かを発表するために、生活するために言語を選択する苦労はほぼ無縁と言って社会差し支えないだろう。
そういうマジョリティの特権に生まれてからずーっと使っている身分では、この母語でない言葉を習得したら、その後母語がじわじわ死んでいくというのはどういう心理なのか理解も想像もしにくい。

ただ言えるのは稀有な名作『悪童日記』は作品自体が、感情を排した徹底した描写で語る作品だけれども、その作品自体が母語でない外国語で語られた作品という二重構造だと言うこと。このために、『悪童日記』は読みだしたら胸ぐらをつかまれて一気に読んでしまうパワーがあるのかなと、ふとこの作者の自伝を読んでて思った。

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