この粘り強さ、見習いたい『文盲』アゴタ・クリストフが回答する「人はどのようにして作家になるのか?」
ズバリ「人はどのようにして作家になるのか」というタイトル。アゴタ・クリストフの作家になるまでの経歴についての章。
いやもう全文引用したいくらいにはすごい、母語でないフランス語を学び、戯曲を書いたり、小説を書いたり。その原稿が溜まって、自分でも何だったか忘れてしまっても書くという。短い、キレッキレの文章を読んでいると本当に、この作者のこれでもか!という姿勢に圧倒される。自分なんてまだまだと、発破をかけてもらってる気がする。
後に『悪童日記』となる文章を何度も、何度も手直ししてとうとう人に見せられるという下りは、文章の書き方を勉強し始めたこちらに、刺激になる。どんな人でも苦労するのだって、ないところからあるものを書き出すのは、創り出すのは大変な作業なのだ。
やる気をなくして、上手くいかないと弱音を吐く自分の背筋が伸びる。下記がその『悪童日記』についての下り。
もう一つ、アゴタ・クリストフの『文盲』で引用して置きたいものが。それは彼女が書く言葉について。「母語と敵語」より。
アゴタ・クリストフはハンガリー出身で、冷戦期にオーストリアを経由しスイスに亡命し、移住する。
作家にとっての敵語はまずロシア語、ソ連という大国の言葉として学ぶけれども、教師も生徒もやる気がなかった。分かりやすくアイデンティティを攻撃してくる適語としてのロシア語。
もう一つが、習得し使いこなし、出版までにこぎつけたフランス語。これがじわじわと母語を殺してくる、ロシア語よりも難しい適語。
日本という社会では、母語と国籍が一致している立場の人が大半で、何かを発表するために、生活するために言語を選択する苦労はほぼ無縁と言って社会差し支えないだろう。
そういうマジョリティの特権に生まれてからずーっと使っている身分では、この母語でない言葉を習得したら、その後母語がじわじわ死んでいくというのはどういう心理なのか理解も想像もしにくい。
ただ言えるのは稀有な名作『悪童日記』は作品自体が、感情を排した徹底した描写で語る作品だけれども、その作品自体が母語でない外国語で語られた作品という二重構造だと言うこと。このために、『悪童日記』は読みだしたら胸ぐらをつかまれて一気に読んでしまうパワーがあるのかなと、ふとこの作者の自伝を読んでて思った。
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