芝生の上 漂う空気

小説を書きます。

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最近の記事

甘雲

 大学が始まってしばらく経ったなんの変哲もない4月の水曜日に彼女を初めてみかけた。大学の最寄りの駅から乗り込んだバスの中で知り合ったばかりの知人に話しかけられ、しょうがなく読んでいた本を閉じて、隣に腰掛けてきた彼の話を聞いていた。日曜の朝方にゆったりと鳴き出す優雅で控えめな年寄りの鳩の鳴き声を心地よい音量1とすると、彼は力の限り叫ぶ若いウジュケイのように元気一杯であって、僕の適当とするボリュームからは10か20は音量がデカかった。僕はヤドカリであったら深く自分の住処の貝の根元

    • #33 今の僕ら 出発

       眠る前に、妻が僕よりも先に起きた時の為に、寝室のドアの内側に『ショーが泊まりに来ています。ソファで寝ています。明日、病院へ一緒にいってくれるそうです』とメモを貼った。 目覚ましがなる前に僕は目覚め、隣に妻が寝ているのを確かめて、部屋を出た。ショーはソファに丸まって寝ていた。 僕は湯を沸かし、緑茶を入れて、米を五合洗い炊飯器にセットした。時刻は朝の四時過ぎだった。予定では六時前には家を出るつもりでいた。僕は上着を羽織り、玄関脇にまとめた荷物を持ち、まだ薄暗い外へ出て、星が

      • #32 今の僕ら ユリの場合⑦ スミレ

         病室に向かってくる母親達の気配を超特級の第六感で捉えて素早くミカのベッドから離れた者がいた。スミレである。彼女はミカと同い年の同じ宗派の信者の娘であったが、集会でミカとあっても周りには会釈するだけの仲のように見せかけていた。これは、教育に熱心な母親が高額な塾に通わせている娘よりもミカの方が学力が高かったことに対する明後日の方向の嫉妬を捻じ曲げて、様々な理由をつけてミカとは親しくするなと高圧的に諭してきたことがあったからである。まだ二人が小学生の時の話である。スミレの母親には

        • #31 今の僕ら ユリの場合⑥

          ユリはレジに戻り、待たせてしまったお客様に頭を下げて会計の続きをした。お客の女性は突如、持ち場を離れたユリに不快な様子を見せるどころか(彼女は耳がよかったし、勘もよかった)「あなた、早く行きなさいな!」とわざわざ精肉売り場近くにいた店長を呼ぶことまでしてくれた。 ユリがバックヤードに戻り、手荷物をとって外へ出ると同じ協会に通う二人が軽自動車の助手席のドアを開けたまま待機していた。 「はやく!!はやく!!はやく!!」 その時に、最初にユリに声をかけてきた女性の姿はもうなかっ

          #30 今の僕ら ユリの場合⑤

          エリは賢い女性だけれど、どうにかしてやはり抜けているところがある。それは、例えば、自分の父親が母と離婚し飽きもせずにその後、結婚を繰り返していたことを知ってはいたが、自分の家族もまた別の家族の別れの後に成り立っていたことには気が付いていなかったような甘さである。エリは自分の父親の最初の結婚は自分の母であると思っていたが、それは違う。エリがそう思い込んでいたのは、父親が元の家庭のことを匂わせもせず、残してきた子供など居ないように振る舞っていたからに違いないのだけれど。それは、エ

          #30 今の僕ら ユリの場合⑤

          #29 今の僕ら ユリの場合④

          娘のミカはお腹の子供の父親が誰なのかを私には話さなかった。ただ生理が来ない為に妊娠したと思うこと、産みたい意思を私に伝えそれからは貝のように黙り込んでしまったが気丈にもその後も学校には通っていた。「今年」は受験はしない、お金が無駄になってしまうから、と手紙で私に伝えてきた。 今、思えば既にミカはその時にはこの家を出ることを決めていたに違いなかった。 そう思ってユリは自分を笑った。妊娠し、結婚すれば家から出て行くのは「普通」のことではないか? ユリは娘を妊娠させた相手の両

          #29 今の僕ら ユリの場合④

          メロゴールド

           バイトの神山くんとその友人の杉崎くんを家まで送り届けた店長は心臓をばくばくさせたまま家に帰った。妻と娘はもう寝ている時間だ。玄関のドアをそっと閉め、あまり音を立てないようにリビングを抜けキッチンのシンクの前に立った。帰ってくる夫の為に灯された間接照明は、いつもなら心地よい温かみを感じさせてくれる癒やしの明かりであったのだが、今夜に限っては暗すぎた。店長は、周りの照明を付けてまわり、逆にその白すぎる光の中で落ち着かない気分をより一層かき立ててしまった。 (一体全体にあれは何

          #26 今の僕ら ユリの場合③

          ユリがミカの出産後に出会った『あの人達』は結局のところユリを彼女たちの信じる宗教団体へ勧誘さえしてこなかった。保育園で知り合った奥さん連中に「ユリも『あの人達』と同じ宗教の方なのか?」ということをかなり遠回しに聞かれた時に、やっと(ああ、彼女たちは只の近所の仲良し三人組という訳ではないのだな、と)理解した程だ。 ユリと偶然、公園で出会った三人は、カヨ、シゲ、タミさんといい男の子ばかりをそれぞれ四人、三人、三人と育て上げた強者であった。ユリと出会った頃の三人はやっと下の子達が

          #26 今の僕ら ユリの場合③

          #28 今の僕ら

          僕ら三人が妹の力に連れられてショーが行った喫茶店に行き、化け物を見た二日後に叔母はその喫茶店の店長から連絡を受けた。勿論、叔母は最初、彼等の話すことの意味が全く理解出来なかった。 まず、店長を名乗る男性は、ショーの母親の家に何度も連絡をしているが、誰もつかまらないこと。それで、箱をショーの家に送るように連絡をくれた貴女の家に電話しているのですが、貴女とショーの母親は知り合いであるのか?と叔母は聞かれた。「知り合いというか甥とショーが友達なのだ」と叔母は説明した。店長は人の良

          #27 今の僕ら

          僕の妹に何やら不思議な力があるのを僕はもう認めていたが、ショーはそれをまやかしだと言ってなかなか認めて居なかった。お祖母ちゃまの葬式で何かその思いに変化があったようだけれど、それを決定づけたのはその翌週に叔母の家で妹が叔母さんと叔父さんに録音して貰ったテープを聴いていた時だった。叔父と叔母は隣の祖父母の家に来たお客さんの相手をしにいってしまっていて家には僕ら三人だけだった。隣からは賑やかな音楽と笑い声が聞こえていた。 妹は生意気そうな顔をしてカセットを僕とショーの目の前でラ

          #25 今の僕ら ユリの場合②

           妻のユリが妙な女達と付き合い始めたことを夫は快く思っていなかったが、家で彼女達にたまに遭えば、お得意の営業スマイルを浮かべ、至らない夫婦を手助けしてくれている事へ感謝を述べ、忙しく家を空けがちな自分としては心強い旨を述べていたが、内心では、自分達の親よりも年嵩な女達を鬱陶しいと思っていた。妻のユリは昔から年上を転がすのが上手かった。あのおばさん達も上手いことユリの猫かぶりに騙されているのだろう、なにか後々こじらせなきゃいいが、夫は自分の性質を棚に上げて、そんな風に思っていた

          #25 今の僕ら ユリの場合②

          #24 今の僕ら ユリの場合①

           「調子にのっていた」  ユリが自分の若い時代を一言で言い表せと言われたならこう答える。運良く「悪い手」からすり抜ける者の方が多いのは分かっている。ユリも自分はそちら側にいるのだと思っていた。でも、ユリは調子に乗っていた。下手を打って穴に墜ちた。そちら側からこちら側への転落は早く、その穴の中で自分に主導権はなかった。  美貌とスタイルに恵まれたユリは幼少期からちやほやされることに慣れていた。美貌といっても、例えば元夫の姉のエリのような「美しさ」が備わって居た訳ではない。ユ

          #24 今の僕ら ユリの場合①

          #23 今の僕ら エリの場合

           弟が姉であるエリに「離婚するかもしれない」と相談ではなく、事後報告のような態度でいたことに対するエリの苛立ちは同じような立場にあったものにしかわからないであろう。  離婚の理由は妻であるユリのある宗教への傾倒であるらしいが、エリの調べではその宗教団体に特に目立った問題はなかった。エリからすれば、問題を孕んでいるのは弟のほうであったが、これは今言い出してもキリのないことで、ただただ、姉としてはどんな理由があろうがなかろうが、いつかは訪れる別れであったのだろう、それが選りに選

          #23 今の僕ら エリの場合

          #22 今の僕ら スミとカメヨ②

          「実際に使って見てください」とスタンガンをくれた部下は言った。彼女は病院のベッドの上で包みを開き、スタンガンのスイッチの入れ方、押し付け方を見せてくれた。 「こういったものは相手に奪われてしまえば、逆に私達を傷付ける武器になります。ですから、相手にこれらを持っていることを悟られることがないことが一番重要です。脅しとして機能はしません。大体の敵対者にとって、私達のようなフィジカルにおいて弱い対象からこのようなものを取り上げることは訳もないことですから」そういって、彼女はスタンガ

          #22 今の僕ら スミとカメヨ②

          #21 今の僕ら スミとカメヨ①

          長年、H家の住み込みの家政婦として仕えていたカメヨは、H家の一人娘の結婚によりT市に建てられた新居への移動が決まった。スミは月に一度は必ず会って食事をする仲であったカメヨからその報告を受け、彼女を誇らしく思うと共に心細さが生じた。離婚して、なんとか税理士となり、それが性にあっていたのか、その後、会計士の資格を得て大企業の監査会計士にまで上り詰めたスミは周りからは「出来る女」と思われていたが、その実情は空虚で味気なく不安に満ちた孤独なものであった。仕事に追われる毎日の中で心から

          #21 今の僕ら スミとカメヨ①

          #20 今の僕ら ショーのためにうけとって②

          ※暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意下さい。 ____________________ 黒く乾いた長い指が俺の目の上の柔らかい皮膚を切り裂くと、血が流れ出て俺の片目の視界を遮った。固く尖った黒い指は俺の顔を這い回り、指は俺の喉元まで伸びていくと、再び、鋭い爪を俺の皮膚に押し付けた。 「箱は何処だ?」老婦人でもない人物が俺の耳元で囁いた。(助けて…!)と俺は心の中で叫んだ。恐怖で声は出なかった。ヒューヒューと空気が喉から漏れるだけで、今度は掴まれた手を引き剥が

          #20 今の僕ら ショーのためにうけとって②