見出し画像

夏の思い出


#創作大賞2023 #エッセイ部門


 昭和41年7月20日

 真っ青な空に蝉の鳴き声が響く。

 金沢市の市バス、円光寺の停留所。

 目の前で兄の体に市バスの大きな車輪が乗り上げ、兄は苦しそうに手足をバタバタと動かしていた。
 車掌さんがバスを降りて兄の様子を確認しながら運転手に何か伝えている。

 私は(早く車輪を退かして!)と心の中で叫んでいた。

 顔見知りだったお菓子屋のおばちゃんが「早くお母さんに知らせておいで!」と叫んだ。

 私は無我夢中で走った。

 家に着くと母は隣のおばさんと立ち話をしていた。

 「お兄ちゃんがバスに轢かれた!お菓子屋のおばちゃんがママに知らせておいでって言ってた!」

 母は慌てて出ていった。

 家で留守番をすることになった私は、その日の夜、兄が亡くなったことを知った。 

 私は名古屋市で産まれたが、父親の転勤で、前の年から金沢市円光寺の二階建て長屋に住んでいた。

 家の周りには田んぼがあり、少し歩くと牛にも会える自然の豊かな町だった。

 兄とまだ0才の妹の3人兄妹で、 兄は当時5才、私は4才だった。

 私はいつも兄と一緒で、小川を飛び越えたり、田んぼでおたまじゃくしや蛙を捕ったりして遊んでいた。

 もう時効だと思うので白状するが、いつも遊んでいた4〜5人が前述のお菓子屋でアイスクリームを万引きしようとして、店のおばちゃんに見付かり、叱られたことがあり、顔馴染みになっていたのだ。

 兄の葬儀は自宅の長屋で行われた。兄と通っていた「伏見幼稚園」の先生が弔問に来てくれたことを覚えている。私は階段の途中に座って様子を見ていた。

 葬儀が終わり、出棺の際に私は兄の遺影を持つように言われたが、頑なに拒否した。

 兄が居なくなることを受け入れたくない!その一心だった。

 翌年、私達家族は名古屋市に戻って来た。

 父が金沢市へ転勤した約2年の中で妹が誕生して兄が亡くなった。名古屋市に戻って来た人数は同じでも全く変わってしまった。
 
  私は24才の時、縁があって福井県の会社に転職した。金沢市まで車で1時間ちょっとの距離である。

 ある時、円光寺へ行ってみた。兄が亡くなった当時、停留所は浮島の様になっていたが、場所が少し変わっていた。例のお菓子屋さん、住んでいた長屋、それに幼稚園は健在で、何故かホッとした。

 以来、金沢市を訪問した際には円光寺の市バス停留所を訪れて、手を合わせいる。大好きだった兄とつながるひと時を感じながら。

 あの夏から57年がたとうとしている。それでも、あの日のことは鮮明に覚えている。

 ただ寂しいことに、あのお菓子屋さんは空き家になり、長屋は10年以上前に取り壊された。あの頃あった田んぼも牛舎も住宅に置き換わっている。

(写真中央の木が植わっている場所にバス停があった。令和5年5月2日撮影)

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?