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青ジソと父の受診

 庭のプランターのシソの種は、そこかしこに飛び散って、春になるといろいろな場所で伸びる。刺身を買ってきたら、母はキンチョールと小さなザルを持ち庭に出て、シソの葉を取る。刺身の皿には千切りにした大根と魚ひと切れに一枚ずつあろうかという数の大葉が添えられた。「巻いて食べろ」と母は言う。

 父は還暦を過ぎてリタイヤしてからリウマチで整形外科にかかるようになった。クリニックで紹介を受け、隣町の国立病院の専門医にかかるようになって新薬を処方され、だんだん症状は治まってきていた。すでに物忘れが始まり、運転を心配していた母に頼まれて、一度国立病院に同行した。
 その後すぐ専門医の退職に伴って近所の整形外科クリニックを紹介され、そちらで同じ薬をもらうことになった。近所になったのでいったん安心した。

 だが、その後がいけない。痛みが治まっているのもあって薬の飲み忘れが増えていく。飲み忘れを母に指摘されると「もう治った」と言う。薬で調整しているだけだから、さすがにしばらく飲まないと痛くなってくる。仕方なく受診する。
 きちんと薬を飲むよう言われるはずだが先生の話など何も覚えていない。繁盛クリニックで待ち時間が長く、さらに調剤薬局で待たされる。近いのに半日かかる。余計行きたくなくなる、の悪循環。

 免許返納してからは歩いて年に数回受診していた。薬はひと月分しか出ていないから、もちろん全然足りない。

 一緒に車で行こうかと言っても嫌がる。だったら薬をもらって来いと、玄関から母と二人で送り出した日もあった。付き添いは拒んだのに「なんて言ったらいいんだ?」と情けなさそうに言ったことを覚えている。
 付き添いが必要な状態ではないという自尊心と、家族から物忘れを医師に知らされたくないのだろうと想像していた。
 物忘れ外来は勧めても「必要ない」と堅い守り。脳を見てもらおうという新しい行動のむずかしさは整形外科クリニック通いとは大きな差がある。そちらはおいおいとして、整形外科は痛くなるから行ってもらわなければ本人と家族が困る。

 ひとりで受診するのはもう無理だった。もっと前から無理だと思っていたが、本人が嫌がるので私はただ萎えていたのだ。
 しかたない、頑張り時だ。

 朝食後、診察券を持って受付を済ませ番号票をもらう。50分待ちと聞いて帰り、その時間に合わせて父に支度をしてもらう。父を車に乗せてクリニックに連れて行く。すぐ呼ばれる。「先生とリウマチの話を聴く約束してる。余計なことは言わないから」と適当なことを言って、診察室に一緒に入った。
 薬局では処方箋を出して、あとで買い物ついでに私が取りに来るから、と待たずに帰る。半日かかっていたものが、1時間かからなかった。

 初めのうちは毎回、一緒に行くのかと怪訝そうだったが、2回目からは「毎回一緒に行ってるじゃない」と既成事実化したみた。飲み忘れも母が声掛けするようになって減ったが、まだ残薬はある。それを見てはまだ薬あるからいいと言うので、残薬を少し隠したりの小技は使いながらも「治らない病気だから、薬を飲んでないと痛くなる」としつこく言った。
 医師の前で、いい格好をしたがる父の言葉を遮らない。父が退室後に「今あったことはすべて忘れている」ことはすぐに医師、看護師に伝えた。

 数回で一緒に受診するスタイルはできあがった。結局、受診したことも帰ればすぐ忘れるから、逆にそれほど気を使う必要がなくなっていく。


 夏、シソには小さな緑のショウリョウバッタが引っ付いていて、近寄ると何匹も飛び跳ねた。秋口には香りが薄れ、食べられる固い葉っぱ程度になる。さすがに美味しくないけれど、なんとかならないかと母は言う。服でも雑貨でも古いものを、何かに使えないかといつも言う。

 料理番組でシソソースをみかけ、葉っぱをたくさんもらって帰ることにした。ニンニク、味噌、オイルと一緒にミキサーにかけた。大葉はほんのり香り、ニンニクのほうがつよいけれど、パスタにあえたらフレッシュでまあまあだった。ただ、その時一度きりしか作っていない。



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