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【エッセイ】完璧主義者がハードルを上げまくり、日間賀島で自爆した話

先月、夫と知多半島にある日間賀島に日帰りで行ってきた。

昼頃に到着するというのんびりとしたスケジュールであったけれど、お昼ごはんはどこで食べようかな、ティータイムはどこでしようかなと調べては楽しみにしていた。

もちろん最初から“楽しみ!”となったわけではない。「楽しみ」という段階に至るまでには、「いや、別に行かなくていいかな。別に行きたくないかな。」という謎の抵抗期を通過せねばならないのは臆病者の定めである。今回も無事に通過した。


 日焼けしたくない夫は信じられないほど大きくて重たい折り畳み日傘を購入し、得意気だった。私は呆れた。この男、雨が降っていても傘を忘れてくるような失くしもの常習犯なのである。日間賀島で忘れ去られる運命か、無事に連れて帰られたとしても、忘れっぽいこの男に、二度と存在を思い出してもらえないであろう日傘が気の毒になったが、それくらい夫は本気なのだ。本気で日焼けしないぞという決意で、この日傘を買ったのだ。気に入った、その心意気。その情熱に便乗しないなんてかえって失礼だろうと、一緒にその巨大な日傘に守られようと決意する。この大きさなら2人くらい余裕なはずだ。


 当日、正午前に島に降り立った。

まずは腹ごしらえをと、すぐに西港近くにある「乙姫」という食堂で昼食をとる。夫はかき揚げ定食、私は刺身定食を選んだ。夫は食事中に会話を楽しまず、さっさと食べ終わってしまうので大変つまらない。私は人目が気になって外食は落ち着かないことが多いので、会話をして気を紛らわせたいのである。出先でくらい会話を楽しめないものでしょうかね、と恨めしく思いながら黙々と箸をすすめていたら、隣りのテーブルの男女の会話も悲しいほど一方通行だった。


 女性「タコぶつ美味しそうだねー、追加で頼んでみる?」
男性「(黙々と食べながら)…ん。」
女性「これ美味しいね。あ、○○も入ってるよ」男性「(黙々と食べながら)…ん。」


 

店を出て、東側に向かって海沿いをのんびり歩く。歩くのが嫌いな夫は椅子を見つけるとすぐ座りたがり、なぜ夫が日間賀島に来たいと行ったのかがわからなくなった。

半ば義務的に「恋人ブランコ」へ行き記念撮影後、小雨が降り始めた。そういえば夫は朝から「今日は夕方から雨が降る」としつこいほど繰り返していた。小雨を察知した途端に、“だから言ったでしょう”と鼻高々に今度は「もう帰ろう」と繰り返す。

…この人物は今日を一緒に楽しむ相手ではなかっただろうか?


 時刻は13時過ぎ。食事を終えてから30分足らずしか経っていないため、ティータイムだってできない。夫のお腹がまだ満腹だからである。お腹も空いていない、これ以上歩きたくない夫は「雨が降っているから帰ろう」と繰り返す。


 帰り道の車内で、私はブチ切れていた。
こんなに長い時間をかけて行った先で、お昼ご飯を食べただけで帰ることになるとは思わなかった。その食事だって、この男は会話を楽しむこともなくさっさと済ませ、海沿いを歩けば「足が痛い。」と言い、雨が降り始めた途端に「もうお昼ご飯も食べたし、よくない?」と心なしか嬉しそうな顔をした。“これ以上何がしたいんだよ”という困ったような笑顔を見て、私は頭を抱えた。

「私は楽しもうと努力したつもりだけれど・・・これって私がおかしいの?」


 
腹が立ちすぎて、つい夫の人格を否定するようなことまで言ってしまった。

「楽しむ」ための行動だったのに、結果として私は夫の人格を否定している。その馬鹿馬鹿しさに内心気がついているのに、自分の“がっかり”した気持ちを消化できない。
人の気持ちと自分の気持ちのどちらも大切にする術を私は知らなかった。


夫にイライラしながらも、同時に「どうして私は他人に対して寛容になれないのだろう」と自責の念に苛まれる。怒るときでさえどっちつかずで、中途半端な自分に嫌気が差す。


 
そんな時期に、益田ミリさんのエッセイを読んだのだ。

はっきり覚えていないのだけれど、たしか「今日の人生」か「今日の人生2 世界がどんなに変わっても」のどちらかに、岐阜県にある図書館「みんなの森メディアコスモス」でただただ本を読むために二泊三日の旅に出かけたというエピソードがあった。衝撃だった。旅の目的が“本を読む”でいいのだということに驚き、旅に対する「力み」が抜けるのを感じた。

それでいいんだ。
そんな感じでいいんだ。
なーんだ。

自由、なんだ。
“旅”も、きっと“楽しみ方”も。
私が思ってるより自由だったんだ。


 ふと夫の言葉を思い出す。

出かけても楽しそうに見えない夫に、“あんたはいったい何を楽しみに出かけてるんだ!”と詰め寄ったらこう言われた。

「出かけた場所で何かをしたいとか、これを食べたいとかはまったくない。ただ、その場所に行けたってことで満足。」

この男の“楽しい”ハードルはどうやら異常に低かったらしい。ハードルをどんどん上げがちな私とは、そもそもの前提が違ったのである。嚙み合わないわけである。


 日間賀島に長くいたくて怒ったというよりは、三度の飯よりおやつが好きな私は、ティータイムを心底楽しみにしていたのだ。それを知っていると思っていた夫から“昼飯食べたからもう十分だろ”と言われたことがショックだったのだ。妥協案として帰り道にカフェに行こうと言ってくれたのに、「せっかく日間賀島に来たのだから、日間賀島でお茶をしなければ意味がない」と意地を張ったのはこの私だ。

「早く帰ろう」は夕方から豪雨になるという予報を考慮しての発言だったのに、私の卑屈さが“私と一緒に出掛けるのは楽しくないんだ!”という被害妄想へ結びつき、悲しくなったのだ。本当は、夫と楽しい時間を過ごしたかっただけだったのに。


 楽しむことへのハードルを下げること。
ハードルをすぐには下げられなくとも、“私はハードルを上げやすい”と理解しておくだけでも、もう少し柔軟に楽しめる自分になれるような気がした。


 日間賀島からの帰り道、食材を買いにスーパーに寄った。

買い物が終わり店内から車へ向かおうとしたら、急速に灰色になった空から滝のような激しさで雨が降り始めた。店の入口がまるで滝の裏側のようだったけれど、辺りに神秘的な雰囲気はなく、マイナスイオンの代わりに不穏な空気が立ち込めていた。

皆が不安げな表情で空を見上げる中、私は必死に夫の顔を見ないようにしていた。


 「ね?だから言ったでしょ?早く帰ってきてよかったでしょ?」


この男、やっぱりうざかった。



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