花男(僕とおばあちゃんの話)
二〇一二年の四月の初旬。僕は祖母の手伝いで桜堤公園に来ていた。
桜堤公園は福島市中心を流れる阿武隈川に隣接する公園で、春になるとソメイヨシノが一斉に咲き、辺りは花見客で一杯になる。
そんな四月の最初の週の日曜、公園で祖母が神主を務める神社の祭りが行われるのだが、前年度はあの大地震のせいで中止にせざるを得なかった。
今年の祭りも中止すべきだと祖母は考えていたのだが、祖母の意向を知った町長が二月の中頃、祖母に直談判しにきた。
「こだ時だからこそやっべきだ」
額を畳に押し付けんばかりにして町長は頭を下げた。
「頼む」
祖母はむっつりと押し黙っていたが、町長の次の言葉を聞くと、はっとしたように細い目を開いた。
「花男が現れるがもしれねーべ」
この後、町長は一時間ほどかけて観光客が戻ってくるかもしれないとか、経済効果やら様々な事を話していたが、今思えば「花男が現れるかもしれない」との言葉が祖母を動かしたのだろう。僕としては祭りの時には必ず手伝いをさせられるので中止になってくれた方が良かったのだが。
その日は朝早くからずっと手伝いをしていた私だったが、ふと気づくと一人で桜堤公園の隅にあるブールカンブレス市長記念樹の前に立っていた。先ほどまでいた祖母やボランティアの人たちはいつの間にか公園から消えていた。後で聞いたことだが、その時祖母達は河川敷の広場にいたらしい。
祖母は僕に、「大人たち全員で神輿を運ぶ。危険なのでその手伝いはしなくて良いから、その間は公園で待つように」とちゃんと言い聞かせたそうなのだが記憶にない。
子供の頃の僕は気が散りやすい性格で、ちょっと別の物に注意が向くと、人の話など全く耳に入らなくなってしまう為、学校でも集団行動からはぐれてしまう事が始終あった。更に、一体何が原因で注意がそれていたかも瞬時に忘れてしまうため、当時の僕は消えたのは自分ではなく周りの方だと思い込んでいた。
その時の僕も祖母の方が消えたのだと思い込み、祖母を探して公園をさ迷い歩いた。
堤防は歩道に桜が植えられており、約2キロに及ぶ桜のトンネルが続く。その下には屋台が並んでおり、その横に長く続く広場には花見客で溢れかえっている。
だがどこか違和感があった。
青白い顔で子供たちに焼きそばを焼いている中年男性や、上司の酌をついでいる若者、無理にはしゃいでいるように見える大学生グループ。間違いなく、皆楽しくやろうと一生懸命なのだが、何処か暗く、陰鬱で、そこで行われていることは祭りと言うよりその模倣のように思えた。乗り気でない学生が行う文化祭のような、どこか白々しい雰囲気があったのだ。客の数自体は多いだけに、その盛り上がりのなさは異様に映った。
勿論、その年は開花が遅かったというのも原因の一つではあるだろう。四月に入っているのに三分咲きにもなっていなかった。花の咲かない桜と言うのは単に味気ないだけでなく、惨めったらしい。だがそれだけではない。去年の震災の傷が未だ癒えていないのだ。
当時は、放射能による影響も、復興までの道のりもまるで見通せなかった。僕らの未来にはただ漠たる不安だけがあった。その不安を払拭するために行われた祭りだったが、作り物の明るさは不安の影を色濃くするだけだった。
僕はその祭りの様子を見ていて、この村から何かが失われてしまったのを感じていた。
きっともう僕らは二度と春の陽気を感じることも、これから一年に期待を寄せることもないのだろう。
そう思うと、目の前で繰り広げられる祭りの全てが嫌になってしまった。この辛気臭い祭りの模造から一刻も早く逃げ出してしまいたかった。
もう帰ってしまおう。そう決心すると、僕は逃げるように桜堤公園の出口に向かって歩き出した。
しかし、出口付近まで来て僕はぎょっとして足を止めた。
桜堤公園の出入口から向こうの道路の両脇には春起こししたばかりの田んぼがあり、水路から流れてくる水面に青い空が映っていて眩しいほどにきれいだった。その田んぼの中央にある共同墓地から、何やらよろめく人影が見えたのだ。
それはよたよたとした足取りながらも、ゆっくりとこちらへ向かってやってきた。
遠目からは地面を這う凧のようにも見えるそれは袴を着た初老の男だった。
酔っぱらってるのか、ふらふらとした足取りだが、どうやら踊っているらしかった。手には扇子を持ち、右に左にくるくると振り回している。おぼつかない足取りと対照的に、扇子はまるで蝶のように自在に老人の周囲を舞っている。老人はよたよたと踊りながらも、何事かを呟いていた。正直何を言ってるのかあまり正確に聞き取れなかったが、大体次のような内容であった。
「咲くよ咲くよ。
桜が咲くよ。
桜が咲けば笑顔も咲く。
こりゃこりゃどうじゃな。
よいさよいさよいさ」
老人は袴こそ立派だが、その容貌は明らかに異様で浮浪者そのものだった。
薄く禿げ上がった白髪はぼさぼさで、にっかりと笑った口元から乱杭歯が突き出ている。小さいその目は夢を見ているような、遠くを見つめているような目で何処を見ているのかもわからない。
僕はその場から逃げ出すと、公園の奥の方へ戻った。公園の奥はもう一つ出入口がある。そこから逃げ出そうとしたのだが、出入り口から顔を出したところで再び足を止めることになった。
公園奥の出入り口に併設する道路は坂になっていて、河川敷へ続いているのだが、そこから町内会の役員たちが神輿を担いでぞろぞろとこちらに向かって坂を上がってくるのが見えたのだ。その先頭には祖母がいる。
それを見て僕は自分がまた何かやらかした事に気づいた。
このままでは祖母と鉢合わせして怒られるかもしれないと思ったが、一方でもう一つの出口にはあの老人がいる。
僕はひとまず公園に戻った。老人は公園広場の東屋のある辺りにいた。そこには大学生グループがレジャーシートを広げていて、その輪の中に老人はいた。僕は老人に接触せずに公園から出られないかと、その様子をうかがうことにした。すると、妙なことに気づいた。突然和気あいあいとした場にあのような異物が入ってきたら普通ぎょっとするだろうに、大学生たちはまったく気にしていない様子だったのだ。それだけではなく、大学生グループの隣のサラリーマングループや、東屋の下にいる家族連れも、老人を見てはいない。
老人も老人で周りの様子など全く気にせず、人と人との間をすり抜けながらうまく踊っていた。だが公園は花見客でいっぱいで、足の踏み場もないほどだから、よたよた歩きの老人が踊りながらそこを歩いていて邪魔にならないわけがない。案の定、トイレから出てきたばかりの男子大学生とぶつかった。
大学生はよろめくと尻餅をついた。彼は不思議そうに辺りを見回したが、目の前にいる老人の事は目に入らないようでひたすら辺りを見回している。近くにいたレジャーシートに座った集団がどっと笑った。
「ちょっと何やってんのよ~」
「いや、何かにぶつかった」
「酔っぱらいすぎだろ。なんもないよ」
老人はと言えば、若者たちを気にする風でもなく、踊りながら徐々に僕のいる公園広場の奥の方へ向かってくる。
或いは、逃げるべきだったのかもしれない。
だが僕はどういうわけか、その様子を見ている内に老人に興味が湧いてきた。
あれは何なのだろう。
大学生にぶつかった後は、誰にも接触せず、辛気臭そうな顔で花見をしている客たちの間を妖精のようにすり抜け、ひらりひらりと扇子を掌で躍らせている。僕はその老人が人ではない何かなのではないかと思い始めていた。
老人は踊りながらとうとう、僕の前までやってきた。
ただ、僕の事が見えているかどうかはわからない。小さいその目は近くでみても何を見ているか分からなかった。
老人は僕の眼の前にある市長記念樹の前に立った。
それはフランス東部のブールカンブレスの市長が桜堤公園に来年したときに記念に植えられたもので、地元民に長年愛されてきた。しかし10年ほど前に新しくなった管理者がてんぐ巣病の兆候を見逃がしたために桜が咲かなくなった。
死にゆくだけの桜の前で、老人は屈みこんだ。具合でも悪くなったのかと私が心配して近づくと、突然ぱっと体を起こすと両手を広げて叫んだ。
「それ!」
老人の掛け声と同時に僕は記念樹を見上げたが、一見変わったところはなかった。枯れ木が相も変わらず花も咲かせず立ち尽くしているだけだ。
だが、よくよく見てみると一番下の枝に、薄ピンクの蕾が見えた。
はて、先ほどまであんなものはあっただろうか。まさかこの老人が?
などと悩む暇を与えず老人は再び叫んだ。
「やあ!」
老人が扇子をひらりと広げると、桜の蕾が一気に咲いた。続いて老人は扇子を掌の上で器用にくるくるとまわした。
「それ!」
扇子の動きに合わせて、死んだはずの桜の木に花が咲き、たちまちその木だけ桜が満開となった。
老人はそれを見てにっこり笑うと、くるくると記念樹の周りを周って歌いだした。
「咲いた咲いた。桜が咲いた。
めでたいな。ああ、めでたいな」
老人は今度は隣の桜へ移動すると、扇子をひらひらと靡かせた。そして老人がひらりと扇子を掌で躍らせると、その桜の木も満開の花を咲かせた。そしてまた隣の桜の木へ移動した。
この異様な事態に気づいた客たちから、わっと歓声が上がった。
「えー、何々?」
「なんだよこれ?」
桜が咲くたびに子供も大人も顔を輝かせていく。
僕も嬉しくなってしまった。
老人は誰よりも嬉しそうな顔で踊っていた。
「咲いた咲いた。
桜が咲いた。
桜が咲けば笑顔も咲く。
こりゃこりゃどうじゃな。
よいさよいさよいさ」
僕はいつの間にか、老人と一緒に踊っていた。
老人が踊るたびに、桜が咲く。そして桜が咲くたびに、花見客たちに笑顔になった。それは今までの白々しい模造品の笑顔ではない。本物の笑顔だ。
「咲いたよ咲いた。
桜が咲いた。
めでたや
めでた。
咲いてこそ桜はめでたけれ。
散るよ散るよ。
桜が散るよ。
めでたや
めでた。
散ればこそ桜はめでたけれ。
桜よ散れ散れ。
めでたや
めでた」
踊りながら公園を一周すると、僕らは最初の記念樹の前に戻っていた。
その頃には公園の桜は全て散っていて、地面に桜色の絨毯が広がっていた。
何時の間にか老人の周りに花見客が集まっていた。
大学生やサラリーマン、町長、青年団や祖母に至るまで、皆が老人に喝さいを送っていた。
老人は記念樹の前で皆に頭を下げて言った。
「さて!それでは皆々様方の実り豊かな一年を祝いまして、三本締めを行います。ご唱和ください」
老人が両手を広げると、皆も真似をして両手を広げた。
「いよーおっ!」
皆の手拍子が終わると同時に老人はふっと消えた。
そこで僕の記憶も終わっている。
目が覚めると、僕は祖母の家の大広間に寝かされていた。
僕の周りには見たこともない量の貢物があった。
一体何事かとぽかんとしていると、祖母はこう言った。
「おめ、花男さ会ったべ」
花男とは何かと僕が聞くと祖母は語りだした。
花男は何年かに一度、桜堤公園の祭りに現れる老人で、その男が現れると桜は一日で満開となり、夕暮れ時には全て散ってしまうらしい。そして、男が現れたその年、村は栄えると言われているそうだ。
「花男って結局何なの?おばあちゃんのいる神社の神様なの?」
僕がそう聞くと、祖母は首を振った。
実のところ、花男が何なのか知っているものは誰もいないらしい。神社の言い伝えをたどっても、花男の正体について言及してるものはない。祭りの記録にも花男について言及したものはあれど、その正体についてはわからないとはっきり書いてある。
ある古い書面には、花男は毎年来ているのだが、見えるものがいないとへそを曲げて帰ってしまうものだとも書いてある。
「見えるものって、誰にでも見えるものじゃないってこと?」
「んだ」
「それはおかしいよ。だってみんな最後はあのおじいちゃんを見てたでしょ」
僕はハッキリと祖母をはじめとした皆があの老人に拍手を送ってるのを見ていた。老人と一緒に三本締めをするのも。
だがそれは僕だけの記憶らしかった。実際は、僕が記念樹の前で皆に手拍子を促したのだそうだ。そして手拍子の後、僕は眠るようにゆっくりとその場に倒れたのだそうだ。
祖母のいる神社の祭りは、そもそもは桜とはあまり関係がなく、昔は氾濫する事が多かった荒川の神を鎮める為の祭りなので、豊作を祈ったりするような趣旨はないそうだ。
また、花男は毎年出るわけではなく、何十年も出ないこともあって規則性もない。
ただ、大きな災害のあった翌年は現れやすいと言われていて、そもそも最初に花男が目撃されたのは、元禄14年の飢饉の次の年だったという。元禄14年に東北では大飢饉があったが、花男の現れた年は豊作となり、そのおかげか大規模な飢饉にもかかわらず、村では死者が出なかったと言われている。
その後、花男を神様として祀る神社なども出来たらしいが、それ以降ぱったりと現れなくなったのでその神社は廃れてしまったそうだ。そして自らを祀る神社がなくなった次の年にふいに現れたそうなので、天邪鬼な妖怪のような認識で今日まで伝えられているらしい。
その年村の農家は豊作となった。アカツキをはじめとするその年の桃はこれまでで最高の品質だとうたわれた。
また、再開発の話が起こって福島全体が活気づいた。
僕にとっても最高の年だった。花男を目撃した人間は、その一年、花男の化身として担がれることになっており、毎週のように村の人がやってきて沢山の貢物を持って僕のところにやってきて、ありがたそうに拝んでいった。
村長は勿論、会ったこともないようなJAの偉い人などがやってきては、桃や米など、その時の旬のものを持ってきてくれたが、一番嬉しかったのは村長が持ってきてくれたガンタンクのプラモデルだった。
あのように幸せな花見と言うのはその後経験がないが、でも少し元気のない花見の場に参加する機会があると、僕は花男の姿を探してしまうのだ。
了
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?