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長寿番組が終わっても世界は回る

先日40年近く放送していた番組の最終回を見た。毎週見ていたわけでもなく、観ようと思って観たわけでもない。ただただ、チャンネルを回していたら「最終回」という文言に触れて手が止まってしまっただけだ。しかし、最後のあいさつは少し感動してしまった。それくらい最終回ブランドというものはすさまじいものだ。

そんな感動的なラストを飾った番組が終わったら、CMが流れ始めた。
その瞬間私は急激に虚無感に包まれた。
その空間に何の特別間もなく、夢から醒めたように流行りの音楽に合わせて新商品が紹介される。

この虚無はどこから来るのだろうか

年に1,2回程度しか観ていなかったから好きな番組が終わった寂しさではない。番組も前向きに終わっている。CMだっていたって普通の車の宣伝だ。

あぁ、そうだ、番組が終わっても社会はすぐに日常に戻るからだ。

決してその番組が必要とされていなかったわけではない。たくさんの人を楽しませ、影響を与え、愛されたからこその長寿番組。それを毎週見ていた人からしたら終わってしまったことに対する虚無が勝つかもしれない。
しかし、そもそも見ていない人からしたらその感動の最終回は自分の人生に何の影響をもたらさない。なんなら最終回を迎えたことすら気づかない。

悪く言えば替えがきく存在、よく言えば穴を埋められるほど充実している。

もちろん社会には替えがきかないもの、なくなったら困るものが沢山ある。しかし、その量は思っているほど多くはないのではないか。
だって、40年近く続いた番組の誰もが認める視聴者、功績、影響の量をもってしても社会は何事もなく回り続けたのだから。

長寿番組も貴重な世界遺産も、大切にしまっておいた宝物や人の命でさえも。
消えても社会は回り続ける。
回り続けるだけの力を持っている。
そんなものがあふれているのは素晴らしいと考えたら少し前向きになれる。

しかし、感情は嘘をつけないので悲しいものは悲しい。きっと番組そのものに感情移入している。
この収録が終わった瞬間、それを仕事としていた出演者とスタッフたちはどんな会話を交わしたのか、あるいは交わさなかったのか。

私の何かが終わったとき、社会はいつも通り回り続けるだろう。私の存在すら知らない人が大多数だから。
それでも、私が在った証拠を誰かの心の穴から摂取したいと思うことはわがままだろうか?

そんな私の、傲慢な感情移入の話でした。

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