先日新幹線に乗ったところで、目の前の人が倒れてきた。 思わず押し返したら、反対方向に倒れてしまった。 反対側の扉に頭を打った時、そこそこすごい角度に曲がった首を見つめながら。 幸いまだ新幹線の扉は開いていたので、5分も経たずに救急車の手配と急病人の降車作業は終わった。 首が曲がった後に一度意識を取り戻し、そしてまた気絶してしまっていたが、とりあえず命に別状はなさそうだった。 しかしこの角度は一歩間違えれば…と、ここで想像を止める。 電車に乗っているとよく「急病人が…」と
数年前の誕生日、コロナ禍だったので久々に家でホールケーキを食べた。 なんでもいいというので、サーティーワンのイーブイの顔をしたアイスケーキを所望した。 二十歳過ぎた大人がなんで子供らしいものを欲しているのだと家族に呆れられた。 しかし数ヶ月後、全く同じケーキを誕生日に食べた同級生をSNSで見かけた。 ほら見ろと言わんばかりに見せびらかし、今はこれが経済を動かしているのだと力説した。 さてさて、タイトルにもある通りクレヨンしんちゃんの映画「オトナ帝国の逆襲」をご存知だろうか。
先日花火大会に誘った友達が体調不良になり、1人で楽しむことにした。 正直葛藤はあったが、1人だからやめておくほど花火に対してファッションとして楽しむつもりではなかった。 夏たるもの夏らしいことをしなければ。 カップルと家族連れの波を切り裂き、そこそこ大きな花火大会にソロ参戦した。 1人ということを全く気にしなかったわけではない。 もちろん花火大会に訪れる人々の目に私なぞ映っていないので、変な目で見られることはない。 だから完全に、私の心の中の問題なのだ。 とても寂しい。
私が遠出する時最も使っている移動手段。それは 「高速バス」 これが最高に良い。 一般的に高速バスの良さというと ・コスパの良さ ・予約の手軽さ 等があげられる しかし私はそんなことが言いたいわけではない。 (もちろん上記の魅力も選択において大部分を占めるが) バスの集合場所に到着した瞬間から広がる異様な空気感、そこから目まぐるしく展開する人間模様と景色の移り変わり。 そこにはエンタメ性が詰め込まれている。 ということで、この記事では高速バスの魅力を主観で書き連ねて
先日40年近く放送していた番組の最終回を見た。毎週見ていたわけでもなく、観ようと思って観たわけでもない。ただただ、チャンネルを回していたら「最終回」という文言に触れて手が止まってしまっただけだ。しかし、最後のあいさつは少し感動してしまった。それくらい最終回ブランドというものはすさまじいものだ。 そんな感動的なラストを飾った番組が終わったら、CMが流れ始めた。 その瞬間私は急激に虚無感に包まれた。 その空間に何の特別間もなく、夢から醒めたように流行りの音楽に合わせて新商品が紹
ことわざとはよく言ったもので、起こりうる事柄や教訓をうまい具合に減少に落とし込んでいる。 「覆水盆に返らず」 引用してみたはいいものの、大衆性のある言葉なので皆知っているだろう。これがあるから人は簡単に一歩を踏み出せないし疑心暗鬼にもなってしまう。多かれ少なかれ発してしまった言葉や志や決断によって招かれる事象に恐怖を抱いたり憂慮をしてしまうのは人間の性だから仕方ない。 それにしてもそれを「覆水盆に返らず」という誰もが経験したことあるような光景に落とし込めるのがすごすぎない
「なんだ、わたしってこんなに生きたかったのか。 それならきっとこの世界も良いものなのかもしれない。」 日本以上に治安の良い国などあるのだろうか。 もちろん犯罪は横行しているし命を奪う事件だって連日続く。 しかし、夜道に1人で歩いても高い確率で生還すること、財布を2度落として2度とも無傷で帰ってきたこと。 これらを考えると生命活動を続ける上で日本はうってつけではないのだろうか。 それでもたまに生きた心地がしない時がある。 それは危機感を覚えたり事故にあいそうになったとかそう
この世界には素晴らしく多くの言葉があるが、その数と同じくらいの語源が存在する。 いろいろな言葉の語源を調べるのはとても興味深く、語学の奥深さに触れることができる。 しかし「語源」という言葉自体にも注目してもらいたい。 「言語の源(みなもと)」ですよ、みなもと! そもそも「源」という漢字の語源 「声符は原(げん)。原の古文の字形はに作り、厂(かん)(崖)から泉が垂水として流れ出る形で、水源を示し、源の初文。」 ※コトバンクより抜粋 すなわち水源なのだ。水がある場所から
「気まぐれの良心の矛先を一つ失ってしまったような気がする」 いつの時代も娯楽が複雑化されていく一方で、生活に必要なものは最適化されていく。 電子マネーもその一つだ。 紀元前から伝わる貨幣の交換の形式が変わった境目を生きているのは、よく考えたらすごいことではないだろうか。 しかし私は脳が若干古風なので、最適化を憂いている節がある。 最適解が最初から示されてる道で寄り道ができないのが味気ないと思ってしまう。 noteで日々思ったことをつらつら書くことが楽しい私の性格上それが
好きな物に囲まれても満たされないのは 生きるための点滴になってしまっているか 辛いことが続いた時、私は大好きな友達とご飯に行ったり甘いものを食べる。叫んでしまいたいくらい嫌なことがあったら友達にすぐさまLINEして吐き出させてもらう。 これは本当に幸せなことだ。 しかし不思議なのが、こんなにも好きに囲まれた幸せの詰め合わせなのに、一向に満たされない。 これはあまりにも贅沢が過ぎるのではないだろうか。 そんな自己嫌悪に振り回されていたが、最近ふと思った。 これは今を乗り越
今朝の情緒は大荒れだった。 そんな時は色々なものに噛みつきたくなってしまう。 今朝も「なんで人を癒すカモミールの花言葉が「逆境に耐える」なんだよ煽ってんのか?」とイライラしながらカモミールティーを啜った。 そもそも花言葉も紅茶という加工も人間のエゴである。勝手に干されて気持ちを代弁させられているのに悪態までつかれなくてはならないのか。1番の被害者はカラカラのカモミールである。 しかしその直後、外に干してあった雑巾を取り込んだらなんと幼虫がくっついていた。 「ヒェッ!」と悲
どうしようもない辛さに直面した時、もどかしさに溺れそうになった時 たまにあえて沈んだままでいようとする 現実を見たくないくらい後悔した時とか、特に のしかかる水の重さが心地よくて、音も聞き取れないくらい曇って 眩しくない光が降り注ぐ海底に 仰向けになりながら横たわりたい 我先にと海面へ急ぐ泡を無心で見つめて 整列して泳ぐ魚をただただ目で追って 海底の凹凸が背中に馴染んできたら もうそこから動きたくない 冷たく重い海底だからこそ 後ろめたさすら同化してしまうから ずっと
私の仲の良い友達同士がなぜか不仲なことが多い。 これはとても不思議なことである。 アニメでは転校してきた主人公が隣の席の子と仲良くなったのを皮切りにその友達、その友達と打ち解けていくはずなのに。話が違うじゃないか。 これに気づいたのは高校生の頃。私の仲の良い友達同士の修羅場の板挟みになった。両方の言い分を個別に聞き、なだめ、解決の糸口を探す。これが何度もあったのだ。もちろん毎回同じ人ではない。 そしてあることに気づいた 私の友達は皆気が強い 薄々感じているかもしれないが
「記憶をほとんどその日に置いてくる私ですが、出会ったときの季節、景色を今でも思い出せます。それは私の見ている景色をいつもより色とりどりにしてくれる人でした」 これはとある女性タレントの結婚報告でのコメント。この文章を目にした時、私は春風の突風に吹かれた。 その日は夏の暑い日、閉じた電車内で通過電車を待っていた。それでも確かに私の髪は桃色を帯びた突風に激しく煽られ、ひらけた視界には青空と緑の小高い丘の間に模範的な木が一本立っていた。 このように私は惹き込まれる文章の一節や