「あれは誰の山だ」井伏の詩と谷川俊太郎さん


 谷川俊太郎さんの『どこからか言葉が』という朝日新聞の連載?(月に一度、と謳ってあります)で、2023年7月16日(日)大阪本社版に、『山』という詩が掲載されました。これについての感想を述べておきたいと思います。
 文中に(*)の形で番号の入っているのは、末尾に補註を施したものです。補註は、必要最低限の事項を欠いているものもある一方、ほとんど本稿から逸脱した記述のみのものもあることをご諒承ください。

はじめに 敬称問題について


 本稿の表題、「谷川俊太郎さん」と敬称をつける一方で、「井伏の詩」と敬称をつけず呼び捨てにしています。これは井伏鱒二さんが既に故人であり、それ以上に筆者などが敬称をつけて呼ぶには余りに大きな文学史上の大文人で、その名は一個人が敬称を用いるような私的存在でなく、公共の財産だからです。万葉集の名歌を語るのに誰も「柿本人麻呂氏」とは言わず、その名画を語るのに誰も「葛飾北斎さん」とは呼ばず、野球の実況アナウンサーが「大谷翔平さんが打ちました、大きい当たりです!」などと言わないのと同列の処置であるとお考え頂ければと思います。そして、本稿はそのような公的存在としての表現者を公的存在として扱う(換言すれば、個人を特定個人として問題にするのではなく、表現主体という側面でのみ扱う)という意味で、井伏鱒二と谷川俊太郎の両氏のみならず、著作なり作品なりのある方々に敬称を用いないこととします。(ただ、この、敬称問題については微妙な問題があるのはご存知の通りです。石川淳が「鷗外さん」「漱石さん」と書いたことには、好意的という範囲には収まらない高評価も多かったわけです。一方で、かつて丸谷才一が朝日新聞の文芸時評で、作者名に「氏」という敬称をつけて論ずることを問題視し、自ら敬称をつけずに書きました。丸谷はこの主張を補強するためにフランスの例などを援用してもいたと記憶しています。丸谷の奮闘の成果か否か、文芸時評の世界ではどうやら敬称は使われなくなった模様ですね。ついでに言えば、筆者は丸谷の時評の文章 ー その意見内容ではなく文章の調子 ー をあまり好めませんでしたが、この敬称撤廃論には賛成でした。賛成するあまり、「氏」を用いられなくする方法を考えて、名案を思いつきました。筆名を、「チャン・チャラ岡」とするのです。評者が敬称に「氏」をつけると、訓みが「ちゃんちゃらおかし」となって、揶揄嘲笑しているようになってしまう笑。……実は、日本語のありようから考えると、この敬称問題は、批評対象となる表現者と論者との関係の問題というよりは、読み手に対する論者の姿勢の問題なのですね。実は、丸谷が割り切って見せたほど単純な問題ではないかも知れません。あるいは、見方を変えると、これは日本語が元来敬語の体系であることに関係するとも言えます。これについてはここでは語りません。)

谷川俊太郎 『山』


さて、谷川俊太郎の新作『山』です。

『あの山』と『山』


 谷川俊太郎作『山』は、冒頭に井伏鱒二作『あの山』がそのまま置かれています。『あの山』原文は縦書きです。(以下、谷川俊太郎の詩行、さらに『ひばりのす』も同様です。)

 あれは誰の山だ
 どっしりとした
 あの山は

井伏鱒二『厄除け詩集』より『あの山』

 井伏の有名な『厄除け詩集』(*1)所収の作品です。こうして横書きにしてみると、やはり見た印象が大きく違ってしまいます。この詩の場合、これは特に残念な事態です。筆者は、『厄除け詩集』を繙く(おお、この「ひもとく」という単語がこのところ本来とズレた意味でマスコミに跳梁跋扈しています!)前に、井伏の揮毫になる色紙の写真でこの詩を見た、と思います。その時、一種の感銘を受けました。その色紙の縦書きの揮毫では、どっしりとした山が聳えている感じが視覚から伝わってくるように思えたからです。

 さて、谷川作『山』は、井伏のこの詩を掲げた後に一行空けて続けます。

 いきなり井伏鱒二が問うから慌てた
 答える義理はないが
 答えないと落ち着かない

 あれはただの山です
 誰の山でもありません
 と答えたが本当にそうかと疑う

 どっしりとしたというからには
 名のある山ではないか
 もしかすると富士山かもしれない

 だが知っていて誰の山かと問うような
 小賢しい詩的レトリックは
 井伏さんらしくない

 気づかずに負った
 詩歌の厄を
 この三行は払ってくれる

谷川俊太郎『山』(「朝日新聞」2023年7月13日)より

と、こういう作品です。

 ここには、極めてまっとうと思われる、谷川俊太郎の井伏理解が明かされている、と筆者には見えます。(*2)
 「答える義理はない」と言うのは、この井伏詩の捉え方としてこの上もなく妥当な感想でしょう。
 「…小賢しい詩的レトリックは/井伏さんらしくない」と言うのは、井伏鱒二の愛読者なら一も二もなく賛成したくなるところでしょう。
 (と、と、と。ここで呼び方が「井伏さん」にさりげなく変わっていますよ!最初は「井伏鱒二が問う」だったのに。これは、油断ならない処置、看過ごせませんね。…これは、最終的には、「井伏鱒二」から「井伏さん」への滑かな移行が成功する文体要因は何か、という問題に絞り込めるのではないかと思います。本当はおもしろい議論がたくさん出来るところでしょうが、今回は通り過ぎておきます。)
 そして、「気づかずに負った/詩歌の厄を/この三行は払ってくれる」という最終連は、作者の詩歌観・井伏観を端的に反映するとともに、『あの山』(またはそれについて言及すること)が、日本の近代詩(またはそれについて言及すること)の中で特異かつ貴重で示唆に富むものであることを暗示しようとしていると思われます。

「詩歌の厄」とは? ー 本稿の趣旨

 では、「気づかずに負った/詩歌の厄」とはどのようなものか。そしてそれを「この三行は払ってくれる」とはどのようなことか。
 と、谷川の『山』を味わうときは、そこを考えたいところです。そして、これについては、今日詩を書いている多くの詩人たちが、さまざまに豊かなヒントや示唆を与えてくれるでしょう。
 しかし、筆者は今、上の問題を直接取り上げるつもりはありません。
 それは、ひとつには、この最終連の内容が、直観的には大変明瞭なものと見えながら、しかし明確に語ろうとすると恐ろしく面倒な手続きになる、とわかりきっているからです。そんな面倒を手がける必要は無い、ということではありません。むしろ、面倒であればあるほどなされるべきかも知れません。ただ、筆者の見通しでは、その面倒な作業は、あまり豊かな実りをもたらしてくれるようには思えないのです。(例えば、詩の原理論のようなものがしばしばほとんど誰にも面白くないものになるように、です。)(序でに言えば、谷川が、「詩歌の厄を/この三行は払ってくれる」と謎の様な言い回しで短く片付けたのは、この片付け方が事態の最も適切で実りをもたらす言い方だという、詩人谷川の見通しによるものだろうと思います。)
 が、それが面倒であること以上に、そもそも本稿を思い立った理由が、谷川俊太郎の(いや、正確には谷川俊太郎作『山』の)『あの山』理解に対して異論を呈示することにあるから、です。

 異論、と言っても、筆者は『あの山』に対する谷川の解釈がけしからん、などと批判したいのではありません。
 言うまでもなく、一篇の詩に唯一の「正しい解釈」などある道理もなく、個々の詩作品がどう読まれるかは、作者の器量によると同時に読者の器量にもより、さらにはそれが書かれ読まれる文化状況言語状況によっても異なります。結局のところ、ある詩がどんな詩であるかは、作者自身をも含めた個々の読者においてしか決定され得ないものです。(その個々の読者においても、時間経過や経験とともに作品の見え方や意義や価値が変貌することも、少しも稀ではないでしょう。)
 だからこそ、井伏作『あの山』の、谷川俊太郎の理解と筆者のそれとは当然のように(しかし、その「当然」にはどんな事由があるのでしょうか)異なります。その異なり方について述べることが本稿の趣旨です。そして、なぜそんな余計なことをしたいのかと言えば、そのことを通して、筆者の感じている井伏鱒二の価値を少しでも共有していただけないかと思うからです。
 筆者にとって、井伏鱒二は(少なくともそのうちの特に良質な作品群にあっては)、日本語において極めて重要な価値を達成した、稀有の作家です。ただ、その業績の意義を的確に論じることはとてつもない難事業と思われます。そこで、谷川作『山』と井伏作『あの山』という、ささやかな話題をめぐって語ることで、あわよくば井伏の魅力や価値を解明する糸口とできないだろうか、というのが本稿の動機です。念の為に結論を言っておけば、糸口とするには程遠いものにしかなりませんが。

 では、以下、谷川の『山』という詩における、井伏作『あの山』をめぐるディスクールが、筆者の捉え方と異なる点について述べていきます。

 なお、以下では(いや、すでにここまでの記述においても)、便宜上、『山』という詩の中の言葉を、しばしば作者谷川俊太郎その人の発言のように語ることがあります。谷川の詩だから谷川の発言とするのは当たり前だろう、と思われるかもしれませんが、実はこれは筆者の日頃の流儀とは異なります。
 しかし、①(とりわけ近年の)谷川が、自作の詩において、詩行の話者と作者本人との乖離を極力ゼロに近づけようと心がけているように見える(その一例が今回の「井伏さん」という語法)のをとりあえず尊重してみたいこと、そして②今回の筆者の主眼が井伏の言葉の方にあることから、谷川の詩作品の言葉はなるべくすっきりと単純な叙述で処理していきたいこと、主にこの①②の2つの理由から、『山』の詩行を作者谷川の言葉として扱う場合が多々あります。(本パラグラフが何を言っているのかわからないという方は、ここの記述を無視していただいて構いません。作品の「作者」と、作品に置かれた言葉の「話者」の区別の問題です。筆者は本稿の特に後半で、「話者」という単語を頻繁に使用しますが、その時はこれを「作者」という言葉と区別して用いています。)

「あれは誰の山だ」という発語の背景

疑問文形の感嘆文

 まず、「いきなり井伏鱒二が問うから慌てた」と谷川の『山』は語ります。

 しかし、筆者はこの第一行を読んだ時、「井伏鱒二が問う」ているとはまったく思いませんでした。「いや、だって『誰の山だ』と問うているじゃないか」と、ひとは言うでしょうか。確かに「あれは誰の山だ」は、問いのように見えます。
 しかし、これは、誰かに(例えば読者一般に、例えばこれを読んだ谷川俊太郎に、またはその他これを読む可能性のある具体的な誰彼に)「問う」ているのではないのです。そうではなく、単なる疑問、ですら実はありません。「あれはいったい誰の山なんだ」と思わず疑問形の言葉が込み上げるような、深い「驚き」なのです。(英語の感嘆文がhowやwhatの疑問詞で始まること、そしてその日本語訳も「なんと」とか「いかに」などとなることを思い出してください。)その驚きを自ら噛みしめている行為が、この三行の公表に繋がっていると思います。(*3)

 このような言葉が出現するのには、実は事情があります。

「誰の山か」(*4)

 いわゆる「里山」沿いの地域、あるいは「山里」や「山村」を思い浮かべていただきたいのですが、そうした地域では、「北アルプス」とか「富士箱根伊豆国立公園」などとは違い、山塊のどこからどこまでが誰の所有地というふうに、地権者(すなわち「持ち主」)がいます。(いわゆる「入会地」等を除けば。)(場合によっては、地権者に年貢を納めその「山」を実質的に使用する使用権者が別に存在するケースも稀ではありません。そしてこの小作的制度は、GHQの農地改革の対象とはならず、今も存続している模様です。「山」は「農地」ではなかったからでしょうか。)里人(村人)たちにとっては、身近にある山は、「どこそこからどこそこまでは清左衛門さのうちの山で、そこからどこそこまでがおらとこの山、その続きはあの堤のきわまでが清兵衛さのうちの山」と言った具合に、どこが誰の所有の(または誰が使用権を有する)山かが決まっているのです。日常的には、「誰それの山」というのは、所有主であれ使用権者であれ、とにかく実質的にそれを使用・管理している世帯の山、という意味でした。(因みに、筆者の祖母は、我が家の所有する山の境界を筆者が把握していないことを気にかけたまま亡くなりました。)
 少なくともかつては、村落の中の「裕福な家」とは、広大な田畑や山林を資産として所有する家であったりしたのです。(ここで用いた、「山林」という単語は、もちろんお役所なり知識層なりが ー 例えば国木田独歩などが ー 用いた語であり、住民は日常生活ではただ「山」としか言いませんでした。)
 「学校から帰ったら、中ン谷(なかんにゃつ)の山へ来いや」と父親から言われたら、それは、中ン谷にある、「ウチの山」へ手伝いに来い、という意味です。
 山びとにとって、身近にある山は常に「誰」かの山なのです。したがって、「あれは誰の山だ」というのは、「誰の山でも」ないような半ば公的文化財的な名山名峰や歌枕やに対して出る言葉ではありません。当然誰かが所有・管理していることが明白であるような形態の山に対する、驚きの発言なのです。(その点では「だが知っていて誰の山かと問うような/小賢しい詩的レトリックは/井伏さんらしくない」という谷川詩の判断はまことに妥当なものです。)
 明治大正のジャーナリスティックな言い方だとおそらく「山林王」となるでしょうが、大地主の中には、ひと山全部どころか、幾つもの山塊を所有する人もあったでしょう。(*5)  

「資産としての山」の形成

 では そのような「山」がなぜ「資産」価値を有するのかと言えば、おそらく、山林そのものが何ものにも代え難い魅力に満ちた存在だから、というのが、かつての山びとの心情に即した答えかもしれません。
 ただ、山林をめぐる今日の状況はともかく、少なくとも井伏が人となった時代には、実際に「山」は(現金及び非現金の)所得を生むものでした。所得のうちで最もわかりやすく最大かつ最重要なのは、何と言っても建築用(と、それに次いでは木製家具やスキーや野球バットなどの木製品)の木材ですが、そのほかに、薪炭(炭焼小屋を設け商品としての炭を生産する場合もありますが、自家用の薪や焚き木は山から切り出します。「おじいさんは山へ柴刈りに行」くのです。)や、椎茸栽培の原木など、いわゆる林業関連のさまざまな所得があります。(所得、というにはあまりにささやかなものも挙げると、蕨やゼンマイなどの山菜、マツタケやシメジをはじめとする茸、さらにヤマグリやヤマグミ、ヤマブドウ、アケビ、キイチゴなどの果実、さらには食料になるウサギやキジ、マムシなどの野生生物もあります。)さらに、里山では、斜面を開墾して畑地として利用される例も多く、各種果樹やサツマイモや蕎麦や里芋そして時にはラッキョウや陸稲などの農作物の栽培もされます。一時は畑地での葉タバコ栽培が農家に大きな現金収入をもたらしました。(ただし、葉タバコの生産は非常に労働負担の大きいものでした。)
 しかし、「山」は、ただ所有していれば大きな所得を生む、というわけではありません。この点では田や畑と同じです。
 例えば、筆者の身近にあった里山では、放置されれば山は概ね落葉広葉樹主体の雑木林へと収束していくもののように見えました。(この雑木林は、所謂「武蔵野の雑木林」のようなものではありません。あのような美しい「疎林」は人間の長い関与の結果形成されたものです。人間に放置された結果としての雑木林は、人の腰ぐらいの高さまで熊笹その他の雑草や灌木が乱雑に繁り、実生の多種多様な喬木が何世代も同居して伸び放題に絡まるように生えており、慣れない人がその中を通行しようとすればほとんど傷だらけになると言っても過言ではないような有様の雑木林です。…もっとも、これは実は森林の「最終形態」ではないのかもしれませんが。)
 その状態だと、山の齎してくれる直接的恩恵は、先に挙げた例では、たきぎと椎茸の原木と山菜と茸と各種果実や僥倖のような野生動物ぐらいに止まることになります。
 しかし、雑木を払って木の苗を植え、下草を刈り、木が伸びるにつれて下枝を下ろし、間伐を施し、というふうに手間暇をかけると、山は立派な建築材用の樹木が堂々と聳える鬱蒼たる森になります。かつて山村では、このように人手をかけて、山という山の斜面に木を育てるということがありました。建築材となるまでには、植樹から長い年月を要します。人々は互いに協力しながら、五十年後百年後に自分の子や孫が家を建て替える時のために黙々と木を植え、あるいは孫子(まごこ)の代に大きな収入になるようにと考えて木を植え育て、そしてそれが治山治水と、ひいては河川の流域や河口に広がる海域の水産業にまで大きな貢献をしてきたのです。

「山」を育てる思想と生活

 ということは、逆にいうと、山が大きな資産価値を発揮するためには、そこに様々な資本や労力の投入が必要であることにもなります。そこに注ぎ込める財力と人手と時間、そして山をよい山に育て上げようと絶えず心がけて気を配る心性と、自分の個人的生涯を超えた子々孫々の繁栄を山に託す思想と生活、そうしたものは同じ山びとの集落でも、一人一人、一世帯一世帯異なって来ます。当然のことながら、それぞれの所有し使用する山の様相は、その人手のかかり方によって(と、もちろんその立地と規模によっても)異なって来ます。
 「いやあ、東谷(ひがしやつ)の右衛門さの山、なんといい山になったのお」「うちの城ヶ谷(じょうがいつ)の山、ざごつけなて見れん山になっとる。ありゃどうにかせんなんわいや」「与三郎さのうちが山買(こ)うたちゅうさかい、見に行ってきたがじゃれど、どだいいい山やったわいや」などのような会話がなされることになる所以です。
 以上でお分かりかと思いますが、山びとにとっては、あらゆる里山の領域は、どこかの家の山であり、誰かの持っている山です。「山は誰かのもの」であり、それは丹念に手入れされ整備された山であったり、あるいは荒れるがままに放置されたり、あるいは土砂崩れのまま痛々しい姿を晒していたりしている山であるわけです。
 ただし、ここまで、筆者は話をわかりやすくするために「所得」とか「資産」とかいう経済がらみの言葉を利用し過ぎたかも知れません。もちろん、山びとに所得や資産の類に近い概念が無いとまでは言えないでしょう。(むしろ大いにあるというのが正しいでしょう。)しかし、山を大切にしたり山に執着したりする心性は、そうした経済観念だけでは語れぬものがあったように思われます。
人間の意図とは本来無関係に存在する、地形と気候と生態系との結びつきとしての「山」が、人間の謂わば共生的関与と配慮によって、人為でも自然でもない感動的な存在へと止揚され変貌完成することに対する、芸術的感興に近いものが、そこにあったのではないかと思われます。そこには、自分の有限の一生がモノを媒介にしっかりと「末代まで」に繋がっている感覚があり、だからこそ、山は無条件に大切なものとして存在したのではないでしょうか。

羨望と畏敬の念を抱かせる山

 さて、おそらくそのような「山」のある地区(例えば広島県安那郡加茂村(*6))で人となった、詩心のある作家が、例えば旅先(なぜか筆者には甲斐地方のどこかのような気がしてならないのですが)などで、汽車の車窓に、あるいはふと曲がった道の先に、長い世代を重ねて手を入れられ見事に育てられ保たれて来たと一目でわかる、緑深い重厚な山を見かけるわけです。(稲作農家が、まだ開花前の青々とした稲田を見て「この田はチッ素肥料が足りん」などと一目でわかるように、山と暮らす人々は、一目でその山にかけられて来た手間の歴史とその山の価値が見て取れるのです。)「どっしりとした」という形容は、単にその山の地理的形状をいうものではなく(単に地理的形状を言っているだけなら、この三行はほぼ書かれる意味も発表される意義も無い幼稚なものだと筆者は考えます)、膨大な人力と何世代にも渡る長い時間と、実直でごまかしの利かない生活の集積としての山の状態を瞬時に読み取ったものに他なりません。手を抜かずに大切に守れば山はあんなにもどっしりとした山にまでなり得るのか、あんなにも羨ましい立派な山を育て所有する者があるのか、と驚くとき、「あれは誰の山だ!」という感動と羨望と敬意と畏怖の言葉が湧き上がるわけです。それはおそらく、眼前の山に、自家の山や自分の周囲に見て来た山とは比較を絶して篤い意志の歴史を見た者の、慚愧の念すら混ざった感情であり、山を所有しない人にはわからない感情ではないか、と思います。「あれは誰の山だ/どっしりとした/あの山は」

山を知らない『あの山』の読者

 もちろん、それが誰の山かを知っている人が仮に傍にいて教えてくれたとしても、この話者はその持ち主を知っているわけではありません。(そんな状況だからこそ、「あれは誰の山だ」という言葉が湧き上がるのです。)その意味では、まことに、その発言に「答える義理はない」のです。(*7)

 しかし、もし、「答えないと落ち着かない」とすれば、それは、1人の日本語の使い手である山育ちびとの胸に湧き上がった「あれは誰の山だ!」という感嘆と畏怖と羨望が、文字に記され、『あの山』というタイトルをつけて「詩」のような形態で発表されたから、です。(もはやよくお分かりかと思いますが、「あれは誰の山だ」というのは、少なくとも発語の瞬間は、別段タイトルをつけて発表されるべき詩ではありません。)「あの山」がどの山のことなのかも知らず、「あれは誰の山だ」という、形式上は疑問文に見えるが実質上は感嘆文が、いったいどんな時に出現するものなのかなど知るべくもない日本語の名手が、当然のように『厄除け詩集』など繙いてしまうからです。
 (繙くことに何の咎がありましょう。詩集は、誰にでも繙かれることを待っています。高名な哲学者の息子として東京に生まれ東京に育った田舎知らずだから、この詩を読んだり語ったりそれについての詩を書いたりする資格は無い、などということはあろうはずもありません。)
 「あれは誰の山だ」と「いきなり井伏鱒二が問うから慌てた」わけです。一読者である自分が、作者の問いかけの言葉にモロに出会った、と思ったからです。ある山が誰の山か、なんて、そんな問いがあること自体想像したことすらなかったわけでしょうから、のっけから「あれは誰の山だ」などと言われてドキッとしたわけです。詩との(あるいは少なくとも作品の言葉との)、とても素敵な出会いだと言えます。(「慌てた」というのは、大変優れた、ほぼほんとうそのものに近い嘘です。)
 「あれはただの山です/誰の山でもありません/と答えたが本当にそうかと疑う」そして「どっしりとしたというからには/名のある山ではないか/もしかすると富士山かもしれない」などと迷うわけです。
 こうして、『山』という谷川詩は、とりあえず表面上、『あの山』の井伏の言葉と鮮明にすれ違うわけです。「小賢しい詩的レトリックは/井伏さんらしくない」とわかってはいても、「あれは誰の山だ」という言葉の出所は分かりません。そして、わからないのは、彼が、山びとの生活など知るはずもないインテリ家庭の東京育ちだから、だけではありません。彼が日本語で夥しい詩を発表してきた詩人であり、ということはもちろん日本語の夥しい詩を読んできてもいる詩人だから、でもあります。
 詩人の目には「あれは誰の山だ」という第一行は、十分に詩的訴求力を持った言葉でした。すなわち、谷川にとって、この一行は詩として布置された可能性のある言葉、です。一篇の詩(として発表された作品)の構成要素と見做すに十分な言葉です。
 詩の中の言葉である以上、ここでの「あの山」は、作品の中でその存在意義を捉えられる言葉でなくてはいけません。実際の地図のどこに載っているどの山のことかなどと考えずに(考えていけないわけではありませんが)、その詩の中の「あの山」として考えることができるはずです。だとすれば、ここで言われた「あの山」は、「ただの山です/誰の山でもありません」という具合に読まれる他は無いではないか、と、谷川は考えたでしょう。(むしろ、考えさえしなかったというべきでしょうか。)いや、「どっしりとした」というこの実感を込めたふうな言い方からすると、もしかしたら、特定の、聞こえた山なのかもしれないぞ、などとも考えるでしょう。
『あの山』の話者が「あれは誰の山だ」と言う時、それは作者のイメージとしてある山、とか、読者がイメージすることのできる、詩的構造に支えられた山、などではありません。作品の中で普遍性なり抽象性なりを帯びて自立している「あの山」ではなく、単に作者以前の話者がその時そこで自分が目撃している一個の具体的な山、なのです。そして、驚いたことに、その時の「あれは誰の山だ」という、驚きと羨望と感嘆と畏怖の言葉が、そのまま、作者によって詩の冒頭に呈示されているのです。(*8) 

「素直な言葉」は「いい詩」か…作品の外部にある山

 だとすると、それはとても素直ないい詩だ、と、ひとは言うかもしれません。いや、「むしろ、それこそ詩というものではないか。」と。そういう「小賢しい詩的レトリック」を弄さない、心に込み上げてくるそのままの感動を書いた素直な詩こそが、誰でも心打たれるいい詩だ、と。
 しかし、井伏のこの「素直な詩」は誰にでもよくわかる詩でしょうか。作者が何を読者と共有しようとしているのか(あるいは少なくとも、読者に何を伝えようとしているのか)わかるでしょうか。『あの山』の話者にとっては、「あれ」が他のどこでも滅多に見ることのできない「どっしりとした」素晴らしい山だからこその「あれは誰の山だ」という感動なのです。しかし、その「あれ」がどの山のことか、一般読者には絶対にわかりません。(一般読者代表と言ってよい谷川が、ちゃんと「もしかしたら富士山かも知れない」などと困ってくれています。)言い方を変えれば、「あれ」は、『あの山』という作品の中にそのありようを保証されていない、すなわち「作品の外に」ある山なのです。どの山かわからない以上、この三行の詩に込められた、話者の「気持ち」は、共感できるものか反感を覚えるものかすら、本当はわからないと言うべきでしょう。
 『あの山』という作品は、それを読む任意の日本語読者にはどの山のことかわからない山について、「あれは誰の山だ」と口をついて出た(または口をついて出るような思いになった)言葉を、臆面も無く、そのまま置いてあります。(臆面も無くそのまま置いたことが、例えば谷川俊太郎を「慌て」させるような、一種の詩的効果を持ったわけです。)

 読者からその点について問題にされる(昨今流行りの言い方だと「つっこまれる」)ことを、作者井伏は懸念したでしょうか。ここは少し言葉を補って、「あれは誰の山だ」という驚きの言葉が出る所以を、読者に伝える必要があるかもしれない。…と、はたしてそう思ったかどうか、作者は言葉を補います、「どっしりとした/あの山は」と。

考えられる「詩的レトリック」

 「どっしりとした」は、「あの山」の最も重要な印象を表すでしょう。「あれは誰の山だ」と思ったのは、あの山が、実に稀に見るどっしりとした山で、その「どっしり」ぶりに感動したからです。その意味では、読者に対して補足する言葉として「どっしりとした」は、ごく自然に出る言葉でしょうう。
 いや、これは、読者を納得させようとする言葉ですら、実はないかもしれません。というのは、「あれは誰の山だ」と思った話者は、もし、続けて言葉を発すれば、おそらくこんなふうに言ったに違いないからです、「いやあ、なんとどっしりしとるのう、あの山」。

 そうです。「あれは誰の山だ/どっしりとした/あの山は」という三行は、別に、作者が感動を伝えたりするために工夫して拵えた詩ではない可能性があります。
 作者以前の、ひとりの山育ちびとが、素晴らしい山を前に自ずから口にした(またはしそうになった)言葉の、枝葉を払った根幹の姿を置いただけかも知れないのです。ここには本当に「詩的レトリック」が皆無である可能性が考えられます。

 もっとも、「あの山は」と、「は」という助詞が置かれ最終行が言いさしの形をとることで、1行目と2・3行目が倒置されたように見え、全体が1文となっているように読める効果はあるかも知れません。つまり、「どっしりとしたあの山は、あれは誰の山だ」と。…このように読む場合には、あれは誰の山だ、という、この三行のテーマが、倒置による強調で文頭に出された印象となります。読んだ人は「慌て」たりするでしょう。
 あるいはまた、この助詞「は」による言いさしが、2文目の「誰の山だ」の繰り返しを省略した、と読まれるかもしれません。すなわち、「あれは誰の山だ。どっしりとしたあの山は(誰の山だ)。」と。…この場合には、読み手には、発語されずに呑み込まれた2度目の「誰の山だ」が、声の聞こえないまま意識下で反響し続けるような効果が生じるかも知れません。
 いずれにせよ、この三行における、話者の最大の関心が「誰の山だ」にあることがわかると言えます。以上のことは、もしかすると「詩的レトリック」の事柄かもしれません。ここに見られる倒置または反復・省略という基本的表現技法は、果たしてどの程度「詩的レトリック」なのかは、専門家である谷川俊太郎に教えを乞いたいところです。が、この三行を掲げた谷川自身が「小賢しい詩的レトリックは井伏さんらしくない」と言うのだから、少なくとも「小賢しい」ものではないのでしょう。

 …ここまでで私たちが思い描けるのは、『あの山』という三行の成立過程、と言えるでしょうか。思わず誰の山だろうと思う感動があった。湧き上がった感動の言葉(または感動を表す言葉)を素直にそのま置いた、いや、素直にそのままだとかえって感動が伝わりにくいから、肝心な言葉以外は削ぎ落として、ぎりぎり削れない骨格だけを残した(あるいは、削ぎ落とすような余計な言葉など、もともと生まれようも無いほど感動して、これだけの言葉しか出なかった?)、いや、それだけだと、まだ感動の姿が伝わりにくいから、「あれは誰の山だ/どっしりとした/あの山は」と、感動の中心を最初に据えて倒置または反復・省略を施し、最後を言い差しの形で余韻を残した、と、作者によってなされた作業を推測するに、最大限でこんなところではないでしょうか。
 もちろん、これらの意識的作業など一切無くて、いきなりこの三行が出来てしまった可能性も無いとは言えないでしょう。
 しかし、明確な証拠を挙げることはできませんが、筆者の直感では、この姿に収まるまでに最低限の(そして極力目立たない)推敲はなされていると思います。そう思える最大の理由は、この三行があまりに簡潔で無駄も緩みも無い、あたかもどっしりとした山があるだけのような堂々の姿だからです。ただ、その推敲は、最大限に想定しても、素人にでも可能な程度の推敲のように思われます。少なくとも「小賢しい」レトリックを弄したものではないように見えます。レトリックがそこにあるとしても、あくまでも感動に正直に、湧き上がった言葉をリアルに届けるために必要な、表現者としての謂わば最低限の誠実な作業というべきものでしょう。詩の話者としては、これで自分の感動をしっかり表してもらった、と言えるのではないでしょうか。

感動は読者に伝わるか

 その結果、わたしたちの前に、三行の簡潔な「作品」があります。三行の真ん中に「どっしりとした」という、どっしりとした言葉が聳え、話者の感動が何に由来するのかが明確になっています。

 しかし、それが明確であることは、谷川俊太郎その他読者一般にとって、それがリアルであったり切実であったり感動的であったりすることを、必ずしも意味しません。

 何度でも繰り返します。ここにひとりの山育ちがいて、目の前に現れた山のどっしりした見事さに感動しています。その山の規模と形態は、それが「誰か」の山であることを直観させます。あんな見事な山を一体どのような家系が何世代重ねて育てあげたのだ、見れば見るほど、持ち主が羨ましくなるし持ち主に畏敬の念を覚えるような、堂々の山容だが、と。読者も、この話者が感動しているらしいことは、この三行で推測できます。
 で?それでどうしたって?私たちにも共感しろと?どっしりとした山だから?

 はい、ここからが問題ですね。

 問題?そこに何か問題があるのでしょうか?…いや、問題は無い、と、谷川俊太郎は言っているように見えます。こうして話者の感動を十分に定着すれば、それで言葉のはたらきはまっとうされている。それ以上の何が必要だろうか?言葉というのは、このように提示され、それで作者の思いが言い尽くされているなら、そのままでいい、と。いや、「そのままでいい」とか「そのままでは伝わらない」とか、そのような「評価」の視線の外にこの三行はある。われわれはただこの言葉を受け取ればいい。それ以上のことを、この三行はわれわれに求めてはいない。だからこそ、この三行は「詩歌の厄を払ってくれる」のだ、と。この限りで、筆者も谷川に異を唱えようとは思いません。

 ただしかし、この三行に何か惜しいものを感じる、という人があれば、筆者はその人に同感を禁じ得ません。
 なぜなら、井伏のこの三行には、話者の感動が過不足無く込められているとしても、その感動を読者が共有することができる様にはなっていない、と思えるからです。話者が感動していることは感じ取れます。しかし、その感動がなぜ自分の前に呈示されなくてはならないのかが、十全には汲み取れないのです。では、なぜ汲み取れないのでしょう? ー 話者の感動の仕組みや感動の内容が、読者と共有されるようには呈示されていないから、です。(だから読みの名手であろう谷川も頓珍漢なことしか言えません。)
 呈示されたのは、話者の感動の言葉です。その感動にも、その感動を表す言葉にも、嘘は全くなさそうです。それがタイトルを有する作品として呈示されるからには、作者にとってその感動は大切なものには違いないのだろうと「推測」はできます。しかし、話者が感動しているとわかる、その感動が作者にとって大切なものらしい、とわかることは、その感動をわたしたちが共有できる、ということではありません。(*9)
 仮に、真の感動はそれだけで無条件に他者と共有されるべきである、としましょう。そうであればなおさらのこと、それが読者と共有できるようになっていてほしいでしょう。その感動は、どうしたら読者に共有されるか?…実は、ここからが詩を作る作業の始まりと言えるかもしれません。
 仮に作者が「どっしりとしたあの山」に感動し、その感動を読者に伝えたいなら、その山が作者に与える衝撃と等価・同質のものを、ー その山の存在と等価の言葉を ー 読者に提供する必要があります。このとき、詩人たちは「詩歌の厄」を「気づかずに負」うことになるでしょう。

 そこで、私たちが気になるのは、なぜ、井伏鱒二はこの「詩歌の厄」を免れているのか、ということです。話者の感動の言葉だけを読者の前に呈示して、なぜ、それで作品が成立すると思えたのでしょうか。

『あの山』はなぜこの三行で成立できているのか

 上の問いに対して、筆者が考えるのは2つの点です。

(1)「込み上げる言葉」の特権性


 第1点は、井伏の、言語作品に対する価値観というべきものです。

 井伏に「私の好きな詩」という文章があり、そこで井伏は、自分の好きな詩として、木下夕爾の「ひばりのす」という詩を紹介しています。(*10)

 「ひばりのす/みつけた/まだたれも知らない//あそこだ/水車小屋のわき/しんりょうしょの赤い屋根のみえる/あのむぎばたけだ//小さいたまごが/五つならんでる/まだたれにもいわない」

 この詩には、如何にも井伏好みの特徴がいくつかあります。
 まず、何と言っても、「ひばりのす/みつけた」という、野生の小生物との遭遇のときめきと、その小さな生き物に対する親愛と慈しみの感情があります。この素材だけですでに井伏的世界だと言えます。
 そして、幼い子供の口調は、平易な言葉遣いで誰にでもすっとわかるものです。例えば同じような題材をうたうとして、(井伏と仲の良かった)三好達治だと、なかなかこんなにプレーンにはならないだろうと思われます。
 さらに、みつけたひばりの巣に対する、童心のときめきを鮮やかに捉えた言葉の息遣いです。「まだたれも知らない」「あそこだ」「まだたれにもいわない」。
 こうしてみると、確かに大変素晴らしい詩だと思われます。この詩が好きだと思う人は多いことでしょう。
 しかし、「私の好きな詩」として挙げる一篇がこの詩だとなると、私たちは付和雷同を抑え、少し落ち着いて考える必要があります。古今東西、世にあまたある詩篇のうちから、好きな詩としてこの一篇を選ぶとなると、そこに井伏の根本的な文学観(少なくとも詩觀)の提示があると言うべきではないでしょうか。
 ここに込められた、いのちあるものを愛おしむ穏やかな優しさ、そうした謂わば実体的汎倫理感情?の表出を支えているのは、この、ほとんどたどたどしいに近い言葉です。その幼い言葉は、ただ呈示され、それがなぜ大切なのかを自ら語る術を知りません。言い換えるなら、この美しい言葉は、世間のさまざまな大人の難しい議論に対して無防備です。(三好達治ならどうしてもここに高度な「詩的レトリック」が持ち込まれるとすれば、それは、その言葉がなぜ大切なのかまでをわかるように表現することが、表現者の責務だと考えられているからだ、と言えないでしょうか。)(*11)
 「ひばりのす」を賞賛する井伏は、このような言葉が大切なものだ、と主張しているように筆者には見えます。
 ここには幼い言葉があるだけで、それがどんな社会的意義を持つかを詩は語り得ていない。しかし、それを語り得ているような詩は、このように鮮やかに価値の精髄を開示することはできない。だから、われわれは、この詩を読みながら、この様な言葉を咲き出でさせている精神の尊さを、自ら掘り起こし気付きそれに目覚め、それを日々のノイズの中で失わずに育て鍛える必要があるのではないか…と、そのように、声には出さないで生きようとしているのが井伏鱒二であるように、筆者には見えます。
 込み上げるこの言葉は、このままで尊重されるべきだ、と。
散文であれば、述べられる事態が読み手に説得力と客観性を以て伝えられる必要がある(井伏の散文作品はそのための苦心と工夫とに満ちています。むしろ、それらが過剰にあるせいでかえって伝わりにくくなっている場合すら散見されるかも知れないほどです。)が、詩は思わず口をついて出る(ような)言葉そのままの姿が大切である。その発語の原形がなければ、ただひとりのひそやかな思いでしかないような、束の間の思いが、他者にダイレクトに響くことがないだろう。それが言葉へと開花したなら、その価値が受け手に伝わり認識されるよう表現を工夫されてもよい。が、その工夫に生じる「詩的レトリック」によって、発語の機微そのものを全的に反映しているはずの原形の言葉は失われてしまう。詩の読者であるわれわれは、そうした原形の言葉を発掘し翫味し検討し評価する能力を磨き育てるべきではないか
 ー と、そのように言いたい心性なり指向なりが、井伏の少なくとも一面にはあるように思われます。(そして、このような心性こそ、「心からの素直な言葉」をよしとするわれわれの傾向の根っこにあるものでしょう。)筆者は本稿の補註*2において、『あの山』を、作者井伏が詩と見做しているかどうかわからない、と述べました。しかし、井伏自身は、『あの山』のように純粋に感動として生じた言葉は、(詩と呼べるだけの構造的強度は持たずとも)それだけで詩と同様に尊重されるべきではないか、と考えていたのではないでしょうか。

(2)山びとの価値観

 さて、『あの山』の発表に際して井伏鱒二が「詩歌の厄」を免れることのできた第二の事情です。

 もしかすると、井伏はここで、どんなに言葉の表現に工夫やレトリックを施しても、自分の感動が伝わるはずがない、と思っていたかもしれません。(もし、それが本当なら、有体に言えば、言語表現者失格の烙印に値する由々しき事態との議論すら湧くかも知れません。しかし、井伏の散文における飽くことを知らぬ努力は、そんな議論を覆すにあまりあるものと言わねばなりません。)

 例えば谷川俊太郎の『あの山』解釈を見ましょう。
 おそらく当代第一級であろう日本語の読み手が、「あれは誰の山だ」という一行の意味を全く捉えられない背景を考えてみましょう。もしかすると、作者井伏が『あの山』を発表せずにいられなかったのは、それが一般に共有されることが絶望的であることを知っていたからこそだ、ということは考えられないでしょうか。

 井伏には、山里に暮らす人々の生活に触れた小説が数多くあります。それらの作品には、山びとの知恵や言葉遣いや身体の動きなど、山びとの生活を知る者でなければ書けない事象がみっしり詰まっています。(有名作品のうち、比較的短いものでは、『丹下氏邸』や、『朽助のゐる谷間』ー もし未読ならぜひ読んでみて頂きたい折り紙つきの名品です ー など。もっと長い作品にはさらに素晴らしい作品が多数あります。)それらの作品に定着された山びとの生活は、有史以前から日本語圏内で連綿と続いて来た、土と動植物と人間との濃密な関わりの中で形成されたものです。それは、文化として洗練開花する以前の、文化胚胎活動のようなものではないでしょうか。例えば、上り下りのある坂道を歩く時に、上りも下りも同じ速さで歩くという身体の動きは、これは文化でしょうか?山の生活には日常の事柄である、鉈や斧や鎌や鋸の使用法や手入れ法は文化でしょうか?あるいは、蝮に出会った時の対処法や、その蝮を捉えて皮を剥いだり蒸し焼きにしたりする技法は文化でしょうか?
 林業は、農業や水産業と共に第一次産業に分類されます。しかし、同じく自然が相手とは言え、ひと網ごと一日ごとに成果の見える水産業や、一季節ごと一年ごとに収穫の明らかになる農業や畜産業に比べ、樹木を相手にする林業の主要部分は、あまりに生育を待つ時間の長い、そしてその待つ間の手間の見返りがあまりに遠く見えにくい産業に思われます。手間暇かけても一代で成果が出るとすら言い難いのがかつての林業でした。農牧畜業や水産業を第一次産業と呼ぶなら、林業は、第0次産業とは言わぬまでも、少なくとも第0.5次産業ぐらいに別分類すべきではないかとすら言いたくなります。それに携わる人々の生活の基底は、どちらかと言うと、文化というよりも単なる経験則の体系というべきものではないかと思われます。
 そのような経験則の逞しい体系は、流行りの言葉を用いてみれば、sustainableであることが当然でも、developmentという概念など成立しないような、したがってSDGsの概念など必要とされる理由のない生活体系であったと言えます。そこにあるのは、非人為的な存在である「山」や「もの」と身体との関わり合いの構築、環境の生態系と折り合いをつけながら人間が生き抜こうとするときに必要な学習と叡智と協働との無限循環、と思われるものでした。そこには、経験の中で生活に必要なことを直接学びそれを仲間や子孫に伝承する営みがあり、実直で確かな「モノ」の知識が生きていました。

 そのような「山の暮らし」に、あるいは少なくともそのような暮らしをしている人々に、どうやら日常的に接して育った文化人が井伏鱒二であったようです。彼にとっては、あらゆる文学や芸術の活動が、果たしてそれが山びとの知恵ほど根っこの確かなものであるのか、果たして100年後200年後の子々孫々に着実で豊かな実体のある恵みを約束するものなのか、という疑問が消えることはなかったのではないでしょうか。そこには、農本主義ならぬ、林本主義とでもいうべき思想に裏付けられた批評眼があったように思われます。
 探偵ごっこで林の中に入り込んだ7、8歳の男の子二人が、山中で一輪のササユリの花を見つけたとする。探偵ごっこに夢中で山林に踏み込むような男の子は、いったいどのくらい一輪のササユリの花に心を奪われるものか、君たちは知っているか?その美しさに感動し、是が非でもその百合を家に持ち帰って植えたくて、二人で根っこごと掘り出そうとしたとする。仮に花を傷めず茎を折ることなくその球根までを掘り出せたとして、二人の子供が素手でどれだけの深さを掘りどのくらいの時間がかかるか、君たちは知っているか?あるいは、この二人が、根を掘る途中でついに諦めて作業を放棄する確率はどのくらいか知っているか?
 朝、仕事に出ようとして玄関にある長靴を履くときは、一旦長靴を手に取り、逆さにして、靴の足裏部分や足の甲が当たる部分、そして脛を覆う胴部分の外側を手でタンタンタンと叩かなくてはいけないのはなぜか、君たちは知っているか?
 夏場の兎は肉が少なく脂臭くてうまくないが、冬の兎は肉がたっぷり付いていて美味い。では、その様な冬の兎を捕えるには、どんな場所のどの位置にどのような罠をどう仕掛ければ良いのか。例えばひと冬の間に君たちは何羽の兎を獲れるだろうか?…捉えた兎をスキヤキにしようとすれば、それまでにどんな手順でどれだけの作業が必要かを、君たちは知っているか?
 文芸仲間の談論風発の議論を聞きながら、例えばそのような問いかけをしてみたい思いが井伏の胸に去来しなかったでしょうか?

 あれは誰の山だ
 どっしりとした
 あの山は

 そんな驚きが、ある山を目にした時、ごく当たり前に胸に浮かんだ。そんな「思い」が浮かんだのか、そんな「言葉」が浮かんだのか、あるいはそんな「思い」とそんな「言葉」がひとつのものとして浮かんだのか、はたまたそんな思いでもそんな言葉でもない「何か」が込み上げて知らず知らずのうちにそれを「言葉」に翻訳してしまったのか、そこのところはよくわからない。だが自分の感動のありかははっきりしている。山というものを、あそこまで丹念に手を入れて立派に育てた家(それは一個の家ではなく、ある家から別の家へと引き継がれて来たものかも知れない)がある。もちろん、個人の所有する山としては類希に高く大きい山容だが、しかし、何世代にも渡って営々と人手が入れられなければあんな重厚な見事な樹林の山は出来ない。人と山との関わりの至高の姿の一例こそあの山だ。一体どんな家系が、あんなどっしりした素晴らしい山を育て所有しているのだ…と、そう思った作者は、ほとんど詩的レトリックらしいものを弄さずに書きます。「あれは誰の山だ/どっしりとした/あの山は」…これで、自分の感動は遺漏無く完全に尽くされている。これ以上何かを加えたり工夫したりすると、その言葉は自分の感動そのものから離れたものになる。これ以上、何が必要か?
 しかし、この言葉は、ひとに、例えば友人三好達治に、川上徹太郎に、中島健蔵に、先輩牧野信一に、正宗白鳥先生に、あるいは「山林」の情緒的魅力を文学的に発見した故国木田独歩に、そしてそれ以上に、その他の市井の人々に、自分の感動そのままに正しく伝わるものだろうか?おそらく、伝わらないだろう。これがわかるのは、山の暮らしを知る者に限られるだろう。だが、それでいいのか。この言葉の感動の所以すらわからない様な人々に、本当に文化を語るだけの基盤があると言えるのだろうか?「あれは誰の山だ/どっしりとした/あの山は」…これがストレートに伝わらない状況は憂うべきではないのか?

文人井伏の理想と自負

 …井伏は、色紙などに揮毫を求められると、よくこの三行を書いているようです。短くて色紙への収まり具合が良いせいもあるでしょう。しかし、この三行は、何よりもまず、「あの山」に注がれた人間の長い長い膨大な忍耐と労力を知っています。非人間的存在としての山が、人間との関わりによって、作者にとって理想的と思える山の姿に変貌を遂げ得たことに、端的に感動しています。そして、作者井伏鱒二は、自らの文人としての理想形を、その山の姿に重ねているようにも見えます。さらに、「他の人は気づかないかもしれないが、自分はあの山のどっしりとしている背景がわかる。ごまかしの利かない自然と人間との関わりのおそらくは最も望ましいあり方としてのあの山の価値を、自分は知っている。自分は決して華やかな才能は無いが、あの山の価値を一目で察し、その価値を知る者だ」という自負を表している様にも思えます。

 『あの山』は、単に語数(字数)が極めて少ないだけではなく、仮に倒置なり反復なり省略なりの技法が意識的に用いられているとしても、(あるいは用いられることによってこそ成立し得た?)極めて単純な作品です。『厄除け詩集』の中でも、もっとも「わかりやすい」言葉遣いの作品と言えるでしょう。このような作品が、読者によって、話者の感動のありようを十全に汲み取られるなら、作者にとってはもちろん大満足でしょう。しかし、この一種素朴な三行は、詩として認定されることすら難しいかも知れない事を、井伏はおそらく一種の苦い認識で以て熟知していました。この言葉が詩的感動をもたらさないような文化状況に対する疑義こそは、彼がこれを敢えて『厄除け詩集』に収録した積極的な姿勢の所以ではないか、と思われてなりません。そして、この姿勢は『厄除け詩集』の全体にも通底するものではないか、と筆者は考えます。

 さて、谷川俊太郎は、『厄除け詩集』の中から、他ならぬ『あの山』をとり上げて、『山』を書きました。他の作品ではなく、『あの山』をとり上げた(他の作品を選ぶ谷川を想像することは困難です)ことは、詩人・谷川俊太郎の優れた批評眼を示すものでしょう。そして、おそらく、井伏は谷川俊太郎に応えることができるでしょう、「詩歌の厄を払うこの三行は/非散文にして非詩の厄を負っているのだ」と。

補註

*1)『厄除け詩集』…本稿でも、また谷川の『山』での引用でも、『厄除け詩集』と言う表記を用いています。『厄除け詩集』は1977年刊で、巻末の「後記」にあるように、1961年に出されたものの改訂版です。「後記」によれば、初版は『厄よけ詩集』の題で、そこから大幅な改訂がなされているようです。井伏が研究者も悲鳴を上げる推敲魔であったのはよく知られているところです。

*2) ここでひとつ注目しておきたいことがあります。谷川の『山』は、井伏の「この三行」を、「三行の詩」とは言っていません。よく見ると、この三行を一度も「詩」と呼んではいません。このことはおそらく最終連の内容に直接関係があるでしょう。(実際、「詩歌の厄を/この三行は払ってくれる」とすれば、論理上、この三行は詩歌ではないことに、多分なると考えるのが常識でしょう。すると、谷川の最終連は、この三行が詩とは見做し難いことを、肯定的評価の方向で捉える言葉だということになる可能性があります。)
 実のところ、井伏の『あの山』を「詩」と呼ぶのは、筆者としてもとりあえずは便宜上のことです。   
 もちろん、井伏が『厄除け詩集』に収めたからには、彼にとってはこれは「詩」なのだ、少なくとも詩として承認されることを求めているのだ、と私たちはとりあえず受け止めてみる必要はあるでしょう。そうでないと、井伏の詩観を捉えることができないかもしれません。
 …と言った直後に混ぜっ返すようですが、尤も、『厄除け詩集』と言うタイトルの書に収録されているからその作品が「詩」なのだ、という保証はどこにもありません。読者にとってそうであるばかりか、作者自身も「詩」だと考えているかどうかは、実は容易に定め難いのではないでしょうか。「そんなレトリックは井伏さんらしくない」と、ひとは言うでしょうか。それがレトリックの問題なら、確かに「井伏さんらしくない」でしょう。しかし、そもそも『厄除け詩集』という書名のこの書は、本当に詩集なのでしょうか。(本人のコメントによれば、作者は少なくとも散文だとは思っていないようです。)そもそもタイトルからして、通常の詩集の名付けられ方からは少し逸脱している様子で、かつ収録されている作品も、詩としてはかなり珍しいものが多くないでしょうか。
 もしかすると、この書名や収録作には、相当にねじくれた文学姿勢があるのかもしれません。そして、「小賢しい詩的レトリック」はなるほど井伏さんらしくなくても、ねじくれた文学姿勢は必ずしも「井伏さんらしくない」とは言い切れず、それどころか、極めて「井伏さんらしい」かもしれない、と筆者は考えます。

*3) 完全に余談になりますが、作品の言葉が本当に誰かに「問う」ているケースの例として真っ先に筆者の頭に浮かぶのは、高浜虚子の俳句作品の一部です。「山国の蝶は荒しと思はずや」とか「濃紅葉に涙せき来る如何にせん」などは、実際に誰かに問うているように思われてなりません。虚子句の中には、置かれた言葉の意味だけを辿ると、なぜこんな余計な言葉(「思はずや」「如何にせん」)だらけで感動が伝わるのか不思議だけれども、しかしどんな「詩的レトリック」を用いた言葉も及ばないような生々しい感動が伝わって来る、と言う作品が少なくありません。上掲の2句もそうした例だと思います。これらの句に接すると、作者虚子の傍らに、虚子に言葉をかけられている誰かの気配を感じます。作者の感動の中核はあくまでも作者の孤に遊ぶ精神で捉えられているのですが、その感動をごく日常的に自然に語れる誰か「聴き手」がいるのではないか、虚子はいつも、自らの語りかけるある具体的聴き手を持っていて、その聴き手に語りかけたり問いかけたりすることが句作になっていたのではないか、とさえ思われます。「おい、山国の蝶は荒っぽいと思わないか」「いい歳をした大の男でありながら、濃紅葉を見ていると涙が込み上げて来てどうにも抑えることが出来ない。どうしよう」と。季語論争を招いたアフリカでの句のうち、「人に告げよカイロの夕日今見ると」などは、カイロの夕日を今こそこの目にしている、と「告げ」たい相手(もしかすると広く不特定多数の人の可能性も?)があり、さらにその人に告げると言う行為をせよと作者から指示を受ける人が傍にいる(あるいは、この場合は、本来いるべきなのだが、今回は同行していないので残念ながら、少々大袈裟に命令形で呼びかける言い回しになった?)という感じを受けます。告げられるべき「人」とはどのような人を指し、そしてなぜ自ら告げようとせずに、「告げよ」と指示を出すのか。「人に告げんカイロの夕日今見ると」になぜならなかったのか。(もし、そうなっていると句の魅力はゼロになる気がします。)
 人に告げよカイロの夕日今見ると
これのどこが「写生」ですかと問うてみたくなりますが、ここに掲げた3句、いずれも不思議に魅力ある句です。虚子句の強度の秘密の一端は、虚子が常に現実の具体的聴き手に語りかけるように作句していたことにあるのではないか、と思われてなりません。

*4)以下の「山」についての記述は、例えばウィキペディアの「里山」などの記述とは大きくずれています。特に、「山」の所有権について、ウィキペディアでは歴史的に相当新しい現象のように述べてあります。しかし、筆者の知見では、ここでの記述が伝統に則った内容であり、井伏の作品を読んでいてもすんなり当てはまるように思います。遅くとも井伏が生まれた頃には、ここに述べたような事態が確立されていたのではないか、と筆者は考えます。筆者の認識では、ここに述べたような体制が確立されたのは3代や4代前のことではない印象です。(所有権等については、藩政による地域差などが存在しただろうか、とも考えたりします。)もしかすると、この筆者の認識は、谷川の認識と同じ程度に甚だしくズレたものであるかもしれません。

*5) 大島渚の監督した『愛の亡霊』という映画には、このような大地主と思しき人物が出て来て、他の村人とは身につけている衣類から違っています。
 ただし、あの映画は、実際に山村で暮らした経験のある者には荒唐無稽で見ていられない恥ずかしいシロモノです。監督や脚本家にとっては一種のロマンチシズムの装置として山村があったでしょうし、製作の海外資本に対してジャポニズムでおもねる意図もあったのかとは思いますが、あまりにも現実にはあり得ない情景や場面や生活だらけでした。もちろん、実際の山村生活者から見れば噴飯物の画面の連続であることをもって、この「映像作品」を無価値とすることはできません。作品の評価には、別種の評価基準がありうるでしょうし、そして何より、この作品は現実の山村を捉えようとしたものではなく、例えば東京の都市部に育った人間の持つ山村のイメージや、場合によっては山村に対する劣等感や優越感や差別意識を反映するものであるかもしれないのです。ただ、筆者は、この映画作品を見たとき、撮影しているカメラが可哀想になりました。この映画が撮られた当時は、コンピュータグラフィックスが映画の画面を作るという手法がありませんでした。画面の全てがカメラで撮られたのです。かつて淀川長治が、「建物の奥へ奥へ、部屋から更に奥の部屋へ、さらに奥の部屋へと懸命に逃げてゆく主人公、そしてその主人公を追いかけて行くカメラ、カメラ、カメラ!映画とは、カメラですねぇ」というような名解説をしていましたが、そう、映画とはカメラでした。そして、カメラは前にある現実を撮影します。その、カメラという恐ろしくも素晴らしい非情の装置が、なぜこんなにも貧弱で安直な間に合わせのハリボテの現実を撮らなくてはならないのか、と、いたたまれない気持ちになりました。カメラはこんなチンケなものを撮るためにあるのではない、と。そして、そこに撮影されていない、圧倒的にうつくしい(この「うつくしい」は「実在そのものの有様」というほどの意味です。)、山びとたちの真っ当な生活や光景がスクリーンに登場できていないことを心底惜しまずにはいられませんでした。
 …さて、筆者は、大島渚監督の『愛の亡霊』に脱線しているでしょうか。実は、この映像作品に触れながら、井伏鱒二の文学を考えています。映像作品と言語作品とを同列に論じるわけにはいかないでしょうが、井伏作品におけるカメラとしての言葉は、大島作品における言葉としての映像とは、およそ対極にあるもののように見えます。本稿でその所以の片鱗なりとも伝えられればいいのですが。

 *6)井伏鱒二の出生地の地名です。本稿では、井伏の成育地が筆者の成育地などと地理的共通点の多い土地のように捉えています。実際には、井伏鱒二の郷里がどのような土地なのかを筆者はまったく知りません。(かろうじて、井伏の生家のごくごく一部である豪勢な塀の写った写真を見たことはあります。あまりの豪農の雰囲気に呆れましたが、背景には確かに見るからに豊かそうな里山の重なりが霞んでいました。)

*7) 「答える義理は無い」のはその通りですが、しかし、たまたまこの話者のそばにいる人が、「あの山の持ち主、知ってますよ。よかったら、今度会ってみますか?」と水を向けたりすると、この話者は、ぜひその持ち主に会いたい、と言いかねません。言うだけではなく、実際に ー 3年か10年ほど後になるかもしれませんが ー その山の持ち主を訪ねてゆきかねません。そればかりか、山の持ち主との会見記を文芸誌に発表する可能性だってあります。いや、もし会見したならば、必ずや発表せずにはいないでしょう。題名『どっしりとした山』。ー 例えば曰く、「あれは誰の山だ/どっしりとした/あの山は (改行)かういふ三行を、『あの山』と題して『厄よけ詩集』に載せた。それを目にした〜社のS君が、これはあの時車窓から見て、気にかけてらした山のことですよね、とわざわざ私に尋ねてきた。さうだ、と答へると、山の持ち主に会ってみますか、と言ふから驚いた。(改行)S君の言ふには、あの山はそもそも…云々」と。

*8) 少しうるさいことを言うと、「あれは誰の山だ」と言うのは、したがって、まず作品の言葉として置かれているのではなく、作品以前の言葉だけれども、それが冒頭に置かれることで作品の構成要素になり、その結果作品の言葉となっているのです。ちょうど、井伏の「あの山」の詩行が、そのまま冒頭に引用されることで谷川の「山」と言う詩の構成要素になっているように、です。…尤も、井伏の三行は、冒頭だけでなく、三行全てが引用されて置かれているだけだ、という仮説もありうるでしょう

*9)余談になります。筆者は、父が49歳で事故死を遂げた後、「父逝きて山河哭き 碧天 北国の冬に玲瓏たり」という、詩がかったものを書きました。この言葉は、まことに、父の49日を迎えた筆者の心情を過不足無く表してくれる言葉でした。しかし、筆者はこれを如何なる形でも公表しませんでした。自分にとっては本当に切実で、これ以外に自分の心情を表す言葉は無い、と当時思えたのですが、一方で、この言葉の真情は誰にも理解されないのは自明だったからです。この言葉で表したつもりの、張り裂けるような清潔で大きな哀しみが理解されるためには、別の多くの言葉で読者の外堀を埋める必要がある、と思われました。切実な言葉が、切実なるが故に他者に伝わる、という保証など全く無いのは表現の常識でしょう。

*10) この木下夕爾の「ひばりのす」の表記は、ここではウィキペディアに従っておきました。井伏はこの詩を、『厄除け詩集』にも所収の『陸稲を送る』でも全文引用していますが、表記はここに掲載したものと異同があります。

*11)尤も、少し補足しておくなら、木下作「ひばりのす」は、幼い子ども(なぜでしょう、どうしても男の子のようにしか思えません。これは偏見なのでしょうか?)の話言葉で書かれていますが(つまり、この詩の「話者」は子どもですが)、ここには話者の微かな逸脱も感じられるような気がします。言い換えると、この話者だけでは語りきれないところを作者は補って語らせているのではないか、と思われるのです。
 それはどの部分かと言うと、第二連です。
 この「あそこだ」は大丈夫です。誰にもまだ内緒にしているひばりの巣のことで頭がいっぱいになっていると、何度もその巣のあるところを目で確認したくなります。「あそこだ」と。むしろ、この詩全体の語りが、「あの麦畑」の見える位置での発語であると言えるかもしれません。ひばりの巣をみつけた麦畑の見えるところで、子どもは心の高鳴りを感じながら、喜びを反芻しているのでしょう。
 しかし、それに続く「水車小屋のわき/しんりょうしょの赤い屋根のみえる/あの麦畑だ」はどうでしょうか。私たちはここで、ひばりの巣をみつけた麦畑の方を見ている少年を思い描くことができます。そして、少年の目には確かに水車小屋が見え、診療所の赤い屋根が見えているでしょう。しかし、「あそこだ」と心の中でつぶやいている少年は、「水車小屋のわき」という「言葉」を(心の中ででも)発しているでしょうか。いるかもしれません。では、それに続いて「しんりょうしょの赤い屋根がみえる/あの麦畑だ」はどうでしょうか。「あの麦畑だ」は本当に心の中でつぶやいているかも知れません。でも、「しんりょうしょの赤い屋根のみえる/あの麦畑」と心の中でつぶやくでしょうか。ここで、詩は、話者が微かに綻びているように見えます。
 念の為に繰り返します。この話者は、発話時点で、「あの麦畑」の見える位置に立って、見つけたひばりの巣に思いを馳せているとしましょう。そこに、言葉とも気持ちとも言い切れない、未分化のような、極めて言葉に近い何かが込み上げるでしょう。「ひばりのす みつけた」と、作者はその話者の思いを聴き取るでしょう。「あそこだ」と巣の位置を確かめるでしょう。あの水車小屋のわきのところ、あの麦畑だ、と。この時もちろん診療所の赤い屋根は目に入っているでしょう。しかし、それを自分で噛み締めるように「しんりょうしょの赤い屋根のみえる」と発語するでしょうか。この疑問が起こるのは、最終行の「まだたれにもいわない」という、抑えた喜びの感情に比べて、あまりに視線が客観的描写的に外へ向かっている様に見えるからでしょう。これは、ひばりのすを見つけたこの子の、この場での語りに本当に即したものでしょうか?筆者には、この第2連、とりわけ、「しんりょうしょの赤い屋根のみえる」が、微かながら風景の客観的な描写ないし説明の気配を帯びて見えます。ついでに言えば、圧倒的にひらがなが多いこの詩で、「赤い屋根」に漢字が投入されていることも少し気にかかります。ここに「あかいやね」でなく「赤い屋根」と漢字が導入されたのはなぜでしょうか?…ひらがなでは、点景としての「赤い屋根」が瞬時に読者の目に浮かびにくいからではないだろうか、と筆者は考えます。
 つまり、「水車小屋のわき/しんりょうしょの赤い屋根のみえる/あの麦畑だ」は、話者である少年の、込み上げる喜びを自ら噛み締めている言葉に、わずかながら、作者の描写の言葉が紛れ込ませてあるように、筆者には見えます。それによって、読者には、話者である少年のいる空間とひばりの巣のありかが視覚的立体的に了解されることになります。その分だけ、ここは、少年の思いが外部の風景へと雲散している様に感じられます。最も大きいのは、仮に話者の子が「あの麦畑」を見ているとして、そこに水車小屋も見えるし診療所の赤い屋根も見えているとして、その嘱目の景が「水車小屋のわき/しんりょうしょの赤い屋根のみえる/あの麦畑だ」と整序された言葉として話者の口から出るものだろうか、という疑問です。もちろん、話者の語りが、誰か例えば親しい大人に向けての語りなら、この様な説明はありうるでしょう。しかし「まだたれにもいわない」のです。話者の、自身への独白の様な言葉に、この整然たる叙述は含まれて不自然ではないでしょうか。…少なくとも、この後に、「小さいたまごが/五つならんでいる」と場面が転換して視野の焦点が巣の中の様子に絞られていくのは、微かな不自然さが感じられる様に思えます。詩は、話者の語りが作者によって効果的に構成されて配置されている様に見えます。この詩の場合、話者の心躍りをもたらしているひばりの巣の様子が最も印象的に読み手に残る様に構成することで、話者の感動のあり方が読み手と共有される様に、作者によって工夫されているのではないでしょうか。



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