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現象学女子〈20〉行けカント

 「まず論理の話からね、例えばそうねえ。この世は何でできているか?という問いを作ったとしましょう。誰が作ったか?でもいい。なんだと思う?」
 「ええ全然わからん!神様?」と松井さん。
 「そう!その答えが欲しかった。1発でありがとう。そして問題はこれからね」と私は答え。続けて
 「その場合、当然次なる疑問が生まれることになる。それは、では神様は誰が作った?という疑問です。そしたら神様の親ということが答えになるわけだけど、じゃあその親は?と以下永遠にその疑問が続くことになるよね?ここまではいい?」
 「はい大丈夫です」
 「そこでカントというおっさんがですね、人間とは『推論の能力』だと言ったわけですね。つまり世界は神様が作った、だと、何か足りないような、何か違うような気がするのは、その推論の能力がその言葉の限定を『小さく』感じさせてしまう働きを自動的にしてしまうのよ。ちょっと言い方変えるよ。神様って言っちゃえば全知全能なわけだから当然答えとしてはこれに勝るものはないじゃない?でもじゃあ神様は誰が作ったって『論理上』言えてしまうわけ。実際は本当に神様なのかもしれないのよ?でも論理上言えてしまうと理性とか自我って言うのはどうしても『その先』っていうのを勝手に想像してしまうという習性があっていつまでたっても満足できなくなっちゃうの」と言って私は一息つき。そして
 「逆に言うとどんなに真実からかけ離れても『論理上』正しいとそれが真実だと思ってしまうこともあるのよ。こういうのをレトリックと言って古代ギリシャで流行ったんだけどまあ今はいいわ。つまりさっきの自我の安定の話だけど、疑問があるときは自我はそれを解消しようとするし、逆にどんなに間違った答えでも自我が納得してしまえば、当たり前だけどそれ以上疑問を持ち続けられないわよね?この自我や理性の働きを推論の能力として発見したカントっておっさんはすごくブレイクして、だからカントっておっさんは人間のこの『推論の形』を探求する方が意味があるのではないかって言ったのが当時の哲学では画期的だったのよ。つまり論理的な正しさよりもその論理を生み出している理性自体に人間の本質があるってことね」
 「なるほど。確かに別に人生に意味があってもなくても今普通に生きてるもんね。だから人生の意味っていうのは逆に言えばそれを『疑問に思うから』存在してるように感じるのか」とみるくがツインテールの片方を指でくるくるしながら言った。
 「人生という言葉の深遠で高尚なイメージが、『人類に共通する使命』や『本当の生き方』だのが存在するような『感じ』がして、それがその疑問を生じさせているとも言えるわ。つまり人類共通の使命があると思ってる人にとってはそれっぽい論理的な説明をすれば納得するし、本当の生き方があると思っている人にとってはこちらもそれっぽい論理的な説明をすればとりあえず自我は安定するのよ。だから『人による』って言ったのはその人の言葉に対する感覚や、感情が実はバラバラだからってことが言いたかったの。ちゃんとした理由があるでしょ?ここが面白いところでもあるのよ。一見言葉や論理って言うのは客観的なつまり自分の外側にそれ自体としてあるもののように感じるわよね?1+1は誰が見ても2なんだから。つまり論理の正さ=真実というのはあるレベルでは正しいし、あるレベルでは正しいかどうかわからないっていうのが言葉の持ってる謎や魅力でもあるかしら。やだ本線からずれそうよ。自分が怖いわ。とにかく人生に意味があるように感じる理由はさっき時間とか空間で説明した時のように『世界』っていうのは自分の『外側』にあるように感じて普段人間は生きてるんだけど実は意識の中にある意志ではコントロールできない部分がその『外側』の存在を確信させてるって言ったよね?それと一緒で『意味』っていうのも『自分の外側にそれ自体として存在するように感じる』からそれ自体として存在するものが何か知りたいという願望が生まれるんだけど、実はその外側というのは『内面の感覚』が作り出しているの。実は人生の意味を問うてる時点でその人にとってのその言葉のイメージや意味がある程度あるってことね。だってそもそも意味がないと思うものに意味なんて問おうと思わないでしょ?そしてその人にとってのイメージに見合う言葉が見つかるとそれが他人から見てどんなに奇抜に見えようが本人の自我は安定するの。だから自我の安定のためって言うのは人によるって言ったのはそういうことなのよ。今のが言葉の論理という観点から見た生きる意味って話ね」そう言ったが私はやっと半分くらい説明できたと思った。そして次に話を始めた。


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