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現象学女子〈48〉河野さん

 河野さんと廊下ですれ違った。私はみるく、松井、福田のいつもの面々で、移動していた。

 河野さんとは2年のとき同じクラスだった。よくしゃべるタイプで表面的には接しやすい。じゃあ仲良くなるかと言うとこれまた別問題である。

 それなりに会話のラリーは続くのだが、1年の時にいじめにあっていたと言われたのが最初の違和感である。聞けば、無視される、あるいは自分の席が周りの子の列と少しずれていたので、きれいに並ぶようにしたら、その瞬間周りの子がまた河野さんの席と微妙にずれるように自分の席をずらして、河野さんだけまたちょっとずれるようにされると言った地味なやつを食らっていたらしい。

 たしかにそういうものでもやってはいけないし、やるほうが100%悪い。

 しかし学年が変わったので、もうなくなったらしいのだが、それを聞いた側は同情や憐憫の反応をせざるを得ない。この反応を強制される感じに違和感を覚えたのである。

 もちろん今現在もいじめが続いていて、困って助けを求められているなら私も何かしらの協力はするだろうが、ただ「かわいそう」と言ってほしいだけにしか思えない趣旨の発言、いやもっと正直に言えば何か自慢話にすら聞こえるのだ。少なくともいじめを受けていた話をすればいじめてた側が悪いことになり自分は被害者として100%肯定される。

 というかもうなんだったら自慢話でも構わない、自分がそれだけ他人の嫉妬を買う存在であるという趣旨で言ってるのならむしろ私好みである。しかし明らかにそれは辛い過去を背負ってた重荷をようやく下すような吐露であった。それを聞いたほうはそれなりに真剣にならざるを得ない。しかし相談というわけでもない。ちょっと私の心に警戒警報レベル1程度のサイレンが鳴る。

 もし私がいじめを受けて、仮にそれが終わって、心にそれなりの傷を負っていたら周りに言えるだろうか?

 何かの話の流れで、テーマがいじめになってたり、他の子からいじめの相談を受けた流れで自分の体験を話した方がいいと判断した場合などであれば言うだろうが。

 とにかく私がいじめを受けていたことをもし話すなら、それを聞いた相手の真剣にならざるを得ない立場を考えたうえで、それでも意味があると思った時に言うはずである。

 辛い過去の吐露が自慢話として聞こえる違和感。

 しかしその時は違和感程度の感触であったので、別にどうということもなく、むしろ接しやすさの方が大きかったので2年の時はそれなりに仲良く学校生活を送っていた。

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