見出し画像

第十三話 パズル

後藤のスマホから大音量でインストルメンタルのハードロックが流れ始めた。
AFNが正時前に流すことがあるインストルメンタルの一つだった。
AFNは正時になるとその前に何を流していたとしても一切関係なくABCニュースに入る。その時に、正時の時間合わせだろうかその数分前から専用のインストルメンタルを流すこともある。1分にも満たない時があるかと思えば、五分以上流すこともある。なんにせよこの一曲は後藤の一番のお気に入りでもある。

後藤はベッドの中で手探りでスマホを探しあて目も開けずにスマホの画面の左にスワイプした、派手に睡眠を妨害する音楽が止まる。
スマホに背を向け後藤はもう一度布団をかぶった。しかしスマホはすぐにけたたましいハードロックを流し始める。後藤は寝返りを打ちもう一度同じ動きをする。スマホを放りまた寝返りを打った。
いい加減にしろとばかりにスマホがまた騒ぎ始める。
ハーッ!!と息を吐いて後藤はベットの上に上体を起こしスマホの画面を今度は右にスワイプした。音楽が止まりもう明日の朝までこの騒音が鳴り響くことは無いだろう。後藤は手にしたスマホを見つめた。10秒ほど見つめていたがスマホに表示された時計は10秒しか進まない。当然のことだが後藤にはどうしても納得がいかない。

しかし不思議だよな。こうやって時間を見ていると見ている分しか進まないのになぁ、ベッドで寝ているとスヌーズ機能を五分に設定しているのに20秒くらいで鳴り始めるよな。たまに時間が戻っている時すらあるんじゃないか?

「はあ・・・」後藤はため息とは違う息を吐いてベッドから出るとスマホをジーンズのポケットに差し込みベランダに歩み寄った。
そうオレはジーンズを履いたまま寝る。
女とホテルに行っても寝る時はもちろんジーンズを履く。
色々と楽しんでシャワーを浴びて、さあ寝るかって時にオレがジーンズを履くと女は言った。
「帰るの?」って。
オレは何を言ってるんだ?お前はって顔で女を見て「寝るんだよ」と返したんだが、女の方もオレを何を言ってるの?あなたはって顔でオレを見ていた。

だがそれでもオレは寝る時はジーンズを履いて寝る。パジャマなど持っていないし、あんな物を履いていては眠れないだろうし、パンツ一丁など論外だ。
寝る時はジーンズを履く。それがオレだ。

後藤の部屋は岸の部屋と同じくらいの広さでやはり同じようにユニットバスにトイレ、ロフトベッドがある。違うのは後藤の部屋はベランダに出れるというところだけだ。
ジーンズのポケットから潰れたタバコの箱を抜き、一本取り出し口に咥えた。ベランダに置いたサイドテーブルからライターを拾い火を点け、フィルターを一噛みしてからタバコを吸った。

時間は9時45分。岸はもうキッチンでコーヒーでも飲んでいるだろう、あいつは目覚まし時計にスヌーズ機能が必要ないタイプだ。
酒屋の朝は、遅い。
まあもっと遅くても良いんだけど、ブルーボックスが回収されたのを確認したいし、飲み屋のゴミを外に出しておく必要もある。和さんの店でのパーティーに入れる酒ももう少し吟味したしたいしな。
何が食えるかなぁ、マジで楽しみだ。まあサキタンが結婚するって言うのは正直ショックだけどな。自分の物にならなくて残念ってわけじゃあなくって、美術館に飾られていたお気に入りの彫像が誰かに買われていく気分だ。そしてそれが誰なのかはもちろん気になる。

後藤はタバコを灰皿に入れ水をかけて消してキッチンへと向かった。
後藤がキッチンのドアを開けると予想通りに岸がいて後藤に振り返った。岸はタンブラーを手にコーヒーを飲んでいた。
しかし、その口にはスルー出来ないものが咥えられていた。岸はタバコを吸っていた。

岸のやつがキッチンで煙草を吸っていやがる。岸が吸うのは電子タバコなんだが、そういう問題じゃあない。タバコは外で吸う。それがエビス屋のルールだからだ、ここは俺の家だからってわけじゃあない二人で決めたルールだ。

そりゃあ今どきはタバコを吸うのも大変だ。江東区だって今じゃ路上喫煙も公園での喫煙も禁止だ。
昔は新幹線には喫煙室なんかなく全ての席に灰皿が付いていたって話をきいたこともあるし、タバコを吸いにいかにも昭和からやってますって感じの喫茶店に入ってコーヒーとナポリタンを頼んだ後にテーブルに灰皿が置いてないことに気が付いたときはビックリしたもんだが、それも時代の流れと言うより、まあ必然だ。喫煙者のマナーなんて今も昔も無いに等しいからな。

例えばファミレスに入って喫煙可能エリアで煙草を吸っていたら席が無いってんで子供連れが隣の席に来たらどうする?普通はちょっと我慢するだろ?子供が隣の席に来たらタバコは吸わないだろ?でも喫煙者ってのは「ここは喫煙エリアだ!」って1メートルも離れていないところに子供がいても我慢なんか少しもせずにタバコに火をつけるんだよな。そりゃあファミレスだって全面禁煙にするだろう。
和さんの店だってそうだ。和さんの店はタバコはオッケーだ、和さんはオレがカウンターに座ったら何も言わずに灰皿とライターを出してくれるくらいだからな。
だがもしカウンターに座るオレの隣にピエールが来たらどうする?もしピエールがカウンターに座ったらオレはタバコは吸わないし、灰皿に吸殻が入っていたら灰皿を和さんに返す。ピエールがタバコを吸わないことはあの店に来る誰もが知っているし、タバコを吸わない人にとっての吸殻ってのはクソと同じくらいとんでもなく臭い物だからな。

だがオレが「和さんの店のカウンターではタバコを吸っていいんだ」と、ピエールが隣に来ても気にせずタバコに火を点けたら和さんはどうすると思う?
一人の客でしかないピエールと、格安で酒を持ってきてくれるエビス屋のオレのどっちを取ると思う?
それはもちろんピエールだ。そんなことになったら和さんは間違いなくオレを「店外」に追いやるだろう。

隣にタバコを吸わないやつが来たらちょっと我慢する。
和さんは、そんな僅かな配慮もできないなら外で吸えとオレ専用のカウンター席は無くなるだろうし、それが気に入らないならもうエビス屋に酒は頼まんって言うだろうな。和さんはそういう男だ。

まあ外って言っても三歩動くだけなんだけどな。だがそんな簡単なことが出来ないってのが喫煙者が文字通りに煙たがられる理由だ。
路上喫煙なんかもっとひどいな。どこでも構わずタバコを吸って道路は灰皿だとばかりにあたりかまわずに吸殻を捨てる。そんな奴はまだマシで未だに吸殻を道路わきの排水溝やマンホールの穴に吸殻を捨てる奴がいる。なんでわざわざそんなことをするんだ?道路に放るならまだ拾ってゴミ箱に捨てることもできる。でも喫煙者はいまだにそんな意味の分からないことをする。喫煙者ってのは排水溝やマンホールが灰皿に見えるんだろうな、そりゃあタバコが吸える場所なんて無くなるに決まっている。

そんな時代の流れに沿ってみようってわけじゃあないし健康増進法なんてクソくらえってところだが、エビス屋の屋内は禁煙だ。
なぜならキッチンは改装したとはいえ壁や天井は出来る限り元のままにしてある。ちょっとした端材を上手く組み上げてある壁や天井には、チークやマホガニー、黒柿材や杉材にヒノキ材なんかも使われている。

杉材は新潟の山奥で取れたって言う真っ黒い奴で特に綺麗だし、どれかは分からないが屋久杉の切れ端もあるらしい。そんな無数の端材が作り出しているモザイク模様の壁や天井はもはや芸術品と言ってもいい。言い換えればここは芸術品に囲まれた美術館だ。
美術館で煙草を吸うなんてあり得ないだろ?それと同じだ。

だが岸だってな、タバコが吸いたくて吸いたくて飛行機から降りたら喫煙所を探してダッシュするような奴じゃないし、エビス屋の仕事中に助手席で電子タバコを取り出すような奴でもなければ、隠れてトイレで煙草を取り出すような奴でもない。
だからオレは驚いた。キッチンで堂々と煙草を吸って、それをオレに見られても全く悪びれる様子もなくコーヒー片手にタバコを吸っている岸に驚いた。

「いや、お前・・」
あまりのことに言葉が続かなかったが岸は平然とオレの言葉に続けた。

「地下のヤツ、逃げ出してたぞ」

「は!?お前、何言って・・!?」
オレは岸が咥えるタバコの事なんか一瞬で頭から消え去った。

「逃げたって!?なんでそんな・・・お前・・何」のんびりしてんだよ!!!

「廊下に出ていたから、戻しておいた。お前こそ何やってんだ?」
岸が電子タバコを一吸いしてから吐き出した。

後藤は半地下の作業場に走りドアの前でスマホを出し、作業場の監視カメラの映像を確認した。
岸の言った通り、椅子に座らせておいたはずに篠崎は床に転がっていた。首が伸びたような頭部の位置を見るだけで死んでいるのは分かったが念のためにカメラの映像を篠崎の顔に合わせ拡大した。その顔は口は半開きで仏像のように薄目を開けていた。

後藤はスマホをしまいドアを開け篠崎に歩み寄るとその首を掴み死をもう一度確認した。
崎を座らせていた椅子を確認すると右のひじ掛けにはダクトテープがかかったままだったが左のひじ掛けのダクトテープは剥がされていた。そして床が濡れているのも確認した。

次に篠崎の腕を確認した。折れているわけでも無理やり引き抜いた様子もなく出血もしていない。後藤はもう一度篠崎の首を掴み三度その死を確認してからドア脇の机に向かいPPバンドと一つかみのプラスティックバックルを取り出した。

まず篠崎の両ひざにバンドを巻きバックルで締め上げた。縛った膝を立たせて上体を起こし膝と胸部を同じように縛った。
だらんと伸びた首も膝と縛り上げた。両腕は背後で手首を縛った。こうしておけば死後硬直を起こしてもこの状態をキープしているはずだから、袋に詰めてボディボックスへとしまう作業も簡単にできるはずだ。後藤は舌打ちしてキッチンへと戻った。

岸はもうタバコは吸っていなかった。あれはタバコが我慢できなかったわけではなく、後藤への抗議だったのだろう。
岸はタンブラーに注いだもう一杯のコーヒーを後藤に差し出しながら「ロックはしたんだよな?」と聞いた。

もちろんだ。そもそも作業場のドアはオートロックだ。施錠されたらロック音もするから何かが挟まっていて締まらなかったという事に気が付かなかったという事もない。
それに・・・
「もちろん。それに椅子にダクトテープで縛っておいたんだ・・」

「手錠は?」

「いや、手錠は掛けなかった、ダクトテープの方が確実だと思って」
ハリウッドのゾンビサバイバル映画じゃないがダクトテープは万能だ。
手錠は最悪、手の骨を折れば抜けることが出来る、自分で自分の骨を折ることが出来るならだが。
しかしダクトテープで縛られた手は骨を粉々に砕いたとしても抜くことは出来ないはずだ。血で塗らせてテープの粘着力を無くしたのかと思ったが篠崎の腕に血は付いていなかった。だが床が濡れていた。おそらく最後に飲ませた水だろう。吐いたのか?だがどうやって?

岸はすでにダイニングのテレビに近寄っている。
後藤もテレビの前に行き、棚からサングラス型のディスプレイと二つのブレスレットを取りだした。
岸にサングラスの一つを差し出したが岸は軽く首を振り要らないと示した。
後藤はサングラスをかけポケットからスマホを取り出しテーブルに置き、二つのブレスレットを両手首に装着した。
両手を大きく広げ、握り、また広げた。
その動作に反応しテレビの電源が点きパソコンが起動した。

「作業場のカメラ映像」
と言うとスマホが反応しテレビに作業場が映し出された。
岸はテレビ画面を見ていたが後藤はサングラスに映し出された映像を見ていた。
そこに映し出されたのは今現在の映像だ。縛りあげられた篠崎の死体が映っていた。

「夜中の二時くらい」と岸が言うと映像は切り替わり無人の作業場が映し出された。
画面の右下に、これは録画映像であると示すRECと表示された。
後藤は右手の親指で人差し指をゆっくりと擦った。右上の時間表示の変化で映像が早送りされていることがわかるがそれ以外に映像に変化はない。後藤はもう一度指を擦った。

ディスプレイにドアから岸が篠崎の死体を引きずって入ってくるところが映し出された。
後藤が指を止めると映像も止まった。映像に右下には2時15分と表示されていた。
後藤はサングラスに映し出された映像越しに岸を見た。岸はテレビ画面を見つめていた。
「なんで気が付いたんだ?」後藤が聞いた。

「いや、勘だな。なんか気配がしたんだ」岸がこっちを向いて答えた。

気配?わからないでもないが・・・。

「なんで一人で行ったんだ、危険だろ」

「まあ夜中の二時だったしな」
オレを起こすのは気が引けるってことか。岸はそう言ったがそれは理由にはならないだろう、何か異常がありそうだと思ったらオレにも声をかけるべきだ。そして異常があったのなら二人で対処するのがベストな選択だ。

オレは夜中の二時に「なんか嫌な予感がするんだけど」って起こされたって「明日にしろよ」なんて言ったりない。
その嫌な予感とやらがただの予感で終わったとしても絶対に文句を言ったりしない。
そんなことは岸だってわかっているはずだ。だが岸はオレを呼ばずに一人で危険に向かっていった。これはよくない兆候だ。だが今はどうにもできない。

それに今回は最後に篠崎を拘束したはずのオレに責任があるし、岸は昼にキルを取ったばかりだったのだから、岸の精神状態にもっと気を配っておくべきだったかもしれない。

岸はこのゲームを一日でも早くクリアーしたいと思っている、一刻も早く終わらせたがっている。
だが岸がそれを口にすることはない。
オレに対して、こんなゲームはもううんざりだ!いつまで殺し合いをしなきゃいけないんだ!なんてぶちまけることもない。
なぜならこのゲームにオレを誘ったのは他でもない岸本人だからだ。

後藤は指を逆に擦り始めた。ディスプレイの映像は逆再生を始め岸が篠崎の死体を押すように作業場のドアから出て行った。また作業場は無人になった。後藤はさらに指を逆に擦り続けた。
すると後ろ向きにドアから入ってくる篠崎の姿が現れた。後藤は咄嗟に指の動きを止めゆっくりとゆっくりと指を擦った。

映像がスロー再生されて篠崎がドアに向かい脇のパネルを操作している様子が映し出された。篠崎はパネルを操作してドアに手をかけた。ドアは開かなかった。篠崎はもう一度パネルを操作しドアに手をかけた。当然ドアは開かない。しかし篠崎がまたパネルを操作しドアに手をかけるとドアは開き篠崎が出て行った。ディスプレイに表示された時刻は深夜1時半だった。
作業場のドアはパネルを操作して開ける必要があるし、廊下に出てもその先の車庫に出るドアはオレか岸が持っているスマホがキーになっている。つまり二重のセーフティーだ。篠崎は廊下で成す術もなくいるところを岸に感づかれて・・・感づかれて始末された。
しかしなぜパネルのパスワードが分かったんだ?いや、分かってなかったのかもしれないがなんでたった三回で正解を引き当てたんだ?偶然か?
それはまだわからないが、まだ気になるところはある。どうやって腕を縛ったダクトテープから抜け出したのかという事だ。

「ダクトテープで腕を縛っていたんだ」
オレは言い訳しながら再び指を逆に擦り続けた。映像は再び逆再生を始める。篠崎が後ろ向きで椅子に向かい座った。そこで映像を止めてみたが篠崎の腕は自由になっていた。薬品で意識が混濁しているようで椅子に座りフラフラと頭を揺らしている映像が続いた。

逆再生を続けていると篠崎の両腕がダクトテープにすっぽりとハマった。
後藤は再び指を擦る方向を逆に変えて速度を抑えゆっくりと映像を再生させていった。篠崎はもがく様に腕を動かしダクトテープから右腕を引き抜くと自由になった右手で左手を縛るダクトテープを剥がした。

「なんでだ?」後藤は小さくつぶやき再び映像を逆再生させた。
篠崎の両腕は再びダクトテープに縛られ右腕を必死に動かしている様子が映し出された。すると床を濡らしていた水の一部が篠崎の右腕に戻りそして口へと入った。後藤は指を擦る速度を速め一気に映像を戻し始めた。
後藤が後ろ向きでドアから入ってきた。さらに逆再生を続ける。後藤が篠崎に水を飲ませ錠剤を口に含ませるところまで戻った。

「音声付きで再生」岸がつぶやくと映像はゆっくりと流れ始めた。
映像の中で後藤が篠崎に話かけている。

『でもさ、薬もタダじゃないからさ、ロック解除、教えてもらえるかな?』

後藤は慌てて左手の中指で自身の太腿を二度タップするとサングラス型ディスプレイに仮想キーボードが表示された。岸が見ているテレビ画面には写っていない。後藤は静かに両手を動かし急いで入力した。右手を軽く上げてから中指を二回素早く動かした。ギリギリのところでコマンドの入力を完了させた。
映像の中の後藤は言葉を続けている。
『それと、キミはハッカーズかな?それとも・・・』
その言葉ののち篠崎は驚いたような表情をし、反対に後藤は満足そうに微笑んでいた。

「なんて言ったんだ?」岸が聞いた。

「え?」

「ハッカーズ、それとも・・の後は何を聞いたんだ?この映像では聞き取れないが、こいつ随分ビックリしているようだ」

「えーと、なんだったか、なにか脅したんだったかな、覚えてないな」
岸は眉をひそめて後藤を一瞥したがすぐにテレビに視線を戻した。

映像では、後藤が錠剤を口に入れる。そして水を飲ませた。一本目、そして二本目を飲ませた。

「なんでこんなに飲ませたんだ?」岸が言った。

「いや、欲しがったから・・・」
後藤は言い訳するように言う。映像は流れ続ける。
後藤がドア脇のパネルを操作しピッピッピ、ピーッっと音がして後藤はドアから出て行った。

「これだな」岸が言った。

「何が?」後藤が聞き返すと岸は、まぁ続けてくれと返した。
映像は続き、後藤がドアから出て行くと篠崎はすぐにしゃっくりでもしているかのように頭を動かし始めた。何度かそれを続けるうちに水を吐き出し始めた。水は右腕にかけられていた。篠崎は右腕を激しく動かし水でダクトテープの粘着力を失わせその呪縛から逃れようとしているのは明らかだった。
たまたま?偶然水を吐いたのか?
しかし篠崎は再び頭を揺らせたかと思うともう一度水を吐いた、もちろん右腕に。再び篠崎の右腕が暴れ始める。さらに水を吐き右腕にかけた。
胃から吐き出した水を口の中にためて腕にかける水の量を調整しているのだろう。
しかしまだ腕は抜けなかった。篠崎は三度頭を揺らすと再び水を吐き始めた。

意図して水を吐いている。両手を縛られている状態でだ。そんなことが出来るのか?腕を捻っては捩じり皮膚とダクトテープの間に水が入り込み粘着力が失われていく。とうとう篠崎の右腕はダクトテープの拘束から逃れ、左手に巻かれたダクトテープを剥がしていく。そうして両手を自由にした篠崎は水と共に吐き出していた床に落ちた錠剤を踏みつぶすと、ゆっくりと休む様に椅子に座り続けている。

「どうやって水を吐いたんだ?」
後藤の問いに岸は振り向いた。

「それは分からないが、そういう特技なのかもしれないな。これからは気を付けよう」

「でも手錠だって、手の骨を折れば抜けられるぜ」

「まずは喉が乾いていても水をこんなに飲ませないことだな。こんなに飲ませなければ吐くことは出来なかっただろうし、そうすれば……」岸の提案は少し非難めいたところがあった。
そうすれば……俺が手をかけることもなかった、そう言いたいんだろ?

「わかった」後藤はそう言ってから「くそ!」っと舌打ちをした。
これは岸に向けた物じゃない、篠崎に対してだ。

「しかしパスワードはなんでわかったんだ、たった三回だぜ」
岸はどうやら篠崎がパスワードをたった三回で解いたカラクリのあたりを付けているようだったがここでは明かさずに作業場を見に行こうと言った。

二人は作業場のキーパネルの前に立っていた。

「これだな」岸がパネルを指さして言った。

後藤もパネルを見たが何が「これ」なのかは分からなかった。後藤は教えてくれと岸を見た。

「かすかに血が付いてる、1と5と0、あとエンターキーだけにな」
岸が種明かしをした。
たしかに僅かだが血が付いている。篠崎の指をいじった時についた血だろう。するとパターンとしては3×3×3で27通り……いや違う3×2でわずか6通りだ。しかし・・しかし・・。

「だけど、なんで三桁ってわかったんだ?」
そりゃあそうだろう、普通は数字でパスワードの入力を求められたら4桁入力するもんだろ?それが実は三桁だったって言うオレが考えたトリックだ。
岸はまだわからないのかと言ったあきれ果てた表情で「入力してみろよ」と言った。
後藤は納得いかなかったが言われるままにパスワードを入力した。
5.1.0.そしてエンターと。パネルはピッピッピ、ピーっと電子音を鳴らした。そうかそりゃあそうだ。後藤はトリックにすらなっていなかったことにようやく気が付いた。

「耳も、潰しておくか」
申し訳なさそうに後藤は言ったが岸はため息をついて

「どうやって尋問するんだ?筆談か?」そう言ってテーブルに乗った眼球を見た。
後藤はその場で岸に謝罪しパスワードを四桁にすること、血痕に気を付けることなどを確約した。岸はそれは任せるとだけ言って自室へと戻り後藤はキッチンへと戻った。
後藤はキッチンで椅子に座り、何でオレがと思いながらも朝飯の時間だと小さくつぶやき目を瞑った。


後藤は炊飯ジャーのスイッチを押した。
もちろんお米は昨日の夜のうちに研いであるからね。
今日は日曜だから納豆は外せない。エビス屋のお客さんは小さなお店ばっかりだから無休のお店はほとんどなくって、だいたい日曜が定休日だね。日曜も開いてるのは和さんのお店くらいだね。和さんのお店は不定休。安くて良質な食材が集まらない日が休みらしい。すごいよね、安くてあんなに美味しいのに食材までこだわっているんだもん。ホント、東京の浅草のあんないい所であの値段でやっていけるんだもん、すごいことだよ。
そんなわけでエビス屋も日曜は休み。そして日曜は必ず僕が朝ご飯を作るし、そこには納豆が欠かせない。僕らが唯一納豆を食べるのは日曜の朝ご飯の時だけ。
後藤が冷蔵庫を開け納豆を二つ取り出すと、卵が無いことに気が付いた。
そうだ、卵を切らしていたんだ、参ったな忘れていた。日曜の朝は納豆と目玉焼き、少しのベーコンかソーセージ、シンプルな味噌汁に何か野菜を二皿くらい並べたいんだけどな。
後藤は納豆のほかにソーセージ、キャベツに小松菜、キュウリにカニカマを取りだした。
あと長ネギとミョウガもいるね。
二つの納豆をそれぞれ小鉢に出して一つはしつこいくらいに混ぜる、納豆が白く粘るくらいまで混ぜるんだ。これは僕の、岸くんは混ぜすぎた納豆は好きじゃないからもう一つは軽く混ぜておく。
長ネギを刻んで二つの小鉢に入れて辛子とタレを入れ味の素の少々、僕の納豆には更に醤油も少し入れる。軽く混ぜてまず一つ。
キュウリを半分とキャベツを何枚か千切りにしてボウルに入れて塩を振って軽く混ぜてからひとまず放置。
一本と半分のキュウリを三センチくらいに切ってからすりこ木で軽く押して割っていく。ミョウガは千切りにして、キュウリとミョウガをジップロックに入れる。そこに鷹の爪を割り入れてごま油とみりんを少々、醤油に顆粒のだしの素を入れて軽くもんでこれもまた放置。
炊飯ジャーは炊きあがるまで60分って表示が出るけど実際は40分ほど。
だけどさすがに今からソーセージを焼くのは早すぎるね、少しテレビでも見ていよう。

後藤がテレビのチャンネルをワイドショーに合わせると同時にスマホが振動した。
スマホを確認するとボディーボックスの回収業者が着た合図だった。

「テレビに映して」
後藤が言うとテレビ画面はワイドショーから車庫横の勝手口外の監視カメラ映像へと切り替わった。トラックから二人の作業員が降りてくるのが見えた。
作業員が身分証をドア脇の端末にかざすと後藤のスマホが振動しセキュリティ上の通知が来た。

「いいよ開けて」
後藤が口にすると勝手口のドアが解錠され二人は作業を始めた。トラックから未使用のボディボックスを下ろし勝手口から使用済のボディボックスを引きずり出し二つを交換する。二人で手際よく作業をこなし、使用済みのボックスをリフトゲートでトラックに積み込み去っていくまでの時間は15分ほどだった。

おそらくあの二人は、箱の中に何が入っているかなんて知らない。
まさか自分たちが死体回収業者だったなんて夢にも思わないだろうね。でも世の中そんなもんだよね、自分の仕事が社会のどこの歯車を回しているかなんてあまり考えないもんね。
ゴミの回収業者は箱の中身が何かなんて気にしないし、ゴミがどうやって処理されていくのかを知りたいとも思わないだろうね。ま、知らない方が身のためなんだけどね。
さて朝ごはんを作らないと。

水を張った小鍋を火にかけておいて、塩を振っておいたキャベツとキュウリから出た水気をよく絞る。
カニカマを刻んでから合わせてコールスローのドレッシングとマヨネーズを入れる。たっぷり胡椒を挽きかけてから醤油を少し垂らす。よく混ぜてから小皿に取り分けて粉チーズを振ってまずはサラダの完成。
胡麻を擦りながら小鍋の湯が沸くのを待ちながらスキレットをコンロにかける。
沸騰したら小鍋に小松菜をゆっくりと少しずつ沈めていく。葉先まで浸し再び沸騰したらすぐに引き上げて流水で冷やす。
爽やかな緑に変わった小松菜を切り分けてからボウルに入れ、味噌にみりん、すり胡麻に砂糖を少し入れよく混ぜたら、小松菜の胡麻和えの出来上がり。
小鍋のお湯は少し緑がかっているけど気にせずに豆腐を斬り入れて顆粒出汁と味噌を足して乾燥ワカメを散らしたらお味噌汁の出来上がり。
スキレットが温まったら油をひいてソーセージを7本転がして中火で炒めていく。好みは人それぞれだけどソーセージはもちろんシャウエッセンで油で軽く炒める。ケーシングがパリッと破けてからもう少し炒めるぐらいが一番おいしい。そんなことをしたら中の脂の旨味が逃げちゃうって言う人もいるけど、そんなの僅かだし味は変わらないよ。それ以上に食べる時にケーシングが破けてそこで中に詰まった脂が飛び跳ねるのがイヤなんだよね。ケーシングが焼き破れて余分な脂が抜けたパリッと香ばしい焼きソーセージが一番おいしいんだ。

ドアが開いて岸くんが戻ってきた。
「もうできるよ」と僕が声をかけると岸くんは軽く頷き茶碗にご飯をよそりテーブルに並べ、コップを二つ取りだし水を汲んでそのまま椅子に座った。うん、さすがの僕も納豆を食べる時は牛乳は飲まないからね。
ソーセージを四本、三本と分けてお皿に盛って四つに切ったトマトを乗せる。キュウリは・・別の小鉢によそることにしよう、上にミョウガを乗せてと。最後は、お味噌汁をよそって今日の朝ご飯は完成。

「のりたまいる?」と聞くと岸くんはテーブルに並べられた朝ご飯を見回してから「頼む」と言った。
卵があればね、目玉焼きか出汁巻き卵でも焼くんだけど、今日はその代わりにのりたまってことで。

冷蔵庫からのりたまを出しテーブルに置いて日曜の朝ご飯が始まる。
岸くんがテーブルに置かれた缶に手を伸ばし中から海苔を取り出してから、ご飯に一口分だけ納豆を乗せ海苔で巻いてから口に運んだ。
僕は岸くんの食べ方に文句を言うことはないし、岸くんも文句を付けたくなるような食べ方をしないけど、二つだけ。
納豆を食べる時はご飯茶碗を汚さないように食べて欲しいんだ。納豆を入れた器がネバネバになるのは仕方がないけど、ご飯のお茶碗が納豆のネバネバで汚れるのは好きじゃない。

もう一つは卵かけご飯の時は直接ご飯に卵を割り落とすのもダメ。ちゃんと別の器に卵を入れてからそこでかき混ぜて醤油を注してご飯にかける。もちろん、僕が岸くんの食べ方の指示までしたことはないよ。そりゃあね、食器を洗うのは僕だけどね。
ソーセージに箸を伸ばし味噌汁を啜りトマトを一切れ口に運び、のりたまを振りかけて茶碗のご飯はどんどん減っていく。
岸くんはあっという間に日曜の朝食を終え、まだ食べている途中の僕に向かってコーヒーを勧めてくる。

「ブラックで」と返事をする。岸くんがお湯を沸かしカフェオレがタンブラーを満たす頃に丁度、僕も朝食を終えた。コップに半分ほど残っていた水で口内をすっきりさせて岸くんこだわりの一杯に口を付ける。

「カフェオレだよこれ」後藤が指摘すると岸は軽く謝った。

「あ、そうか悪い、間違えた。でもいいだろ?」
二人でまったりとしながらなんとなくテレビのワイドショーを見ていると岸くんが言った。

「そう言えば京ちゃんは?京ちゃんとはどうなったんだ?」
岸が聞くと後藤はゆっくりと首を回し岸を見た。

「京ちゃん?」後藤は小さな微笑みのまま小さく首を傾げもう一度繰り返した。

「京ちゃん?」

「ああ、てっきり結婚しているもんだと思ってたんだけど」
すこしニヤけて言う岸に後藤は視線を落とし少し考え込む様に自分の手を見つめながら言った。

「ああ、京ちゃんかぁ」

「なにしらばっくれてんだよ、京ちゃんは今何してるんだ?まさかフラれたのか?」岸は眉をひそめて聞いた。

「ああ、そうか岸くんは知らなかったんだな」

岸くん。懐かしい呼び方だ。高校時代、岸と後藤と京子の三人は親友と言っていい仲だった。岸は後藤を呼び捨てにしていたが、京子は後藤を直ちゃんと呼び、後藤と岸は京子のことを京ちゃんと呼び、後藤と京子の二人は岸を「岸くん」と呼んだ。そして後藤と京子は男女の仲だった。
三人は綺麗な三角形を維持していた。岸も京子のことは好きだった、親友の一人として。

「京ちゃんは死んだよ」
後藤の顔は微笑んだままだったがその顔はまるでスピーカーを付けたマネキン人形のようで不気味な微笑みで岸に告げた。後藤の目は岸には向いていたがどこか別の物を見ていた、いや、何も見ていなかったのかもしれない。

高校時代だ。
岸はバスケットボール部に入部した。当時の岸は身長はまだ170ギリギリと言ったところだったし、県立の男子高校で全国制覇しようなどと言う大それたことを夢見ていたわけではない。単に明るく楽しい高校生活の一環として部活動も経験してみたかっただけだ。
熱血!というほどではなかったが岸は熱心にバスケットボールに打ち込み部の中心的存在になるのにさほどの時間はかからなかった。が、岸と同じく公立高校のバスケットボール部はさほど熱量のある場でもなかった。結果的に岸は高校生としてそれなりに部活動を楽しむことになった。
後藤はというと学校の部活動には入らず当然、自身のオフロードバイクに熱中していたようだ。だが80万と言う高校生には想像もつかない金額を注ぎこみ、これからもまださらに金を注ぎ込もうとしているのなら、オフロード界で成り上がろうとか、世界に挑戦すると言った意気込みが見えそうなものだが岸が見る後藤にはその様子はなかった。単純にオフロードバイクが好きで他に金の使い道が無いと言った感じだった。この点では岸のバスケットボールに対する熱量と後藤のオフロードバイクに対する熱量の差はなかった。二人はそれぞれ高校生活を満喫しようとしていただけだった。

あの河川敷の体験の後からも岸と後藤は友人関係を継続させていた。45分間の授業が終わり合間の15分の休憩時間に「便所いこうぜ?」と連れションするような間柄になっていた。
なぜトイレに行くのにわざわざ誰かに声をかけるのか今に考えるとよくわからないが当時は、少なくともその男子校ではそれが奇妙ではあるが不思議ではない友人同士の儀式の一つだった。
今でいうなら「一服しに行かないか?」と喫煙所に誘う行為と言ったところか。そこに特別な友情が介在してるわけではない。四列向こうの窓際の席にいる山本に声をかけるよりすぐ後ろの席の後藤に声をかける方が自然だからだ。
ともかく、高校時代の岸と後藤はまずはそう言った仲になったという事だ。
岸は部活があったし後藤はオフロードバイクに夢中だった。授業の六限目を終えると岸はバスケットボール部で汗を流すために体育館に向かい後藤はバイクのある河川敷に向かう。
岸は部活動でもクラスでも多くの友人を作ったが、教室での後藤はあの河川敷で見せたロデオの達人のようなパワフルさは一切出さず静かな男だった。しかし、静かと言えば聞こえはいいが男子高校ではそれは陰気と映り格下に見られる行いだ。岸にとって後藤は高校生活の中の多くの友人の中の一人になったが、後藤にとって高校での友人は岸一人だった。
高校生活で一度目の梅雨を迎えるころには、岸はクラスの中心の一人となっていたが後藤はクラスのヤンキー崩れの連中に目を付けられるようになっていた。イジメと言うほどではない、その手前と言ったところか。当時はまだ小柄だった後藤はヤンキー連中の所謂パシりになっていた。休み時間に自販機にジュースを買いに行かされ昼休みには学食に競争率の高い焼きそばパンを買いに行っていた、ヤンキー連中の為に。
岸は見て見ぬ振りをした。後藤は暴力を振るわれていたわけでもなかったし、金を巻き上げられていたわけでもなかった。ただ休み時間のたびに買い物に行き少し小突かれていた程度だったからだ。別にナイフを突きつけられ脅されていたわけでもなければ、殴られ怪我をするようなことがあったわけでもない。
クラスの中心、今でいうところの校内ヒエラルキーのトップ、クラスの一軍である岸が後藤と話している時はヤンキー連中は距離を置くことはわかっていた。だからと言って常に後藤に寄り添い守ってやると言う気にもならなかった。イヤならばイヤと言えば済む程度の話だ。岸はそれを言わずに薄笑いを浮かべながら学食に向かう後藤を自ら進んで助ける気はなかった。
岸はこの狭いクラスの中で肉食獣を気取るチンケなヤンキー連中を毛嫌いしていたが、それに従う後藤には歯がゆさを感じていた。だが岸はそんな後藤を友人リストから外すことはなかった。

二人は高校二年生となりクラスは別々になった。後藤は相変わらずヤンキー連中の小間使いだったが、岸は二年生にしてバスケットボール部の主将となりクラスでは完全に中心になり、成績もそれなりで悪くはなく教師に生徒会長に立候補してみろと言われる程度に高校全体から一目置かれる存在になっていた。野球部の小田、サッカー部の林、バスケ部の岸と言えば全校生徒から知られている存在だった。普通の男女共学の高校だったら岸は大いにモテて生徒会長になっていたかもしれない。がそこは男子校特有の空気感がある。生徒会と言う物は眼鏡をかけた文化部の連中がやるものだという雰囲気があった。
だがそんなクラスの中心にいた岸と、別のクラスでは底辺に位置していたであろう後藤は友人のままだった。岸はあの入学式の後の河川敷以来何度か休日にそこを訪れ後藤とオフロードバイクを楽しんでいた。岸が訪れるたびに河川敷の様子は変わっていた。葦はドンドン切り開かれコースと呼べる物が作られ、後藤は「気持ち程度テーブルトップだ」と言ったが、とてもではないがそこにバイクで突っ込む気にはなれないジャンプ台まで作られていた。岸はヘルメットの代わりにスコップや鎌を渡され葦の生い茂る河川敷をオフロードコースに作り変える手伝いさえしたことがあった。
高校生活も二年の半ばを過ぎたあたりでも二人の関係は細々と続いており、岸は三限目の終わりに後藤のいるクラスに行き昼飯の予約をすることがあった。
昼休みは四限目の終わりだったが岸はあえて三限目の休み時間に後藤のいる教室に行き周りに聞こえるように後藤を昼食に誘った。後藤に絡むヤンキー連中に後藤の「予約」を宣言するためだ。
こうしておけば学食で岸と昼食を共にする後藤がヤンキー連中に焼きそばパンを運ぶためにいなくなることはないからだ。
岸と昼を共にする後藤は必ず昼飯を奢ろうとしてきた。岸はそれが嫌だった。友人と思っている後藤が岸の歓心を買おうとしていることがたまらなく嫌だった。後藤は岸が昼飯に誘ってくれればヤンキー連中の使い走りをしなくてすむとわかっていたのだろう。だから学食で昼飯を奢れば岸にもっと誘ってもらえると思っていたのだろう。岸はそんな考えをする後藤が嫌だったし、学校では自分を「岸くん」と呼ぶ後藤が嫌いだった。学校の中でもあの河川敷でと同じように呼び捨てにしてほしかった。だが二人は友人だった。二人は奇妙な関係だった。親友ではないしイジメられっ子とそれをかばう優等生と言ったわけでもなかった。学校での二人は傍から見ればそう見えただろうが、あの河川敷では後藤はオフロードバイクのコーチとなり岸はコーチに叱られスコップを渡される出来の悪い生徒だった。二人は奇妙は友情でつながれていた。
ある日、昼食を共にする二人はいつものように後藤のオフロードバイクの話になった。昼食時の二人の話題はそれだけだった。後藤が次に買うパーツの話、後藤が何度教えても岸がコーナリングでビビってしまっていつまでもヘタクソな理由とそれを克服する方法。
後藤がテーブルトップをさらに大きくして、岸に言わせれば「バイクが吹っ飛ぶ危険な大型ジャンプ台」を作ろうとしていると言った時には岸は「俺は手伝わないぞ」と笑いながら答えると後藤は「もう大丈夫、スコップは使わないよ、小さいショベルカーを借りてきたから」と笑みを返した。
「ああ言った重機は免許が必要だろ?」と言う岸の問いに後藤は笑みを浮かべたまま「河川敷だから免許は必要ないよ。操縦はまあゲームみたいなもんだね、慣れたら簡単だよ」
ある日、その資金の出所が気になった岸は後藤に聞いてみた。あの河川敷のゴーカート場でバイトしてどれだけ小遣いをもらっているのかと。
後藤は金額は気にしていないしよくわかっていないな、としながらも10万は貰っているよと答えた。
岸はまるで犯罪行為の話でもしているかのように周りを気にして声を潜めて聞いた。
「10万!?」

「うーん、まあそんなもんだと思うよ、でもほらバイクもショベルカーも置いてもらっているからね」
後藤は10万円でも仕方がないという風だったが岸にとってはもちろん違う、真逆の話だ。高校生にとって10万円は大金だ、少なくとも当時の高校生にとっては。しかもそれが毎月手に入ると言う。

「ゴーカート場ってそんなに仕事があるのか?」

「うーん、ゴーカートの整備とかもしているよ。ほら、あれってオレのバイクと同じで2ストだしね」

2ストが何なのか岸には分からなかったが驚くには十分だった。

「エンジンの整備までできるのかよ!?ああいうのって整備士とか免許がいるんじゃないのか?」

「いや整備だけ、要は点検だよ。もちろん修理が必要なら業者に頼んでって忠告はするけど」
岸はいつも真っ黒な後藤の爪を見て納得したが、同時に後藤にまとわりつくヤンキー連中を思い浮かべながら当然ともいえる懸念を持って聞いた。

「カツアゲとか、されてないよな?」

後藤は「されてないけど・・・?そういうところはいかないし」と困惑気味に答えた。一安心だ。後藤があのヤンキー連中に金を巻き上げられているならこの友情が壊れかねない事態だからだ。もし後藤が金を取られていたのなら、高校内で一軍の中でもエースクラスの岸がヤンキー連中に警告を与え後藤から引き離すのはおそらく容易だ。だがそれは出来ない、後藤を助けたくはない。後藤を助けるというのは、後藤を下に見ているという事になるからだ。後藤とはフラットな関係でいたいと岸は思っている。
しかし10万。そりゃあ400円の昼飯くらい軽く奢ろうとするわけだ。
後藤は岸の歓心を買おうと昼飯を奢ろうとしていたわけではなかった。社会人が小銭で同僚に一杯のコーヒーを奢ろうとする程度の物だったのだろう。
岸は、後藤が自分の歓心を買おうと誤解していたことを少し恥じ二人の友情はちょっと強くなった。しかし二人の表面上の仲は変わらなかった。岸はたまに河川敷へと足を向けることはあったし、昼休みに後藤を誘う事もあった。が、やはり昼食を奢られることは断っていた。

そんな友人関係がかけがいのない親友へと変化するきっかけとなったのは高校二回目の冬休みの手前だった。岸は教室で友人に声をかけられた。

「誰か呼んでるぞ」
そう言われ教室の戸に目を向けると大柄な男がいた。身長が180に近くなった後藤だった。相変わらず学校の中では控えめでおとなしい後藤が伏し目がちにこちらを見ていた。
岸は後藤がとうとういじめに耐えられなくなって救済を求めに来たのかと思い舌打ちし、ため息をついた。
後藤に「どうした?」と言うと後藤は笑顔で「今度の日曜、池袋に行かいない?」と言った。

後藤が岸を誘った理由はバイクの二人乗りが出来るようになったからだった。バイクの中型免許を取得して一年がたち二人乗り、所謂ニケツが出来るようになり二人でツーリングと言うほどではないが、どこかに行ってみたかったのだろう。岸は即答した。もちろん「いいぜ!!」と。

次の日曜日、岸は待ち合わせ場所のコンビニへと向かった。
そこには満面の笑みの後藤とピカピカに磨かれたバイクが待っていた。
いつもの泥にまみれたバイクではない。後藤は岸を乗せるにあたってバイクを綺麗に洗っておいたのだろう。当然のことだと思うが。いや、それにしても綺麗だ。いや、ピカピカだ。

「お前、まさか・・」岸は驚いて口が続かなかった。

「ああ、新しいの買ったんだよ、CRMのニーハン。せっかくだから岸を最初に乗せたくてさ!」

「前のよりだいぶ高いな」

「いや、それほどでもないな、前の80は新車で買ったけどこれは中古だしな50万くらいだ」

「いや高さだよ」
後藤が乗ってきたバイクはいつもの土手で見ていたバイクより一回り大きいものだった。ニーハン。250CCの事だろう。一気に三倍以上の排気量だ。バイクのシートの高さは岸の足が届くとは思えない高さだった。後藤は・・・届くんだろうな、後藤の身長はいつの間にかに岸を越えブーツを履いた後藤は180センチを超えている。

「大丈夫だって、サスは結構沈むから」
後藤はバイクにまたがって身体を上下させた。

「な?」後藤は岸を納得させるように顔を向けた。

「おいおい、俺に乗れって言うのか?」

「え?乗らないのか?」
困惑気味に後藤は言った。もちろん、後藤の言う「乗らないのか?」と言うのが土手でのことを指しているのはわかっている。確かにあの土手で乗るバイクは楽しかった。しかし、80CCのバイクを後藤はG1ジョッキーのように乗りこなしていたが、岸にとっては暴れ馬のまたがるようなものだった。それが一気に三倍以上のエンジンになったというのだ。
岸は恥ずかしさを誤魔化すように話題を変えた。

「前のバイクはどうしたんだ?」
後藤は少し悲しそうな顔になった。

「売ったよ、さすがに二台は持てないしな」
愛車って言うのはこういうことを言うんだろうなと岸は思った。後藤は身を切る思いであの慣れ親しんだバイクを売り新たな愛車を手に入れたのだろう。岸は少し意地悪な気分になりその身を更に切ってやろうと言った。

「オレは前のバイクの方が好きだなあ」

「いやでもさ、もうあのバイクじゃ相手がいないんだよ」

「相手?」

「ああ、最近あの河川敷にも結構人が来るんだよ。オレが作ったコースだけど河川敷だし独占するわけにもいかないからな、ちょっとレースやっているんだけどさあ80なんて中坊しかいないんだよ。中坊に負けるなんて頭にくるだろ?でも大学生とか社会人は偉そうにセローとかKTMとか持ち出すしな!だからオレもニーハンの・・・」

「おい、レース?レースしてるのか!?」
岸は驚いて後藤の言葉を遮ったが後藤は意に返さずと言った風に言い返した。

「ああ、ぶっちゃけレースって程ではないけどな、やっぱり一人で走るよりかは楽しいからな。北関東の草レースには何度か出たけど、80じゃ高速には乗れないし行くのが大変なんだよ」
岸は色々と聞きたいことがあったが一気に情報が出されすぎて何から聞いていいのか混乱したが、まず聞いたのは・・

「お前が中坊に負けるって?うそだろ?」
岸から見る後藤のバイクの腕前は80のバイクのパワーじゃ物足りないと言わんばかりに乗りこなしているように見えたからだ。それが中学生に負ける?

「これじゃあ勝てねえんだよ」
後藤は首を振って180に達している体の前で両手を払う様に振った。
「あいつら小さいからな、こっちが必死にギャップやジャンプで差をつけてもコーナー後の吹けであっという間に抜かれるんだよ」

「レースに出ているのか?」

「ああ、出てるって言ってるだろ、全然勝てないけどな。ただ一度だけ長野で125のCRMを借りたことがあってさ、もう最高だったよ。その日の2位のタイムは軽々抜いたぜ、1位のタイムは抜かないでやったんだぜバイクを貸してくれたしな」
抜かないでやったというのが本当かどうかはもちろん岸には分からなかったが。

「お前は趣味でやっているのかと思ったよ、その、レースとか出るんだな・・」

「そりゃあ趣味だよ、でもレースくらい出るだろ?お前だってバスケで県大会には出てるじゃないか。別に日本一になりたいなんて思っているわけじゃないが出るなら勝ちたい、そうだろ?」

「うーん、意外だったからなぁ・・・でもデカいなこのバイクは」

「ああ、125か迷ったんだけど250なら高速道路を使えるからな、値段も大差なかったし思い切って買ったんだよ」
後藤は心底嬉しそうだった、気持ちは分かる。

「でも、もうあの河川敷には行かないぞ」
岸がそう言うと後藤は少しガッカリした様子になったが

「なんだよぉ・・岸、まさかビビっちゃったのか?」
ニヤ付いた笑顔で返した。岸が少し憤慨し「ああ?お前・・」と言ったところで誰かが割り込んできた。

「後藤!後藤じゃねえか!」

「あ?後藤かよ」

「こんなところで何やってんだよ後藤」
学校で後藤に絡んでいる藤川と恩田と阿部のヤンキー3人組だった。

「あ、藤川君」
急に後藤が学校でのテンションに戻ってしまう。思わず岸は舌打ちした。この3人に対してと後藤に対してだ。

「あ、岸じゃん」
藤川が岸に気が付くと、恩田と阿部は高校カースト上位の岸に対して少し引いた。
しかしヤンキー3人組のリーダー格である藤川はここで引くのはダサいと思ったのだろう。

「なんだよ岸、後藤と何してんだよ。これお前のバイク?すげえな」

岸はこの馬鹿どもが少しは後藤を見直すことを期待して「後藤のだよ」と返した。
途端に3人は後藤のピカピカのバイクをベタベタ触り始め岸の期待は無駄に終わったことが分かった。

「でっけー」

「これ後藤のバイクかよ、俺にくれよ」

藤川が許可も得ずにバイクにまたがった。後藤は「ちょっと藤川君」と言ったが藤川が後藤に舐められたと思ったのか「キー貸せよ」と言ってバイクにまたがり身体を上下させた。

「ダメだよ、藤川君免許持ってないでしょ」
そう答えた後藤に
「おめえは持ってんのかよ!」藤川が睨みつけるように振り向いた瞬間、バランスを崩し藤川はバイクと共に倒れた。ガシャン!バイクは倒れパリン!という音と共に左のミラーが割れた。

「いってえ・・」
藤川は立ち上がったがミラーが割れている。
さすがに藤川はマズいと思ったのか
「いってえなぁ!お前がキーを貸せねえからだろ」と後藤を睨みつけた。
後藤は藤川を見て、倒れたバイクを見て割れたミラーを見た。そして再び藤川を見た。
藤川は跨ってはみたものの意外と大きいバイクを倒してしまったことに少しビビったはずだ。今ここにいる5人の中で一番ガタイが良いのが後藤だ。だが藤川にもチンケなメンツがあったのだろう、精いっぱいの虚勢を張って「気を付けろよな」とわけのわからないことを言って立ち去ろうとした。恩田と阿部が後に続いた。
後藤が「藤川君」と呼び止め、それに藤川が「ああぁ!?」と振り向いた瞬間に藤川の体が宙に浮いた。後藤が藤川の両脇に手を差し込み持ち上げていた。「てめ!」と藤川が威圧したが後藤は持ち上げた藤川の身体を倒れたバイクの前に向け直した。

「ミラーが割れてるよ」
後藤は藤川の身体を倒れたバイクの前に、置いた。
「知るかよ!!」
藤川は精一杯の虚勢を張って言ったが後藤は意に介さずに言った。

「知らないってことはないよね。割れてるもん」

「なんだお前、俺に弁償しろって言うつもりか?」
藤川は、後藤如きが岸の威を借りて何を偉そうにと言った風だったが

「そりゃあねえ、乗ってくれとも乗っていいとも言ってないしね」後藤はゆっくりと右肩を回しながら言った。
ヤンキー3人組と後藤の立場は完全に逆転していた。岸は思わず笑った。これこそが岸が後藤に求めたいたもので、やっとヤンキー連中に後藤の本質を分かったもらえた気がしたからだ。

「いくらだよ!」藤川はまだ虚勢を張れているつもりだったのだろうが岸から見れば全くそれは滑稽だった。

「1万かなあ」後藤が答える。

「ああ!?ふざけんなよ!ミラー一個で一万もするわけないだろ!」

「DRCのいいやつだからね、申し訳ないけど」払ってもらうぞ。後藤は無言でそう言っていた。

「金持ってねえよ!」藤川は言ったが後藤は逃がさなかった。

「休みの日にさ、これから出かけるって言うのにお金持ってないことは無いでしょ?藤川君、コンビニでバイトしているんでしょ?」

「お前が壊したんだろ、払ってやれよ」岸が助け舟を出す。もちろんそれは後藤へではなく藤川に対してだ。後藤に言われるがまま一万円を取り上げられるより、学校の中心人物である岸に言われたほうがまだ藤川のメンツが立つだろうと思ったからだ。

藤川は逃れようがないことにやっと気が付いたんだろう、恩田と阿部に向かってちょっと出せよと小声で言った。
だがそれは岸が出してやった助け舟を沈めるような行いだった。
せっかく少しはメンツが保てるようにしてやったのに台無しだろと岸は思った。

当然、恩田と阿部は何で俺たちがと反発する。結局藤川は福沢諭吉を一人後藤に差し出し舌打ちして「ふざけんな」と言い逃げるように去っていった。
これが後藤なんだよ!岸は思わずニヤ付いた。

「一万は無いだろ?」

「これでいいもん食えるだろ?」そう言って後藤が笑う。

「ミラーないけど行けるのか?」岸が聞くと後藤は「左なら問題ないだろ」と言いレンチを取り出しフレームごと外してレンチと共にツールケースにしまってしまった。
後藤がバイクにまたがりエンジンをかけると今まで河川敷で乗っていたバイクとは全く違うパワフルなエンジン音が叩かれ始めた。
「行こうぜ」
後藤は言い、岸に後ろに乗るように首を振った。

岸は後部シートに乗ってバイクに揺られながら思った。
オフロードバイクって言うのはかなりハードなスポーツだ。スピードが出るとか、ジャンプするって意味だけではない。体力的に身体的に、そして筋力的にと言う意味だ。
岸が初めて後藤のバイクに乗らせてもらった次の日だ。岸は今まで感じたことが無いレベルの筋肉痛に襲われていた。腕と足はもちろん、腹筋、背筋までもがかなりひどい筋肉痛に襲われていた。一番驚いたのは首の筋肉痛だ。こんなところが筋肉痛になるとは思ったことすらなかった。とにかく文字通りの全身筋肉痛だった。
なってみて始めた分かった、オフロードバイクってのはとんでもなくハードなスポーツなんだってことに。考えてみればそれもそうだ。派手に飛び跳ねるバイクに乗っているわけではなく、両手と両足で必死にしがみついているわけだから。手足が筋肉痛になるのは当然だし必死にバランスを取ろうと力が入る背筋に腹筋、胸筋までもが筋肉痛になりオマケに首まで筋肉痛になる。
後藤はそんなスポーツを何年もこなしている上に今や身長は180に近い。本来ならヤンキーもどきの藤川のようなヤツの使い走りになっていることの方がおかしいのだ。
後藤が藤川の身体を持ち上げた時は本当に痛快だった。あの初めてのお化け屋敷に驚く子供のような藤川の表情。
岸はやっと後藤に打ち明けることが出来た。

「俺さ、お前がいじめられていると思っていたんだよ」

「なんだよ、そう思っていたなら助けてくれよ」
後藤は笑いながら答え、続けた。

「まぁさ、学食のオバサンもそう思っていたみたいでさ、可哀相なオレの為に焼きそばパンとコロッケパンをキープしてくれるんだよ。オレ、三時限目の後に食べる学食のコロッケパンが一番好きなんだよ」

岸はその答えを聞いて後藤のことをようやく理解できた気がした。後藤は高校生にしては大人だったんだと。
中学生でありながら数十万のバイクを買い、高校生になれば月に10万を稼ぎ河川敷に自前のコースを作りさらに高いバイクを買うような男からは同じ高校生が狭い世界で一生懸命に跳ねる幼い存在に見えていたのだろう。後藤はヤンチャな子供たちをあやすように上手に使って学食で一番人気のパンを確実に手に入れていたのだ。もし藤川たちが後藤に暴力を振るっていたらその関係は一瞬で逆転していただろうが。

それからというもの、岸と後藤は休日には池袋に足を向けた。よく行った。二人で買い物をし、映画を見て遊ぶようになった。
それまで岸にとっての後藤は学校でいじめられている奴だったが岸はそれにどこか違和感を感じ、なぜか放っておけない友人の一人だった。その違和感が今日、解消された。後藤は高校生にして月に十万稼ぎ数十万のバイクを買い河川敷をダートコースに作り変えるようなエネルギーを持った男で、はっきりと言えば大人だったのだ。岸はそのことにうっすらとだが気が付いてはいたからイジめられている後藤に不満を持ちつつも友人関係を保っていた。だが違ったのだ。後藤は岸が思っていた以上に大人だった、後藤はいじめられてなどいなかったのだ。後藤と岸は親友となった。

池袋。
東京に憧れる部分を消しきれない埼玉の高校生にとって池袋と言う土地は、身近な浦和や大宮に行くより丁度いい最適な憧れの東京だったのだ。
新宿歌舞伎町はヤクザと犯罪と酒の匂いがする大人の街だし、六本木も外人と酒と犯罪の匂いがした。渋谷も歌舞伎町や六本木ほどではないが埼玉の高校生にはどこかアングラな雰囲気があった。原宿は街全体がどこかサイケデリックな感じが強すぎるという事と、全国からの田舎者が集まる場所と言った雰囲気があった。埼玉の高校生はどこか少しダサく感じる池袋が性に合うのだ。

岸と後藤の二人は休日には池袋に行きまずナンパをした。性的な目的ではない、それが皆無だとは言えば嘘になるが、単にこれから買い物をしたり映画を見たり、埼玉から来た二人の男子高校生が池袋をうろつくにあたってチョットした花を手にしたいというだけの事だ。
二人はバスケ部の主将とオフロードに打ち込むともにスポーツマン。その上、後藤は既に180近くまで身長を伸ばしていたし、岸は女子を引き寄せる子犬のような天性の甘いマスクを持っていた。だから成功率はそれなりに高かった。男女二組で映画を見てサンシャイン通りのウェンディーズでハンバーガーを食べ買い物をし、特に気に入った女子高生にはプレゼントを買い渡す。
別れ際に連絡先を交換しようとするときに埼玉の男子高校生だと伝えるとその後の連絡は来なくなることが多かったが、二人にはその方が都合が良かった。
岸と後藤は彼女を見つけたかったわけではなく、純粋に休日を過ごすにあたって綺麗な花の一輪でも手にしていたいだけだったからだ。
もちろん、一緒に映画を見たあとに女子と岸がいなくなることはあったし、後藤が銀のリングをプレゼントした女子と姿を消すことはあった。
そういうことがあった次の週には岸がその女子を伴って現れることももちろんあったし、後藤が買い与えたシルバーリングを付けた女子を伴う事もあった。しかしそれが続くのはせいぜいが二週目か三周目までで二人が同じ女子と四回目のデートをすることはなかった。

岸と後藤の二人の関係はかけがいのないものではあったが絶対な物でもなかった。
岸にとって後藤はジグソーパズルを完成させる最後のピースと言うわけではなかったし、それは後藤にとっても同じだっただろう。言ってみれば、二人はお互いにジグソーパズルでまず最初に角に置いたピースに繋がる最初のピース、そこから世界が広がる大事なピースだったのだ。
だが女子は最初のデートこそ男の友人がいても楽しむが次のデートにもオマケの男がいることを嫌がるものだ。さらに次のデートにもオマケが付いてくるとなれば自分だけを見てくれて二人きりでデートができる別の男を見つけに行くものだ。
岸と後藤にとってそういった女子は次に繋がらない全く関係ないピースか、せっかく角と繋がったピースの間に無理やりに入り込もうとする目障りな存在でしかない。
しかし女子は二人だけで新しいジグソーパズルを作りたがるものなのだ。
だが京子は違った。京子は角のピースに繋がるもう一つのピースだった。

「死んだ?京ちゃんが?冗談だろ?」
くだらない冗談はやめろよとばかりに岸は鼻で笑うように言ったが後藤のマネキンのような表情は変わらなかった。
「京ちゃんはボクの目の前で死んだよ」
後藤は呆けたように首を傾げ続けた。

「目の前?」
岸はまだ半信半疑だった。いや、あの子が死んだなどと言う事は聞きたくなかったし信じたくなかったからかもしれない。

「京ちゃんは電車に轢かれて死んだよ」

「嘘だろ?おまえらあんなに仲良かったのに」
仲が良いから死なないなんてことはないという事は分かってはいるが、あの京ちゃんが死んだなんて「へー死んだのか」とは言えないことだし、電車に轢かれた?まるで現実味が無かった。

岸にとって京子は後藤が池袋でナンパしてきた女子の一人でしかなかった。岸と後藤は高校三年生になっていた。
その日の岸のナンパは珍しく上手くいかず、後藤がナンパした京子と岸の三人で池袋をうろついた。三人で映画を見てウェンディーズでハンバーガーを食べ、買い物をしていつも通りに別れた。京子は一人で電車で所沢へと帰り、岸と後藤はバイクで埼玉へと帰った。
次の日曜日も岸と後藤は二人乗りのバイクで池袋へと向かった。後藤はバイクを止めると池袋駅へと向かった。当時はまだスマートフォンと言った物はなく、それどころか高校生が携帯電話持つことが一般的ではなかった時代だ。後藤は持っていたが。
後藤は池袋駅にあるフクロウの像の前で待った。言うまでもなく京子を待っていた。岸も不満を持たずに後藤と待っていた。どうせ次かその次には姿を見せなくなる女だ。
だがそう思う岸には分かっていた。どうやら後藤はマジみたいだな、と。
マジな時の後藤は分かりやすい。マジな後藤は女子に対してバイク乗りの時の後藤ではなく学校での後藤が出てくる。その180に達した上に筋肉質な体格に見合わずおとなしくどこかオドオドした感じになる。
岸はそれを見て「二人でどっか行って来いよ」と耳打ちするのだが後藤は岸を優先する。逆の立場になったとしても後藤も岸に同じことを言うだろうし、そんな状況では岸も後藤を優先するだろう。しかし女子にとってのデートとは二人きりでするものだ。
女子は、三人目の男を目障りに思い、そういう男を連れてくる男から離れて行くものだ。

だが京子は違った。盲目的に男に従う女性ではなかったが、我が強いというわけでもなかった。三人目の男がいるために去るわけでもなく三人目を排除しようとする女子でもなかった。京子は不思議と岸と後藤の間に上手くはまり込んだ綺麗な三つ目のピースだった。岸と後藤のジグソーパズルは新たに加わった一つのピースの分だけ大きくなり世界は少し広がった。そしてそれは京子にとっても同じだったのだろう。
京子は変わった女の子だった。まだ高校一年生なのにすでに社会人としての展望を持っていた女の子だった。まだ高校一年生なのに大学は都内の国公立に進学してその後は外資系の商社に入りたいなどと言う高校生は当時ではまだ珍しかったし、TOEICに挑戦している女子高生は皆無と言ってよかった。
京子は、三人で浅草観光に出かけた時など日本語が分からず困り果てている外国人観光客に声をかけ、おそらくは些細な問題をその言語力で解決することが出来る当時では珍しい女子高生だった。

岸はナンパをすることを止めた。岸と後藤と京子の三人がキレイにハマった三つのピースだと感じたからだ。この三つのピースとぴったりとハマる四つ目のピースを見つけることはそう簡単な事ではないと思ったからだ。
男女の間に友情は成立するか?と言う問題がある。その問題に岸は自信をもってハッキリと答えることが出来る。
「成立する」と。
ただそれは女性が親友の彼女で、女性もまた親友である場合だけだ。後藤と京子は最高のカップルだったが、その上で三人は紛れもなく親友だった。
もちろん三人で河川敷へ行ったこともあった。バイクに乗りたがる京子と、危ないからと必死に止めようとする後藤のやり取りは傍から見てても面白かった。
が、岸は腹立たしい思いをすることになった。結局は後藤が折れてエルボーパッドに二ーパッド、レッグガードにチェストアーマーと言った思いつく限りの安全装備を購入した。岸はそれらを全て装備した京子にフュリオサよりもゴツいなと言ったが京子はシャリーズセロンと比べられたことをむしろ喜んでいた。
京子はバイクに乗って河川敷を走り回っていた。250ccのバイクをだ。京子は女子にしては意外とスピードを出すので岸も不安になったくらいだ。
三人で一台のバイクを乗り回していた。それも楽しい日々だったが京子がコーナーリングのコツとやらを岸にレクチャーし始めることになるとは思わなかった。オフロードバイクにハマった京子も免許を取ると言い始めさすがにそれは止めておけと二人にしつこく言われ、どうやら親にも猛反対されたようでそれについてはすぐに諦めていた。
三人の関係の中で変化はいくつかあったがその中でも最も大きな変化は岸は電車で池袋に行くようになり、後藤はバイクに京子を乗せて池袋に来るようになったというところだろう。
それでも三人の関係性が変わることはなかった。後藤と京子は男女の仲で、後藤と岸は最も大事な同級生で、岸と後藤と京子は共に等しい親友だった。

「京ちゃんは電車の前に飛び出して死んじゃったんだよ」後藤はマネキンのような薄い微笑みのまま言った。岸は信じられないという表情のまま何も言えなかった。
「京ちゃんはホームから飛び出して、えっ?ってこっちを見てた。でもそれは僕のことを見ていたわけじゃなかったな、別の人を見ていたよ。そこに電車がぶつかって京ちゃんの顔は、ぎゅーって潰れちゃった。京ちゃんの顔が割れてどっか飛んで行っちゃったから僕は京ちゃんを探しに行ったんだけど見つからなくってさ。でも左手だけ見つけたから指輪をはめてあげたんだ」

三人の親友の中で問題が起きたことがあった。
それは京子が岸に対して「岸」と呼び捨てにしたことだ。岸と後藤は京子を「京ちゃん」と呼び、岸は後藤を「後藤」と呼び、後藤は岸を「岸」と呼び捨てにし、京子は後藤を「直ちゃん」と呼んでいたが、京子が岸に対して「岸」と呼び捨てにしたことに対して後藤が異を唱えたのだ。
岸は学年が二つ下の京子に呼び捨てにされた時、存外悪い気はしなかったが、後藤は、自分が「岸」と呼ぶから京ちゃんも「岸」と呼び捨てにするのは違うと異を唱えた。
だが京子は「三人は親友だと思っていたのに」と言った。
この問題は思いのほか長く、映画館からウェンディーズまで尾を引いたが結局は後藤と京子が岸を「岸くん」と呼ぶことで決着した。
三人は間違いなく親友と言える仲だったがそれは岸と後藤の大学進学を機に終わることになった。
後藤が東洋大への進学を希望していることが分かると岸は専修大へと進学することにした。二人は別々の大学へと進むことになった。岸も後藤も一緒の大学に進もうと思っていたわけではないが、岸は大学進学以降後藤からの誘いを断ることが増えていき、岸から連絡することは無くなり、ついには後藤からの連絡すら無視するようになった。後藤も大学一年の夏休みが終わる頃には岸に連絡を入れることは無くなっていた。
岸は後藤が疎ましくなったわけではない。だが後藤からのメールを見て返信を記し消し、また記しては消した。岸は、後藤と京子と三人でお台場や渋谷を行くことを夢想していた。ヴィーナスフォートや109で後藤が京ちゃんに何をプレゼントするのか見てみたかった。しかし岸は後藤からの連絡を拒絶するようになった。
岸は怖かったのだ。三人でいると心が満ち足りる感覚を恐れたのだ。
京子は高校生にしてすでに自身の将来を設計し始めていたし、後藤はオフロードバイクへの熱量に加えかなり高いパソコンを買いプログラミングにも熱心のようだ。
自分にはこの二人のように打ち込めるものが無い。岸はこの二人といると自分が置いていかれる感覚に陥るようになっていたのだ。
岸はこの二人といると自分はそれで満足してしまうが、京子と後藤の二人は三人でいつつも自分の道を突き詰めていくだろう。
岸と後藤と京子の三人で作るジグソーパズルは進むだろうが、後藤と京子はそれとは別に自身の、いや二人の為のパズルを作り始めている。
だが岸は三人で作るパズルが心地よすぎて自身のパズルを作れないでいた。岸はそれを恐れたのだ、二人に置いていかれることを。
だから岸は二人と距離を置くことにした。自身のパズルを作るために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?