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第六話 人肉で一番おいしいのは唇だって元人食い族のオジサンが言ってた

後藤はキッチンに戻るとまず炊飯ジャーのスイッチを押した。
炊飯ジャーの液晶に60と表示されるが実際にはご飯は60分もかからずに炊きあがってくる。

「AFNかけて」後藤の声に反応して天井のスピーカーからケンドリックスのカップスが流れ始めた。ちょうど頭から。手を叩きテーブルを鳴らす軽妙なリズムが遠くに聞こえだす。耳に心地よいリズムが少しずつ近づいてくると控えめな曲が合わさりそこに繊細だがどこか厚みのある陶器のような歌声が流れその場をまとめ上げていく。

もう一つなにか欲しいな。
そう考えながら箸を手に取り醤油ダレをかけたもやしをかき混ぜる。
まだ何味になるか決まっていないゴボウやレンコンの入ったフライパンの蓋を取りコンロの火を点けごく弱火にして中身を少しかき混ぜる。
冷蔵庫を開け物色するように中を見回しスナップエンドウと卵を2つ取り出しキッチンに置く。
再び冷蔵庫に振り返りトマトを一つ(一番大きいヤツ)それにマコーミックの胡麻ドレッシングと中華風ドレッシングを取り出し、パセリを一房取り出す。あとオイスターソースも。

小鍋に水を張り火にかける。
スナップエンドウのスジを引いていき全ての引き終えたらヘタごと切り落としていく。
小鉢を二つ並べたらトマトを水で洗い八つに切り4片ずつ分け入れる。
音を立て始めたフライパンを振り焦げ付かないように気をつけ少しずつ水分を飛ばしていく。
水を沸騰させた小鍋に下ごしらえをしたスナップエンドウを入れ、コンロのタイマーを2分にセットする。

キッチンペーパーでまな板を拭き上げたらそこに胡麻を広げ、包丁で切っていく。
雑な感じにある程度切ったら散らばらないように気をつけながら全て小鉢に入れておく。
コンロのタイマーがピーッという音とともに火を止めスナップエンドウが茹で上がったことを教えてくる。小鍋を手にしてシンクで水を足したあとザルにあける。
立ち昇る湯気を散らすようにザルを上下に振り水気を切る。鞘をプックリと膨らませている豆がいくつがあるので軽くつまんで中に溜め込んだお湯を吐き出させておく。

スナップエンドウは火が通りすぎるとビックリするくらいマズくなるからね。火が通り過ぎないよう粗熱が取れたらトマトの脇に入れていく。もちろん半分ずつ。
フライパンの中身に少量のオイスターソースとたっぷりの胡麻ドレッシングを入れてもう一度よく混ぜる。火加減をもう一度確認する。ちゃんと弱火になっている。焦げたりしたら台無しになるからね。
ボールに水を張りパセリを沈めて優しくて両手で洗ったら叩くようにして丁寧に水気を切っていく。
ボールの水を出し洗ったパセリでボールの内側を叩くようにしてさらに水気を切り、ボールをキッチンペーパーで拭き上げてからパセリを入れておく。

小皿を取り出し中華風ドレッシングとマヨネーズを入れ、切り胡麻をひとつまみ足してからよく混ぜる。これはトマトやパセリをつけるドレッシング。
このドレッシングが好きなんだ、パセリはいわばこのドレッシングを舐めるためのスプーンってところだね。パセリに関しては、まあ岸くんは食べないだろうけど。岸くんはパセリを弁当に入っているバランみたないもんだと思っているんだろうね。まあそういう人は少なくないと思うよ。
因みに弁当に仕切りとして入っているプラスティックのバランは元々はハランって言う草の葉っぱや笹の葉だったんだ。抗菌作用があるみたいだね。

もう二つ小鉢を取り出し胡椒醤油で和えたもやししをもう一度かき混ぜて小鉢に取り分けていく。
すっかり柔らかくなった大根が入った小鍋をとろ火にかける。こんなに煮込んだら味噌の風味が飛んじゃうだろうと思うだろうけど、まあその通りだね。でもこのお味噌汁に限って言えばその方が美味しんだよ。
トマトとスナップエンドウを入れた小鉢をテーブルに並べる。もやしを入れた小鉢も同様に。
炊飯ジャーを見ると残りは30分。肉を焼き始めるには少し早い。もう少し待とう。

後藤は椅子に座りテレビを点けた。夕方のワイドショーもどきのニュース番組がグルメ特集を始めたのでチャンネルを変えた。こんなの見たらあれもこれも作りたくなっちゃうからね。
適当に変えたチャンネルでは先ほどの失踪女性のニュースを流していた。
「・・山井那奈さんは十日前に勤務先から退社した後、行方が分からなくなっています。同居している母親が那奈さんが帰宅しないことを不安に思い翌日に警察に相談し、警視庁は今日公開捜査に踏み切ったという事です。山井那奈さんは26歳。十日前の退社後からの帰宅中に行方が分からなくなっています。なにかご存じの方は警視庁にご連絡ください」
テレビ画面には女性の顔写真と警視庁の通報先の電話番号が表示されている。テレビに映し出された顔写真は運転免許証か履歴書に貼るための写真と言った風な表情で笑顔ではなかったが、可愛らしいというより綺麗な女性と言った感じの、まあ美人と言っていい風貌だった。
「発見につながる有力な情報には100万円の報奨金が支払われるという事です」
女性キャスターが山井那奈の失踪直前の服装を伝えもう一度、放送できるだけ女性の情報を言い終え、最後にいかにも神妙な顔つきで一つ頷くと「明日の天気です、井川さん、お願いします」と言い画面に日本地図が映し出された。
井川さんが明日の日本の天気を笑顔で伝え始め列島の北から南まで雪だの寒いだのを言い終えたところで後藤はリモコンを手にしテレビの電源を切った。

後藤は少し首を傾げ軽く眉を寄せ思案に耽るように腕を組み目を瞑った。
数分の間考え込むようにしていたが「よし!」と独り言ちで立ち上がった。
ついでに「山井那奈は今どこにいるの?」と言うと、天井のスピーカーは「すみません、分かりません」と答えた。

後藤は再びキッチンに立つとニンニクを手に取り一つ一つ分け丁寧に皮をむきとるとまず縦半分に切っていき芽を取り除いた。半分になったニンニクをさらに半分に切り、大きめの物は三つに切り分けた。

そうだね、ニンニクを切り分ける大きさの目安は箸で摘まんで残さず食べる気になる程度の大きさと言ったところだね。
大根味噌汁の鍋に二つの卵をくっつかないように割り入れ蓋をしておく。
ごぼうやレンコンの入ったフライパンをコンロからどかして、別の中華鍋と小さいスキレットをコンロに置き火をつける。
冷蔵庫から日本酒とみりんを取り出し、スキレットに注ぎ入れ、更にハチミツを足し弱火で煮詰めていく。
中華鍋にはごま油を入れ、そこに切り分けたニンニクを入れ弱火で炒めていく。まどろっこしいけど強火で炒めて焦がしたりしないようにね。
じっくりゆっくり中華鍋のニンニクを炒めて少し茶色になってきたらニンニクをスキレットに移して中華鍋は強火にする。
中華鍋からもうもうと白い煙が上がってきたら豚肉を入れて炒めていく。弾けるような音を出す豚肉が焦げないように鍋を振りつつ肉汁が出てきたらスキレットで煮詰めたタレを中華鍋にかける。豚肉を少しばかり箸で取りスキレットに残ったタレを豚肉でこそげ取るようにして全て中華鍋に移していく。ニンニクと豚肉とタレの入った中華鍋の汁けがある程度抜けるまで焦げないように中火にして炒めていく。

ごぼうやレンコンの入ったフライパンには残った切り胡麻とマヨネーズを勢いよく入れてからしっかりと混ぜる。十分に混ぜてからごぼうを一片とって味見をする。
味見をしたうえで醤油と蜂蜜をすこしずつ足して再びしっかり混ぜ小鉢に取り分ける。そこにまな板に残った僅かな切りごまを摘まんで振りかける。

中華鍋の豚肉から出た肉汁とタレが混ざった汁が程よく茶色くこってりと絡んできたら完成。火を止めて二枚の大皿に分け盛る。
味噌汁の卵もいい具合に固まっているね、二つの椀に分けよそる。もちろん卵は一個ずつ。
くったくたになるまで煮込んだ大根と風味の飛んだ味噌汁に加える卵の相性は抜群だよ。ゴボウの入った小鉢二つと、二枚の大皿に二つの汁椀をテーブルに置いて今日の晩御飯は完成。

茹でたスナップエンドウとトマト、胡椒醤油で和えた豆モヤシ、ゴマドレッシングとマヨネーズ味のキンピラごぼう。
いや、キンピラゴボウではないね。なんだろ、ゴボウサラダってところかな?
まぁまぁ、それに大根と卵の味噌汁。メインのおかずは甘辛ニンニク味の豚肉炒め、サラダ菜で巻いて食べる。

「レンゾを呼んで」後藤はそう言ってキッチンの引き出しから漆塗りの木曾檜の箸と黒檀の箸を取り出しテーブルに置く。檜の箸は岸くん、黒檀の箸はボクのだよ。

後藤が再びテレビを点けるとすぐにキッチンのドアが開きレンゾが来た。少し申し訳なさそうな様子だったがテーブルに並んだ今日の晩御飯を見るとだいぶ嬉しそうな表情になった。
まるで(悪いな)とでもいう風な苦笑いを後藤に向けながら岸は並べられた晩ごはんを前に席についた。
後藤は思い出したようにマヨネーズと小皿を一枚手に取り岸の前に置いた。

「何飲む?」後藤が冷蔵庫を開けながら聞いたが岸は「いや、水でいいよ」と言いつつ一度席を立ちタンブラーを手に取ると自分で蛇口から水を注ぎ再び席についた。
後藤は冷蔵庫から牛乳パックを取り出しマグカップを持って席についた。ボクも岸くんもご飯を食べながらお酒を飲む習慣はないんだ。お酒は飲まないけど岸くんに言わせると食事の時に牛乳を飲むなんて小学校の給食みたいだってさ。
ボクがマグカップに牛乳を注ぐと待ってましたとばかりに岸は両手を合わせ軽く頭を下げると箸を取り勝利報酬の食事を始めた。

まずは汁椀を手に取り箸をつけ口にしようとするが見慣れない具が入っていることに少し戸惑ったようだ。
「卵?味噌汁に?」
「うん、美味しいよ。半熟だからね」
岸は恐る恐る見慣れない味噌汁を口にした。
この味噌汁は味噌の風味、つまり味噌に含まれているアルコール分が飛ぶまでしっかり煮込んである。でも煮込みすぎて饐えたような感じにしてしまってはダメなんだ。分かりやすく言うと、朝に作った大根の味噌汁が余ってしまったときに晩ごはんで卵を加えて温め直した感じだね。
少し口にした岸の顔は判断を付けかねていたが卵の白身を箸ですこし千切り口にするとすっかり納得した様子だった。
「いいね」そう一言だけ口にして食事を続ける。
岸は後藤が置いた小皿にマヨネーズを絞り出すと、ボールからサラダ菜を二枚手に取りそこに炒めた豚肉を乗せ、手が汚れないように気を付けながらサラダ菜で軽く巻き、小皿に出したマヨネーズを少し付けて口にした。
すぐさま飯茶碗に手を伸ばし白飯を掻き込む。
岸は咀嚼しながら後藤を見た。その顔は(美味いな)と言っている。
後藤も岸を見返し(どうも)と返す。

岸は再び汁椀を手にし味噌汁を啜り口の中をすっきりさせると、切り分けられたトマトを箸で取り口に運びながら、もやしの入った小鉢を手に取り胡椒醤油のタレともやしをかき混ぜた。トマトを胃に落としながらもやしに箸をつける。箸で小鉢のもやしを一気に半分ほど掴み口に入れるとすぐに小鉢を置きサラダ菜に手を伸ばした。再びサラダ菜で肉を巻いてからやはりマヨネーズを少し付けて口に運ぶと飯茶碗に手を伸ばし白飯を掻き込んだ。

岸くんは「いただきます」とか「御馳走様」とか「美味しかった」と全く言わないけどそんなことはどうでもいいんだ。ホントおいしそうに食べてくれるんだもん、作り甲斐があるよ。
まあボクも早く食べないとね、岸くんは10分くらいで食べきっちゃうからね。

後藤は汁椀を手に取り箸で大根を摘まみ口にした。いい感じにクッタクタになっている。汁を啜るとこれも味噌の風味が飛んでいるが且つ饐えていない程よい感じ。
サラダ菜を手に取り肉を二切れとニンニク片をいくつか足してから巻いていく。マヨネーズは付けずに口に運ぶ。甘辛に味付けされた豚肉の味が口に広がり白飯を要求してくる。

甘辛に炒めた豚肉は辛味のある生姜よりニンニクが合うんだ。そしてこの甘辛ニンニク味で炒めた豚肉にはレタスやサンチュじゃダメ。キャベツや白菜ももちろんダメ。これはサラダ菜で巻いて食べるのが一番合うんだ。
で、まあ結構濃いめな味付けにしたと思うんだけどね、岸くんはそこにマヨネーズを付けるんだよね。まあ人それぞれだけどね。

後藤はスナップエンドウを手で取りマヨネーズとマコーミックの中華ドレッシングを混ぜたソースを付けて口に入れる。
マコーミックのドレッシングはどれも濃いめのだよね。この中華ドレッシングも同じ。
正直マコーミックのドレッシングはかけるというより、付けて食べる方が良いと思うよ。どれも濃い目でヘルシーなんて一切気にしていなさそうなオイルたっぷりのドレッシングだけどバツグンに美味しい。唯一のネックは容器が頑丈なガラス製ってところかな。捨てるときの分別がめんどいんだよね。

後藤はパセリを手に取り岸に「どう、食べる?」と言った風に向けてみたが岸は小さく首を振り食事を続ける。後藤はパセリをスナップエンドウと同じようにソースに付けてから口にする。
二人は黙って食事を続ける。岸の手と口は一瞬たりとも止まらない。肉を口にし白飯を掻き込んだら汁を飲み、トマトとスナップエンドウを口に運びもやしを摘まむと再びサラダ菜に手を伸ばした。ゴボウを口にしその繊維質の塊を咀嚼するときだけ少し手が止まった。

そうこうするうちにあっという間に岸が手にする飯椀が空になり炊飯ジャーの蓋を開ける。中を覗き込んだ岸が後藤に顔を向ける。
「全部食べて」後藤が言うと岸は炊飯ジャーに残っていた白飯を全て自分の手にした飯椀によそった。
炊飯ジャーの蓋を閉めて電源を切るとまた勢いそのままに食事を続ける。
岸が汁椀を手にし、そこに入っていた卵を箸で割ると半熟の黄身がとろけ出した。殻のまま茹でた卵とも焼いた目玉焼きとも違うものだ。箸でオレンジ色の黄身と味噌汁を軽くかき混ぜてからその汁を啜り白身の塊を口に運んだ。

何だこれ?と言った風だが微笑むような顔を後藤に向ける。
気に入ってくれたみたいだね。

まあ、毎度の光景だよ。岸くんは本当に気持ちいいくらい美味しそうに食べてくれる。
後藤も食事を続けた。サラダ菜に包んだ肉を口にしてから舌が欲する白飯に手を伸ばす。
パセリを一房、やはりソースに付けてから口に入れる。ほんのりとピリ辛さがあるのは中華ドレッシングのものだ。
後藤はゴボウに箸を伸ばした。胡麻ドレッシングのコクとマヨネーズのまろやかさ、そして僅かな醤油の香ばしさと唐辛子のかすかな辛味にほんのりと足されたハチミツの甘さが合いまっていい出来だ。
胡麻ドレッシングの代わりにしゃぶしゃぶ用のごまだれでもいいし、ゴマよりピーナッツが好きならピーナッツペーストでもいいよ、甘いのが好きならピーナッツバターでもいい。でもピーナッツを使うなら醤油より味噌の方が合うと思うね。その時は炒ったナッツを刻んで加えるとなお良いよ。

岸は食事を続ける。
パセリはどうかと思うが後藤の作る食事は本当に美味しい。このごぼうサラダも、初めて見た卵入りの味噌汁も本当に美味しい。
極めつけはこのニンニクと甘辛く炒めた豚肉だ。正直、初めて見た時は生姜焼きでいいだろうと思ったが今では外食でこれを見たことが無いのが不思議に思うくらいだ。サラダ菜に包んで食べるというのも良い。レタスでもサンチュでもなく、千切りキャベツでもなく、サラダ菜だ。これがビックリするほど合う。
これはお前が考えたのか?と聞いたら後藤は「おふくろの味ってやつだよ」と笑いながら答えたが少しばかり苦い顔をしていた。後藤の母親は亡くなっているからだろう。
まあそのおふくろさんのおかげなのか後藤の作る食事はどれも美味しい。和さんの出す料理とどちらが美味いかと言えばそれは比べられない。和さんが作るの料理はあくまでも酒のつまみであって食事ではない。後藤が作るのは酒のつまみではなく白飯を食べたくなる「おかず」だからだ。和さんの料理は「旨い」が後藤の作る料理は「美味い」
岸は箸でトマトを摘まんで口に運んだ。サラダ菜を手に取り豚肉を乗せた。脂身の多い一切れだった。

トマトに茹でたエンドウ豆。後藤の作る食事は野菜が多いのもいい。肉と白飯は確かに美味しいがそれだけでは飽きてしまう。
味噌汁に豚肉の炒め物、ごぼうとレンコンのサラダにもやしの和え物、それにトマトと茹でた豆。あとボール一杯のサラダ菜。正直これでも多いくらいだが後藤の作る食事はあと二皿くらい増えることすらある。
だが食事を作る時の後藤は・・。

「そういえばさ、知り合いの知り合いに元人食い族のオジサンがいるんだけどさ、そのオジサンが言うには人肉で一番旨いのは唇なんだってさ。人肉って美味しいのかなぁ」
箸で摘まんだ真っ赤なトマトを見ながらゆるい笑顔の後藤が言った。
岸が手にしていたサラダ菜には豚肉のプルンとした少し透明感のある脂身が乗っている。
岸は脂身の多い豚肉を挟んだサラダ菜を口に押し込めつつ眉をひそめた視線を後藤に向けた。
岸の無言の抗議に気づきもしないのか、気にも留めないのか後藤は続けた「いわれてみれば唇って肉とも違うしなんかプルンッとしてて美味しいかもしれないよね」
後藤はトマトにオリジナルドレッシングを付けて口に入れ、美味しそうに飲み込んだ。

そう、食事を作る時の後藤は恐ろしいほどに空気を読めない。読もうとすらしていない。
岸は口にした肉をなんとか胃に押し込めた。白飯を口にする気にはなれない。そもそも肉の味を感じたくないと舌が拒否していた。
性格が変わると言えばいいか。
よく、ハンドルを握ると性格が変わるなんて話を聞く。後藤はまさにそんな感じだ。
確かに後藤はハンドルを握った時も性格が変わると言っていい。乱暴な運転をするわけではない。真逆だ。ビックリするほど控えめで慎重な運転をする。制限速度を10キロ以上超えたことは無いだろう。いつも左車線を走り曲がる時も止まる時も早すぎるだろうと思うくらいにウィンカーを点ける。
いつもゆっくり走るので割り込まれやすいかと思えばそうでもない、むしろ割り込まれることはほとんどない。後藤は後ろの車が車線変更するとその動きを察知して割り込まれる前にすでに減速して道を譲っているからだ。
対向車線にいる右折待ちの車に道を譲る時など100メートル以上手前から少しずつ減速し車間を大きく開けておいている。対向車は余裕をもって右折していくがほとんどの車は道を譲られたことにすら気が付いていないだろう。

ちょっと朝食がてらドトールでモーニングのセットを買ってくる時でも、俺が行くとしても後藤が行くにしてもパーキングエリアにトラックを止め、チケットを買ってワイパーに挟んでから。どちらか一人はトラックに乗っているにも関わらずだ。
まあ助手席で本を読んでいる俺にとってはそれだけゆっくりと読書の時間が取れるわけだし、人の運転に文句をつける気もない。

そして後藤は包丁を持った時も性格が変わる。ハンドルを握る時は異常ともいえるほど周りを気にしているのに料理を作った時の後藤はうんざりするくらい人を気にしない話をする時がある。
先日は食事中にペットボトルの緑茶を飲んでいた俺に向かって「その緑茶ってさ、アメリカで結構人気らしいよ」と言ってきた。
ああ、そんな話は聞いたことがあるな。そう答えた俺に後藤のやつはこう続けた。
「でも緑茶なんて小便の味がするって言う人もいるみたいだね」
俺が今飲んでいるんだぞ?とわざとらしくペットボトルをゆっくり持って口につけたが言われてみるとかすかに猫の小便のような味がした。本当にかすかにだが。
後藤の作るメシに文句はない。男の料理なんて肉と野菜を炒めてデカい皿に盛って白飯茶碗を片手に食うもんだと思っていたが後藤の料理はいいとこの温泉旅館の晩飯みたいに色々並ぶ。そして美味い。
だが、たまにその美味い飯の味を吹き飛ばすようなことを平気で言う。

「ほら、人の顔ってさ、表情筋って他の動物にはない筋肉があるじゃない?もしかしたらさ」
もしかしたら、何だ?食事中に人食い族のグルメ話なんか誰が聞きたい?岸は少し考えてから豚肉を箸で摘まみながら答えた。
「この豚肉な、三元豚って言うらしい、パッケージに書いてあった。品種改良されているんだな。美味いよな。(今は味わいたくないが)牛もそうだし、ニワトリなんか品種改良されすぎて歩けなくなるのもいるらしいな。まあもう野生には帰れないんだろうな。品種改良されて餌も飼い方も考え尽くされてこうして美味い肉になっているんだろう?それなのに何もしていない人の肉が美味いわけないだろ」
後藤は一切れの豚肉をサラダ菜で包み口に運んでよく味わってから「なるほどねえ、確かにね。戦国時代に籠城して飢餓状態になった人たちは脳と肝臓を食べたって言うもんね」と言った。
岸は唇をかんでしばしの間、箸を止めた。

会話のないまま黙々と食事を続けていると岸は目の前に並べられた皿を全てカラにして食事を終えた。タンブラーに注いだ水を一気に飲み切ると岸は軽く手を合わせ、口には出さずに「御馳走様」と小さく頭を下げた。
岸は空になった食器に目を落とす。
「そのままでいいよ、まとめて片付けるから」後藤が言うと岸はテレビに目を向け食後の至福の時間を堪能し始めた。
後藤が食事を続ける間、テレビが流していたのはクイズ番組。

なんかこの時間ってクイズ番組かライフハック的な番組ばっかりな気がするね。まあ需要ってもんがあるんだろうけどさ。
後藤も全ての食器を空にしようとするタイミングで「コーヒー淹れようか?」と岸が言った。
「ありがとう、お願いするよ」と後藤は答えた。

岸は立ち上がりヤカンに水を入れ火にかけ、棚からコーヒーミルとハリオの円錐形のドリッパーを二つ、それにドリップペーパーを取り出した。
この三つは岸くんが僕に聞かずともキッチンで用意できる数少ないものだ。
岸はドリッパーにペーパーをセットして冷凍庫からコーヒー豆を取り出した。取り出したのはマンデリンとコロンビアの二つの袋。
「カフェオレでいいか?」と言う岸の質問には後藤は「いや、ブラックいいな」と答えた。
岸は後藤の目の前の牛乳が入ったカップを一瞥してからコロンビアを冷凍庫にしまい代わりにキリマンジャロの袋を取り出した。

カフェオレとブラックでは使う豆が違うみたいだね。まあ余計はことは言わない方がいいよ。

岸は計量スプーンでキリマンジャロを二杯半、マンデリンを一杯キッチリと計って手挽きのコーヒーミルに入れた。
岸はテレビを見ながらゆっくりとコーヒーミルのハンドルを回し始めた。コーヒーミルがゴリゴリと言う音を立てながらコーヒー豆を砕いていく。
一度、フードプロセッサーの方が楽じゃない?と忠告したことがあるんだけど、その時岸くんはわざわざ自分の分は手挽きのミルで挽いて、僕の分はフードプロセッサーで挽いてコーヒーを淹れてくれたんだ。
結果は、まあ余計なことは言うもんじゃないなってところだったよ。
正直、電動でコーヒー豆を挽くのと手で時間をかけてハンドルを回して挽くのと何が違うのかはさっぱりわからないけど、余計な口を出さなければ岸くんが淹れてくれるコーヒーは抜群に美味いってのはイヤって程に分かったよ。
ボクが食事を終えて二人分の食器を重ね始めたところでヤカンがピーっと音を立てた。
岸くんはコンロの火を消して、ボクは空いた食器をまとめてシンクに置いた。
ボクが食器を洗い始めると岸くんは挽き終わったコーヒー豆をペーパーをセットしたドリッパーに移し断熱性の大きめのタンブラーを二つ取り出した。

コーヒーを飲むときはたっぷりと。
それが岸くんの譲れない信条らしいね。
コーヒーを淹れる用のヤカンを欲しがる岸くんだけど、エスプレッソマシーンが欲しいなんて一度も言ったことはないね。二口くらいで飲み干せそうな小さいカップで飲むエスプレッソは岸くんにとってはコーヒーじゃないらしい。まあそれにはボクも同意するよ。

岸がここが大事なんだと言わんばかりに慎重そうにドリッパーにお湯を注いでいく。

傍から見ているともうバーッと入れちゃえばいいじゃんって思うけど、岸くんはゆっくりと少しづつお湯を注ぎコーヒーを淹れていく。
余計な口出しはしない。それが深いこだわりを持つ人が淹れてくれる美味しいコーヒーを飲むコツだよ。
岸くんの淹れるコーヒーは本当に美味しい。
おかげさまでボクは缶コーヒーもコンビニのコーヒーも飲めなくなったよ。

岸くんはコーヒーを二杯淹れるには十分すぎると思えるほどにたっぷりと時間をかけて二つのタンブラーにコーヒーを満たし、一つをボクの前に置き、もう一つを手に「御馳走様」とだけ言ってキッチンから出て行った。
何だろう少し、不機嫌そう?

後藤はコーヒーを口にした。

うーん、本当に美味しいよ。

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