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第一話 東京サヴァイバー

「さっきはマジで助かったよサンキューな」
「ああ」

「もうだめだ、こりゃ死んだわって思ったよ」
「だろうな」

オレはドラグ。
サバイバーだ。

東京サヴァイバーと言うゲームにのめり込んでいる。

 助手席で本を読んでいるのはレンゾ。同じくサヴァイバーだ。今はゲームより読書の方が大事みたいだけどな。

ついさっき、オレは他のプレイヤーに不意を突かれてキルされる寸前だったんだ。ヤツはオレの頭に狙いをつけてあとは人差し指をちょっと引くだけ、ワンクリックでオレはゲームオーバーってところだったんだ。だがそこでレンゾが、ホントにギリギリのところでオレの不意をついたそいつの不意をついてヤツを倒してオレを助けてくれたんだ。だからオレとしてはいくら感謝してもし足りないくらいなんだがレンゾのヤツ、今は感謝されるより読書の邪魔をされる方が嫌みたいだな。

 トラックの窓ガラス越しの2月の陽射しでも雲一つない天気では車内は少しばかり暑いくらいになるが、外はもちろん冬だ、空気は冷たい。個人的には暖房をフルパワーにした上で、全開にした窓に袖をまくった右肘を掛けていたいがそれはさすがに本を読んでいるレンゾが文句を言うだろうな。だから窓を少しだけ開けて、冷たい外気を取り込み少し暖かすぎる陽射しをゆるめている。こんなことをしていると熱い風呂を水で埋めているような気分になるな。そんな風にゆる〜く温まったトラックのキャビン、しかも助手席で本なんか読んでいたらすぐにでも居眠りしそうなもんだけど、レンゾは眠そうな素振りなんて全く出さずにそれどころかのめり込む様に本を読み続けている。

 統計学の本らしい。さっき聞いた。

 眉をしかめて、マジでのめり込むように本に集中していたからクライマックスシーンでも来たのかと思ってさ

「どんな本を読んでいるんだ?」って聞いたらレンゾは眉をしかめたままオレを見て

「ああ、統計学の本だ」

そう言って小さく二度三度と頷くとまた意識を本に集中し始めたんだ。

 統計学の本だって?なんの為にそんな物を読むんだ?誰だってそう思うだろ?オレだってそう思ったからな、資格でも取るのか?って聞いたんだ。統計学の勉強をしてなんの資格が取れるのかは知らないけどな。

するとレンゾは「いや、ただの本だ。小説だよ」と答えたんだ。じゃあアレか?アメリカのドラマで心理学を巧みに使って犯罪者を追い詰めるようなのがあったよな、そんな感じに統計学とやらを駆使して犯罪者を追い詰めるような話なのか?って思ったが、そうでもないらしい。

 レンゾが言うにはその本の内容は、統計学の重要性だとか統計学が今どんな風に活用されているとかそんなところらしいが、オレの顔が興味ないなと訴え始めたのを察すると説明するのを止めて「面白いけどな・・」と言ってまた本に目を落とした。

 面白い?面白いだって?統計学の本が、面白いだって?オレなんか統計学とやらが頭の片隅をかすったことすらないぞ。統計学の重要性?そんなもの即効性の睡眠薬みたいなものだろ?よく寝ないもんだ。オレなら表紙を三秒見つめているだけで眠たくなると思うぜ。

 まあレンゾはよく本を読む。オレがトラックを運転している間は常に本を手にしている。オレは本は読まない、漫画すら読まない。レンゾも漫画は読まないがオレとレンゾは似ているようで真逆の二人だと思うな。

 レンゾは右利きだがオレは両利きだ。オレは右手で箸を持つこともあるし左手でスプーンを持つこともある。レンゾの髪は柔らかい猫っ毛でくるっとした毛先が眉に掛かるくらいにまとめているが、オレの髪は硬くストレートで額が見えるくらいに短くまとめている。レンゾは女性用のなんかピンクの容器のヘアワックスを使っているが、オレは普通に男性用の黒い容器のワックスを使っている。レンゾは美容室で5000円も払って髪をアッシュ系の赤だとかに染めているらしいがオレに言わせれば黒にしか見えない。オレもレンゾと同じ美容室で5000円も払って黒系の青に染めてもらっているがレンゾに言わせるとほぼ黒にしか見えないらしい。レンゾはエドウィンのストレートのジーンズを履いているが、オレのジーンズはLeeのブーツカットだ。レンゾの仕事着は臙脂色のレザーのハーフコートだがオレの仕事着は濃紺の革ジャンだ。

 レンゾはいつもアディダスのバスケットシューズを履いているが、オレは一年中、足の甲まで保護されている編み上げの安全靴を履いている、もちろん夏でもだ。臭そう?まあ臭いだろうがオレはわざわざ良い匂いがするわけないとわかっている靴のにおいを嗅ごうとする趣味はないな。安全靴のくせにソールがスニーカーみたいに柔らかいのが最高なんだ。

 レンゾは人づきあいが良いというか、いつもニコニコと微笑んでいるような顔つきで人に好かれるタイプだが、オレはどうだろうな。

オレがまだ高校生だった頃、偶然街中でオレを見かけた母親に「なんて目つきをしているの」って言われたことがある。母親にすれば高校に入った息子が調子に乗って、イキりまくってケンカ相手でも探しているような目つきにでも見えたのかもしれないな。もちろんそんなことはないんだ、オレは奥二重だしもとから目つきが悪く見えるところがあるんだろうな。高校生だったころのオレはどちらかというと焼きそばパンを買いに行くタイプだった。もちろん金は貰っていたけどな。

まあその母親も何年も前に死んじまったし父親はもっと前に死んだ。姉貴もいたが死んじまったし、可愛い姪もいたんだが同じく死んじまった。今のオレは天涯孤独ってやつだ。それはレンゾも同じで親も兄弟もいないみたいだがオレと違うのはレンゾは孤児院育ちらしい。孤児院なんて昭和の漫画みたいだがまあそういった施設で育ったらしい。レンゾの母親はいわゆるシングルマザーでレンゾは父親の顔も名前も知らないと言っていた。まあレンゾの母親もレンゾの父親が誰かってのはわからなかったんだろうけどな。

そしてそんな母親は、母親とは言ってもそれは生物学上?遺伝上の母親とでも言えばいいのか、レンゾの母親はレンゾを産みはしたがネグレクトって言うんだよな、二歳かそこらのレンゾを寝室に閉じ込め半額シールが貼られたスーパーの弁当と紙パックの牛乳を置いて夜な夜なホストクラブに通うような女だったらしい。腹が減っても箸の使い方さえ教えられず、のどが渇いても牛乳を飲むのにストローの使い方さえ分からず、水を飲もうにも洗面台を見上げるしかないような小さい子供には地獄のような生活だっただろう。

弁当のラップを剥がしサルみたいに両手で食って、人間らしく箸を使って牛乳パックに穴を開けて飲んでいたらしい。そんなことをしていたら寝室はあっという間に腐った生ゴミで埋め尽くされレンゾの母親が寝室のドアを開けて中に入ることは無くなった。すぐにそれはリビングのドアに変わり玄関のドアになった。

玄関のドアが開くことはなかった。けたたましくチャイムが鳴り玄関の郵便受けにサンドイッチやおにぎり、それと小さな牛乳パックが放り込まれる。レンゾは玄関の前でそれをじっと待っていたというわけだ。たまにチョコレートやキャンディが混じっていることもあったようだがそれは微かに残っていた我が子への愛情ではなくパチンコ屋の店員の仕事の一つだろう。

レンゾは遅かれ早かれ閉じ込められた薄汚れたマンションに放置され飢え死にしていただろうが、幸か不幸かレンゾを産んだ遺伝上の母親は二歳の息子を残しアルコールと覚醒剤をミックスしてハイになりすぎた挙句に男の腹の下で幸せに包まれながら絶頂したらしい。そうして死んだヤク中の阿婆擦れの捜査をしている途中でマンションの玄関の前で死にかけのレンゾが見つかったという事だ。

そんなレンゾは本人曰く母親譲りのキレイな二重だし第一印象だけで見ればオレよりレンゾのほうが女にモテるだろうな。まあ実際そうだった。

 レンゾは自分一人で考えるせいか何かとセンスがいい。オレはみんなと考えるから色々とアイデアを出せる。みんなってのはもちろんお前らの事だ。

 レンゾとオレの共通点は、そうだな、二人とも同じ36歳だ。同じ高校。二人でくだらねえこと、ろくでもないこと、とんでもないこと。色々やった。オレ達はまあそれなりに仲のいい友達だったと思うんだが。だが、別の大学。

二人とも男。二人ともメガネは無し、視力に問題はない。身長はオレが180を超えるくらいか。レンゾはバスケットシューズ込みで180弱だろう。二人でエビス屋を営んで、二人で東京サヴァイバーをプレイしている。二年ほど前にオレはレンゾにこのゲームに誘われて、オレはその時にレンゾをエビス屋に誘った。

 オレはその時からレンゾとコンビを組んで東京サヴァイバーをプレイしている。オレはレンゾに誘われてこのゲームを始めたわけだが、自分でいうのもなんだが、これは最高のゲームだ。PVPのいわゆる対人戦ゲームで敵プレイヤーを倒してアイテムとクレジットを奪い取る。倒された奴は終わりだ、全てを失う。

倒されたらゴールドが半分になって王様のところに戻されるとか、死んだらセーブポイントまで戻されるなんてこともない。敗者はすべてを失って終わり。それまでだ。たんまりとクレジットをかき集めていても、スーパーレアアイテムを山ほどため込んでいても負けたら終わり、すべて失う。

ゲームオーバー。

ジ・エンド。

ライフは一つしかない、チャンスは一度。そう、人生と一緒なんだ。このゲームは人生そのものと言ってもいいな。

 つまり最高にホットで最高にクールで最高にイカれているゲームだ。

 まあ、今トラックのハンドルを握っているのは酒屋の仕事だけどな。トラックの荷台に書いてあるエビス屋酒店ってのがオレの店の名前だ。元はオレ一人の店だったが、レンゾを誘って今じゃ二人の酒屋だ。酒屋と言うよりなんでも屋だって気もしないでもないな、オレのアイデアでチンケな居酒屋のゴミ回収もするし、ショボいスナックにチャームの配達もする。

オレはレンゾに誘われ酒屋兼サヴァイバーになって、レンゾはオレに誘われてサヴァイバー兼酒屋になったってとこだな。オレたちは酒屋の仕事もゲームをプレイするときも二人一緒だ。

 いや違うぜ。オレたち二人はゲイとかホモとかそんなんじゃないぜ、手をつないだこともなければキスをしたことももちろんない。あるわけがない。男同士でそんなの気持ち悪いだろ?オレとレンゾは最高のコンビってだけだ。酒屋の仕事でも、ゲームでもだ。

 冬の日差しを跳ね返して光るバントラックのアルミ製の荷台には青い文字でエビス屋酒店と大きく書かれていた。トラックのラジオから流れていたアヴィーチのWaiting for Loveが2週目の水曜日のあたりで突然途切れ「this is eagle 810!」と男の声が流れた。

 おいおい、Waiting for Loveは二週目の木曜からが本番だろ、犬がブッ倒れて片足が捥げた飼い主のところに行く場面を頭に浮かべながら聞くのが最高なのに。まったくAFNは時間にルーズなのかキッチリしてるのかまるでわからねえよ。

 あぁAFNってのはアメリカン、フォーセス、ネットワークの略だ。平たく言えば米軍ラジオだ。日本では三沢や佐世保、沖縄にもあるな。東京では横田基地、周波数はAM810だ。通称Eagle810だ。アンテナはなんでか埼玉にあるらしいが東京近辺ならラジオのチューナーをAMの810に合わせれば誰でも聞ける。なんならスマホにAFNのアプリを入れればどこにいても聞けるし日本中どころか世界中のAFNにアクセスできるし、なんなら海外旅行中だってEagle810を聞くことができる。

 レンゾはラジオから日本語が聞こえてきたら読書の邪魔になるって言うし、オレは洋楽しか聞かないしってわけでエビス屋のトラックのラジオは常にAM810に合わせてあり常にEAGLE810が聞こえてくる。そしてEAGLE810は正時に必ずABCニュースに入る。テイラースイフトのシェイクイットオフがかかっていようが、ラ・ルーのバレットプルーフを流していようが正時になれば、ブッた切ってABCニュースを流す。トラックのデジタル時計は10:59になっていた。つまり午前11時になるってことだ。

 オレは、曲の途中でニュースを入れるAFNは時間にルーズだと思うんだが、レンゾは曲の途中だろうが何だろうがきっちりニュースを入れてくるAFNは時間にきっちりしているって言うんだ。

 ラジオからは数秒のイントロに重ねて「from ABC news!」と女の声が聞こえた。当然トラックのデジタル時計は11:00に変わった。

 トラックが吾妻橋の中ほどに到達したところで前方の吾妻橋交差点の歩行者信号が点滅し始めた。

 加速すれば間に合わないでもないがドラグはアクセルから足を離した。排気ブレーキが作動しトラックが減速すると、ドラグは後方車に減速を知らせるブレーキランプを点灯させる為に僅かにブレーキペダルを踏んだ。

 その瞬間、ドラグ達が乗るトラックの後方からけたたましくクラクションが鳴り響いた。ドラグが右のサイドミラーに目を移すと一台のプリウスがサイドステップでもするかのように車線を変更するのが見えた。プリウスは猛然と加速しエビス屋のトラックを追い抜いていった。

「アホかよ」とドラグがつぶやいた時にはプリウスはすでに赤になった吾妻橋交差点に勢いよく突っ込んでいた。プリウスは交差点に入り込んだところで反対車線の人力車の客待ちエリアの後方にいた白バイに気が付いたかもしれないが、今更交差点のど真ん中で止まるわけにもいかないんだろう、そのまま交差点を突っ切っていった。当然白バイのサイレンが鳴り響いた。

 プリウスは気が付かないふりでもしているのかそのまま走り去ろうとしたが、白バイの停止命令はさすがに無視できないようですぐに減速し、吾妻橋交差点の先にある雷門交差点の手前で停止した。


 東京を南北に貫くように流れる隅田川。それに架かる吾妻橋から東は300メートルもいかずにすぐ浅草通りにぶつかり、吾妻橋から西も500メートルほどで国際通りに突き当たるT字路で終わっている。

吾妻橋の一つ上流の言問橋は言問通りで上野までつながっているし、吾妻橋の一つ下流に架かる駒形橋は浅草通りでやはり上野までつながっている。

 そのせいか通りの良くない吾妻橋はその二つの橋に比べて交通量が少ないため、ああいった無謀な運転ができてしまうのだろう。

 ドラグは停止線の1メートル手前でトラックを止め左のウインカーを点けプリウスを見ていた。

 白バイから降りた隊員が足をオモチャのフィギュアのようにキレイな大の字に広げプリウスの運転手と話を始めていた。プリウスの運転手はエビス屋のトラックに手を向け、白バイ隊員に何か訴えているようだった。白バイ隊員は右手の手のひらを見せるようにして左右に振り、ついでに首も振っていた。大方プリウスの運転手に「あの酒屋のトラックがトロくさかったんだから仕方ないだろ!」とでも言われたんだろう。

 浅草寺の周りはすでに観光に訪れていた多くの外国人でごった返していた。中にはプリウスにスマホを向けて写真を撮っている人もいるようだった。日本旅行で見かけたちょっとした捕り物と言った感じなのだろう、数分待ってツイッターを検索したらプリウスの運転手の顔が拝めるかもしれない。今は、そんな時代だ。

「バカだよな、信号一つで二分も変わらねえのに」ドラグがそう言うと助手席のレンゾは「気をつけろよ」と返した。ドラグがプリウスから目を離しレンゾを見るとレンゾは本を膝に置いてプリウスを見ていた。

 気をつけろ?おいおい、オレに言っているのか?オレほど安全運転をするヤツはそうはいないだろう?みんなもそう思うだろ?のんびりゆっくり法定速度をきっちり守って走っていたから、あのアホなプリウスが追い抜いて行ったんだ。そうだよな?わかっているだろう?だからオレは聞いたさ。

「オレが?」って。

「ああ」レンゾはそう言って再び本を持ち直して軽くプリウスを顎で示した。

 ドラグが再びプリウスに目を移すと運転手はまだコチラを指差しまだ何かを白バイ隊員に訴えているようだった。あいつも捕まえろよ!とでも騒いでいるのかもしれない。

 確かにああいうバカは理屈が通じないところがあるな。クラクションを鳴らしながら信号無視をするなんて「捕まえてー!」と叫びながら全裸で走り回っているようなもんだ。

そして100%お前が悪いのに「でも」とか「仕方ないだろ」とか「少しくらいいいだろ」とかいつまでもムダにごねるもんだ。いや、自分が悪いと分かっているからゴネるのかもしれないな。

 レンゾはそういう輩を相手にしても常に冷静だ。自分が悪くなくても穏便に済まそうと素直に頭を下げる。普通の日本人なら自分より程度の低い相手に頭を下げたところでプライドが傷つくなんてことはない。程度の低い奴ほど極端なほどに頭を下げるのを嫌うもんだ。

オレ?オレはそうだな、別に手を出したり暴言を吐いたりなんてことはしないぜ。バカな野郎に頭を下げたからって自分がバカ以下に思えてくるなんてことはないからな。ただ、オレが素直に「悪かったな」と言ってみたところでオレの顔が「さっさと失せろ」と言っていることがよくあるようだ。オレの顔が元々そういう顔なんだろうな。イライラするってわけでもないんだが、バカに対してまぁまぁ落ち着いてくれよ。なんて思うこともできない。何も考えずに頭を下げるが、顔はそうは言っていないと思われやすいんだろうな。

 だから今日みたいな時にああいうバカに絡まれたらちょっとした騒ぎになってしまうかもしれない。確かにそれはマズいよな。確かにレンゾの言う通りかもしれない。

 でもな、オレくらい安全運転をする奴はそうはいないだろう?オレは、たまに煽られるくらいに安全運転だ。周りがどう思うかは知らないが、まあそれが良くないって時もあるってことだろうな。

「まあ、そうだな」オレは素直に返事をした。そう思ったからな。信号が青になった。オレはトラックのシフトレバーを二速に入れてトラックをゆっくりと発進させた。

 レンゾは、本当に分かったのか?とでも言いたげにオレの顔をチラと見たが、まぁどっちでもいいけど…とでも言いたげにそれ以上はなにも言わずにまた本に目を戻した。

 横断歩道を渡っていく歩行者の半分くらいは外人だろうか。楽し気に話しながら歩いている外人のグループもあれば、スマホをかざして写真を撮りながら横断歩道を渡っていく外人たちもいる。

 歩行者用信号が青点滅を始めたが急いで渡ろうとするやつは一人もいない。急いで交差点に侵入してくるやつはいたが。彼らは歩行者用信号が赤に変わるとようやく小走りに渡り始めた。だが左折待ちをしているオレの目の前で、横断歩道を渡り切って安心したかのようにゆっくりと歩き始める。

 おいおいあと2メートル走れよ。邪魔な野郎どもだな。いや、別にイライラしているわけじゃないぜ。睨むような真似もしない。ただあきれているだけだ。オレが頭のおかしいトラックドライバーだったらいきなりアクセルをベタ踏みして突っ込んでいくかもしれないだろ?もちろん、オレはそんなことはしない。ただ、早くいけよと思いながら見ているだけだ。

 うん?そうか、これが良くないって今言われたばっかりだったな。

のんびりと歩く歩行者達が全員横断歩道を渡りきったところでドラグは吾妻橋交差点を左折して国道六号、通称江戸通りを上っていった。

ゆっくりと左車線を走るエビス屋のトラックを、タクシーやトラックや乗用車が次々と右車線から抜き去っていく。

 どうせこの先の駒形橋西詰交差点で止まることになるんだ。急ぐ必要はどこにもない。飛ばしたところでガソリンの無駄ってもんだ。

 ドラグが時速40キロほどでトラックを走らせているとタクシーが右車線からエビス屋のトラックの前に車線変更してきた。それを見てドラグはアクセルを踏む足を離すと排気ブレーキが作動しトラックは少し減速した。

 客は乗せていないようだがタクシーは次の瞬間何をするか分からないからな。誰かの手を上がれば交差点の中だろうが後ろにトラックがいようが構わず急停止するもんだ。

 ドラグがタクシーに注意を払いつつ視界の隅でレンゾを見るとまだ本を読んでいた。

 癪に障るよな。あいつ、さっきオレの運転を咎めてきたよな、気をつけろなんて言ってきただろ。そのくせあいつはまだ本にかじりついていやがる。

 別に本を読むのがダメだって言ってるわけじゃない。トラックを運転して客先まで行くのがオレの仕事で、トラックから客の店まで酒を運ぶのがレンゾの仕事だ。

 今はオレがトラックを運転している。だからレンゾが本を読もうが、オレの運転にケチを付けようが構わないぜ。

 だが今何時だ?

 ドラグはインパネのデジタル時計に目を向けた。表示は11:03になっていた。AFNはすでにABCニュースを切り上げてマルーン5のシュガーを流し始めていた。

 そう11時だよな。正確に言えば11時3分だな。統計学の本なんか読んでる場合か?11時だぜ?11時って言ったらなんの時間だ?

 そうだよ!ログインボーナスの時間だよな!ログインボーナスより大事なことなんてあるか?

 あるよな、うん、ログインボーナスより大事な事、そんなもんはいくらでもあるよな。でもな、これだけは言えるぜ、今は、たった今は統計学の本なんかよりログインボーナスの方が大事だ。これだけは間違いない。

 それにログインボーナスをもらうのはそんなに大変なことじゃないだろ、ポケットからスマホを出して、スマホのロックを解除して東京サバイバーを起動して11時なったら表示される【ログインボーナスをもらおう】をタップするだけだ。たったこれだけだ。統計学とやらの本を半ページ読むより簡単だろ。タップしたらあとは貰ってからのお楽しみ。クレジットをたんまり貰えるかもしれないし、スーパーレアアイテムかもしれない。

「11時だぜ」

 おっと、つい口から出ちまったよ。でも気をつけろよって言われた事に対して意趣返しなんかをしているつもりなんかこれっぽっちもないぜ。ログインボーナスが大事だからつい口から出ちまったんだよ。

 ログインボーナスってのはそれくらい大事だろ?このゲームには所謂課金アイテムってモンがないからな。ゲーム内で使えるクレジットもアイテムも現金で買うことは出来ないからな。彼女はいない、車も持っていない、一人暮らしもせず親の家に一緒に住んで子供向けのアニメ以外ろくな趣味もないような連中がな、僅かな貯金すらしないような連中がさ、目ン玉が脳ミソよりでかそうな気味の悪いアニメキャラが出てくる何が楽しいのかさっぱりわからない、ガチャに有り金突っ込めばそれだけ強くなれるようなゲームじゃあないからな。

クレジットやアイテムは他のプレイヤーを倒して奪い取るか、ログインボーナスで貰うかしかないんだ。だから誰でも貰えるログインボーナスは貰って得するって言うより、貰わなかったら、他のプレイヤーに比べてそれだけ損するって事だ。

「ああ」

 レンゾが返事をした。

そう、レンゾだってログインボーナスが大事だってことはわかってるんだ。

 だがレンゾは本から目を離さず、ポケットからスマホを出すこともなく本を読んでいる。統計学とやらの本だ。

 おいおい「ああ」のあとは「もう11時か、ログインボーナスを貰わないとな」だろ?

 なんで本から目を離さないんだ?

 それとも何か?「ああ」の後は「分かってるよ!11時だろ!?今見ようと思っていたのにそういう言い方をされると気分悪いぜ」とでも言う気か?

 ログインボーナスは早く貰ってもいいものが出るわけじゃあない。でももったいぶったところで残り物に福があるなんてこともない。貰えるものは早く貰っておいた方がいい、そうだろ?

 だって考えてもみろよ、次の瞬間に対向車線を走るトラックの運転手が居眠りしていてコッチに突っ込んできてオレたちの乗るトラックと正面衝突でもしたらどうなる?

 オレたちは大怪我して救急車で病院に運ばれて気が付いたら明日の12時かもしれないんだぜ。そうなったら今日の分のログインボーナスは貰えなくなっちまう、そうだろ?後で貰うなんて最悪忘れるだけで良いことなんか一つもないんだ。

 だからな、すぐ貰っても後で貰っても同じなら、今すぐに貰ったほうがいいだろ。でもレンゾは統計学の本なんかを読んでやがる。

 マジでオレが言った「11時だぜ(早くログインボーナス貰えよ)」に意趣返しでもしているのか?

 マジで「今見ようと思っていたのにそんな言い方されると気分悪いぜ」とでも思っているのか?

 いや、レンゾはそんな幼稚な考えをするような奴じゃない。

 じゃあなんでスマホを出さないんだ?何かあるのか?

 オレ?オレのログインボーナスはどうしたんだって?そんなのは決まっているだろ、オレはレンゾに誘われてこのゲームを始めたいわばゲストアカウントだ。オレはログインボーナスは貰えない。ログインボーナスはメインアカウントを持っているレンゾだけの特権なんだ。

 エビス屋のトラックが駒形橋西詰交差点の信号に近づいていく。歩行者用信号はすでに赤だ。ドラグは先ほどと同じようにトラックを減速させ左のウィンカーを点けた。

 ドラグはトラックを駒形橋西詰交差点の停止線から1メートル手前で停車させレンゾを見た。

「なんでログインボーナス貰わないんだ?」

 そう言おうと思ったがやっぱり躊躇った。だってそうだろ、そんなことを言うのはマヌケだし感じが悪いだろ?

 11時になったらログインボーナスをもらえるなんてレンゾだってわかりきっていることだ。分かり切っていることをわざわざ言うのはマヌケな行為だ。そのマヌケな事をわざわざやるっていうのは感じが悪いってことだ。そうだろ?みんなもそう思うだろ?

 でもログインボーナスは大事だ。貰わなきゃ損をするんだ。それはわかりきっていることだ。だからオレは早く貰えよというより、純粋に「なんで貰わないんだ?」って聞きたくなった。すぐにもらわない理由がなんかあるんだろ?だからオレはマヌケで感じが悪い行為と分かっていながら聞いた。

「なん・・・・」

「今日のログインボーナスなんだと思う?」

「え?」

 なんかマヌケだよな。

 質問するつもりが質問されて、その質問がまた予想もつかないことだったからアホみたいに「え?」なんて言っちまった。

 レンゾは読みかけのページを少し破って折り返した。栞の代わりらしい。そして統計学の本を閉じると両手で挟み、こちらに顔を向けた。レンゾの両手に挟まれた本はカバーがかかっていない。読み始める前にまずカバーを外して捨てているからだ。こんな本の扱い方をする奴はあまり聞いたことがないが、まぁ合理的なんだろうな、オレは本なんか読まないからよくわからないが。

 レンゾは質問を繰り返したりはせずに、オレが質問の意味を意味を消化するのを待っているようだった。

 わかるわけがない。いや、質問の意味は分かるぜ。「今日のログインボーナスが何だと思う?」だろ。質問の答えが「わかるわけがない」だ。

 今日のログインボーナスが何なのかなんてわかるわけがない。そういうことだ。クレジットかもしれないしアイテムかもしれない。300クレジットかもしれないし20000クレジットかもしれない。クレジットじゃなければ100種類じゃきかないアイテムのどれかだろうな。アイテムとクレジットがセットになっている時もあるし、アイテムが複数入ったバンドルの時もある。まぁクレジットが貰えるんじゃないか?って答えておけば結構な確率で当たるだろう。

 でもそんな答えになんの意味がある?その質問にどんな意味があるっていうんだ?なんだって今日に限ってそんなことを聞くんだ?逆にオレが聞きたくなった。

「なんだっ……」

「そうだな、言い方を変えようか。じゃあ今日のログインボーナスはなんでも好きなものを選べるとしたら、何が欲しい?」

「あ?」

 また質問を質問で潰された。お互い質問を質問で返しあってる気がするな。だがちょっと待てよ、好きなログインボーナスが貰えるなら何が欲しいだって?

 そうか、そういうことか。宝くじが当たったら何を買う?とかそんな類いの話か。あんなことがあった後に変な質問をしてくるもんだからな、レンゾが少し変なイラつき方してるんじゃないかって思ったんだよ。まぁちょっと安心したぜ。

 で、好きなログインボーナスだろ?そうだな、大量のクレジットって答えじゃあセンスがないってのはオレでもわかるぜ。でもアイテムはアイテムで相場ってモンがあって値段がだいぶ上下するからな。スーパーレアをもらえても明日には値段が暴落している可能性もある。

 するとアイテムバンドルか?アイテムバンドルならレア度が低めのアイテムが5個以上入っている。それなら、そのうちのアイテムの一つの値段が落ちる可能性は高くなるが、他のアイテムの値段が高騰する可能性も高くなる。そうなると相場の影響を受けにくくなる……けどな、センスの良いレンゾを唸らせるような答えとは思えないな。

 クレジットじゃあセンスがない。バンドルもイマイチだ。すると、アイテムか。アイテム……今日欲しいアイテムか…。

 そうだ!1つだけあったな!今日欲しいアイテムが1つだけあった!これしかない!

 今日なんでも好きなログインボーナスが貰えるなら?それならボディボックスだ。

 ボディボックスってのは敵プレイヤーを倒した時に必要になるアイテムだ。値段は結構高い。最高で12万クレジットくらい取られたんじゃないか?

 このアイテムは敵プレイヤーを倒したときに必要なアイテムだが、自分のレベルが上がれば値段も上がっていくちょっと特殊なアイテムだ。

だからこのゲームをやりこんでいるような高レベル古参プレイヤーが、ゲームを始めたばっかりでアイテムもクレジットもほとんど持っていない初心者を付け狙って倒したところで大損コくだけだ。メリットと言ったら何もわかっていない弱小プレイヤーを倒してオレは強いぜ!って少し憂さ晴らしできるくらいだな。もちろんその後にボディボックスを買ったら10万クレジットくらい減るかもしれないわけだ。だからメリットは無いと言っていいが、初心者と言っても反撃してくるリスクはある。つまりなにも良いことはない。

 弱い奴らは弱い奴ら同士で戦っていればいいってことだ。ランクシステムってやつか?

 まあオレたちはアイテムはたんまり持っているし、クレジットも200万はゆうにあるからな。

 それでも今日、今日のログインボーナスで何が出たら嬉しいかって言ったらそれはボディボックスだ。ついさっきアタックをかけてきた敵プレイヤーを返り討ちにしてやったからな。まあオレは不意を突かれて危なかったけど、レンゾのやつがうまいことカバーしてくれて倒してくれたからな。カウンターキルといったところだ。

だから今日なんでも好きなログインボーナスがもらえるって言うなら・・

「ボディボックスだな」

 さて、センスのいいレンゾはなんて答えるんだ?まさかボディボックスを引き当ててやるよとでもいうつもりか?センスのいい答えってやつを期待しているぜ。

「そうだよな、じゃあ今日のログインボーナスでブルーボックスを引いたらどうする?」

 ああ、レンゾはボディボックスって言い方が好きじゃないらしい。レンゾはボディボックスをブルーボックスって言うんだ。確かにあのアイテムは青いし、そして間違いなく箱だ。でも正式名称は間違いなくボディボックスだ。ゲーム内でアイテムストレージを確認したらボディボックスって表示されるからな。

 いや、そんなことはどうでもいい、今日のログインボーナスでブルーボックスを引いたらどうする?だって?どうもこうも・・・なんだ?何を言っているんだ?いや、まあボディボックスなら嬉しいけどな。

「どうするって?」

 我ながらなんかマヌケすぎるだろ。どうする?って聞かれて、どうするって?と答える。マヌケもいいとこだ。でもそうなるだろ、何が引けるかわからないログインボーナスで今日一番欲しいボディボックスを引いたらどうする?なんて聞かれてもな。

「今日引けたら一番に嬉しいログインボーナスはブルーボックスだよな?」

「ああ」

「じゃあさ、今日のログインボーナスでブルーボックスを引いたらな、今日の残りの配達を全部頼まれてくれるか?」

「はああ?」

 オレは半口開けてレンゾを見た。

 するとレンゾは両手で挟んでいた本を右手に持つとオレの方にかざして

「もう少しなんだよ」と言った。破って折り返したページの部分から見ると残りは30か40ページくらいなのか?それがもう少しで読み終えられる量なのかどうなのかはオレには分からない、オレなら半年はかかりそうだ、読むならな。まあ実際のところ3秒ってところだろうな、その統計学とやらの本がごみ箱の底に収まるまで。つまりだ、その残りをさっさと読み終えたいからオレがトラックを運転して更に、今日は客先に酒を運ぶのもオレにやって欲しいっていう事か?随分と都合のいい話に聞こえるが、それはちょっと分の悪い賭けなんじゃないか?100種類以上あるアイテムの中からボディボックスを引くつもりか?ボディボックスは結構レアだぜ。それに引くのはアイテムとは限らない、クレジットかもしれないんだ。どう考えてもオレの負けはほぼないだろ。いや大丈夫だ、このゲームに関してはみんなよりオレのほうがよくわかっている。オレの負けはないと言っていい!断言できる。だから当然オレはこの賭けを受けるぜ、負けるわけがないからな。

「まあ、いいぜ引いたらな」

「よし、決まりだ」

 レンゾはハーフコートの左のポケットに手を入れ赤いブックタイプのカバーが付いたスマホを取り出した。カバーを外せば中身はレモンイエローのスマホだ。もちろんオレも同じものを持っている、カバーはもちろん青だけどな。

そこで信号は青になった。ドラグは僅かな違和感を感じたがトラックを発進させた。

駒形橋西詰交差点を左に曲がったら、左手にある駒形堂を回り込むようにすぐにまた左折だ。ドラグは左のサイドミラーを注視し左側からすり抜けてくるかもしれないバイクや自転車に注意を払った。だいぶ後ろにパトカーがいたのが見えた。パトカーがいるなら無謀なすり抜けをしてくるようなヤツはいないだろうが、それでもドラグは慎重に左折し、駒形堂を左に見てもう一度トラックを左折させた。レンゾはスマホを操作して今日のログインボーナスをやっともらったみたいだった。

江戸通りと隅田川の間を走る細道を200メートルほどいったあたりが目的地だ。この細道は一方通行で南側からしか入れない。この細道に入ってくる車は細道に面した店に用事がある車だけだろう。そして、この細道の左側、つまり江戸通りに面している店に用事があるなら江戸通りに車を止めるだろう。そして右側、隅田川側には居酒屋か訪日外国人向けの安宿がいくつかあるくらいだ。他はよくわからない、雑居ビルか何かだろう。この一帯に宿泊している外国人観光客はとっくに観光に出かけているだろうし、お土産屋があるわけでもない。つまり昼の11時じゃあ歩行者もほとんどいない。

今すぐレンゾのスマホを確認してもよかったが、それも少しがっついているようでみっともないだろ?勝つのがほとんど決まっているような賭けの結果を急ぐってのはな。それに運転中にスマホの画面を見るのは道交法違反だ。トラックを止めてからゆっくりと確認すればいい。が、なにか大事なことを忘れている気がしないでもない、なんだ?

まあいい、オレの負けはない。あと100メートルくらいで目的地、和さんの居酒屋だ。急ぐことはないだろう。レンゾがトラックのインパネにスマホを置いた。おそらくレンゾの顔は軽くゆがんでいることだろう。舌打ちが聞こえてきそうで、ちょっとニヤついちまった。悪いなレンゾ、気を悪くするなよ。無謀な賭けを振ってきたのはお前なんだからな。

トラックは目的地に着きドラグはトラックを停車させた。右側にある黒いタイルのビルと、元々は白かっただろう薄汚れた灰色のビルの間の1メートルちょっとの隙間を入っていった先に和さんの店がある。ドラグはトラックのエンジンを切った。

さて、と。ドラグが横を向くとレンゾはまだ本を読んでいた。

おいおいおい、それはちょっとみっともないんじゃないか?そりゃあオレがトラックを運転している間は何をしていてもいいけどな、そんなギリギリまで本にかじりつくなんてアレだぜ、テレビのバラエティ番組で制限時間が来たのに司会者に注意されるまで動きを止めない売れないタレントみたいだ。こんなことは言いたくないがちょっとみっともないぜ。

レンゾがそんな態度じゃしょうがないな、引導を渡すって感じで気は進まないがオレが聞くしかないだろう。

「で、ブルーボックスは引けたのか?」

レンゾは本から目を離さずに「見ろよ」とでも言うようにインパネに置いたスマホを顎で示した。

おいおいおい、本当にらしくないぜ、本当に。分の悪い賭けを仕掛けてきたのはレンゾ、お前自身なんだぜ。そこは「いやあダメだったか」って潔く自分から負けを認めたほうがまだスマートってもんだろ?この期に及んでまだ統計学とやらの本にしがみつくのかよ、オレだって「ほら、なにしてるんだよ、本を置いてさっさと配達行って来いよ」なんて言いたくないぜ。まあ言いたくないが仕方がない、引導ってやつを渡してやるよ。

さ、今日のログインボーナスは何だったんだ?       

ドラグがインパネに置かれたレモンイエローのスマホに手を伸ばしハードカバーの本の表紙を開ける様にカバーを開けた。その動作にスマホが反応しディスプレイが表示された。そこには青いクーラーボックスのような見た目のアイコンがディスプレイに表示されゆっくりと回転していた。

「あ?えっいや、ええ!?」

ボディボックスだ。

ドラグはレンゾが置いたスマホを手に取ると画面をもう一度確かめた。

スマホの画面にはゆっくり回転する青いボディボックスの下に「受け取る」というボタンが表示されている。

すでに持っているストレージ内のアイテムを表示させたなんてつまらないトリックじゃない、昨日のログインボーナスでもない、それはない。昨日のログインボーナスは2つのアンチスキャナーに5000のクレジットが挟まれたそこそこ豪華なサンドイッチだったからな。

間違いなく。マジで。本当に。今日の。ログインボーナスは。ボディボックス・・・だ。なんで・・・。

レンゾは本を膝に置き、その上に両手を重ねるとチラリとこっちを見た。

レンゾは何も言わなかった。オレが事態を把握するのを待っていてやるといった風だった。

間違いなくボディボックスだし、間違いなく今日のログインボーナスだ。

なんでだ?なんでオレは今こんな画面を見ているんだ?たまたま?こんなことはありえない。

今日。それどころかついさっき敵プレイヤーを倒して今まさにボディボックスが必要だなって時に、たまたまレンゾがそのチリ紙にもならない統計学の本とやらを読み終えたいがために分の悪い賭けを持ち出して、たまたま、本当にたまたま今日、今ここでたまたまボディボックスを引いたっていうのか?

ありえない。そんな偶然はありえないだろう。という事はヤバい事態ってこと……。

「どうする?」待ちきれなくなったのかレンゾが聞いてきた。

「どうする?」だって?どうしようもないだろ!今更「やっぱり賭けはナシにしようぜ、配達はいつものようにレンゾがやってくれよ」なんて言えるか?レンゾが賭けを提案してオレは乗った、そして負けた。どんな理由で負けた賭けをなしにしてくれよって言うんだ。

「いや、ああ、そうだな」

何が「そうだな」って感じだが、ハッキリ言ってオレは動揺している。オレはふーっと息を吐いてトラックのキーシリンダーに刺さった鍵の束を外した。

オレは革製の腰袋を付けてそこに財布を入れている、財布には革ひもが繋げてありカラビナで鍵束につなげてある。腰袋に財布を入れておけば財布を無くすことはないし、財布を無くすことが無ければそれに繋がれた鍵をトラックにさしたまま、トラックを降りてドアをロックしてしまう事もないからだ。オレは何回かトラックに鍵をさしたままトラックのドアをロックしてしまったことがある。解錠業者を呼べば一分もかからずに鍵を開けてくれるがあいつらはそれだけで一万円ほど要求してくる。

奴らは鍵をかける意味を疑わせるほどの手際で、まるでペットボトルのジュースのキャップを外すくらいの手際で鍵のかかったトラックのドアをサッと開けちまうんだ。誰だってペットボトルのキャップを開けるのに一万円を払うなんてバカらしいと思うだろう?オレだってバカらしいと思う。だからそうならないように腰袋を付けて、そこに財布を入れて革ひもをつなぎ、革ひもにカラビナを付けて鍵束につなげているんだ。

オレが配達に行ってレンゾがトラックに残るわけだからな、もちろんレンゾのやつもトラックのカギを持っている。ならトラックの鍵は抜いておいてもいいよな。

トラックのラジオからはテイラースイフトのシェイクイットオフが流れていた。最後まで聞いていたい気も少しあったが、オレはトラックのキーシリンダーから鍵を抜いた。鍵束にはトラックのカギのほかにもオレの家のカギにオレの倉庫のシャッターのカギに倉庫の勝手口のカギ、ほとんど乗っていないオレの乗用車のカギや二年は乗っていないオレのバイクのカギもある。

ドラグはトラックのドアロックを解除した。

いや、鍵がどうのなんてそんなことは今はどうでもいい。今、重要なのはログインボーナスだ。今日のログインボーナスがボディボックスだったという事だ。

偶然、本当に偶然、よりによって敵プレイヤーを倒した今日だ。たまたま今日、欲しくてたまらない絶対に必要なボディボックスを引いたって言うならいい。

だがな、レンゾのヤツがボディボックスを引くと宣言して本当にボディボックスを引き当てたのは「ああ運がいいな。」では済ませられないだろ?こんなことはこの最高のゲームをブッ壊しかねないからだ…。

「タブを見ればわかるからさ」トラックのドアを開けて降りようとするオレにレンゾが言った。ああ、そうだな。

客の注文や売り上げは全部タブレットで管理している。一々紙っ切れにビール1樽だのコダマのサワー2ケースだのとあれこれ書く必要なんかない。商売ってもんは紙に書かれた納品書を渡したり、ボールペンで紙の受領書にサインをすることだと思っている年寄りはこういった電子機器に嫌そうな顔をすることが多いが、これも仕事だ。

タブレットにインクの出ないプラスティックのペンでサインを求めると嫌な顔をするような年寄りは、紙に書かれた納品書を渡していても、納品書の上から複写になっている受領書にサインをもらっていたとしても「今月こんなに買ったっけ?」なんて文句を言うことがある。サインをもらってますよって受領書を見せても全く意味はない。

向こうが高すぎるんじゃないか?と思ってしまえば手書きの納品書だろうが紙の受領書に書かれたサインだろうが意味はない。書いた、いや書いてない。言った、いや言ってないの水掛け論だ。受け取りのサインが書かれた受領書なんてもんは説得力もなければ法的にもまったく意味がない。そうなれば信用が失われる。信用が失われたら客を失う。失われた客は噂を広める。エビス屋は信用ならないぞってな。

信用を失えばこの仕事は終わりだ。大事なのは信用。大事なのは紙の納品書なんかじゃなく、タブレットでもない、エビス屋に任せておけば大丈夫だろうという信用、つまり人柄だ。だからオレ達はヨボヨボの年寄りの代わりにチンケな居酒屋のゴミを回収してやったり、しわしわの婆さんともうすぐしわしわになるオバサンが二人でやっているお化け屋敷を名乗ったほうが良さそうなスナックやバーにチャームを運んでやったりもしているんだ。


ラジオから流れていたシェイクイットオフの一番いい所を頭をかすめた。タイトな黒シャツを着て歌うテイラースイフトが頭に浮かぶ。この曲がリリースされた当時はAFNから一日20回は流れていただろうな。それが今じゃ月に二回聞ければいい方だ。ぜひ最後まで聞いてからトラックを降りたいところだ。でも賭けに負けた以上そうもいかないな。オレは後ろ髪を引かれる思いで、革ジャンのフロントジッパーを顎まで上げてトラックの運転席から降りた。そして革ジャンの袖を折り返し、腕をまくった。

途端に2月の冬の冷気がさらけ出された腕の皮膚を突き刺し始めた。程よく暖房のきいた車内から出てきた身体には真冬の冷気の突き刺し具合はことさら深い。

オレは冬には革ジャンを着る。そして腕をまくる。

そんなことをしていたら一度レンゾに「寒く無いのか?」と聞かれたことがある。

オレは、お前は何を言っているんだって顔をして「寒いよ」と答えた。

そりゃあそうだろ、冬だからな。腕をまくって皮膚をさらけ出していたら寒いに決まっているだろ。だがそう言うものだろ?。

レンゾも、お前は何を言っているんだって顔をしていたが、それ以上は何も言わなかったしそんな質問をしてきたのはその一度きりだ。

オレは袖をまくる。夏に半袖のTシャツを着ている時には肩まで袖をまくるし、冬に革ジャンを着ているなら袖を折り込んで袖をまくる。とにかくだ、袖があるときはまくる。寒く無いのかって?バカを言うなよ、寒いに決まっているだろ、今は2月なんだぜ。

でも袖はまくる。

ドラグはトラックを降りると荷台の後ろに回った。ジーンズのベルトループから鍵束の付いたカラビナを外し鍵束を物色した。束から一つのカギを取り出しトラックの荷台の後部ドアのカギ穴に差し込み解錠した。

扉を開けると少しばかり甘い匂いがする。さっき二万もするドイツワインをオレが割ったからだ。扉のわきに置かれたバケツの中には割れたワインボトルのかけらと二万円のワインをたっぷり含んだ高級な雑巾が入っている。

レンゾにしてみれば、二万円を取り返すのにビール樽をいくつ運ぶことになるんだとか思っているだろうが、オレに言わせれば二万もするワインをなんで仕入れたんだって感じだ。

まあそれは仕方がない。オレは二万もするワインを割ったからな、そしてそれは仕方がなかった。

トラックの荷台は左右にステンレス製のラックが備え付けられている。

左側のラックは積み上げられたビア樽や、瓶ビールやサワー瓶が入ったケースが崩れないようにするためのラックで、右側はそれ以外の細かなものを入れておくためのラックだ。右側のラックにはウォッカやジン、ウイスキーやラムに焼酎、日本酒にそしてワインなんかが並べてあるし、バーやスナックに運ぶチャームもしまってあるな。

ドラグはトラックの荷台に乗り込み右側に備え付けられたスイッチを押した。荷台の天井を前後に線上に伸びた二列のLEDのライン照明がスーッと光り始め荷台の中を明るく照らし出した。右のラックの奥から黒くてデカいゴミ袋が少しはみ出していた。

走行中の揺れで動いたんだろう、イキのいいゴミ袋だな、あとでもう一度奥に突っ込んでおこう。ゴミ袋と言っても薄いポリウレタンの安物じゃあない。ナイロンとポリエステルの合成素材でできた頑丈な袋だ。分かりやすく言うとデカいエコバックみたいなもんだ。そして内側のポリウレタンとの二重構造になっているし、袋の口のシールをはがすと強力な粘着シールがある。それをきれいに張り合わせれば中にどんなに汚いゴミを詰め込んでいても匂いは一切出てこないし逆さにしても一滴の汁も漏れ出てこない。よくできたゴミ袋だ。もちろん高いがそれは仕方がない、荷台の中が臭くて汚い汁にまみれちゃ仕事に支障をきたすからな、必要経費ってやつだ。

ドラグは右側のラックにかけられているタブレットを手に取った。

このタブレットには客から受けた注文はもちろん、配達履歴や売り上げの詳細が全部入っている。

だれから何を注文されたのか、何をどこに運んだのか、いくら売ったのかも、どれだけ売掛が残っているかもすべてこのタブレットに記録されている。言ってみればこのタブレットはエビス屋のメインコンピュータみたいなもんだ。

ドラグは右手に取ったタブレットに顔を近づけ動きを止めた。二秒か三秒ほど止まったまま口を開けるが言葉が出てこない。

スーッと息を吸い一度天を仰ぐと天井のLED照明に目がくらんだ。とっさに顔を下に向け、もう一度タブレットに顔を近づけたがどうしても声が出ない。

もう一度、今度は目を瞑ってから天をゆっくりと仰いでから再びタブレットを見つめる。

やはり出すべき声が出てこない。ドラグは小さく首を振り、今度は手に持ったタブレットではなく照明スイッチの横にあるインターホンに顔を近づけた。

控えめで申し訳なさそうな小さい声で「ちょっといいかな」と言った。

インターホンは自動的に声に反応するようになっているので何かボタンを押す必要はない。トラックのキャビンで統計学とやらの本を読んでいるであろうレンゾには聞こえたはずだ。

インターホンからピッと小さい音がすると同時に緑のランプが点灯し「どうした?ワインか?」レンゾが返事をした。

ワイン?まだニ万もするワインを割ったことを咎める気か?いや、レンゾはそんなしつこいやつじゃない。

ワインがなんのことかはわからないがとりあえず聞きたいことがあるんだ。

「和さんの店さ……」

レンゾはオレの次の言葉を待っているようだがオレが言いよどんでいると再びピッと小さい音とともに緑のランプが点灯した。荷台に付けられているインターホンはわざわざボタンを押したりする必要はないが、キャビン側のインターホンは通話するのにボタンを押す必要がある。

キャビンにいるレンゾがインターホンのボタンを押すと通話状態を示す緑のランプが点灯するというわけだ。そうしておかないとラジオの音に反応したインターホンが垂れ流すラジオの音をずーっと狭い荷台の中で聞くハメになるわけだ。そして閉じられた狭い荷台の中で反響するラジオの音声が垂れ流しになるってのはあまりいい気分じゃあないだろうからな。

「和さんの店が、どうした?」レンゾが言った。

オレは少し言いよどんでから言った。

「和さんの店の名前さ、なんだったっけ?」

レンゾは沈黙した。インターホンのランプも点かない。

そりゃあそうだろう、まさかオレが和さんの店の名前が思い出せないなんて思いもしないだろう。

今日何曜日だったっけ?なんて聞く方がまだ現実味があるってもんだし、今雨降ってるか?なんて聞く方がまだマシってもんだ。

五秒ほどたってからインターホンの緑のランプがついた。オレの頭が悪すぎる質問の意味を理解するまで五秒ほどかかったって事だろう。自分でいうのもなんだがそれくらいアホな質問だからな。

しかしレンゾはまだ沈黙したままだ。

「どうした?早く教えろよ」なんてことは言わない。分かってる、呆れているんだ。

オレ達エビス屋にとって和さんの店は一番のお得様だ。売り上げが一番ってわけじゃあないけどな。和さんの店は和さん一人で切り盛りしている狭くて小さい居酒屋だからな。儲けって意味じゃあ下手するとエビス屋は赤字かもしれない。

だけど和さんの店は、エビス屋の取引先の中でオレたち二人が客として足を運ぶ唯一の店だからな。そんな和さんの店の名前を忘れるってことは世界で一番うまい飯をタダ同然で食わしてくれる店の名前を忘れるってことだ。そりゃあ呆れるってもんだろう。

レンゾは再び五秒ほどたっぷりと呆れてから言った。

「い・ろ・ど・り、な。」

そうそう、そうだ、いろどりな。中々厭味ったらしい言い方だったが仕方がないだろう、逆の立場だったらオレだってそうなる。誰だってそうなるだろう。でもな、こういっちゃあなんだが和さんらしくないネーミングなんだよな。

彩だぜ彩。「彩」なんて店はそれこそ杉本彩みたいな40過ぎても50過ぎてもきれいなままの、それこそ魔女みたいな女将が淡い桃色の和服を着て一人でやっている割烹屋の名前だろ。

「彩」なんてな、細いグラスに一口分しかはいっていないビールを注いで800円も取る店の名前だろ。和さんの店の名前なら「横綱」とか「弁慶」とかの方が合ってると思うんだよな。

まあ和さん店の名前は彩だ。そうだった。

「ああ、そうだった!ド忘れしててさ、サンキュー!ありがとう!悪いな!」

レンゾにしてみれば小言の一つも言いたくなるところだろうがサンキュー!ありがとう!悪いな!ってところで「もういい、分かった、勘弁してくれ」って意味をくみ取ってくれただろう。インターホンのランプはもう点かなかった。

そうそういろどりな。漢字で書いて「彩」だ。

オレはインターホンに背を向けて右手に持ったタブレットを顔に近づけて少し小さい声で「いろどり」と言った。元気よく「いろどり!」なんて言ってスピーカーが反応したら後でレンゾにバカにされるぜ。

タブレットがオレの声に反応し【彩】の明細を表示した。

オレが「今日のオーダー」というと再びタブレットが反応した。

本来はレンゾの仕事のはずだが今日ばっかりはオレが運ぶ羽目になる荷物の詳細が表示される。

そうだよ、レンゾはいつもこうやってタブレットに客の名前を呟いているだろうがオレはいつもトラックを運転しているだけなんだからな。ちょっとド忘れしたって仕方がない、だろ?

それに和さんの店に行こうとするときに「彩行こうぜ」なんて言わないしな。「和さんのところ行こうぜ」って言うからな。そりゃあそうだろ、オレは「彩」に行きたいわけじゃなくて、あくまで和さんの作る飯を食いに行きたいだけだからな。いや、つまらない言い訳じみているのはわかっている。和さんの店の名前を忘れるのは、うん、マズいよな。

タブレットに表示された注文内容は、ビール樽2日本酒熱燗向け適当に。ウォッカ、ジン、ウイスキーあたり適当に。さらにいかにも大事そうにカッコつきで【ワイン2】だって?しかもビール樽が2つ?何のことだ?

いや「彩」はチェーン店の居酒屋じゃないんだぜ、和さんが一人でやっているチンケな店だぞ。カウンターに4人座れば満席って店にビール樽が2つ?ありえないだろ。パーティーでも開くつもりかよ。

ドラグはタブレットに表示されている内容を見ながらレンゾに確認するべく再びインターホンへ近寄った。

「和さんのところ、樽2って出てるけど……」

お前、間違えただろ、なんて言ったら賭けに負けた意趣返しみたいだろ。でも日本酒やジンが適当にってどういうことだ、そんなことでエビス屋をやっていけると思っているのか?とも思ったがほんの一分前に「わかったもういいかんべんしてくれよ」って返事をしたばかりだしな。

レンゾがインターホンのボタンを押した。緑のランプが点いた。

「パーティーがあるんだってさ」レンゾが答えた。

「パアァーティー?マジかよっ!」

予想外過ぎて思わず笑っちまったよ。

パーティーかよ、和さんの店でパーティー?まぁ、初めてじゃないどころかちょくちょくあるんだけどな。これは楽しみだ。楽しみすぎて思わず声が上ずっちまったんだ。

「和さんのところの常連が結婚するとかで彩でパーティー開きたいんだってさ」インターホン越しにレンゾが説明する。

「そうかぁ……」

ドラグはもう一度タブに目を向け確認していく。

樽が2つ。これは当然だろう。居酒屋に来ているのに「生ビール?もう終わったよ」なんて言われたら意味がわからないだろ?ハンストでも始めろっていうのか?居酒屋に来ているんだぜ。「ビールがない」そんなことを言われたら暴動になってもおかしくないからな。樽が2つ。これはわかるよくわかる。すげえよくわかる。パーティーなら当然だ。

日本酒や蒸留酒を適当に。これもわかる。

居酒屋ってのは酒を飲ませるところだよな。日本酒や焼酎が無いとなったらどうなる?

そこらの居酒屋で「山崎の15年をロックで」なんて言ってみても

「あるわけねぇだろ」って返されるのがオチだ、そりゃあそうだろ、あるわけがねぇからな。

だけどな、居酒屋で「熱燗1つ」とか「酎ハイ頼むよ」って言ったところに

「切らしてんだ」なんて返ってきたらどうなる?

居酒屋で熱燗も酎ハイも切らしてるなんて言われたらオレをキレさせようとしているのか?って思うだろ。しかもパーティーを開くって言ってるのに、だぜ。

もちろん、居酒屋が客をキレさせようとする可能性は低いとは思うが、居酒屋が日本酒も焼酎も切らせる可能性はそれより低いはずだからな。樽に酒はわかった。

だが、あとはカッコつきの【ワイン】だな。

ドラグはタブから目を離しラックに目を向けた。日本酒やジンといった様々な酒瓶が並び、チャームや珍味がつまったビニール袋、メーカーの銘が入ったグラスやジョッキにコースターや栓抜きといった様々な小物やノベルティがラックに詰め込まれている。

ドラグが顔を上げもう一度インターホンに顔を近付けると緑色のランプが点灯しレンゾの声が響いた。

「あとワインだけどさ……」

ドラグはパッと左を向いた。
ラックの先に荷台の壁があるだけだ。キャビンはその向こうだ。ラックと壁の間から口の閉じられた黒いゴミ袋が僅かに見え隠れしている。

そりゃあビックリするだろ?タイミングが良すぎるからさ。オレがワインの事を聞こうとした瞬間に向こうから先に返事をされたようなもんだ。だからレンゾに見られているんじゃないかって思ったんだよ。

オレに内緒でキャビンと荷台に穴を開けてこっそり覗き窓でもつくってたんじゃないかってな。もちろんそんな物はないけどな。・・・ないよな?

レンゾが続ける。

「……ワインだけどさ、和さんからのプレゼントってことなんだけど……」

『なんだけど……』なんだ?まさかその先のセリフは『和さんのからのプレゼントってことなんだけど、さっきお前が割っちゃったからな』なんて言うつもりじゃないだろ?頼むヤメてくれよ。そんなことになったら和さん怒るかもしれないだろ。いやきっと怒るだろ。そうなったらパーティーに来るなって言われるかもしれないだろ!?そうなったら和さんがパーティー用に作るだろうスペシャルで特別な飯も食えないだろ、勘弁してくれよ!

「……和さんからのプレゼントってことなんだけど、和さんは何でもいいって言ってたんだよ。でもそうもいかないだろ?」

「あぁ、そうだよな」

もちろんだ。せっかくのお祝いなんだから何でもいいなんてことはないよな。結婚パーティーなんだろ?なんでもいいなんて失礼ってもんだろ、ただ例のドイツワイン以外なら何でもいいと思うぜ。あれは雑巾に染み込ませてバケツの中だからな。

「だからまぁ結婚パーティーってことだし、シャンパンがいいと思ってさ」

「あぁそうだな」それはいいと思うぜ。シャンパンってのはフランス産の炭酸ワインの事だからな。あのドイツワインはジュースみたいに甘ったるい匂いがしたけど炭酸は入っていなかったからな。なによりドイツはフランスじゃあないからな。シャンパンな、いいと思うぜ。

ドラグはラックにあるワインに目を向けた。

ワインは何本かあるが、シャンパンボトルは二本入っていた。白っぽいボトルと黒っぽいボトル。おそらくこれのことだろうな。

ドラグは左手を伸ばし白っぽい方のボトルを手に取ってみた。

うーん、そうだな……。

わからねえ。

いやフランス語が分からないってことじゃない。オレだってフランス語くらいわかる。最後に必ず子音がついててだな、SとかTとかXは発音しないんだよな。

例えば、フランスの首都はPARISって書くんだろ?だから英語だと「パリス」って発音になるはずだよな。でもフランス語だと最後のSを発音しないから「パリ」って言うんだよ。

ん?いやナメてるなんて思わないどころか、このワインはなんかずいぶんと高そうなんだよな。

ドラグは手に取ったボトルのラベルに目を向けた。

モエ・・アンド・・えーと、シャン?ドン・・インペリアル、ロゼ?

コルク栓を覆う白?いや銀色に近い白っぽいシールがボトル全体を覆っている。そこにややピンクがかった赤いリボンのような模様が描かれている。結婚パーティーには最適そうだ。おそらくこれだろう。こんなおしゃれなシャンパンを見つけてくるレンゾはやっぱりセンスがいい。

しかし、インペリアルって言葉が引っかかるな。

インペリアル。皇帝用とかそんな意味だろ、高そうな匂いはプンプンする。

「2本あるだろ?」レンゾが続けた。

「ああ、白い方か?」とオレは聞いた。するとレンゾは

「いや、両方持って行って和さんにどっちがいいか聞いてくれ」と言った。

ドラグは白いボトルのインペリアルを置き、もう一本の黒いボトルを手に取ってみた。

黒いボトルでコルク栓を覆うシールは黄色味の強い金色だった。そしてオレンジ色のラベル。そこに書かれているのは、ベウブ・・クリクォ?イエローラベル、ブリュ?

VEUVE?ベイブ?赤ん坊か?

結婚パーティーに赤ん坊はちょっと急いてる気がしないでもないが、まあプレゼントするのはオレじゃあないし貰うのもオレじゃあないからな。

「この黒い奴と白い奴でいいんだな?」

「ああ、その二本を持って行って和さんに選んでもらってくれ」

「了解っ!」

レンゾはよく考えるもんだな、本当にセンスがいい。確かになんでもいいって言ったところで人任せより二択とはいえ自分で選んだほうがプレゼントを贈る方もちょっといい気分になれるだろう。まあ結婚パーティーのプレゼントで白と赤のボトルと黒と黄色のボトルならだれでも白と赤の方を選ぶだろうな。

「で、和さんはモエ・・ああ白い方を選ぶだろうから、黒い方は招待客全員からのプレゼントってことにするのはどうですかって伝えてくれよ」

「じゃあ両方渡すってことだな?」

「ああ、そういう事。白い方は和さんからで、黒い方は客からってことな」

「オーケー。分かった」

「じゃあ、後は頼んだぜ」レンゾがそう言うとインターホンの緑のランプが消えた。レンゾはもう本に目を移しているんだろうな。

なんか腑に落ちない気もするが、まあいいだろう。じゃあ運ぶとするか、しかし結構な大荷物だな。

ドラグはインターホンに背を向けラックからビール樽を二つ取り出し荷台の後部に置いた。

カラのプラスティックケースを取り出しインターホン側のラックから日本酒、ウォッカなどを吟味する。

ジンはビーフィーターやギルビーもあったがここはもちろんボンベイだ。おっとタンカレーもあるのか、これはどっちにするか迷うところだがもちろん両方だ。

ウォッカも色々あるぜ。ギルビーにウィルキンソンもあるし白にスミノフもある。スカイウォッカにストリチナヤもあるしアブソルートも捨てがたい。もちろん全部だと言いたいところだが今日のうちに全て納品しておく必要もないだろう。まずはスカイにアブソルートを持って行っておくか。

ハイキングで山の上に持っていくわけでもなく、100メートルもない距離だが二本のシャンパンは念のため緩衝材に包んで養生テープで巻いてからケースに入れた。せっかくの結婚パーティーのプレゼントだって言うのにラベルがちょっぴりでも剝がれたいたりしたらみっともないからな。

これで全部だな・・。

シャンパンが二本、ビア樽に各種の蒸留酒に日本酒。

揃えた商品と棚を見比べていると一つの木箱が目についた。

「魔王」と書かれている桐の箱。元は高めの焼酎が入っていた箱だ。これをシャンパンのラッピングの代わりにしたらいいんじゃないか?外人さんは漢字が好きだろ?これも持っていこう。

ラックの小物入れから両端にフックの付いた短い革ベルトを取り出すとトラックの荷台から降り、二本のビール樽を一度地面に置き、革ベルトの両端のフックを二つのビール樽それぞれの持ち手にひっかけた。

身をかがめて荷台に置かれたシャンパンや木箱を入れたケースを右肩に担ぎ、トラックの荷台のドアを閉めた。左腕を右腰に伸ばしベルトループからカラビナを外しドアをロックした。

カラビナをベルトループに戻すと左手で革ベルトをつかみ二本のビール樽を持ち上げた。ビール樽は一本20リットル入り。それが二本。つまり40キロだ。だいぶ重い。

ドラグは白いビルと黒いビルの間の幅2メートルほどの隙間を歩いて行った。ビール樽がぶつかり合ってゴンゴンと鈍い音を立てていた。

白ビルと黒ビルの隙間の細道を抜けて黒いビルの一階が和さんの店だ。彩な。覚えているぜ。

店の前は幅3メートルほどの歩道でその向こう側は高さ2メートルほどの壁がある。その壁の向こうの4~5メートルほど下に遊歩道があり、あとは隅田川だ。

この店の前の歩道は吾妻橋から駒形橋まで続いているが二つの橋のたもとにはフェンスが設置されているので一般人は入ってこれない。つまりこの歩道に出入りできるのは沿道の建物の住人と、この細い通路を通ることが出来る者だけだ。

彩に目を向けるとカウンターの中の和さんは中華鍋を振りながら男と話し込んでいた。彩には入り口って物がない。当然暖簾もないし看板もない。じゃあなんで「彩」なのかと言えば和さんがそう言ったからだ。雑居ビルの一階の裏のシャッターが開いていたらそこが彩だ。もうすでに何かうまそうな匂いが漂っている。

彩の店内は・・店内って言ったらいいのか雑居ビル一階の物置って言ったらいいのかは、まあ微妙なところだが幅が7~8メートルくらい奥行きはそれよりも少し深いかな。向かって右側に和さんが収まるカウンターがあり、椅子は四つだけ。カウンターの外側の店の手前側にはビールサーバーと業務用製氷機が設置されていて、ここに来た客は自分でと言うか、まあ勝手にビールを注ぐし氷を取りだしていく。店の奥の壁には金属製の扉がありその奥は在庫置き場になっていて大型の冷蔵庫やトイレもある。オレが持って帰ることになるゴミも置いてあるはずだ。

とまあ小さい店だが、ここに来るほとんどの客は、奥の在庫置き場からパイプ椅子やビールケースを持って店の前の歩道に出て和さんの作る飯とエビス屋の酒を楽しんでいる。この目の前の道路も彩の店内と考えると結構広いかもしれないな。

ビール樽同士がゴンゴンとぶつかる音で気が付いていたんだろう、和さんはこっちに目を向けていて軽く頷いてちょっと待っていてくれと目線で合図をよこした。

和さんと話し込んでいるのは金髪で鼻の高い外国人だった。フランス人のピエールだ、見覚えがある。彩の常連の一人だ。五回は会ったことがあるはずだ。

しかしオレが1分も待つ前にピエールは和さんに軽く会釈をしてカウンターから離れてこっちに向かって歩いてきた。

「あ、えびすやさん、もちましょか?」ピエールの日本語のイントネーションには軽い関西訛りがある。

「いや、大丈夫だよ、ありがとう」オレがそう答えるとフランス人を絵にかいたような鷲鼻と金髪碧眼のピエールはオレが持つ大荷物で察したんだろう。

「はい。じゃあ、ぱーてぃーで、あーじゃんとぅ」と言い、小走りで細い隙間道へと消えていった。

あーじゃんとぅ。フランス語で「またね」とかそんなところらしい。ピエールはフランス人だからな、日本語が喋れても少しはフランス語を挟んでおきたいんだろう。たとえオレがフランス語が喋れないとわかっていてもだ。

そんなことよりオレは早いとこ、この肩に担いだ大事な荷物をカウンターに置いて安心したいんだ。

「おお?ナオキじゃねえか、キシはどうした?」

カウンターの中から真っ白なコックシャツを着た和さんが声をかけてきた。こんなチンケな居酒屋の大将ってのはさ大概なんでわざわざ白いコックシャツを着てるんだっていうくらい油やタレが跳ねてシャツが薄汚く汚れているもんだが和さんのコックシャツはいつも新品みたいに真っ白だ。見かけによらずキレイ好きなんだな。中華鍋で手羽先の一番先の部分を炒めているようだ。焼けた肉の香ばしい匂いが漂ってくるが、あんな殆ど肉の付いていない部位を食べるのか?何度も和さんの店に来ているがあんな料理を出されたことはないが。

で、ナオキって言うのはもちろんオレの事だ。そう、オレの名前は後藤直樹、レンゾは岸孝之。ドラグやレンゾって言うのはゲームの中のアカウント名みたいなもんだ。もちろん二人とも日本人だからな、ドラグやレンゾなんて本名のわけがないだろ。そして和さんの名前は松和宏。たしか、バブルを超えてきた56歳だ。一言でいえば昭和の男だ。身近に電子機器なんてものがない時代に生まれてファミコンやポケベルの誕生を目の当たりにしてそれがスーパーファミコンとなり携帯電話になり、いまやスウィッチとプレステ5とスマホになる経過を見てきたというのはどんな気分なんだろう。なかなか想像がつかないな。

「いや、今日はちょっと」オレは答えた。

「どうした?キシは怪我でもしたのか?」和さんが更に聞いてきた。

「いや、今日は気分を変えてって感じで。ここでいいですか?」ごまかすわけではないが、説明するのもなんか面倒だろ?賭けに負けたんでなんて言ったら「どんな賭けをしたんだ?」って聞かれるに決まっている。そうなったら東京サバイバーの説明から始める必要がある。和さんにこのゲームの話をしたところで分かるわけがないし、そもそも話すつもりもない。

「ああ、悪いなぁいつも」和さんはフライパンを振りながら首を小さく縦に一回二回と振って答えた。フライパンを振るたびにジャージャーと鳴る肉の焼ける音がすでに旨そうだ。まあ和さんが作っているとはいえ食うところのなさそうな手羽の先っちょはあまりうまそうには見えないが。鳥の骨をしゃぶるのが好きな中国人にはウケるのかもしれないけどな。

「食うんスか?」

フライパンを覗き込みながらオレが聞くと和さんは(これを?)と怪訝そうな表情をして「食うわけないだろ」と言った。

「食いたいのか?」

「いや、いいです」今度はオレが怪訝そうな顔で答え、肩に担いだケースをカウンターに置いた。ビール樽はカウンターの手前、ビールサーバーの下に置いた。

「一個は奥でいいスか?」ビールサーバーの下に二つも樽があっても邪魔なだけだからな。

「ああ、頼む。なんだ、キシは具合でも悪いのか?」和さんがフライパンを振りながら少し心配そうに聞いてきた。だが気分を変えてっていうのは気分が悪いって意味じゃあない。

しかしあれだな。いつも思うんだがなんで和さんはオレの事は下の名前でナオキって呼ぶのにレンゾの事はキシって名字で呼ぶんだろうな。後藤直樹ならゴトウでもいいし岸孝之ならタカでもいいだろ?

和さんに聞いたことはないがレンゾには聞いてみたことはある。レンゾが言うには

「お前はゴトウって言うよりナオキなんだろ。で、オレはタカって言うよりキシなんだろうな」とのことだ。なんとなく分かるようで、イマイチわからん。いや、全くわからないな。

和さんがオレの事を下の名前で呼ぶのはオレの事をレンゾより親しく思っていてくれてるってことなのか、レンゾの事を名字で呼ぶのはオレに対するよりレンゾに少し多めに敬意を払っているからなのかはわからない。だからと言って和さんを問い詰めて確かめてみようって気にもならないがな。

世の中ってもんは何でもかんでも白黒つけておくより、少しくらいわからないまま残しておいた方が上手くいくってもんだろうし何より、その方が楽しいだろう。

「いや、あいつはトラックで本を読んでますよ。あいつがどうしても読み終えたいって言うから、今日はオレです」

「本?」和さんが聞き返す。

「ええ、統計学の本らしいです」オレがそう答えると和さんも

「統計・・・学?」酒屋が?とでも言いたげに眉をひそめた。

だよな。そうなるよな。学者でもなければ大学院生ですらないのに何が楽しくて統計学とやらの本を読むのかなんて誰もわからないだろう?オレには分からない。和さんにだってわからないだろう。

まあそんなことはどうでもいい、間違えないように仕事を済ませないとな。

オレはビールサーバーの前に置いた樽からフックを外し革ベルトをポケットに突っ込んだ。ベルトを外した樽を一つ持ち上げて店の奥に進んだ。

扉を開けると大型の業務用冷蔵庫がブーンとうなりを上げていた。缶ビールが詰まった段ボールや空になったビール樽、サワービンが入ったケースに瓶ビールが入ったケースなどが置いてある。ポリバケツの中のビニール袋には生ごみが詰まっていた。薄暗かったが邪魔にならないところに樽を一つ置くだけ、わざわざ照明をつける必要はないだろう。

倉庫の右手に階段がありその下にトイレがある。倉庫の左壁の向こうにはエレベーターがあるがここからは入れない。奥にはシャッターがありシャッターの向こうは道路だ。その道路にはエビス屋のトラックが止まっているはずでその中ではレンゾが読書中だろう。そう、統計学の本な。

オレは倉庫から出るとカウンターに置いたプラスティックケースに歩み寄った。

「結婚パーティー開くんですって?とりあえず適当に日本酒とかウォッカ持ってきましたけど」

「まあ一服喫けて行けよ」和さんがアルミ製の安っぽい灰皿をカウンターに置きつつ、オレがプラスティックのケースから取り出す酒を吟味するように見ていた。そう、ここは昭和の男の店。健康増進法なんてクソくらえ、実に、実にいい店だ。ただハリウッド映画に出てくる警官みたいにタバコの吸い殻を指で弾き捨てたり道路に落として靴で踏み消したりしたら、それがバレた瞬間から和さんのバカみたいにうまい料理を口にすることは二度と出来なくなるが。

「あとプレゼント用のシャンパンですね」

オレはプラスティックのケースから二本のシャンパンを取りだしラベルが傷つかないように慎重に緩衝材を止めた養生テープをはがした。

ラベルに傷一つついていないことを確認して白と赤のボトルを右手に、黒と金のボトルを左手に持って和さんに示した。

和さんがまた眉をひそめた。

そして「うん・・?」と軽く唸ってからコンロの火を消した。オレはカウンターに二本のワインを置き腰袋からクールブースト(わかっているだろうがタバコの銘柄だ)の5ミリ取り出し一本抜いて口にくわえた。

和さんは何も言わず眉をひそめたままカウンターに百円ライターを置いた。オレがライターを持っていないのを知っているからだ。

前はオレがライターを借りようとするたびに「お前はタバコ吸うのに何でいつもライターを持っていないんだ」って咎めるように言ってきていた。

でも少し前からはライターを出しながら「もういいから持って行けよ」って言うようになった。でもオレはたかが百円を惜しんでライターを持たないわけじゃないんだ。ただ持ち歩かないってだけだ。ライターを持ち歩く、そういう習慣がオレにはないんだ。

そんなわけで今じゃ和さんはオレがタバコを出すだけで何も言わずにライターを出してれる。因みに和さんはタバコを吸わない。数年前に止めたらしい。

和さんは中華鍋の中身を大きなアルミ鍋に移した。鍋にはタレか何かが入っていたようであの皮と骨だけの先っちょが鍋に落ちるとドボドボと音を立てた。

和さんは中華鍋をコンロに置いてオレが持つシャンパンを見ながらもう一度「うーん・・」と唸ってから聞いてきた。

「それはキシが選んだのか?」

オレは「そうですよ」と答えつつ口にくわえたタバコのフィルターを一嚙みしてからライターで火をつけた。

和さんの表情は、いつも破格と言っていい値段で酒を提供してくれるエビス屋に対するものではなかった。これはレンゾが何かやらかしたのか?

オレは酒の知識なんてほとんどない。酒なんてフランス産ウォッカのピナクルと、濃縮果汁じゃあないストレートのレモンジュースと炭酸、あとはたっぷりの氷があればいい。大きめのグラスも必要だな。それかジンとカロリーゼロのコーラだ。コーラはキリンのメッツかペプシの生ゼロ、ジンはなるべく高い奴ならなおいい、高い方のボンベイなら最高だし、タンカレーも捨てがたい。

しかしレンゾのやつの酒の知識はオレから見ればお前は酒マニヤかよって言うほどだ。ワインやシャンパンにも詳しいし、日本全国のマイナーな日本酒やレアな焼酎にも詳しい。最近じゃ地方の小さなクラフトビールにまで目を向け始めている。オレから見れば違う意味でのアルコール中毒だ。元からそうだったわけではなく、エビス屋で働くにあたって猛勉強してくれたらしいけどな。なんともありがたいことだ。酒なんて何を飲んでも1時間後にはトイレでレバーをひねれば流されちまうもんなんだぜ。

でも、そんな勉強熱心なレンゾが和さんの店で開かれる結婚パーティーのプレゼントっていう一番大事なところでやらかしたのか?いや、だからといってニヤ付くのはマズいぜ。

「キシは和さんに選んでもらえって言ってましたけど」オレは何かまずことでもという風に少し首をかしげながら二本のワインに目を向けた。

「うん、まあモエだろ」和さんが答える。

確かにそうだな、結婚パーティーだからな。この白とピンクっていういかにも女の子が喜びそうなラベルのシャンパンは最適だろう、ゲイ同士の結婚なら知らないがな。だけど、和さんが「おめでとう」とか言いながらこのボトルを差し出すところを想像すると少し笑っちまうかもしれない。

なんせ和さんはデカいからな。身長はブーツを履いているオレより10センチくらい高い。おそらく190センチを超えるくらいかな。でも和さんがデカいのはどっちかと言うと縦より横にだ。

一年ほど前だったか、和さんが「大台に乗っちまった」って言ったんだ。

普通に考えれば100キロ超えたんだろうって思うところだが、そんなことを言う和さんはどう見ても100キロなんてとっくに超えていた。

つまり和さんがいう「大台に乗った」って言うのは、和さんがようやくあきらめたってことなんだろう。

105キロなら服と晩飯のせいかもしれない。110キロだったら少しダイエットすればすぐに「100キロに戻る」かもしれない。だが120キロだったら?もうどうしようもないだろう。もう二桁には戻らない。そう思った和さんがついに「大台に乗った」と認めたんだろうって言うのがオレとレンゾの共通の見解だ。

そして和さんは「大台に乗った」時よりさらに大きくなっているからな。

大台に乗った時の和さんが狭いカウンターの中を所狭しと動き回る姿は、回し車の中で走る太ったハムスターみたいだったが、今の和さんは彩のカウンターにピッタリとハメこまれたジグソーパズルの最後のピースみたいだ。彩と言うジグソーパズルに和さんという最後のピースがピッタリとハマると彩が完成してうまい飯が出てくるって寸法だ。

そんなデカい和さんが白とピンクの可愛いシャンパンボトルを掲げて「おめでとう」なんて言う姿はちょっと想像がつかないってもんだろ。和さんには4リットルの大五郎の方が似合うってもんだぜ。まあそんなことは文字通り口が裂けても言えることじゃあないけどな、もし言ったら本当に口が裂かれちまうかもしれないぜ。


和さんが、焼いた手羽の先っちょを入れた銅の鍋が乗ったコンロの火をつけた。そして黒と金のラベルのシャンパン、ベイブを指さして言った。

「それは本当にキシが選んだのか?」

和さんは軽く睨みつけるような顔だ。これはレンゾのやつがやらかしたのか?一生懸命に酒の勉強をして二万もするドイツワインを仕入れているのに、ここ一番大事なところでやらかしたんだろう。オレは一応弁明するような顔で言った。

「和さんは白い方を選ぶだろうって・・・」

「ああ、そりゃあな。そりゃあそうだろう。でもこっちはなあ・・。キシが選んだんだよな?」

これは間違いなくレンゾがやらかした。和さんは、少し大袈裟かもしれないが、お前らはなんでこんな物を持ってきたんだって言う苦い顔で黒と金のラベルのベイブをもはや睨みつけている。プレゼントを頼んだのに生ゴミを渡されたとでも言いたげな顔だ。レンゾ、これはマズいんじゃないか?

「そうですよ、白い方は和さんからのプレゼントで、黒い方は客からのプレゼントって事にしましょうって言ってましたよ」

「客から?モエはオレからで、ヴーヴは客からって言ったのか?」

「ええ、そうです」

「ああ、そういう事か。そういう事なら先に言えよ」

和さんは小さく頷くと右の目尻を下げて右の口角をわずかに上げた。マンガだったら右の頬の横に【ニヤリ……。】なんて字が書かれそうな顔だ。

ん?おかしいな。レンゾがやらかしたんじゃないのか?それに先に言えも何もまず和さんに選んでもらわないといけなかったからな。でもなんだ?どういうことだ、レンゾがやらかしたどころか、なんか……。

オレはタバコを持った左手で黒いボトルをさして「何かマズかったですか?」と聞いてからタバコを一吸いした。

「そりゃあなあ、マズいだろ」そういう和さんの顔はまんざらでもないと言っていた。

「ベイブって、そんな悪くないと思うんですけど」

「お前・・」和さんは黒いボトルを軽く一瞥してから言い添えた。

「これはベイブじゃなくてヴーヴだ。まさかとは思うが、これは赤ん坊って意味じゃないぞ」

「え?違うんですか?」

和さんは今度は左の口角を歪ませて言った。

「お前はもう少し酒の勉強した方がいいな」右の口角を上げてニヤつく人は、左の口角を歪ませて咎めるような顔をする。なぜだかはわからないがオレの経験上ではそうだ。

「酒は飲む物で、知る物じゃないですよ」

オレは和さんがカウンターに出した昭和の頃から使ってそうな薄くて安っぽいアルミの灰皿に煙草の灰を落とした。灰皿が小さくカランと音を立てた。

「そりゃあまあ、酒は飲むもんだよ。そうだけどな、お前は酒屋だろ。酒は飲むモンってより前に売るモンだろ?俺だってそうだ」

確かにそうだ。そういわれちゃあぐうの音も出ないな。だけどさ、言い訳になるけどウチの客は一年通して同じ注文しかしてこない客ばっかりだからな。ほとんどの客は週にスーパードライの樽と、チューハイサーバーの補充用の樽を2つずつ頼んでくるだけだ。おそらく今後十年たっても同じ注文をしてくるだろう連中しかいない、死んでなけりゃな。

たまに、本当にごくまれに何か変えてみようかななんてことを言ってくる客もいるが、言ってみただけだ。具体的なことは何も言わない、何をどう変えればいいかなんて分かっていないからな。口だけなんだ。本当に変える気なんかこれっぽっちもない。

まるでビールの銘柄が悪いから売り上げが伸び悩んでいるかのような口調で言ってくるが、もちろんそんなことはない。ビールの銘柄を買えたくらいでヨボヨボの年寄りが一人でやっているような居酒屋に新しい客が殺到することなんてない。そもそも万が一にでも千客万来と客が殺到してもそれに対応する力量もない、あるわけがない。それは本人もわかっているはずだ。なんとなく言ってみただけ。細々とやっていることを誰かのせいにしたいだけで、結局は何も考えていないんだ。

心のどこかでは、魚屋が持ってきた安い切り身を適当に切っただけの刺身と、業務用パックのモツ煮に適当に根菜を足した物、市販のタレで焼いた焼き鳥を出すことだけが自分たちの唯一の売りだってことはわかっているんだろう。

つまり今までと同じ、そして死ぬまで変わらないってことが彼らの売りであり、そこに通う少ない客も死ぬまで同じものを求めているのってことは心のどこかで分かっているはずなんだ。

年齢を重ねるたびに人の価値観はドンドン硬くなっていくもんだ。ガチガチに硬くなった価値観は僅かな変化にすら対応することができずに苦痛を感じるようになるんだろう。

そんなガチガチで無価値な石ころみたいな価値観を大事にしている年寄り連中を相手にビールの銘柄を変えるなんてのははっきり言って自殺行為だ。

夏はアサヒのスーパードライ、冬はエビス。そんなことを言ってくる客は和さんだけだし、エビスビールの期間限定ビールの試飲を要求してくるのも和さんだけだ。和さんのお眼鏡にかなった限定ビア樽は今のところ琥珀エビスだけだったが。ジンもウォッカもワインも、何を薦めても和さんはちゃんと試飲してどの酒を自分の店に置くかをちゃんと自分で決める。当たり前のことに思えるだろうがこんな当たり前のことをするのはウチの客の中では和さんだけなんだ。

自分の料理に自信を持っているからこそ、それに合う酒も十分にきちんと吟味する。

もちろんそれだけじゃない。とある新商品の国産高級クラフトジンを薦めた時、和さんは舐めるように口にすると考える間もなく断ってきた。このジンは値段が張るだけに品質は抜群で、和さんの料理に引けを取らないはずだと思ったオレとレンゾ二人のお薦めだったから食い下がってみたんだが和さんは一言「これ、高いんじゃないか?」と言っただけだ。

これは一つは客に、もう一つはオレ達に言ったことだろう。

オレ達は和さんの店に関しては採算度外視でやっている。和さんの店だけはハッキリ言ってほぼ仕入れ値で卸させてもらっている。トラックのガソリン代すら取れていないだろう。しかし和さんの店ではバツグンに美味い飯が食えるって言う見返りがあるからな。オレとレンゾはこれは大きすぎると言ってもいいほどの見返りだと思っている。

しかし和さんも、オレたちが彩で儲けを出していないことをわかっているんだろう。だからこそ高い酒は遠慮するんだろう。

そしてもう一つ。和さんの店はこれ以上ないってくらいの明朗会計だ。具体的に言うと入りで千円、帰りで千円だ。

白と黒のビルの間の細道を通って彩に来た客はまずカウンターに置かれたボックスに千円入れる。そして好きなだけ飲み食いしたら帰り際にボックスにもう一度千円入れる。ただそれだけだ。

まあ彩にはメニューってもんが無いって難点はあるがな。そうだとしてもハッキリ言って格安だ。和さんの作るキャベツと豚肉だけの味の素がたっぷり入ったバツグンに美味い汁っぽいソース焼きそばだけでも千円の価値はある。そこで生ビールの二杯ものんだら二千円じゃ釣りも出ない。そんな店で4千円を超す国産高級クラフトジンを置くわけにもいかないんだろう。

要するにオレが酒を知る必要があるほどの客は和さんしかいないってことだ。それならレンゾが上手くやってくれるはずだ。オレの仕事はトラックの運転だからな、今日だけは違ったわけだが。

しかしそんなものはくだらない言い訳だよな。

酒屋が酒の事を知るってことは至極当たり前のことだよな。和さんが言ったことは仕事への取り組む態度。大げさに言えば人の道ってやつだろう。もしかしたら和さんはオレが他の客にもこんな雑な態度を取っているんじゃないかと心配してくれたのかもしれない。

誰もオレに酒の知識なんか求めちゃ来ないなんて言い訳どころかただの屁理屈だろう。

「・・・そうですね。」オレは素直に言った。そしてタバコを灰皿に押し付けた。灰皿がカラカラと安っぽい音をたてた。オレはタバコの火が消えたのを確認して再び奥のドアに向かった。ドアを開け倉庫の中のコダマのプラスティックケースからサワービンを一本取り出しカウンターに戻りベルトループからカラビナを外しバイクのカギをひねってサワービンの栓を開けた。

ビンの中身はいかにも身体に悪そうなピンク色の液体だったがこれは焼酎に入れて飲むもんだからな。

ウメ味のサワービンに口をつけ一口飲んでからタバコをもう一本取り出し火をつけた。

黒いラベルのシャンパンを見つめながらタバコを一吸いすると和さんが言った。

「まあ、いつも助かってるよ、こんな面倒な頼みもホントうまくやってくれるしな」

両手を腰に当てふつふつと炊き上がり始めた鍋を見ながらいった和さんの言葉はどこか慰めるような口調だった。

ん?まさかオレが凹んでいると思われたのか?いや待ってくれオレはバツの悪そうな顔でもしていたか?してないぞ。そんなつもりは全くないぞ。同情される謂れは全くないぞ。話題を変える必要があるな、今すぐに。

「そういえばだれが結婚するんですか?」

「あ?ああミズ・サキだよ」

「水・・崎?」

彩の客はたいてい知っているが、そんな名前のやつは覚えがないな。ここに来る客の99%は外人だからな。残りの1%はオレとレンゾ。あとはこの彩が入っているこのビルの最上階に住んでいるジジイくらいだ。

あのジジイがこのビルの一番上に住んでいるってことは、まあビルのオーナーなんだろうな。つまり彩の大家なんだろう。

何度か見かけたことはあるが、いかにも偏屈そうな年寄りで、彩で見かけた時は外人に囲まれ居心地悪そうに酒を飲んでいたんだが、場違いなのはオレじゃなくてお前らだとでも言いたげな態度をとっていた。たまに酔っぱらってフラッと迷いこんで来る日本人をやんわりと追い出す和さんもこの年寄りには何も言わない。大家だから仕方が無いんだろう。

あのジジイが水崎って名前なのか?見たことろ70は軽く超えてそうだが。まあ百歩譲ってあの年寄りが結婚するとして、あと何歩譲れば和さんがあの年寄りにシャンパンをプレゼントするんだ?ありえないだろう。

「水崎・・?そんな奴いましたっけ?」

「おいおい、ミズ・サキだよ。知ってるだろ」和さんが呆れるように答えた。

ミズ…サキ…?

「ああ!サキタン!?」

「ミズ・サキだよ」和さんが軽く舌打ちしながら言った。人の名前は正しく呼ばないとな、オレはやらないが。

「ええ!?サキタン結婚するんですか!?うわあ超ショックだわぁ・・えぇ・・マジっスかぁ?」

「なんだお前狙ってたのか?」

「いや、まさか!でもそんなのここに来てるやつ全員ショックでしょ?」

「かもな」
和さんはおそらく結婚している。だいぶ前だが左手の薬指に指輪をはめているのを見たことがあるって岸のヤツが言っていた。でもオレは見たことが無い。それは離婚したからなのか、死んじまったからなのかは分からない。サイズが合わなくなったからって言うなら笑い話にもできるんだけどな。
いや、笑い話には出来ないか、そんなことを言ったら代わりにオレの指をもぎ取られそうだ。
でも和さんに嫁さんがいるのなら、たまには手伝いに来ても良さそうなもんだろ。でもそんな女性は見たことが無い。

しかしサキタンが結婚するって言うのはマジでショックがデカい。レンゾは知っていたのか?だがレンゾが知っていようが知っていまいがサキタンの結婚相手はここ彩の客のほぼ全員から妬まれ、恨まれ、そして羨ましがられ、憎まれるだろうな。

オレに言わせればサキタンは映画館のスクリーンかテレビ画面に映し出されるのを見る女性だ。日本の浅草の裏影で目の前に隅田川と言う大きめのドブ川が流れているこんなショボい居酒屋でしか見たことが無いってのが不思議なくらいだ。許されるなら一日中どころか一週間、いや死ぬまで眺めていたい。

サキタンはヨーロッパの美術館に飾ってある芸術品のようだ。オレに言わせればサモトラケのニケの生ける復元図だ。安い蛍光灯の光に当たっているだけでも美しく輝くブロンドヘアーは肩甲骨のあたりまで伸ばしている。ブロンドとは言っても金髪と言うより白銀のように輝き実際プラチナブロンドと言うらしい。あの、まさに宝石のような髪を切り取ってネットオークションにでも出したら白金より高く売れるだろう。

B?いやCカップの巨乳とは言えない程よい大きさのバスト。きっと形もいいだろうそのバストの下のウェストは軽く美しくくびれ、そのウェストが乗るのはこじんまりとした控えめでキュッと引き締まったヒップ。身長は残念ながら170センチはなさそうだがその身長の半分を占めていそうなほどすらりと伸びた足。全盛期のエマワトソンが少しだけがっちりしたようなプロポーションだ。だがスカートをはいているのは見たことが無い。その足はいつも膝がキュッと締まっているジーンズで隠れている。が、オレからしたらそれがいい。そして旅行者らしくゴツ目のトレッキングシューズを履いている(できれば編み上げのロングブーツだったら最高なんだが歩くのには向いていないだろうな)つまり彼女のプロポーションはため息が出るくらい完璧だ。オートクチュールのファッションショーで出てくるモデルように爪楊枝のような細い体ではなく、トレッキングシューズを履いて外国を旅する程度に筋肉質だからだ。肩から指先まではマルーン5のシュガーのミュージックビデオの最初に出てくる花嫁の腕、もしくはニケ像から拝借してきたかのようだ。肌は最高級の白磁のように白く血の色が赤く透けないのが不思議なくらいだ。

そんなため息をつくしかない身体の上には同じ人間なのかと思うほど小さな顔が乗っている。定規で線を引いたようなきれいな鼻筋は高すぎず低すぎず完璧な角度ででこじんまりしていてアヴリルラヴィーンのようなたまらなくキュートな鼻だ。もし美容整形でこの鼻を再現できる医者がいたら億万長者になれるだろう。そしてテイラースイフトのような濃い色の口紅を引くことはなくいつも淡い色のリップを塗っただけの唇は死ぬまでに一度は口にしてみたいデザートのように魅力的だ。ビリーアイリッシュのように太めの眉は髪の色よりはやや濃い金色。その眉が守る瞳はアマンダセイフライドのようなエメラルドグリーンより少し濃い緑の翡翠がはめ込まれているようだ。もし彼女が「実は私は水の妖精なの」と言ったらオレは「森の精霊じゃなかったんだ」と思うだろう。

そんな彼女が結婚するとなったら人類の半分が落胆し、彼女の横に立つ(おそらく)男を羨む事だろう。彼女の横に立つのが女だったらまだ諦めがつくってもんだよな。

でも、オレがそこに立ちたいかと聞かれたらそうでもないと答える。

というのも彼女は自分の意見は出し惜しみせずにはっきりと言うタイプで、彩で見かけた時はいつも誰かと激しく議論を交わしていた。いわゆるリベラリストで飛行機で世界を旅する、つまり過激と言うほどではない程度のエコロジストだ。そして和さんとも一度やりあったことがある(これは彩の他の客に聞いた話だ)くらい日本語を使いこなし、さらに旅行に差し支えがない程度なら8カ国か9カ国を話せるらしい。更に女性の地位向上による男女平等を目指しているフェミニストでもちろん反トランプ派。クリントンでなくトランプやバイデンがアメリカ大統領になったことに少し落胆し、世の中で一番嫌いなものはヒトラーと差別と暴力と言うタイプの女性だからだ。

これでフランス人でヴィーガン、上半身裸でデモをするような女性だったら中身も外見もパーフェクトな片翼の天使、両腕を取り戻した代わりに右の翼を失ったニケ像と言ったところだが、残念ながら彼女はスウェーデン人だし、世界中を旅した中で一番好きな料理は和さんが焼き上げる焼き鳥らしい。

つまり彼女は死ぬまで眺めていたいタイプの女性であっても、その横で一生を添い遂げたいと思うような女性ではないってことだ。少なくともオレにとっては。

そうか、そういう事か。

「ああ、それ焼き鳥のタレ作ってるんですね。サキタンの為に」

「足りなくなれば作るだろうが」和さんはゆっくりとかき混ぜる鍋を見つめながら憮然と答えた。

まあそうとも言うな。和さんの店で食えるメシはどれも最高に旨いがその中でも焼き鳥は確かに絶品だからな。万が一にもタレを切らすわけにはいかないな。まあそういうことにしておこう。

和さんの店で焼き鳥って言ったらタレだ、塩はない。和さん曰く「鶏肉を塩で焼いたらそれは鶏の塩焼きだろ、焼き鳥じゃあない」とのことだ。

たしかに和さんの作るタレの付いた焼き鳥を食ったら「塩で」なんていうヤツはいないだろう。あのべらぼうに旨いタレの秘密は手羽の先っちょを焼くことにあるんだろうな。

スウェーデンの森の中から現れた妖精のようなサキタンが、串を手にして甘辛い絶品のタレが絡んだ焼き鳥を頬張りながらさ、初めて彩に来た外人客にタレが絡み程よく焦げたネギの美味しさを熱く語るのはこれ以上ないくらいシュールだ。

あれほど焼き鳥を食べる姿が様にならない人もいないだろうな。焼き鳥の串を手にする姿が似合わない人がいるなんて笑えるほどだぜ。でも、あれほど焼き鳥を美味そうに食べる人もいないんだよなぁ。見ているこっちがたまらなくなるほどだ。

「サキタン、和さんの焼き鳥大好きですもんねぇ」思わずニヤ付いちまう。

「ミズ・サキだろ」

「はいはい、焼き鳥好きなミス・サキですね」

「お前もう………お前、キシが待ってるんじゃないのか?」和さんは「・・もう帰れよ」と言いかけて代わりにバツの悪そうな目を向けて来た。

「まぁキシは読書中なんで、ゆっくり読みたいだろうし」

と答えたところでポケットの中のスマホが振動した。手に出してみるとスマホの通知ランプが赤く光っていた。これはマズい、早く戻ったほうがいい。これ以上和さんをイジるのはやめたほうがいいだろう。

「で、パーティーはいつなんです?」

「あぁ、ミズ・サキから昨日大阪に着いたから明後日か明明後日に東京に来るって連絡があったな」

「じゃあ残りの酒はその時でいいですね」

「そうだな、助かる。」

「キシに何か伝えておくことあります?」

「いや、日付とかわかったらメールするから」

「わかりました。あとその桐の箱、シャンパンのラッピングにどうですか?」

「これか・・?」和さんは(これを?)って顔をしていたが、それだけ聞いたらもういいだろう。オレは二本目のタバコを灰皿に押し付けた。

「じゃあ空樽とゴミ持っていきますよ」

「あぁ、いつも悪いな」

オレはコダマのサワービンの残りを一息に飲んで倉庫へと続く奥の扉をもう一度開けた。

空になったビンをケースに戻しポリバケツからゴミの詰まったポリ袋を取り出した。ちゃんと二重になっている。ゴミと空のビール樽を手にして再び倉庫から出た。

「毎度!パーティー楽しみにしてますよ」オレはそう言って黒ビルと白ビルの間の細道に向かいトラックに急いだ。

背中に和さんの声がかかった。

「いつもありがとうな」

こちらこそだ。「毎度!!」

ビルの間の細道を抜けると、エビス屋のトラックが止まっていた。そりゃあそうだろう、消えるわけない。

しかし、その後ろには白と黒に塗られた車。パトカーが止まっていた。大ピンチだ。


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