第四十二話 太陽軒

「なにか食いに行こうぜ」
信号でトラックを止めた後藤が言った。
後藤が珍しいことを言ったので岸は少しばかり驚いた。
「佐川のじいさんのアレでだいぶ時間取られたし、今から晩飯作るのもなぁ」
岸は本のページの端を少しだけ破り折り込むとを本を閉じダッシュボードに置いた。時間はもう18時を少し過ぎていた。確かに佐川が死んだことで和さんの店で刑事に事情聴取をされだいぶ時間を取られた。あの渡部という年かさの刑事は終始とてもにこやかで「申し訳ないですけど・・・」と言った口調を崩すことはなかった。だから・・というわけではないが俺たちは根掘り葉掘り聞かれても丁寧に答えたつもりだ。そのせいでかなり時間を食った。
今から買い物をして店に戻ってから食事を作るとなると下手をすると岸がテーブルに呼び出されるのは20時を過ぎていても不思議じゃない。俺は「たまにはカップ麺でいいか?」と聞かれても、むしろたまには食べたいと思っているくらいだし、後藤の奴だってカップ麺の類はよく買ってくる。アイツが好きなのは日清の焼きそばUFOか、容器が丼型になっている豚骨以外のラーメンだ。
「安かった」とか主婦みたいなことを言って買ってくるんだがアイツは滅多に食わない。結局は夜にオレの小腹に収まることになる。あいつはカップ麺をそのまま食うってことをしないからな。
UFOを食う時はヤカンで湯を沸かす横にフライパンを置き荒千切りにしたキャベツや微塵切りにしたソーセージを炒めている。カップラーメンを作る時は鍋に湯を沸かしてキャベツを茹でながら冷凍してあった自家製の肉味噌を電子レンジで解凍するんだ。
なあ、カップ麺なんてお湯を沸かすだけで食えるってのが一番「オイシイ」んだろ?そこまでするなら普通に焼きそばでもラーメンでも作ればいいじゃないか。俺はそう思うし誰だってそう思うだろうし、後藤もそう思うんだろうな。だからあいつは滅多にカップ麺の類を食う事はない、夜中に酒を飲みながら食うカップ麺ほど美味い物はそう無いと思うんだけどな。後藤は夜に小腹がすいたら代わりに酒飲んで誤魔化せる奴だ。
だがキッチンの棚には必ずUFOがストックされている。たまに小腹が空いた夜に俺がその棚を漁って食う事になるわけなんだけど、賞味期限をチェックして選んでいるとどこか複雑な気分になる。

「俺は良いけど、どこにするんだ?何か食いたい物でもあるのか?」
キッチンでの当番を交わすために岸が外食に誘う事はあるが後藤から言ってくるのは珍しい。
「何か食いたい物って言うか、あるか?」後藤が聞き返すが何でもいいと返すのは少しも面白くない。
それにもう二日酔いは覚めたとはいえあまり重たいものは食いたくないので焼き肉なんかかなりきついな。昨日の今日で和さんの店に行くのもなんだしな。今日はドトールに寄ったしパンやピザも遠慮したい。
「ピザと焼き肉以外がいいかな」
「そうだな・・」後藤は言いかけたが信号が変わりトラックを発進させた。
「重いものはまだつらいか?」
「ああ、辛いってわけでもないし、あっさりとしたものがいいって程じゃないけど、焼き肉は無理だなぁ」
岸は分かっている。後藤が外で飯を食おうなんて言うってことは行きたい店が、食いたい物が決まっているんだ。そして後藤の「外で食いたい物リスト」に焼き肉が入っていることは絶対にない。
後藤みたいに手際よくあれこれ料理するような奴からすれば焼き肉なんてもんに高い金を払うなんてアホらしいんだろう。後藤曰く「肉を焼くだけだぜ」そりゃあそうだ。焼き肉のタレだってスーパーでそれなりの値段の物を二つ選べば誰でも簡単に秘伝のタレが出来ると後藤は言う。
後藤の行きたい店は決まっているのだ。だけど「なんでもいい」は良くない。一人で決めたって言うのは心のどこかに後ろめたさを残すからだ。だからあえて、選ばれないと分かっていて「焼き肉以外で」と一言足すのが大事だ。
たかが晩飯だ、そんなに必要以上に気を使う必要はないんだが二人で生活している以上、そう言うことまで気に留めておいた方が上手くいくってことだ。ただの酒屋ならそんな些細なことは気にしなくても良いだろう。
けど俺たちはただの酒屋じゃない。

「太陽軒はどうだ?」後藤が言う。まあ予想は付いていた。後藤が自分から外に飯を食いに行こうとするのは聞きたいほどの「料理の秘訣」って物がある店だ。後藤は自分にはまだ作れない、自分でも作ってみたいと思う料理を出す店にしか興味がない。もちろん一番は和さんの店だが、洋食なら門仲のヴェニーア、中華なら北浅草の太陽軒だ。
太陽軒の中華は確かに旨い。大体中華屋ってもんはこの店の一押しは「コレ!」ってメニューがあるもんで、同時にいくつかのハズレメニューもある。こんなもん誰が頼むんだよって言いたくなるような業務用の缶詰を温めただけのカレーとか、乾し肉で作ったのかって言いたくなるような1400円もする酢豚とかだ。分かりやすく言えばラーメンの旨い中華屋は炒飯がベッタリとしていて不味いんだが、炒飯の旨い中華屋は「ああ、これな」と言いたくなる業務用の中華出汁を溶かして醤油か味噌を混ぜただけのラーメンを出してくるもんだ。
だけど太陽軒にハズレメニューはない。炒飯は旨いしラーメンも旨いし定食も実に旨い。
だから俺はいつも違うメニューを頼むんだが後藤の奴の選択肢は実に少ない。アレが喰いたいんだろ?
「太陽軒か、いいな!」岸はわざと少し大げさに同意すると後藤は喜んだように「よし!」と呟いてからトラックのハンドルを切った。

トラックをコインパーキングに止め太陽軒に着いた二人はまずは酒屋としての仕事をこなす。仕事と言ってもビア樽とチューハイ素のボトルを運ぶだけだったが。
岸がビア樽とボトルを手に後藤が開けた戸をくぐり「いらっしゃい!あらエビス屋さん」とすぐに声をかけてきた陽花おばあさんに二人で会釈をする。
「おう、酒屋か!丁度良かった、一本空になったところだ」太一爺さんがビールサーバーを顎で示した。
岸はカウンターに入りビア樽を交換する。
「明日かと思っていたんだけどな。こんな時間に珍しいな」
太一爺さんは「食っていくのか?」とは聞かない。後藤の奴も来ているからだ、ビア樽の交換だけなら岸だけでいいし酒屋の仕事だけでこんな時間に来ることはないからだ。
「ええ、ちょっとあいつが来たいって言うもんで。あれ、残ってます?」
「ああ、無くなりゃしねえよ」太一爺さんは口角を上げかすかに鼻で笑った。
「空樽は帰りに持っていきますんで」岸が答えカウンターを後にする。
和さんは若い頃に昭和の東京に来てそれに染まった江戸っ子だけど、太一爺さんは生まれも育ちも浅草って言う筋金入りの江戸っ子だ。
どう違うんだ?と聞かれても答えられないけどな。

席に着いた後藤と岸はメニューに目を通す。
「オレは五目炒飯だな」と後藤は岸の予想通りのチョイスをする。後藤が太陽軒で頼むものと言ったら五目炒飯だ、まれに五目湯麺。
「俺は台湾ラーメンだな」岸も決めるが30代の男二人だ、当然だがこれで済むわけがない。そこで岸は新メニューを見つける。
【橙汁炸肉】
だいじるさくにく?岸がメニューを指さし戸惑っていると太陽軒に住み込みで働く台湾女子の楊が目ざとくそれを見つけて寄ってきた。
「チャンジーチャオロウね、美味しねー」
メニューの部分は本場の台湾人なのに日本語部分は相変わらずのカタコトだ。何年も前に日本にやってきたこの台湾の女の子がすでに日本語学校に通う必要がないくらいに流暢に日本語を操ることは二人とも知っているし、実際、もう学校には通っていないらしい。この女の子が客からチップを貰っているという話を聞いて「カタコトのふりをしていればもっとチップを稼げると思うよ」とアドバイスしたのは他でもないエビス屋の二人なのだ。
日本人は一生懸命な人が好きだし、日本が好きな外国人が好きだし、可愛い女の子はもちろん大好きだからだ。
この可愛らしい女の子は「カタコト」を武器にだいぶ荒稼ぎしていているらしい。
まあ岸も後藤もこの台湾から来た楊恵華と言う女の子が好きだった。彼女のおかげで太陽軒に来るたびに新メニューが増えているからだ。そして今日もあったわけだ。
岸は台湾ラーメンとチャンジーチャオロウとやらを迷わず頼んだ。
「ゴトさんはー?」催促というほどではないが楊が言う。
後藤はと言うと・・。
「五目炒飯と・・・うーん・・・。餃子と春巻きと焼売ならどれがいい?」と岸に助けを求めてきた。
岸は即座に楊に顔を向け答えを求める。
「焼売ねー」楊が答えたのはおススメと言うより今日の在庫の数なのだがもちろん後藤は素直にそれを受け入れる。太陽軒の餃子はもちろん、ケチャップが添えられる春巻きも旨いし和辛子の付いてくる焼売も抜群に旨い。だが多くの日本人はフワリと蒸された焼売よりカリっと焼かれた餃子やパリッと揚げられた春巻の方が好きだからな。一度、太一爺さんに「餃子と春巻と焼売を二個づつくらい乗せたセットなら売れるんじゃないですか?」と言ってみたことがあって太一爺さんも頷いて、点心三種盛りがメニューに追加されランチタイムでは好評のようだが売れ行きはそれほどではないらしい。
蒸して焼いて揚げると言う手間は三倍なのに売り上げはさほど増えないのは店内を見渡せばわかる。
炒飯やラーメンを少なめに盛ってもらったとしても6匹のお供は連れて帰れなさそうな近所の年寄りばかり。いつもの夜の太陽軒だ。
後藤が焼売を頼み楊はそれをメモに追加しカウンターの中の太一爺さんに渡す。

「チャンジーチャオロウって何だ?」後藤が聞くがもちろん岸にも分からない。
「橙汁はたぶんミカンとかオレンジだろ?炸肉は揚げた肉だろうな」
「オレンジチキンとかそんな感じかな?」後藤は楊を呼んだり太一爺さんに聞いたりすることもないし、岸もやらない。
「鶏肉なら炸肉って書かないんじゃないか?」
「そうかぁ」
二人は推測をしながら料理が来るのを素直に楽しみに待っていた。普通なら楊ちゃんに「これなに?」とか聞くだろうがここは和さんの店と同じくらいハズレメニューの心配をする必要のない下町の隠れた名店、太陽軒だ。
マジックを見せてもらう時に先に種明かしを要求するやつはいないだろ。

まずは焼売が置かれた。太陽軒の焼売は大ぶりで一皿に三個だ。それはメニューにも書いてある。一見少なく感じるがそれは俺と後藤が30半ばだからだな、周りは俺たちの倍で済めばいいくらいの年寄りばかり。
だが楊が持ってきた皿には五個の焼売が乗っていた。一つはエビス屋が太陽軒にチューハイ素とビール樽を格安で持ってくるから、そしてもう一つは今日はあまり焼売が出なかったからだろうな。
台湾ラーメンも置かれた。
そして後藤の五目炒飯と橙汁炸肉。
二人が楊に会釈をすると可愛らしい女の子は微笑みで「ごゆくりー」とカタコトを返す。

橙汁炸肉。
それは鮮やかなオレンジ色のソースのかかった酢豚と言う見た目だった。具は串切り玉ねぎに乱切りのピーマン、それに衣の付いた揚げた豚肉と人参。
後藤と岸は割りばしを手に早速一つ口へと運んだ。
今までの太陽軒の酢豚と比べるとだいぶさっぱりとした味付けだ。
「旨いな」思わず岸が漏らす。
「うん・・美味い」そう言って後藤はもう一箸を伸ばし五目炒飯に置いた。
「うん?これ人参じゃないな、カボチャだ。ソースはオレンジジュースをベースにしているのか・・・」さっそく後藤の悪い癖が顔をのぞかせる。
旨い料理を出されると直ぐにそれを分析しようとする。
そのために来ているのは分かるんだが「旨い!」でいいだろ?と岸は思うが料理好きっていうのはそう言うものなのかもしれない。
岸はさっそく台湾ラーメンを箸で手繰った。ニンニクの効いたニラと豚ひき肉炒めに海老まで乗ったラーメンだが実は台湾名物である担仔麺を参考にした日本発祥のラーメンらしい。
だが発祥がどこであろうと太陽軒のラーメンはどれも旨い。岸はさっそくニラを一つまみ口にしラーメンをすすり、忘れずにレンゲを手にスープも口に運ぶ。太陽軒のラーメンはそこらのラーメン屋に引けを取らないスープだ。

そう言えば後藤の奴が絶対に食いに行かない外食は焼肉だけではない。それがラーメン屋だ。後藤の奴はいわゆる「家系」や「二郎系」と呼ばれるラーメンを毛嫌いしている。後藤に言わせればあんなものはラードに中華出汁か味の素をぶっかければ誰でも作れるただ脂っぽくて塩っ辛いだけのジャンクフードとのことだ。
そもそも後藤にとって野菜の無い食事と言うのはあり得ないのだ。ラーメンに乗っているネギや、茹ですぎたモヤシやキャベツは野菜と認められないのだろう。その気持ちは分からないでもないが、カップヌードルの方がまだましだと言う後藤の手前、俺もそう言った店に行けることは無くなってしまった。
後藤がラーメンを作ることが無いわけではない、極まれに作る。だがそれはギトギトの脂が膜を張っていることもなければ、クッタクタになったキャベツやモヤシが乗っていることもない。後藤の作るラーメンはたっぷりの野菜炒めの乗った物だ。冷凍庫にストックされている後藤の特製の煮豚は脂たっぷりのバラ肉ではなくヒレかロースだ、これはこれで旨い。
キャベツやモヤシはシャキシャキした歯ごたえを残しているしニラの緑や赤い人参の入った彩り豊かな見た目からして旨そうな野菜炒めの乗ったラーメンだ。
もしくは、これでもかというほどに胡麻の効いた自家製の肉味噌とチンゲンサイをたっぷりと乗せた担々麺だ。スープは市販の物だがもちろんどちらも旨い。
だがたまには脂でギトギトなラーメンや、茹ですぎてクッタクタになったモヤシの乗った塩辛いラーメンを食いたくなる。
後藤の奴は手にしたレンゲを五目炒飯に伸ばしている。海老と叉焼、そして伊達巻の乗った五目炒飯。後藤の大好物だ。
後藤はレンゲで伊達巻を少しだけ千切り取り、添えのスープに浸してから口にした。実に旨そうに食う。
「家系」や「二郎系」を毛嫌いする後藤も太陽軒のラーメンは別だ。後藤曰く「スープが段違いだ」という事だ。確かに太陽軒のスープは絶品だ。後藤はそのレシピを太一爺さんから聞き出したようだがさすがにラーメンのスープまで自作することはない。
後藤がレンゲでスープを掬い炒飯にかけてから口に運ぶ。俺も負けじとラーメンを啜り焼売に箸を伸ばした。遠慮会釈なしにカラシをこれでもかとたっぷりとつけてから口に入れる。後藤の奴はカラシが嫌いだからな。納豆にはカラシを入れるしチキンナゲットを食う時にはたっぷりとスウィートマスタードつけるくせにトンカツやシューマイに付けるカラシは嫌いなんだそうだ。
噛むと肉汁が溢れてくる。たっぷりと入ったタケノコも旨い。
二人は黙々と食事を進める。
後藤が焼売を箸で掴み醤油を垂らした小皿にさっとかすらせ口に運び、岸は橙汁炸肉に箸を伸ばす。
そう言えば後藤の奴は家で焼売を作った時は中濃ソースをかけて食っていたな。後藤の奴は醤油をつけて食うものはオカズにならないんだそうだ。
餃子はもちろん刺身も後藤の中ではオカズにはならないそうだ。それらは主菜ではなくあくまで副菜なんだそうだ。餃子でご飯が食えない奴なんて見たことないけどな。それに後藤はオデンもおかずにならないと言っていたな。真っ白いクリームシチューをご飯にかけて食っているくせに!!

後藤が最後まで取っておいた伊達巻をいかにも大事そうにスープに浸し口にした。本当に旨そうに食う。
それを見た楊が思わず声をかけるほどだ。
「ゴトさん、もっともらう?」
「いや、もうお腹いっぱいだよ」後藤が笑顔で答えた。
後藤の奴は伊達巻が大好物だ。いや、正確には太陽軒の絶品スープに浸けて食う伊達巻がだ。
後藤の奴は太陽軒に来るまで伊達巻って物を知らなかったようだ。

後藤の奴はここ太陽軒に来るたびに普通の炒飯や太陽軒特製カツ丼くらいしか頼まなかった。この太陽軒カツ丼は割り下を使う日本の一般的なカツ丼ではなく太陽軒の特製スープを使った中華屋風カツ丼だった。中華屋風と言うより太陽軒特製カツ丼と言った方が良いな。カツの乗った関西風の天津飯と言えばわかりやすいか?
醤油と砂糖の甘辛なカツ丼はもちろん旨いが、太陽軒の絶品スープを使った特製卵とじカツ丼はまた別物だ。おそらくこんなカツ丼は世界中でここ太陽軒でしか食えないだろう。後藤が頼むものはいつもその太陽軒特製カツ丼だった。稀に炒飯。
いつも同じものを注文する後藤に太一爺さんが見るに見かねて勝手にカツ丼の代わりに出してきたのが五目湯麺だった。
「マズかったら向後一年タダでいいぞ」陽花おばあさんではなく、楊ちゃんでもなく太一爺さん本人が直接、後藤の注文を無視して五目湯麺を置いた。台湾ラーメンは醤油ベースの味付けだが五目湯麺は太陽軒の特製スープをベースにした塩味でたっぷりの野菜炒めと海老に叉焼、ウズラの卵に伊達巻が乗っているこれまた実に古臭い昭和のラーメンだった。スープは古臭さの欠片もないけどな。
太一爺さんにしてみればどの料理にも自信をもっていたのにいつも同じメニューしか頼まない後藤に勝負を挑むような気分だったのだろう。
後藤の奴は「メシくらい好きに食わせろ」とでも言いたげな怪訝そうな目を太一爺さんに向けてから麺を啜り野菜炒めを口にした。
うん、まあ美味いよ。とばかりに軽く頷き「何だこれ?」と軽く首をかしげて伊達巻を箸で千切り口にした。
後藤は「美味い・・」と誰にも聞こえないくらいの声で呟き箸で伊達巻を切っては口に運んだ。
「これ、何スか?」後藤はそう言いながらまた伊達巻を箸で千切り湯麺のスープに泳がすようにたっぷりと浸してから口に運んだ。
「なにって、伊達巻だろうが」そっちかよとばかりに太一爺さんが答えた。
「え?どこで売ってるんスか!?やっぱり中華食材の店っスか?」
太一爺さんは半分口を開いて呆れた顔になり言った。
「スーパーでも売っているだろ。まあ総菜コーナーやビール棚には無いだろうが」
そう、太一爺さんもやはり後藤の奴が自炊しているなどとは思えなかったのだろう。だが酒類コーナーと総菜コーナーは後藤の奴がスーパーに買い物に行っても決して目もくれないコーナーなのだ。
俺は養護院の食事で正月に出されたことがあったのでギリギリ知ってはいたが後藤は伊達巻ってもんを知らなかった。
確かに伊達巻はスーパーで売ってはいるがあのパッケージされたものから、この切ってある伊達巻を想像するのはそうと知らなくては難しいのかもしれない。
後藤はこれが最後かと、惜しむ様に伊達巻の最後の一切れを時間をかけて湯麺のスープで泳がせてから口にした。
後藤曰く、この太陽軒の特製スープにたっぷりと浸した伊達巻が実に旨いのだそうだ。伊達巻自体ではなく、この太陽軒のスープがあってこそだと言う。
その日、太一爺さんは複雑そうな顔をして「今日のお代は要らん」と言った。

それ以降、後藤が太陽軒で注文する物は特製カツ丼から、伊達巻の乗ったいかにも昭和といった感じの古臭い五目炒飯に変わった。まあ炒飯ももちろん旨いんだけどな。
そういや後藤の奴は家でこの抜群に旨いスープも作らないし炒飯も作らない。ケチャップたっぷりのチキンライスを作ったりはするんだけどな。
後藤の料理の腕前ならこのスープも炒飯も上手い事つくれるだろうし、伊達巻なんか買ってくればいい。そうすれば家でも同じくらい旨い五目炒飯が作れるはずだが後藤の奴はそれはやらない。おそらく同じものを作っちまったら太陽軒に来る理由ってもんが無くなっちまうからなんだろう。この伊達巻の乗った炒飯は太陽軒で食ってこそってとこなんだろう。変なところで律儀な奴だ。
ああ、そうだ・・和さんの作る味の素たっぷりのソース焼きそばも作らないな。
その律義さを少しは俺にも向けて、エビス屋のキッチンで飯を食う時の空気の読めなさ加減を押さえて欲しいんだけどな・・。

後藤はスープに残ったナルトを口に入れた。
「御馳走様!!」
後藤が両手を合わせて言う。俺は名残惜しそうにレンゲでかすかに残った台湾ラーメンのスープを啜る。
楊ちゃんがテーブルに置かれた伝票を手にし、後藤が腰袋から西部劇に出てくるガンマンが使ってそうな革の財布を取り出し数枚の札を取り出す。それを見て太一爺さんが言う。
「おう、なんならビア樽とロハでもいいぞ」
「いやあ、さすがにきついですよ」と後藤がいい、二人で苦笑いを返す。
三十路男二人の晩飯とはいえ一樽のビア樽で払っていてはさすがに割に合わない。
「なんだぁ、ケチ臭い酒屋だな」太一爺さんが笑いながら返す。
後藤が四枚の千円札を「お釣りは要らないよ」と楊ちゃんに渡す。
楊は四枚のお札を受け取ったことを老夫婦に告げる。
「あらあ、いつもありがとうね酒屋さん」とお婆さんが言い「湯麺ならタダでいいんだぞ」とお爺さんが返す。
「このスープが無かったらそっちにしますけどね」と、添えの小さな汁椀を指して後藤が答える。
楊が後藤から受け取った四千円をお婆さんに示してからレジに全て納める。
この楊と言う台湾の女の子は実にしっかりしている。チップとして自身の懐に入れる金と、店に入れるべき金をハッキリと区別している。台湾人の気質なのか金にはしっかりしている。
後藤が会計を済まし二人は店を出た。

「あれ、酢豚みたいなやつ美味かったなあ、チャンジーチャオロウだっけか」後藤が言う。
「酢豚みたいだけどさっぱりしていたよなぁ、まあでもメシのオカズにするにはちょっと物足りないかな」
「そうかあ・・」
岸は余計なパスを出してしまったことに気が付いた。
後藤の奴は飯となると本当に空気を読めないんだ・・・。

二人がトラックを止めたコインパーキングに着くと道路の反対側にいかにもガラの悪そうな二人の男が座ってチューハイ缶を片手にタバコを吸いつつこちらを見ていた。
岸は目を逸らし、後藤は二人を軽く一瞥してからトラックのカギを開け駐車料金を払いに精算機へと歩み寄った。後藤が駐車料金を支払い終え二人がトラックに乗り込むと道路向こうの二人も立ち上がりタバコを捨てこちらに歩み寄ってきた。
後藤が俺を見た。俺は小さく首を振った。
二人は明らかにこっちを見ながら近寄ってくる。後藤はそのデカい図体を隠すかのように背中と肩を丸め二人から視線を反らし俺を見た。
あの高校生活の初日に見せた奇妙な笑顔とは違う怯えるような顔をしていた。

いや、同じだ。

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