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第二話 昇進試験を前に激熱予告が入った田中さんとクズの鈴木くん

ドラグが細道を抜けてパトカーを目にする20分ほど前。

田中はパトカーの助手席から吾妻橋交差点を左折し江戸通りを上っていくトラックを見ていた。
アルミバンのトラックで、荷台にはエビス屋酒店と青色で書かれていた。

「なんかあやしいですよあのトラック」

パトカーのハンドルを握る鈴木巡査が言った。

「そうか」田中は同意とも否定ともつかない返事を返した。

何も怪しいところはなかった。酒屋がバントラックというのは珍しいかもしれないが、聞いたこともない店名だ。チェーン店でもないようだしおそらく個人経営の小さい酒屋が安い中古のトラックでも買ったのだろう。もしかしたらペイントされたまま売られていたトラックをそのまま使っているだけで酒屋ですらないのかもしれない。いずれにしろ怪しい所はない。

「追いますね」鈴木巡査は言った。

トラックに怪しい様子はなかった。しかし、ここでもう一度鈴木巡査を押さえつけるのは得策ではないように思えた。

先ほど目の前を到底見逃せないレベルの信号無視をしたプリウスを追おうとした鈴木巡査を止めたからだ。今は田中にとって人生で一番大事な時だ。プリウスを追おうとする鈴木巡査を止めたのはプリウスから見て反対車線に白バイが待機しているのを知っていたからだ。

交通違反車両をパトカーと白バイの二台で追い回す必要はない。何もカーチェイスをするわけではないからだ。

白バイは追跡を開始すると同時にこちらに気が付いたらしく軽く手を上げた。その行為の意味するところは「任せてくれ」で、わずかに「譲ってくれてありがとう」だろう。
大きな声では言えないが警察官には「ノルマ」がある。

しかし鈴木巡査にはそうは見えなかったらしく「オレの獲物なのに・・・」と小さくつぶやき、咎められたら歯に何か詰まっていたとでも言うつもりなんだろうチッと小さく歯を鳴らした。田中に対する抗議だろう、舌を鳴らすほど馬鹿ではないらしいが、指導的立場にあり20ほど年上の田中巡査部長のいう事を素直に受け入れるほど頭がいいわけではないようだ。

田中は極力平静を装って鈴木巡査を見ると、それに気が付いた鈴木巡査は「さっきのは違いますよ歯に何か詰まっていたんですよ」とアピールするように今度はチーっと長めに歯を鳴らした。田中はその音を聞いて鈴木巡査の歯にまとわりついたヘドロのような歯垢を想像して怖気をふるった。

鈴木巡査は言わば八つ当たりであの酒屋のトラックに目を付けたというところだろう。が、ここで鈴木巡査をさらに押さえつけるのは上手くない。田中巡査部長にとって今が一番大事な時だからだ。押さえつけすぎたボールは跳ねて飛んで行ってしまう。ことにこの鈴木巡査は歪んだボールだ。どこに跳ねていくか分かったものではない。押さえつけすぎず適度に歪みを逃がしてやるほかない。あの酒屋にしてみれば災難だろうが。

鈴木巡査がサイレンを鳴らそうとしたが田中がそれを止めた。ボールが少し歪む。

「逃げられちゃいますよ」鈴木巡査は不満げだ。

「何か違反したわけでもないだろ、普通に追えばいい」

こうすればあのトラックは次の駒形橋交差点を進み、こっちはそこで引っかかるはずだ。そうなれば鈴木巡査も追跡をあきらめるだろう。
今は何事もなく過ごしたい。田中はそう思った。
エビス屋と書かれたトラックが江戸通りを進んでいく。トラックとだいぶ距離が開いたところで信号が青になった。鈴木巡査は即座にパトカーを発進させた。

「寒くないんですか?」半分ほど空いた助手席の窓を見て鈴木巡査が言う。

「あんまり飛ばすなよ」田中はそれを無視して警告する。ボールがまた少し歪んだ。


先月、隅田川署に新任の署長が着任した。38歳の高橋警視正だ。いわゆるキャリア組。

46歳の田中巡査部長とは文字通りの埋めようのない差がある。田中のように高校を卒業して採用試験を受け警察官になったノンキャリア組は巡査からスタートするが、高橋警視正のような大学から国家公務員総合職試験に合格し警察官になったキャリア組は警部補から始まる。

田中のようなノンキャリア組はどんな田舎であっても警察署長になることはない。警察署長になるには警視正になる必要があるが、ノンキャリア組が警視正になることは奇跡でも起きないと不可能だからだ。

田中巡査部長はそのキャリア組である高橋警視正の隅田川署署長の着任式に呼ばれたのだった。しかしハコ長とは言え交番勤務の一巡査部長の田中が新署長の着任式に呼ばれる理由も、その挨拶を聞きに呼ばれなければならない道理もわからなかった。

交番勤務の巡査部長と、かたや十近く離れた年齢で隅田川署とその管轄を束ねることになった警視正。

田中自身、そこに立とうと思いさえすれば立てた可能性は少しはあったはずだった。

進学校に進んでいた田中は高校生時代に学年で上位10位に入る成績を最後までキープしていた。周囲の誰もが、特に担任教師は田中は日本の最高学府である東大へチャレンジできる可能性があると思っていたし、少なくとも国公立大学へと進学するものと思っていた。しかし田中は高校を卒業するにあたり周囲の、特に母の反対を押し切って大学への入学試験ではなく、警察官採用試験を受けた。そして当然のように合格し警察学校へと進みその後、新米警察官として巡査となり隅田川署管轄浅草寺交番へと着任した。もう25年以上前の話だ。

田中は高校生の時にすでに理解していた。大学へと進学せずに警察官採用試験を受けたらキャリア組と呼ばれる人達を見上げる立場になるだろうことを。自分が今以上に努力を重ね東大を受験すれば、可能性は高いとは言えないかもしれないがその関門を突破して東大へと進学し、更に努力を重ねればキャリア組として高橋警視正に近い地位に付ける可能性が無いわけではないことも、すべて理解していた。

田中は東大にチャレンジしてみたかった。受かる確率は高くはなかっただろうが、ゼロではなかったはずだ。それが無理だとしてもそれに準ずる国立大学を受けそして合格しキャリア組とは言えないまでも準キャリア組と呼ばれるスタート地点に立つことは容易だったと思う。

だが田中はどの大学を受験することはなく、警察官採用試験を受けた。こうなるであろうことは十分に理解した上での決断だった。

しかし十分に理解はしていても、自分から見れば幼いとも思える歳の人間が自分には決して到達できない遥か上の高みに立つ姿を目のあたりにすると複雑な、苦い後悔ともいえる気持ちが浮き出てくるは抑えられなかった。

自分はキャリア組のスタート地点である警部補にすらなれていない。それなのにキャリア組にとって警視正や警察署長ですら通過点の一つに過ぎないのだ。

高橋警視正のテンプレートのような形式だけと言った短い着任の挨拶が終わる時に、当の高橋署長と田中の目が合ったが意図的にと思えるくらいあからさまに視線を外された。その場にいた全員の拍手で着任式が終わり、改めて突き付けられた現実を見させられ陰鬱な気分で帰ろうとする田中に声をかけてきた人物がいた。

「田中、巡査部長」

そう声をかけてきたのは渡部警部補だった。彼も田中と同じノンキャリア組の一人で、田中のかつての恩師とも言うべき人物だ。年齢は50半ば、田中より10歳ほど年上で高橋警視正とは20ほどの年の差がある。

渡部は巡査部長として交番勤務をしていた時に逮捕したコンビニ強盗犯と、覚せい剤所持で逮捕した容疑者に逃亡されたことがあり「逃がしの渡部」と揶揄された人物だ。そしてその逃亡事件の直後に田中のいる浅草寺交番へと転属され、巡査長だった田中に警察官としてのイロハを叩き込んでくれた大恩人でもある。

その大恩人はそんな大失態を二度も犯していてるのに今では警部補と言うノンキャリア組の高みに立っている。幾度となく警部補昇級試験を受けても一向に受かる気配すらない田中にとっては渡部警部補は薫陶を受けたといっていい大先輩ではあるがとても不思議な存在だった。

巡査から始まるノンキャリア組は巡査長となり、巡査部長を経てキャリア組のスタート地点である警部補になるのが実質的な最高到達地点だ。しかしノンキャリア組の大半はその最高到達地点に届くことなく巡査部長で警察官としての経歴を終える。

ノンキャリア組が警部補になることは稀で、そこから警部に昇進することはさらに稀なことだし、そこから更に警部の上の警視になるのはまさに奇跡でも起きなければ不可能だ。

「渡部・・警部補。お久しぶりです・・。」田中は意識して笑顔を作って答えた。

「久しぶりだな。どうだ調子は?」

「まあ、悪くはないです。」

「良くはないか。」

「いや、まあ普通ですよ。渡部さんは?」田中は消えかけた笑顔で答えた。

「俺か?所轄務めは楽なんだけどな。こっちがなぁ」渡部警部補は親し気な笑顔でだいぶ膨らみ始めている腹をポンポンと叩きながら言った。

渡部警部補は柔剣道ともに二段。渡部警部補がまだ交番勤務の巡査部長だった頃は田中もよくこの隅田川署で渡部警部補に柔道の指導をされたが40代とは思えぬ膂力で組み伏せられたかと思えば、負けぬとばかりに押し返そうとするとタンポポの綿毛を吹き飛ばすかのように軽く投げ飛ばされた。勝てる気がしないというよりなぜ負けたのかすらわからなかった。警視庁内部でも数少ない三段四段を持つ者でさえ渡部警部補の前に立とうとする人はいないほどで、その腕前はコンビニ強盗やシャブ中ごときに逃げられるなど到底信じられないほどだった。

「だいぶ丸くなられましたね」

「まあな、所轄務めはイマイチ性に合わんよ」田中はやや皮肉を込めて言ったつもりだったが渡部は意に介さないようだった。と言うのも二人は警察官としての先輩後輩ではなく飲み仲間と言ったほうがいい間柄だったからかもしれない。

しかし田中は妙な違和感を感じた。なぜ渡部警部補は交番勤務の自分が新任の署長の着任式にいることに何の違和感も感じていないのだろうかと。田中は視線を下に落とし寸の間考えると、眉を顰め渡部警部補を正面に見据え聞いた。

「なんで私を呼んだんですか?」

「んん?」そう答える渡部警部補はどこか楽しげだった。

「渡部さんが呼んだんですよね、この着任式に私を。なぜです?」

「ああ、悪くはないな」渡部警部補が満足そうに答えた。

「まあ良くはないです」と田中が応じる。

「うん、良くはないなぁ、昔のお前ならもっとすぐに、俺が声をかけた時にすぐ気が付いただろうな。勘が鈍っているんじゃないか?」からかう様に渡部警部補が言う。

「やめてくださいよ、こっちは所詮ハコ詰めの巡査部長なんですから」降参しましたとばかりに田中は答えた。

渡部は周りの様子をうかがうかのように軽く左右に首を向け「ここじゃなんだからな、ちょっと一杯どうだ、久しぶりに付き合え」

「え?」田中は少し戸惑った顔を見せた。

「なんだオッサンと飲むのは嫌か?」

「いや、そういうわけじゃ・・。」

「まあ付き合え、ちょっと話があるんでな。ここで立ち話もなんだしいつもの店で、そうだな7時でどうだ?」

渡部は有無を言わせぬとばかりに田中の返事を聞かずに一方的に話を進めた。

「昔みたいにオッサンが新米を誘っているわけじゃないんだ。」

「私も、オッサンですからね」田中は諦めたように答える。

「そういう事だ。まあこっちはもうオッサンどころか年寄りになっちまってるけどな。じゃあ後でな」そう言って立ち去る渡部の背に田中は「7時に」と言った。

渡部は口では返事をせずに田中に背中を向けたままに手を振って答え去っていった。

人が職業として警察官を志す動機は金のためだと田中は考えている。少なくとも田中は金のために警察官になった。田中にとって警察官という職業は、決して倒産することはなく、業績悪化でクビになることもなく、高卒でも比較的高い給料を貰える仕事。そういった職業だった。正義のために警察官を志す人は少ないだろう。

だが巡査部長となった田中の今の警察官としての心構えは金の為だけではない。犯罪から市民を守るという正義の心も持ち合わせている。

要は割合だ。

今の田中は8割は金のため2割は正義のために警察官としての職務を遂行している。

そして渡部警部補は9割9分正義のために職務を全うしているタイプの警察官だ。

せっかく捕まえた交通違反者を「悪質でない、反省している」と軽い説諭で見逃してしまうタイプの警察官だ。市民に寄り添う町のお巡りさんと言った感じだ。

田中と同じで18で警察官となった渡部は警察官として既に40年近いキャリアだが警部補への昇進に年功序列と言った物は一切影響しない。少なくともノンキャリアには。しかし渡部は今や警部補になっている。

警察官としてのスタート地点は田中や渡部のように高校を卒業してそのまま採用試験を受けたノンキャリア組は巡査から始まり、大学を卒業して採用試験を受けたいわゆる準キャリア組は巡査の二つ上である巡査部長としてスタートし、高橋警視正のように国家公務員総合職試験に合格し警察官になったキャリア組は巡査部長の一つ上の警部補がスタート地点となる。

ノンキャリア組のスタート地点である巡査から巡査長への昇進はほぼ勤務年数で決まる。巡査としてそつなく過ごしていれば誰もが巡査長へと昇進する。しかし巡査長から巡査部長へ昇進するには難しい昇進試験に合格する必要があり、巡査部長から警部補になるにはさらに難関な昇進試験に合格する必要がある。この昇進試験に合格する難しさは大学受験など比べ物にならない。巡査長から巡査部長への昇進試験の合格率ですら10%ほどだ。

大学受験のための勉強すらしたことのない高卒のノンキャリア組はまず勉強の仕方からわかっていない者が多い。大学へ進学できる程度の頭を持っているのに高卒で警察官になろうなどと考える奴はよほどの変わり者だろう。つまり論文など書いたこともないものが大半だ。事実、ノンキャリア組のほとんどは巡査部長で定年を迎え警察官としてのキャリアを終える。
しかし逃がしの渡部が今や警部補になっているのは紛れもない事実なのだ。

田中はバーのドアの前に立ち腕時計を見た。6時45分。

そこは西浅草の奥まった路地にある小さなワインバーだ。
風神と言う。
浅草らしさでいえば80点だろうがワインバーの店名としては20点だろう。立地とその店名からか浅草に観光に来た者が見つけることは少なく、地元民だけの知る人ぞ知るバーだ。客のほとんどは常連でお互い見知った仲だが軽い会釈することがある程度で席を寄せて語り合ったりすることはない。誰もが静かに自分の酒を飲む店だ。最近はSNSだかナビサイトだかで調べてきた客が来ることも少なくないがまあ歓迎はされない。ナビサイトに感じの悪い店とでも書き込んで星の1つでもつけて二度と来ることはないだろう。外国人観光客が来ることも稀にあるが意外と静かに飲んで帰る。酒の飲み方は日本人より外国人の方がスマートかもしれない。

田中はドアを静かに開けバーに入った。ドアベルが控えめな音を立てた。

本当に小さなバーだ。左側に4人ほどが座れるカウンター。その後ろに無理をすれば四人が座れそうな小さなテーブルが二つ、奥に二人かけのテーブルが一つあるだけだ。14人は入れる計算だがそうなることはないしそうなったことを見たこともない。この店に来る客はみな一人。稀に二人連れ。騒ぐものはいない。控えめな音量でラジオからはChaka KhanのI Feel for Youが流れていた。とても静かなバーだ。

奥の二人かけのテーブルに渡部警部補がいた。渡部警部補の定位置だ。永年予約でもしているかのようにいつも同じ席に座っている。

ドアを開けた田中に渡部警部補がこっちだと軽く手を上げる。声をあげたりはしない。田中はカウンターの中にいるマスターに軽く会釈をして、一人カウンターに座る客と目が合い目礼を交わすと渡部警部補の座るテーブルに向かった。相変わらず静かな店だ。とても居心地がいい。

田中はコートを脱いで壁に取り付けられたフックにかけられたハンガーにコートをかけ、渡部が座るテーブルの向かいに腰を落ち着けた。

「どうも、待たせましたか?」田中は約束の時間より早く来たことはわかっていたが一応聞いた。

「いや、大丈夫だ」そう返す渡部の前に置かれたワインボトルはすでに封が開けられワイングラスを満たしていた。

「ほら、まずは一杯行け」渡部がボトルを手にした。

田中が目の前に置かれていたまっさらなワイングラスを手にすると渡部はワインを注いだ。
田中が軽く頭を下げ渡部がボトルを置くと二人はグラスを軽く掲げワインを一口飲んだ。

「で、今日はなんで私を?」田中はグラスを置き、さっそく疑問をぶつけた。

「おいおい、酒の楽しみ方を忘れちまったのか?」渡部が呆れる様に小さく首を振った。

「あ…いや、すいません」田中は申し訳なさそうにまた小さく頭を下げた。

「ほら、まあ飲め」渡部はテーブルに置かれた前菜を勧めるようにどこか優雅に手を振った。

狭いテーブルには薄く切ってからソテーしたコンビーフといくつかの種類のチーズが乗った皿、それとイチゴの乗った小さなフルーツサラダがあった。

田中は楊枝の刺さったコンビーフの一切れを取り口にすると、渡部はフルーツサラダに乗せられたイチゴを一つ摘まみ取った。

ソテーされ程よく脂の溶けたコンビーフが辛口の白ワインとよく合った。

二人は寸の間、ワインを楽しんだ。

店内に控えめに流れるラジオではDJがコールしたDaniele VidalのLES CHAMPS-ELYSEESが優しく流れ始めた。

「おふくろさんは元気か?」漸く渡部が口を開いた。

「ええ、今ヨーロッパへ旅行に行ってますよ。」

「仕事、ようやく辞めてくれたのか」

「ええ二年前に、母ももうすぐ70ですし今はボランティアを色々やっているみたいです」

「そうか、旅行代は当然お前が出したんだろ?おふくろさん、本当にいい息子を持ったもんだな」渡部は感心するかのように小さく頷いた。田中は母子家庭だった。父は田中が中学に上がる時にはすでにいなかった。

「いや、まあ・・やっと、今更って感じですけど」

バーの店内に流れる英語のラジオ(今流れている曲はフランス語だが)は二人の会話を邪魔しない程度には小さいが、二人の会話を他に聞こえない程度に曲を流していた。

渡部は、田中が大学へと進学しなかった理由を明かした唯一の人物だ。田中は母に少しでも、一日でも早く楽をさせたくて大学進学をあきらめ高卒で警察官になったのだった。

「まあ、良いことじゃないか。俺の息子なんか孫をダシにしていまだに金をせびってくるぞ」そう言った渡部の言葉の後、再び沈黙が訪れた。田中は高橋署長の着任式に呼ばれた理由を早く聞きたかったがそれを再び問い詰めるのは憚られた。二人は声を出す代わりにチーズとコンビーフとフルーツ、そしてワインをゆっくりと口に運んだ。

「どうだ?昇進試験は受けているのか?」再び渡部が口を開いた。

田中は少し考えてから答えた。

「渡部さんのようには、どうも・・・。」

「逃がしの渡部が警部補になれたのが不思議か?」

「違います!そういう意味ではないですよ!」田中は慌てて弁明した。渡部は確かに「逃がし」の汚名を浴びた。しかし警部補となり隅田川署の刑事部、それも花形の凶悪犯罪に対応する捜査一課に配属され、今では課のエースと目されるほどの八面六臂の活躍を見せていた。銃刀法違反、殺人、強盗、etc・・。渡部が手錠をかけた犯罪者達の懲役を足せばゆうに百年を超えるだろう。

田中の慌てるさまを楽しむかのように渡部はフッと笑った。

「まあな、最近また八つ目の渡部なんて言われているみたいだしな」

八つ目の渡部。これは彼が雷門通りの西の突き当り、国際通りとのT字路にある国際通り交番、通称八つ目交番に勤務していた時につけられたあだ名だ。
その八つ目交番を仕切る交番長、所謂ハコ長がかつての渡部巡査部長だったのだ。

普段は黒帯を見せつけるかのようにふるまう二段三段の猛者に急用を思い出させるような隅田川署で一番の柔道の達人であり、外国人観光客の道案内の為だけに英語を独学で学ぶような人情肌で、困っている外国人観光客にも、所かまわずストレスを爆発させる酔客にも誰に対しも丁寧な対応をしていた。そこから、日本のもっとも有名な観光地である浅草でもっとも有名な警察官だと外国メディアの取材も受けたことがあるほどの名物警察官だった渡部は八つ目交番の渡部「八つ目の渡部」とあだ名されていたが、そこで二度の失態を演じ「逃がしの渡部」と陰口を叩かれるようになり、八つ目交番を追われるように田中の勤務している浅草寺交番に異動になったのだった。

その渡部が警部補へと昇進し、隅田川署の刑事となり八面六臂の活躍をすると八つ目ではなく「八つ面の渡部」と称されるようになったという噂は田中の耳にも入っていた。

田中にはそれが不思議だった。渡部が警部補になれたことがだ。

田中に警察官としてのイロハを叩き込んでくれた恩人の渡部は、確かに正義感は強かったが悪党を懲らしめるタイプの警察官ではなく、どちらかと言うと市民に寄り添う温和な警察官と言うタイプだった。ただでさえ警部補にまで昇進することが少ないノンキャリア組の警察官の中でもこの手のタイプはほぼ巡査部長のまま定年を迎え警察官としての職務を終える。

巡査部長への昇進試験を受けるのは巡査からスタートする高卒のノンキャリア組だけだ。合格率は10%ほど。

そして巡査部長から警部補への昇進試験の合格率は8%くらいだろう。たいした差があるようには思えない数字だが、警部補への昇進試験は、警察官として巡査部長からスタートした大卒の準キャリア組が最初に受けることになる昇進試験でもある。
つまり大卒の準キャリア組との競争を足した上での8%だ。高卒のノンキャリア組にとっては格段に難易度が上がっている。

それは論文など書いたこともない高卒のノンキャリアが越えるには高すぎる壁だ。高校生の時分には秀才でならした田中でさえ46になってもいまだに合格することが出来ないでいるほどだ。

高すぎる壁に突き当たったノンキャリア組は昇進試験に挑戦することを止めこう思うようになる。

「自分が警部補にならないのは試験に受からないからではない。役職ではなく、市民に寄り添った警察官でありたいからだ」と。

田中はまだ諦めてはいないが、試験を受けるそぶりさえ見せていなかった渡部はまさにこうした昇進をあきらめたノンキャリ警察官の典型であるように思えた。だが渡部はある日あっさりと昇進試験を突破し警部補へと昇進し、それだけでなく田中のいる浅草寺交番から隅田川署の捜査一課へと去っていった。

「どうだ、新署長は?」渡部が聞いてきた。どうやら本題に入ってくれる様だ。

「どうと言われても・・・私は署長と面識があったわけでもないですし、特には」高橋警視正と会った記憶もない。それだけに意図的ともいえるような視線の外し方は気になっていた。

「そこだよ。今日お前を呼んだのはな」

「と言うと?どういうことです?」

「新署長とお前に面を通しておいてもらったほうがいいと思ってな。」

高橋警視正と私が?田中は少し考えてみたがその理由はわからなかった。

「私と高橋警視正が?なぜです?」

渡部はそれに答えず再び話を変えた。

「なあ、一課に来るつもりはないか?」

「一課に?私が?」

「ああ、俺としては気心の知れたお前が下に欲しいんだ」

誤解されることが多いが警察機構には刑事と言う役職はない。刑事部に配属されたものが刑事だ。巡査部長であっても刑事になるものはいる。だが希望を出せばその部署に行き刑事になれるわけではない。特に捜査一課などという警察機構の中でも花形部署に異動願いを出したとしてもハコヅメ、ノンキャリア、巡査部長の田中では門前払いどころか一顧だにされないだろう。

だが隅田川署捜査一課のエースと目される敏腕刑事、八つ面の渡部が是非にと乞えば一人のノンキャリアの巡査部長を捜査一課に引き上げるくらいわけないということだろうか?その許可を得るために新署長と面通しさせたという事だろうか。
だが田中にしてみれば願ったり叶ったりだ。

田中は別に刑事に憧れていたわけではないし、殺人や強盗と言った重犯罪に対応する捜査一課での勤務はハコヅメと言われる交番勤務より遥かにきついだろう。しかし自分と同じハコに自分と同じ巡査部長の地位で配属されてもすぐに警部補となる準キャリアの指導員としての立場や、どちらかが異動するまで鈴木のようなトラブルメーカーと付き合っていかなくてはならないというのにはうんざりしているところではあった。

渡部が田中を捜査一課に引き上げてくれる、そういう事だろう。だが田中が先にそれを口にするのは憚られた。キメの台詞は渡部警部補に任せた方がいい。

「しかし、私はノンキャリの巡査部長ですし、異動願を出しても捜査一課に行くのは無理だと思います」田中は嬉しさでほころびかける頬を隠し神妙な面持ちで答えた。

「大丈夫だ、俺に任せろ」そう言われると思っていた田中は予想外の言葉を聞いた。

「そこなんだよな、お前が警部補になってくれればいいんだがな」

「えぇ!?それは……。」予想だにしなかった渡部の言葉に田中は心の中の思いを小さく口にしてしまった。

田中が幾度となく受け、そして通らない警部補への昇進試験。ただ、今回もダメだったという事だけが知らされるだけの試験。どこが良くてどこがダメだったのかも分からない試験。もう少しというところだったのか論外だったのかすらわからない試験。ルートの全く読めない登山に手探りで挑んでいるようなものだ。田中はがむしゃらに行くタイプではなく、一つ一つ手ごたえを感じそれに対応していくタイプの人間だった。そういった者にとって、報われたのか、はたまた無駄だったのかすらわからない努力を続けるという事はいつ心を折られてもおかしくないことだった。

そして、いくら捜査一課のエースと目される八つ面渡部であっても、一介のノンキャリアの警部補が一巡査部長である田中の昇進試験の結果を左右するのは不可能だ。

ハシゴをはずされたどころか、まるで勝手に舞い上がって勝手に元の位置に落ちてきたようなものだが田中は落胆した。てっきり渡部が捜査一課へと導いてくれるものだと勝手な想像した。

これでは「せいぜい昇進試験頑張れよ」と言うためだけにわざわざ新署長の着任式に呼びつけ、酒に付き合わせたようなものではないか。落胆の顔は隠せなかった。

渡部はそんな田中を意に介さずまた話を変えた。店内にはThe WeekndのOut of Timeが流れ始めた。

「高橋な、あいつは初配属でオレの八つ目交番に来たんだよ。俺様はキャリア組だぞ、すぐにお前らを顎で使う立場になるんだってのを少しも隠そうとしないやつでな、まあ世の中にはこんなやつもいるんだなって思ったもんだ。勉強ばっかりしてきて世間ってもんを少しもわかっていないやつだったな。」

年相応に礼節や上下関係を重んじる渡部が「高橋」と呼び捨てにするのが気になったが、そう言われ思い返してみると田中から見る着任式での高橋警視正の印象は真逆で、どちらかと言うと少しおどおどしたような感じが見受けられ、田中から視線を外した時も格下の相手を鼻で笑うような感じではなくどこか逃げるような印象を受けたのを思い出した。

「そうは見えなかったですが」田中は正直な印象を口にした。

「まあな、オレの教育の賜物ってことろか」そう言う渡部はニヤリと口をゆがめた。

権力欲とでも言えばいいのか。田中の下にもその欲に冒されている者が一人いる。鈴木巡査だ。もっとも高橋警視正のこれから更に大きくなるであろう権力と、一介の巡査にすぎない鈴木の権力では、マイティーソーの持つトールハンマーと囚人がコッソリ手に入れた人も殺せないロックハンマーくらい違うだろう。

「コツとかあるんですか?その、指導法と言うか」田中はたまらず聞いた。

「そうか、もうお前もハコで厄介ごとを抱える立場だもんな」渡部はからかい気味に笑いながら同情を示すかのように小さく頷いたが田中の質問に答えなかった。

「高橋の家はな、親父は検察庁の次官様でな、ヤツの兄貴も警察庁のキャリア様なんだよ。まあエリート一家様ってわけだな」渡部はどこか嘲るように言った。そして田中越しにバーの店内を見渡してから話を続けた。

「つまりだ。間違ってもせっかく捕まえた、店員に逆に凄まれて手ぶらで逃げ出すようなだらしないコンビニ強盗や、粗悪なシャブや安い葉っぱを売っているチンケな売人を逃がすようなことはあっちゃならないって立場なんだよ」

「それって・・」田中が言うと同時にバーのドアが開きドアベルがチリンと音を立てた。

渡部が目線で少し待てと田中を抑え、新たに入ってきた客を見定める。その客も田中と同じようにカウンターの中に立つマスターとカウンターの客に軽く会釈をすると、そのまま一つ空けてカウンターに席を取った。

渡部はいつの間にか空になったままだった二人のグラスにワインを注ぎ足し、ゆっくりとした動きで少し口にしてから大丈夫だとでもいう風に軽く頷いてから話を続ける。店内に流れるラジオはMAGIC!のRudeを流していた。

「あのコンビニ強盗なんか笑えるぞ、まあ未遂なんだが。手錠をかけられているのに逃げやがってな、そのまま逃げてくれればよかったんだが、あのバカは手錠はどうしようもないってんで吾妻橋交番に駆け込みやがってな、誰が手錠をかけて逃がしたんだって大騒ぎだよ。まったくあの野郎・・」

田中は相槌も打てずに神妙に聞くしかなかった。「あの野郎」と言うのはコンビニ強盗に対するものなのか高橋新署長に対するものなのか。

「まあおかげで俺も晴れて警部補様になれたからな、恩には着ている。だが、まだシャブ中の分の貸しが残っているからな」

「それは・・・」田中が口を開くと渡部が笑みを一転し凄みを効かせた顔で抑えた。

「質問は無しだ、あとはハイとだけ言え」

「はい」田中はそう答えながらかつて渡部が浅草寺交番で自分の上にいた頃に、彼に論文の書き方を教えたことを思い出した。

その時の渡部はすでに50歳。渡部が高校を卒業して警察官になってから30年は経っていたはずだ。もう勉強の仕方すら忘れていたであろう渡部が突然田中に論文の書き方を教えてくれと恥ずかしそうに言ってきたのだ。
だが渡部は何も知らなかった。田中は論文とは何なのかと、文字通り1から教えることになりまるで中学生の家庭教師になった気分だったことを思い出した。

田中はそんな渡部に少しも驕るような素振りをせずに渡部に論文とは何かという事から教えた。

金のためにと警察官としての職務をこなしていた田中に、警察官とは何かという事を、警察官としての心構えを、警察官としての在り方を1から叩き込んでくれたのは渡部だったからだ。おそらく渡部は50歳と言う節目に記念として一度くらい昇進試験を受けようと思ったのだろう。そして試験を受けるにあたって形だけでも整えておかなくてはと論文の書き方を学ぼうと思ったのだろう。田中はそう思い懇切丁寧に教えた。こんなことでその恩を返せるとはおもっていなかったし、渡部から受けた薫陶の欠片にすら値するとも思わなかった。渡部は警察官とは何かという事を田中に教えてくれた、金の為だけでは生涯を警察官として全うすることは出来ないだろうという事を。悪を懲らしめる正義感、市民を助ける優しさと言うものを田中の心に刻みつけてくれたのだ。

しかしそのかいあってか渡部は無事に昇進試験に合格し警部補となり田中の元から飛び立っていった。

田中は渡部がチンケな売人を取り逃がすとような人だとは思えず何か理由があったんだろうとは思っていたが、記念にと受けたのであろうたった一度の昇進試験に合格できるような人だとも思っていなかった。その二つの出来事は一つの事だったのだ。

「お前は次の昇進試験を必ず受けろ」渡部が田中の目を重く見据えながら言った。

「・・はい」田中も重く答える。

「必ずだぞ」

「・・・はい。」念を押す渡部に田中はさらに重く答えた。警察の昇進試験と言うのは100点中80点を取れば全員が合格と言うような絶対的な判定ではないし、上位10人が必ず合格するという相対的な査定でもない。総合的な判断と言うやつで合否が決まるのだ。その総合的な判断を今回は高橋警視正が下してくれるということだ。

「次の昇進試験で俺は警部になる」ややにこやかに渡部が言う。

「はい・・。」

「そしてお前は警部補になる。いいな?」田中を睨みつけるように渡部が言う。

「はい」田中は唇をかんだ。

「それでお前は捜査一課に来て、オレの下に就くことになる、いいな?」

「はい」幾度となく受けてはね返されてきた警部補昇進試験がこんなことで通るとは。

「よし。そういう事だ。万事うまくいくことを祈ろう」渡部は厳しい顔を一転破顔一笑させて言った。

「はい・・・。」田中は小さく答えた。自分の努力など何の意味もなく、遠いどこかの何かに自分の行き先をもて遊ばれている気がした。

「ここで大手柄が欲しいか?」渡部は一転、先ほどの笑みを握り潰すように田中を睨みつけて言った。

田中は少し考えてから言った。

「いいえ」

「そうだ!」再び渡部は破顔して手を叩いた。店内の注目を少し浴びたがそれもすぐに消え、渡部が続けた。

「そういう事だ、さすがだなわかっているじゃないか。何もするな。大手柄なんか必要ない。そんなものが無くてもお前は警部補だ。でもお前がこの大事な場面でシャブの売人の元締めだとか連続殺人犯を捕まえて注目されたらどうなる?あの大手柄を立てたのは田中ってやつらしいぞ。あの田中が昇進試験を受けるそうだ、あの田中が警部補になったらしい、あの田中が捜査一課に行くらしいぞ。あの渡部の下に就くらしい。どうやら渡部も旨い具合に警部になっているぞ。そんな噂話は必要ない、分かるな?」

「はい」

「何もするな。勝ち越す必要もない。白星もいらん、黒星はもっといらん。勝負をするな。じっとしていろ、それでお前は警部補だ。いいな?大金星なんか警部補になってからいくらでも取らせてやる」

「はい」田中は神妙な顔つきで答えた。幾度となく立ちはだかった越えることができない思っていた壁はいとも簡単に消え去った。しかし疑問は残る。

「よし、じゃあお祝いだ」渡部が田中越しにカウンターに目を向ける。声をかけたり指を鳴らしたりはしない。カウンターの中のマスターはすぐに渡部の視線に気がついたようだ、渡部が右手を上げて合図を送る。おそらく前もって話を通していたのだろう、マスターはそれだけで意図をくみ取ったようで渡部は手を降ろした。

ほどなくしてマスターが茶色のベルベットをかけたシャンパンと二杯のシャンパングラスを持ってきた。

マスターはテーブルにシャンパンとグラスを置き、渡部の前に裏返しに王冠を置いた。すでにワイヤーフードは外してあるようだ。渡部が黙礼を返すとマスターは空になったワインボトルとワイングラスをもって去っていった。店内には相変わらず控えめな音量でシアのアンストッパブルが流れ始めた。

渡部は王冠をポケットにしまいボトルを手にするとベルベットの覆いをかけたままコルクを抜いた。

そのままボトルのラベルが見えないように二つのグラスに注ぎ終えるとテーブルにボトルを置き「よし、乾杯だ」と言いグラスを手にした。

田中はグラスに手を伸ばさずに両手を組み左手の親指をなでながら渡部を見据えた。

「どうした?まだ何か不満か?」渡部がやや不満げに言った。

田中はテーブルに置かれたままのグラスを一瞥し一度自分の握った両手を見てからゆっくりと顔を上げ渡部を見て言った。

「なぜ、私なんです?」田中は今現在、渡部の部下ではない。確かに渡部に育てられた部分はある。しかしそれは田中だけではない。20年以上巡査部部長を勤めあげた渡部には数多くの部下がいたことだろう。その数多くの部下の中で何故自分が選ばれたのか。それを知っておく必要があることは間違いない。

「なぜ、お前か。知りたいか?」渡部は小さく頷いた。

「ええ」田中も頷き返す。

「俺も八つ目なんて言われるようになって一課で一目置かれるようにはなったがな、所詮ノンキャリだからな」

田中は再び頷いた。ノンキャリアである渡部には、すぐに自分より上の階級になっていくキャリアや準キャリアを腹心の部下とするのはやりにくい所があるだろう。

「俺と同じノンキャリの右腕が欲しいんだ」渡部は深い心情を吐露するように言い田中を見つめた。

田中はそれでもグラスに手を向けずに両手をもてあそぶように親指をなでていた。

「ええ、そのノンキャリの中で何故私なんです?渡部さんの下にノンキャリはたくさんいたでしょう?」

田中の反論に渡部はバカげているとでも言うようにフッと鼻で笑いグラスを置いた。

「交番勤務のノンキャリなんて交差点の陰に隠れて獲物が来るのを今か今かとウキウキして待っているやつらばっかりじゃないか。警官になって40も過ぎてな、あんなだまし討ちみたいなことで事故や違反が減るわけがないなんて青臭いこと言っているヤツがお前以外にどこにいるって言うんだ。オレが欲しいのはな、一点二点欲しさにもっと違反してくれと日がな一日電柱の影に突っ立っていられるようなやつじゃない。いい年こいてそういう青臭い考えを持ち続けているやつだ。一時不停止や携帯注視を捕まえて悦に浸っているようなヤツを一課に呼んで何の役に立つって言うんだ?それにお前も自分で気が付いているだろ、ノンキャリでお前ほど頭の回転の速い奴がいるか?刑法でも訴訟法でも何を聞いても朝の挨拶を返すみたいに軽く答えることができるノンキャリ警官がお前以外にいるか?周りをよく見ろ、飲み屋の酔っ払いに理詰めで抑え込まれるような奴ばっかりじゃないか。オレから見ればお前がキャリアでなく準キャリですらないのが不思議なくらいだぞ」

「買いかぶりすぎです」田中は握りしめた両手に目を落として小さく答えた。

「受けてくれ。警部補になってオレを助けてくれ」渡部が懇願するかのように言う。

田中はまだグラスに手を伸ばすことができないでいた。

「それに俺はあと五年もすれば定年だ。俺がいなくなった後、そこはお前に継いで欲しいんだ。俺はお前に警察官としての心構えを教えたつもりだ。そのお前が俺の下に付いてくれればあと五年でお前にデカとしての俺の全てを叩き込んでやる」

田中は決意した目を渡部に向けた。

「お前は交差点に隠れて青キップなんか切っているような奴じゃない、悪党を引きずり出してワッパをかけるてやる奴だ。受けてくれるな?」渡部が念を押すように言って再びグラスに手を伸ばした。

「わかりました」田中もグラスを手に取った。

「よし!」渡部は今日一番の満面の笑みを浮かべて「乾杯」と言った。

二人は静かな店内でグラスを合わせることなく小さく掲げ乾杯をし二人同時にグラスを空けた。

「よし、ブラインドと行くか。分かるか?」渡部が二つのグラスを満たしベルベットがかかったままのボトルを顎で指し示した。ベルベットに隠されたこのボトルの銘柄を当てろというのだ。

田中はベルベットで覆われたボトルを見つめつつグラスを口に運び少量を含みゆっくりと味わった。

「だいぶ辛口で・・」田中はすでに答えはわかっていたが、目をつぶって考えるふりをした。

「シャルドネとピノノワール・・辛口ですがかなり深い味わい、熟成は10年前後ってところですね。」

渡部が祝いの酒として用意するならシャンパンだろう。そしてラベルはベルベットで隠れているが、隠れ切れていないボトル底は微かに緑がかった黒だ。そしてこの味わい。そうなると答えは一つしかない。

「ドンペリでしょう」

「さすがだな、そういうところもお前を選んだ理由の一つだ」渡部は満足げだった。

根っからのワイン好きの田中と、警察の同僚が寄り付くことのない店としてワインバーを選んだ渡部。そんな二人を職務の外で結びつけたのがこのワインバー「風神」だった。ワインはこの二人をつなぐ重要なアイテムの1つだったのは間違いないだろう。

「しかし、結婚はしないのか?」渡部が田中の左手を見て言った。

「それはハラスメントってやつですよ」田中は軽く咎めるように答えた。

「セクハラだのパワハラだのわけのわからんことを言わないってところも、お前を選んだ理由の一つなんだがな」渡部は両手を広げ軽くウンザリとしたように目を閉じて首を小さく左右に振った。

「で、それは何ハラって言うんだ?」渡部は半ば呆れ顔で聞いた。

「マリッジハラスメント、マリハラって言うらしいです」田中は軽くニヤ付きながら返した。

「はあ・・モラハラだのマタハラだのいくつあるんだ、全くアホらしいことだ。ハラスメント?全部まとめて嫌がらせでいいじゃないか。なあ?」
渡部世代のいわゆる昭和の男というのは婦警に対しセクハラどころか痴漢まがいの事をすることが警察機構であっても少なくないが、外国人観光客の為に英語を習うような渡部だ。この様子なら50半ばの渡部でもハラスメントの10個くらいは挙げられそうだ、一応気にしてはいるのだろう。

「ホント最近は横文字ばっかりでうんざりするな。コンプライアンスだのコンセンサスだのよくわからん」

「でも渡部さんだって英語、喋れるじゃないですか」

「うーん・・・。」渡部は両腕を組んで深く目を瞑り思案顔で続けた。

「それもあるかもな。日本語の会話に馴染みのないカタカナを混ぜられると元の言葉の意味が分かっているだけに酷く不自然に感じるんだよな」

田中も英語はそこそこ堪能だ。TOEICの結果はそれなりに自慢できる程度で渡部より格段に上だろう。もちろんひけらかすようなことをしたことはないが。

「わかりますよ」田中も同意した。

思えば渡部が田中の上に指導員として浅草寺交番に来た時は既に40手前で田中はまだ20代半ばだった。当時は若者とオッサンと言ったはっきりとした世代の隔絶があったが、今じゃすっかり二人ともオッサンだ。渡部の言わんとするところは田中も同じように思うところがある。

「で、結婚はどうなんだ?」逃がさんとばかりに渡部が敏腕を振るい問い詰める。

「まあその・・」軽く面食らったように田中が言い淀んでいると渡部が押し返した。

「なんだ、いるのか!じゃあこれで晴れてプロポーズ出来るじゃないか」渡部が我が子の事のように満面の笑みを浮かべると田中は恥ずかしそうに下を向いた。

「ええ・・・。まあ・・」

「よし乾杯だ!」

二人は今度はグラスを軽く合わせた。二つのグラスが小さく音を立てた。
それを合図にしたかのように店内に流れるラジオからはOMCのHow Bizarreが流れ始めた。


吾妻橋西詰交差点の信号が青に変わり鈴木巡査がパトカーを発進させた。

狙いをつけたトラックはもうすでに見えなくなっていたが鈴木巡査に諦める様子はないようだった。

田中は、倒産する心配がなくリストラされる心配もない就職先として警察官を選んだ。
田中は警察官と言う職業に安定した収入を得られることを求めた。つまり金だ。
多くの警察官は田中と同じように金のため、安定した就職先を求めて警察官になっただろう。
しかし、だからと言って多くの警察官が金の為だけにその職務に励んでいるわけではない。

渡部くらいの年では仮面ライダーかウルトラマンか何かに憧れて正義感への発露から警察官になった者も少なくないだろう。

金のために警察官を志した田中にも正義感はあるように、正義感から警察官を志した者達にも金銭欲はあるだろう。

金銭欲と正義感。多くの警察官はこの二つを柱に職務を続けているだろうが、警察官を志す理由はこの二つだけではない、もう一つある。権力欲だ。

高橋新署長が警察官を志したのはまず権力欲だろう。人の上に立ちたい、エリートの一人として権力機構の上部に昇り詰めたいという欲。もちろん、そしてそれに必ず伴ってくる金銭欲、更にわずかな正義感も持ち合わせているだろう。

だが権力欲から警察官を志す者は高橋のようなキャリア組だけではない。鈴木巡査のようなノンキャリアであっても権力欲から警察官を志した者も少なからずいる。

警察官になるにあたってはある程度の体格と身体能力を求められるが、はっきりとした数値で規定されているわけではない。身長であれば男性なら160もあれば大丈夫だろう。つまりある程度、最低限普通の体格であれば問題はない。鈴木巡査は体格も視力もそのギリギリと言ったところだろうが。

鈴木巡査のかける分厚い眼鏡の下にはシジミのような小さな目とそれと同じくらい小さな鼻、頑丈そうな頬骨にクチバシのように突き出た口に立派なエラ。大きい割にはお世辞にも賢いとは言えない頭。

田中は人を見た目で判断するつもりはない。それはあまり当てにならないからだ。しかし、鈴木巡査が有意義な学生生活を送れていなかっただろうというのはその歪んだ性格からも分かる。

警察官は権力を振りかざしているかのように見る人は少なからずいる。

もちろん警察官にそんな振りかざせるような権力などという物はない。少なくとも田中は手にしていない。田中が手にしているのは裁判を受け判決が出るまでは犯罪者かどうかがわからない一般人を逮捕して容疑者とすることができる程度の権力だ。
しかし田中には自覚することができない権力を鈴木巡査は振るっている。

警察官と言う職業は田中が思っていた以上に不遇だった。警察官として田中が相対するのは当然ではあるがその多くが犯罪者か、迷惑者だ。
警察官は日々悪人達と対峙する過酷な職業であるはずなのに謝意を示されることは多くはない。しかしあからさまな敵意を向けられることは少なくない。

ヤクザ未満のチンピラ、半グレ、ストレスを溜め込んだ酔虎・・。彼らは手を出してみろとばかりに警察官に絡んでくるが手を出してくることはない。彼らとて警棒と拳銃で武装した警察官にケンカを挑むほど愚かではない。
彼らは、警察官は一般市民に手を出せないと思っているのだ。実際のところは手が出せないわけではなく、手を出さないだけなのだが。

しかし、もしまとわりつく蚊にでも対するように彼らの右頬を叩こうものなら彼らが次に出すのは左頬ではなく大声だ。暴力警官だと騒ぎ立てるつもりなのだ。自ら警察官に絡んできて警察官に言いつけてやる!と言うわけだ。まるで先生に言いつけてやると騒ぎ立てる小児だ。

こういった輩の相手をするのは大きなストレスになる。しかし鈴木巡査はそういった輩に対応するときこそ生き生きしているように見える。小柄で体格も貧弱であるのに嬉しそうですらある。

一般市民であれば敬遠し、距離を置きたいと思う傍若無人な輩が鈴木巡査には手を出せずに、そういった幼稚な行為を取るのが自分が持つ警察官の権力を恐れているように感じるのだろう。
鈴木巡査はそんな幼稚な彼らより更に幼稚になることで、つまり無頼な彼らより自分を下に置くことで弱い自分が無頼漢から権力で守られているという事実を見い出し楽しんでいるようだ。
鈴木巡査は学生時代いじめられていたのかもしれない。

パトカーは吾妻橋と駒形橋の丁度中間にある雷門郵便局の前の信号が赤になり再び停止した。

鈴木巡査に慌てる様子はない。田中が前方に目を向けると件のトラックは駒形橋西詰交差点で停止していた。

田中は思わず舌打ちするところだった。トラックはとっくに駒形橋交差点を過ぎていると思っていたのだが、おそらく制限速度を厳守し交通法規のお手本のような運転をしていたのだろう。制限速度を守って走る車と言うのはペーパー以下のドライバーか間違っても目付けられるわけにはいかない犯罪者くらいのものだ。トラックの運転手はペーパードライバーではないだろうしもちろん若葉マークもついていなかった。

警邏中の警察官が不審に思うのは、警察官から不自然に目をそらそうとする輩や、不自然なほど交通法規を守って走っている車だ。運転技術に自信が無くゆっくりと走っている車ならそれとなく見分けがつく。

不自然に目をそらす輩と、不自然なほどキッチリと交通法規を守る車。どちらがより不審と見えるかと言えばもちろん後者、キッチリゆっくり走っている車だ。

警察官から自然と目をそらす奴はいない。そもそも警察官と目が合うこと自体が自然なことではないからだ。漫画やドラマのように震えるように目をそらすようなヤツがいれば別だが。

そして不自然なほど交通法規を守って入っている車と言うのは、絶対に止められたくないと思っている犯罪者か、クソが付くほど真面目なドライバーだ。
そして無免許や飲酒はもちろん違法薬物を持っている絶対に止められたくないと思っているドライバーと、クソが付くほど真面目なドライバーのどちらが少ないかと言えばもちろん後者だ。

もちろんそれだけで呼び止める理由にはならないが、今の鈴木巡査には十分すぎる理由を与えている。

トラックは左のウィンカーを点滅させていた。駒形橋の信号が青になりほどなくして雷門郵便局前の信号も青になった。パトカーとトラックの間には数台の車があったが鈴木巡査が慌てる様子はない。

それはそうだ。吾妻橋を渡ってきたトラックが駒形橋に向かおうとしているわけだ。橋を渡りたいわけではないだろう。おそらく駒形堂を回るように駒形橋の袂の細道に入っていくのだろう。さすがに鈴木巡査でもそれくらいは予測できたようだ。

鈴木巡査がパトカーをゆっくりと進める。トラックとの間には数台の車がいる。歩行者用信号が点滅し始め赤に変わるとトラックは左折を開始した。

パトカーが駒形橋交差点に着くころには信号は赤になっていた。鈴木巡査はパトカーを止めた。田中と鈴木の二人は駒形堂をなぞるようにさらに左折し駒形橋の袂の細道へと入っていくトラックを見つめていた。助手席に座る男性が見えた。年齢は30過ぎと言ったところか。

信号が青になると鈴木巡査はパトカーを発進させ、トラックの軌跡を追うように細道へと入っていった。200メートルほど先にトラックは止まっていた。


ドラグが空のビール樽とゴミ袋を持ってビルの間の細道を抜け道路にでると、エビス屋のトラックはドラグが止めた所に変わりなく止まっていたがその後ろにはパトカーが止まっていた。トラックの助手席には当然レンゾがいたがそのドアの前には二人の警官がいた。

一人は40を少し越えたくらいだろうか、年上なのは間違いないだろう。
助手席のドアの窓ガラス越しに見える姿からすると身長はレンゾと同じくらいだろうか?そして、ややがっしりとした体格だ。もう一人の警官がレンゾと話しているのを少し後ろで見守っているといった感じだ。

そのもう一人の警官は眼鏡をかけていてだいぶ若い。間違いなく20代だろう。身長は警官にしてはだいぶ低いように見える。

まずレンゾが道路に出てきたオレに気が付いた。その視線を追うように二人の警官もこちらに視線を向けた。ドラグがビール樽とゴミ袋を両手に持ちゆっくりと歩いていくと、小さい方の警察官がこちらに歩いてきた。こちらを値踏みしているかのように軽く首をかしげていた。

身長は160くらいか?警官のわりにはだいぶチビだな。そのくせ頭がデカい。まあ頭の大きさってのは身体の大きさに比例するってもんでもないだろうからな。

しかし分厚い眼鏡を掛けた頭部はあちこち尖ってるサッカーボールみたいで、まるでのび太とスネ夫を足したよう顔だな。

いや、オレは人を見た目で判断したりすることはないぜ。ただチビで不細工な警官に値踏みされるような目を向けられるともう生理的な嫌悪感が先についてとてもじゃないがいい気分ではいられないなってことだ。

しかしなにか気に入らないな。交通違反でもあったっていうのか?ないよな?

ドラグの前に小さい方の警察官が立ちはだかった。

「なんですか?ここは一方通行にも・・・」

ドラグが言い切る前に警察官が遮るように言った。

「ドライバー?」小さい警察官の声は妙に甲高かった。

「ええ、そうですけど、ここは一方通・・」

「免許証出して」

何だこいつは、会話する気が無いのか?まぁ下手な世間話を始められても困るけどな。良く言えば話が早い、気に障るけどな。

ドラグが腰袋から財布を取り出し、財布から免許証を取り出し小さい警察官に渡した。

レンゾに目を向けると年かさの警察官とどこか楽し気に話をしている。レンゾの顔は見えないが年嵩の警官の顔を見る限り険悪そうな雰囲気は少しもない。

しかし警官と言うのは大概、生意気な若造とそれを取りなすような中年がコンビを組んでいるように思える。まるで警察にはそういった決まりがあるんじゃないかと思えるほどだ。

「ゴトウ・・ナオキ・・かな?」

それ以外にどう読むんだよと思いつつも素直に答える。

「ええ、そうです」

「財布見せて」小さい警官が免許証を返す代わりにドラグの財布を要求してきた。

何故?とは思ったがドラグは免許証を受け取りカラビナから財布を外し素直に警察官に渡した。

警察官は財布を隅々まで確認するつもりのようだった。小銭入れからカードの一枚一枚まで確認していた。

財布には数万円分の日本円と同じくらいの台湾紙幣が入っていた。10年ほど前に行った台湾旅行の残りだ。また行けるようになった時の為に財布に取ってあったのだ。

「中国……の人?」小さい警察官が言った。

どういうことだ?たった今「後藤直樹」と書かれた免許証を見たばかりだろう。それに財布に入っていた台湾紙幣に描かれている肖像画は孫文だ。中国のお札に描かれているのは毛沢東のはずだ。台湾人?と言うならまだわかるがどこから中国人がやってきたんだ。

「いや、日本人ですよ」

「そう……。その袋の中を見せて」自身のミスに気がついたのか気がついていないのか、警察官は表情を少しも変えずにドラグに財布を返しつつ革製の腰袋を指して言った。

ドラグが財布を受け取ろうと手を伸ばすと財布から数枚のカードが抜け落ちた。

わざと、じゃあないだろうがこの警官は財布を逆さにして返してきたからだった。

ドラグが落ちたカードを見つめてから警察官に顔を向けると小さい警察官は目を逸らすようにトラックの荷台に目を向けた。落ちたカードを拾う様子はなかった。

拾え。とは言わない。大事なクレジットカードや保険証の類いを他人に触らせたって得することはなにもないからな。でもその態度はどうかと思うぜ。トラックの荷台のアルミの箱はそんなに目を向けたくなるものじゃないだろ?サイケデリックなサイバーパンク七福神でも描かれているなら話は別だが青のペンキでエビス屋酒店と書いてあるだけだぜ。

ドラグは軽くため息をつきながら腰を落とし路上に散らばったカードを拾い集めた。数枚のカードを財布に収め終えると警察官は何事もなかったかのように再び「その袋、何が入ってるの?」と聞いてきた。

腰袋の中を覗き込むように顔を近づけてきたのでドラグは軽く仰け反りながら左の手のひらを向け警察官を制止した。

「今外しますから」

感じの悪い警察官にやり返したわけじゃないぜ。この警官、シンプルに口が臭いんだ、とんでもなくな。そんな風に顔を近寄せられたら匂いを移されそうな気がするだろ。
ドラグが腰袋を外し警察官に渡した。乗用車のリモコンキーと毛抜き、あとはもしもの時の為に財布とは別の三千円ほどの現金くらいしか入れていない。

警察官が腰袋の中を物色する間、ドラグはこの小さい警察官が放つ口臭がどこかで嗅いだことがあるような気がして思い出そうとしていた。

どこかで嗅いだことがある匂いなんだよな。皿も洗わず掃除もしないで2週間くらい放っておいたキッチンのシンクの臭いに近いがいまいちしっくりこない。捨て忘れた生ごみの詰まったポリ袋のような気もするがもっとピッタリでそっくりな匂いをどこかで嗅いだ気がするんだ。テーブルの上の裏返しに置かれたカードが何か確かめるくらい、あとちょっとひっくり返すだけで答えがわかるんだよ。だがそれが出てこない。

「はい」

腰袋を調べ終えた警察官が片手でどこかぞんざいに返してよこす。

別に賞状でも渡すかのように両手で差し出せとは言わないが、ただ腰袋を返すだけなのになぜか気に触る。

ドラグが腰袋を付けていると、警察官はトラックの荷台をコンコンと叩きながら言った。

「開けて」

まあ言われなくても開けるつもりだ。そりゃあそうだろう、空のビア樽とゴミの詰まった袋を荷台に乗せないとどうしようもないからな、言われなくてもそれがオレの仕事だ。今日に限ってだが。レンゾの方に目を向けると相変わらずレンゾの顔は見えないが、年かさの警察官はとてもにこやかな顔をしていた。

ドラグはため息でもなくフーッと息を吐いてから再びゴミ袋とビア樽を手にしてトラックの後部に回った。チビ警察官がドラグの後に続いた。そういえばこの警官は何歳で名前は何だろう。警察官と言うのはまず警察手帳を提示するものだと思っていたが最近は違うのだろうか。

ドラグはゴミ袋とビール樽を置いてベルトループから鍵束を外しトラックの荷台のドアを開けた。

雑巾に染みこませたドイツワインの甘い匂いが外まで漂ってきた。ドラグはカラビナをベルトループに戻しゴミ袋と空のビール樽を荷台に乗せ自身も中に乗り込んだ。

ラックのベルトを外し空樽を置き再びベルトをかけ、ゴミ袋を荷台の奥に運ぶ。

「なんか火薬のにおいがするな」

ドラグが振り向くとチビ警官が荷台の中を覗き込むようにしてクンクンと鼻を鳴らしていた。

「そこのバケツのにおいだと思いますよ」ドラグが答えると警官は荷台に置かれたバケツに顔を寄せてにおいを嗅いだ。

「これ、酒?なんか違うなぁ」

その口臭でどんな違いが分かるって言うんだ。アニメか何かなら荷台の中を見渡す警官の口から黄色い煙が出ていそうなくらいの口臭。そうだ、あの匂いだ、東京都心ならではの臭いだ。

荷台に積まれた荷物がこの口臭で汚染されそうな気がしてくるが警官はそんなことはお構いなしに荷台の中に顔を突っ込み中を見回している。

「あのバッグは?」警官が荷台の奥の黒いゴミ袋を顎で指示した。

ドラグが荷台の奥に顔を向けるとあとで奥に突っ込もうと思っていたイキのいいゴミ袋がラックの陰からはみ出していた。

「バッグじゃなくてゴミ袋ですよ。残飯から割れたグラスまで入っている飲み屋の産廃ですからね、丈夫な袋じゃないと」

警官は少しも納得していない様子だ。

「中を見せて」

「いや、もう口を塞いであるんで無理ですよ」

「開ければいいでしょ、中見せて」

「いや、あの、結んであるわけじゃなくて、粘着テープで閉じてあるから切らないと無理ですから」

「切ればいいじゃん」

ムチャクチャ言うなコイツ。

「いや、ですから、中身は残飯なんでここで開けたら荷台が汚れちゃいますよ」

「じゃあ、外にだせばいいだろ」

「あの~ですね、道路で開けて残飯ぶちまけて誰が掃除するんですか?後片付けしてくれるんですか?」

ちょっと待てよ、こいつは知り合いだったか?いや、記憶はないぞ。見たところまだ20代半ばだろ?どういうつもりだコイツは。

「俺が?するわけないだろ、いいから早く中を見せろって」警官は何言っているんだばかりに半笑いで答えた。

ドラグはラックから新しいゴミ袋を取り出し警官に見えるように開いた。

「ほら、ここのテープを張り合わせて閉じるんですよ、だから中身を見せろと言うなら切って開かないとダメなんですよ。でもそんなことをしたら中身が・・・」

「いいから開けろよ」警官はくだらない言い訳は止めろとばかりにドラグの説明を遮った。

オレは36歳だよな。うん、間違いない。この警官は見たところおそらく20代半ばだろう。そしてオレと知り合いでもない。おかしいよな?

「お巡りさん、オレの年齢、分かりますよね?」

「は?知るわけな・・・」今度はドラグが眼鏡のチビ警官の言葉を遮って続けた。

「たった今、オレの免許証を見たでしょう、オレは36ですよ。お巡りさんは・・」

「いいから袋を・・」警官が再びドラグをいう事を遮ったがドラグも構わずに続けた。

「お巡りさんは25?26?くらいだと思うんですけど」

「何の関係があるんだ、袋を・・」

「で、オレのド忘れだったら失礼なんですけど、オレはあなたことを知らないんですよね」

「は?お前を?知るわけないだろ、いいからふく・・」

「ふざけんなよ!!じゃあテメエはなんで偉そうにタメ口なんだ!ケンカ売りに来たのか!!」ドラグは怒声を響かせた。この怒鳴り声はレンゾともう一人の警官にも聞こえただろう。



田中巡査部長はトラックの後方に到着したパトカーから降りた。鈴木巡査もパトカーから降りそのままトラックのキャビンへと歩を進めていったが田中はトラックのサイドミラーを見て運転手がいないことを確認していた。助手席に誰かいるようだ、田中は鈴木巡査の後を進んだ。

鈴木巡査がトラックの助手席にいる男性に声をかけた。高そうな臙脂色のレザーコートを着た男性は本に夢中だった。鈴木巡査に声をかけられた男性は本を置きトラックのドアを少し開けた。おそらくトラックを運転していた者は今、配達に行っているのだろう、そのためトラックの鍵が刺さっておらずパワーウィンドウが作動しないのだろう。

鈴木巡査が男性と一言二言会話を交わす間に田中はトラックの中を見渡した。怪しい所はどこにもない、男性が置いた本にはカバーがつけられておらず本の題名を確認することは出来なかった。

鈴木巡査が男性の免許証を確認し、またいくつか質問をしている間に田中は念のため外からトラックの全体を見て回った。怪しい所はどこにもない。空調機能付きの普通のアルミバンのトラック。エンジンを切っているところを見ると冷凍車ではないようだ。

田中は助手席の男性のそばに戻った。鈴木巡査が(見ます?)と男性の免許証をこちらに差し出した。念のために確認する。岸孝之。36歳。住所は中野区。

「ありがとう」田中が男性に免許証を返そうとすると男性が後ろを振り返った。

ビルの間の細道から一人の男性がビア樽とゴミ袋を手に出てきたところだった。年齢はこの岸と言う男性と同じくらいだろう。身長は180くらいか。おそらく彼が運転手だろう。

鈴木巡査が男性に近寄っていった。

向こうは任せよう。田中は助手席の男性、岸に免許証を返した。

「仕事中に申し訳ないけど、ちょっと確認したいだけなんですよ。すぐ終わらせますから」

岸と言う男性は仕事中だろうに迷惑そうな様子など微塵も見せずに「何か事件でもあったんですか?」と聞いてきた。

そう聞かれると返事に困る気もする。

「いや、まあちょっと、ね」田中は出来るだけあいまいに答えた。

岸が臙脂色のレザーコートのポケットから鍵を取り出すと運転席に身を乗り出しトラックのカギを差した。途端にトラックの車内に英語のラジオが鳴り響いたが岸がすぐさまラジオと何かスピーカーらしきスイッチを切った。

そして助手席に身を戻すと半開きだったトラックのドアを閉めパワーウィンドウを作動させ窓を全開にした。

「なんか違反、してないですよね?」岸が聞いた。

「いや、そんな事ないですよ、すぐ終わりますから、申し訳ない」彼も鈴木の口臭を嗅がされただろう。田中は心の底から謝罪した。

田中は申し訳ない思いでいっぱいだった。だがやるべきことはやらなくてはならないだろう。やるべきこと、つまりこの二人は何の問題もないと確認して、手間を取らせて申し訳なかったと謝罪をして改めて仕事に送り出すことだ。


「酒屋さんですよね?彼はゴミ袋も持っていたようですが」田中が聞くと岸が答える。

「後藤です。うちの社長ですよ。ま、うちは小さい酒屋なんで色々やるんですよ」

「飲み屋さんのゴミの回収もしていると?」もう一人の男の名前は後藤、そして社長。後藤社長。田中は頭にメモした。

「ええ、うちのお客さんは小さい飲み屋やスナックばっかりなんでね。ああいうサービスもやっていかないと」

「でも事業ゴミと言ってもシールを貼れば大丈夫でしょう?」一般家庭が出すゴミと違ってたとえ個人で営んでいる飲み屋であっても事業者が出すゴミならば回収は有料だ。一般家庭と変わらない量なら専用の有料回収シールを貼っておけばいいがそれ以上なら専用の回収業者に依頼せねばならない。

「ええ、そうなんですけど、うちが卸している小さい飲み屋さんはお年寄りが一人でやっている店が多いんですよ。そういったそのぉ、言い方はあれ何ですけど昔の方は分別もせずに割れたグラスやら空き缶、ペットボトルなんかも一緒くたで普通に一般ごみで出しちゃってたりするんで。まあなんていうか、近隣とトラブルになったり行政指導が入るかもしれませんよってことでウチが回収してあげますよってことです」

お年寄り一人の飲み屋から出るゴミなど大した量ではないだろう。その程度の量なら大概は大目に見られるだろうし、数百円のシールを貼れば何も問題はない。確かに分別もしないで出されるごみはいささか迷惑だろうがそこまで目くじら立てることでもあるまい。ようは何も知らない年寄りを少し引っ掛けているようなものだろう。まあ分別されないゴミを集めるのは悪いことではないと思う。だが逆に、集めたゴミをどうしているのかが気になる。大量のごみは数百円の有料のシールでは済まなくなるはずだ。専門の業者に回収を依頼しなくてはならないはずだ。酒一瓶から配達する業者までいて、一般人でも業務用ビア樽を買える昨今、どこからでも安く買えるビールや焼酎から出る利益で賄うのは難しい気がするが。

「無料で?さすがに儲からないでしょう?」

「いや、もちろん回収費用は貰ってますよ。で、集めたゴミを回収しにくる業者にちょっともらうんですよ、いやほんのお小遣い程度ですけど」

事業ゴミの回収業者が金を払ってゴミを取りに来る?田中の怪訝そうな表情を察して岸が更に説明を重ねた。

「いや、飲み屋さんから貰ったゴミの処理費用はほとんど回収業者に渡しますよ。でも、回収業者にしてみれば5軒も10軒も回って回収するゴミがウチにまとめてあって全部回収できるならちょっとくらいこっちにバックしてくれるってことですよ」

田中は思わず小さく頷いた。なるほどうまいこと考えるもんだ。

「今時、物を売るだけじゃやっていけないんですよ、ウチみたいな二人でやっているような小さい店は特に」


「でも、酒屋さんでバントラックって言うのも珍しいですね」後藤と岸。二人で経営するエビス屋酒店。田中は頭の中で情報を刷新してから、もう一度確認するようにトラックの荷台に顔を向けた。

「ああ、それで気になったんですか?」

「いや、まあちょっとね」田中は再びあいまいに答えた。

岸はその意図を図りかねたが答えた。

「お酒は平ボディーのトラックで運んでいたら味が落ちますよ、ビールなんか特にね」

「でもよく黄色いシートをかぶせて、ほらビールを守るシートとか書いてあるじゃないですか。あれじゃあダメなんですか?」田中は自身がよく見る光景を口にしたが岸は小さく首を横に振った。

「あんなシートじゃ何も守れませんよ、あんなの特別な処理がしてあるわけでもないただのビニールシートですから」

「でも紫外線を防ぐとかあるんじゃないですか?」田中には大手メーカーの配達業者が使っているようなシートが何も意味無いとは思えなかったが岸はさらに大きく首を振った。

「ビールは金属の樽に入っているから紫外線は関係ないです。大事なのは温度ですよ。今は真冬だからいいですけど、あんなシートをかぶせただけで真夏の太陽の下を走るのはビールをサウナで保存するようなもんですよ。ビールは言ってみれば麦の汁ですからね。穀物の汁ですよ、まあ腐りはしないでしょうけど」

「ふーん・・」田中が腑に落ちないとでもいう風に首をかしげると岸はさらに説明を続けた。

「ええ、大差ないとは思いますよ。でも居酒屋に飲みに来た客の一人でもいいから、この店のビールはなんか違うなって言ってくれる人がいれば、もちろんいい意味でね。それでいいビールを持ってくる店だってウチの評判が上がれば売り上げも上がるかもしれないってことです」

「なるほど」田中は少し納得できた気がした。飲み屋のゴミを集めたり温度管理でバントラックを使ったりそういう細かい所を上手いことこなして、まだ若い二人が大手と張り合っているんだろう、なかなか大変そうだ。


「それにうちはもちろんビールだけじゃないですからね、今は冬だからいいですけどワインやチャームなんか真夏に平ボディーのトラックで運んでいたら一発でダメになりますからね」

「ワインに・・チャーム?」田中はどうしてもワインと言う言葉には反応してしまう自分を少し情けなく思ったが寸でのところでごまかせただろう。

「チャームってのは・・・スナックとかで安っぽいちょっとしたおつまみ出てくるでしょ?チョコとか柿の種とか。あ、行ったことあります?」

「いや、それは知ってますけど、そんなものまで配達しているんですか?」

「ええ、ゴミと同じですよ。菓子問屋が一軒一軒スナックやパブに運ぶ代わりにウチがお酒と一緒に運んであげるんです」

「で、ちょっとお小遣いをもらうと?」

「そういう事です」岸がふんわりとした笑顔で答えた。なんともまあいい笑顔だ。美男子と言うほどではないが落ち着いた静かな感じの整った顔、少し前なら醬油顔なんて言われた感じだ。そしていかにも高そうで年季が入っていい感じに育った臙脂色のレザーのハーフコートに、これまた高そうなビンテージであろうジーンズはまだ二度も洗っていないだろうといった感じの色あいに仕上がっている。酒屋の作業着とは思えない恰好よさだ。さぞかし女性にもモテることだろう。もう特に聞くことはないだろう。しかし鈴木巡査は戻ってこない。トラックの後部に顔を向けてみたが鈴木巡査の姿は見えなかった。

「小売りはしていないんですか」

「ええ、してませんね。業務向けだけですけど、お巡りさんには安く回しましょうか?」

「いやいや違う!違います。そういう意味じゃないですよ」田中は手を振って慌てて否定した。こんな嫌がらせのような職務質問でそんな話になったら下手すると賄賂になってしまう。

すると岸の方も言い直すかのように続けた。

「いや違いますよ。ほら今じゃ、酒なんてインターネットで誰でも安く買えますからね。でもウチは最近ネットにも出てこないようなマイナーなヤツも探しているんですよ」

確かに今はそういう時代だ。ネットを使えば誰でも、何でも買える。だが田中がまだ子供の頃にはサザエさんに出てくる三河屋さんみたいな酒屋が家に配達に来ていた時代だった。当時はまだ車は一家に一台、当然それは父親のもだったし母親が運転免許を持っていることも少なかった。そしてスマホやインターネッともなくペットボトルもなかった。ソースや醤油すら一升瓶だったし今では当たり前にある酒類量販店と言うものもなかった。だから母親が車でスーパーマーケットに行って軽いペットボトルに入った醤油買ってくるというわけにはいかなかったのだ。三河屋さんが重い一升瓶に詰められた醤油やソース、それにビールをケースで運んできてくれるものだったのだ。

「ま、お巡りさんはワインの方が気になるみたいですね、何か探しましょうか?」岸が先ほどのさわやかな笑顔とは違い少しだけいやらしい笑顔で言った。

「田中と言います」自己紹介で何とかごまかしたつもりだがムダだろう。先ほどのちょっとした反応から見透かされていたようだ。客商売をしているだけあって観察眼が鋭いようだがあまりいい気分はしない。

「ワインっていえば・・後藤のやつがさっき貴腐ワインを割っちまって、ったく・・あのバカ・・」

岸が舌打ちしてウンザリした様子で言った。貴腐ワイン!?田中が色めき立ったところで・・・。

「ふざけんなよ!!じゃあてめえ!」

トラックの後部から怒声が響いた。鈴木巡査の声ではない。後藤と言う男の声だろう。

田中は慌てて鈴木巡査のもとに走った。


鈴木巡査は右手を腰に当て駄々をこねる子供にうんざりするような表情をしていた。田中がその表情の先を追うとトラックの荷台の中で後藤といった運転手がわがままを言う子供を睨みつけるように鈴木巡査を見下ろしていた。ゴツいレザーブーツを履いた後藤と鈴木巡査は20センチ弱の身長差がありそうだ。そういった者が高所から見下ろしていれば普通ならば鈴木巡査のような体格の者を威圧できるだろうが、歪んだ権力欲に取りつかれている鈴木巡査にとってはそういった者が自分に手を出せないでいるのこの状況こそが甘いオヤツみたいなものなのだ。

田中がどうした?と聞くと鈴木巡査は「いや、ちょっとそのバッグを開けてくれって言ったんですけど、なんかこの人がやたらゴネるもんで」やれやれと言った風に言う。するとすかさず「だから!残飯をばらまいたら!誰が掃除するんだ!お前がやるのか!?」トラックの荷台の中から後藤が唸るように吠えた。

小さく「やるかよ」とつぶやいた鈴木巡査を咎めるように睨んでから田中がトラックの荷台を覗き込むとなるほど、荷台の奥に大きな黒いバッグが置いてあった。おそらくアレが飲み屋から回収したゴミをまとめておく袋なのだろう。確かにゴミ袋と言うよりバッグと言った感じだがナイフのように鋭い割れたグラスや丸ノコのような空き缶を残飯と一緒に詰めておくにはアレくらい丈夫でないとダメなのだろう。

「あれ、残飯の液がこぼれないようにもうテープでくっ付けてあるから剝がせないんですよ、切って開けろって言うなら別ですけど」

いつの間にか田中の背後に立っていた岸が言った。田中は後ろを振り返り岸に「分かってます」と小さく頷き小声で鈴木巡査に聞いた。

「何が怪しいんだ?飲み屋のゴミなんだろ?」

「いや、なんか怪しいんですよ」鈴木巡査も小声で答えた。

「何かって何がだ」

「何がって言うか、まあ勘ですよ」


勘ときたか。勘、警察官としての勘か。あまり笑わせるな小僧。

「お前な・・」道理を説いてやろうとした田中を遮るように鈴木巡査が更に小声で続ける。

「なんか火薬の匂いもしたし」まるで決定的な証拠をつかんでやったという感じだった。

「いや、お前・・」田中が諭そうとするも鈴木巡査はまた遮って言う。

「あとあいつ、中身は産廃だって言ったんですよ」鈴木巡査はこれがとどめとでも言わんばかりだった。荷台からは少し甘い匂いが漂ってきていた。おそらく後藤が割ったという貴腐ワインの臭いだろう。もったいない。

田中はいかにも仕方ないんだといった風に後ろを振り返り岸に荷台を指さし「申し訳ないんだがちょっとあの袋の中身を見せてくれないかな?」とジェスチャーを示したが岸は「それはあいつに言ってください」とジェスチャーで返され、どうぞと右手をトラックの荷台の後藤に向けた。

こうなっては仕方が無いだろう。ちょっと中身が見れれば鈴木巡査も納得するだろう。

「ちょっと中が見れればいいんだけど、少し切って中を見せてもらうわけには・・」田中が言い切る前に後藤までもが田中の言を遮るように唸った。

「だからよ!ちょっと切るのはいいけどその後どうするんだよ!誰が掃除するんだって言ってんだ!」

「いや、中身が見れればいいんだけどさ、ちょっと切ってもらえないかな?」

「あんたらはそれでいいかもしれないけど、その後に口の開いた残飯袋を荷台に積んでトラックを走らせるオレらはどうなるんだよ!ゴミ袋が転がって生ゴミが荷台に広がったら掃除してくれるのか!?それともゴミ袋に詰まった残飯を別の袋にアンタらが移し替えてくれるのか!?」

まあそうだな。言わんとするところはもっともだと田中が答えに窮したところで鈴木巡査が助け舟どころか船を沈めるかのようなことを言った。

「やるわけねえだろ、自分でやれよ」鈴木巡査は小声でなく、この場にいた三人すべてに聞こえるようにハッキリと言った。

田中と岸はびっくりしたように鈴木巡査に顔を向けたが後藤は歯を食いしばり怒りを抑えているようだった。

「ああ、じゃあ開けてやるよ賠償請求はお前らに送るからな!」

後藤はそう叫んで荷台の中のラックに近寄った。おそらくゴミ袋を切り裂くカッターナイフか何かを取り出そうとしているのだろう。

「勝手に送れよ」鈴木巡査はもう周りを何も気にせず言う。

「後藤、落ち着けよ」岸が割って入るようにいった。

「落ち着いてるよ!」後藤が振り返りつつ怒鳴って返すと「ならいいけどさ」と岸は再び距離を置くように言った。

「ゴミの掃除はお前らがやれよ!」後藤が田中を見て言った。

「だからやらねえよ、何言ってんだよお前」鈴木巡査が嘲るように言い返した。

「じゃあ、監察に請求書でも送ってやるよ!」後藤が怒鳴り返す。


カンサツ?鈴木巡査と岸は怪訝な表情をしたが田中は違った。

監察に請求書を送るだって?それはマズい。非常にマズい。渡部警部補に言われた「勝負をするな、じっとしていろ」という言葉が脳裏をかすめる。ゴミ袋を切らせてはダメだ。

「後藤くん?だったかな、まあちょっと落ち着いてさ」田中は、イラついているせいかまだカッターナイフを見つけられない後藤に声をかける。このイラついている後藤という男はゴミ袋を切り開け中身をブチ撒けたら監察に苦情を入れるだろう。それは田中の名前が監察に上がるということだ。それはダメだ、それが必ずしも黒星になるというわけではない。言ってみればそれは物言いが付けられるようなものだ。だが、その結果が黒か白かは関係ない、渡部警部補は「勝負をするな」と言ったのだ。「物言い」は勝負した結果だ。

もし監察に名前が上がったとしたらそれは昇進試験の合否を決める総合的な判断とやらに大きな影響を与えることになるだろう。

具体的には次に控えた昇進試験の合否が否の方に倒れるということだが、田中にとってはそれだけではすまないだろう。


渡部警部補が「今回は残念だったな、次は期待しているぞ」などと言ってくれることを期待するのはよほどの楽観主義者でもなければ無理というものだ。

「何もしない」こんな、世の中で最も簡単なことの1つすらできないやつを自分の大事な右腕にしようとする奇特な人間などそうはいない。もちろん渡部警部補は極稀にいるかもしれないそんな奇特な人間ではないだろう。

そしてそんな簡単な期待すら裏切った田中は次どころか今後の昇進試験で総合的な判断とやらを受けることになるだろう。もちろん「否」の方で。

筆記試験でいくら正答を書き込もうと、40過ぎとは思えない運動能力を持っていたとしても、少しも非の打ち所のない勤務評定を得ようとも面接試験で完璧な受け答えをしようとも、昇進試験の今後の一切が田中=否となるだろう。それは一生をノンキャリの巡査部長で過ごすということに他ならない。

それは何もない何も起きないどこまでも平坦なつまらない人生をどこまでも歩むようなものだ。そんな希望のない人生を避けるためにはこの後藤が監察に苦情を訴えることにはならないようこの場を収める必要がある、つまりそのゴミ袋を切らせてはならないということだ。


「落ち着いてますよ!」後藤はラックを探す手を止めて田中に振り返り言った。明らかに年長者である田中に対してはなんとか丁寧語で答えられるくらいには落ち着いているようだが口角を歪め眉間にシワを寄せているその顔はイラつきを隠そうとすらしていない。鈴木巡査の相手をしていればたいていの人はそうなるだろうが。

「それはゴミ袋なんですよね?」田中は後藤に対しての確認というより鈴木巡査に言い聞かせるために聞いた。

「そうですよ、見ての通り中はゴミでいっぱいですよ。そっちのお巡りさんには何度も言っているんですけどね!」

「何が怪しいんだ?」田中はもう一度小声で度鈴木巡査に聞いた。

「ですから、なんか怪しいんですよ。勘ですよ勘」

「いやな、勘とかじゃなく具体的に何が怪しいんだ」鈴木巡査には理詰めで納得させる必要がある。強引にこの職務質問を終わらせても理詰めで収めようとも鈴木巡査は納得しないだろうが、その後に鈴木巡査がこの件をどこかの誰かに愚痴をこぼした時に田中としてはそれを正す用意を備えておく必要があるというわけだ。

「なんか荷台を開けた時に火薬のにおいがしたんですよ」

田中は荷台に顔を近づけにおいを嗅いだ。甘い匂いがする。

「ちょっと失礼するよ」田中は後藤に声をかけ匂いの元と思われる荷台の端に置かれていたバケツを手に取った。

中にはワインを吸って黒く濡れたタオルと割れたワインボトルの欠片が入っている。これが後藤が割ったという貴腐ワインのなれの果てなのだろう。田中はバケツに顔を近づけもう一度においを嗅いだ。貴腐ワイン特有の強い甘い匂いとわずかな布の臭い。田中は頭の中で二つの臭いを分別しワインの匂いだけに集中した。


貴腐ワインとは特別なカビが生えて糖度が異常に高くなったブドウで造られる極甘口のワインの事だ。

香りも通常のワインとは全く違う。とても強く複雑な甘い匂いがする。

そして貴腐と言うだけあってとても高価なワインになる。数千円で貴腐を名乗るワインも存在するがそれはカビの生えただけのブドウで造られたやたら甘いだけで臭く粗雑で明らかに貴腐とは程遠いワインでしかないことが多い。

そういった貴腐未満のワインは強い甘い匂いの中に生臭さや獣臭に近い匂いが混じっていることが多い。

しかし、このバケツの中のタオルに染みたワインからはそういった雑味の匂いが全く感じられない。芳醇で複雑な強い甘さとわずかな酸味を感じる香り。こういう本物の貴腐ワインはとてつもなく高価だ。ここに田中以外誰もいなければこのワインを吸ったタオルを少し舐めてみたくなるほど高価だ。

貴腐ワインもどきが数千円ならこの本物の貴腐ワインは最低でも十倍の値段はするだろう。

「これだろう」田中はバケツを向けたが鈴木巡査は顔を背けた。割れてゴミとなったワインボトルのにおいを嗅ぐつもりはないようだった。

「これはワインでしょう、こんな甘い匂いじゃなくて火薬のにおいがしたんですよ」

「その甘い匂いの中に火薬みたいな匂いも混じっているってことだ」


鈴木巡査は知らないだろうが匂いと言うものは数十、時には数百と言う分子を人の嗅覚が感知するという事だ。一口にワインの匂いと言ってもワインの匂いがする単一の分子が存在するわけではない。ワインの匂いとは、ワインから発せられる様々な分子を人の嗅覚が感知し総合的に判断した結果なのだ。

鈴木巡査がこの貴腐ワインの匂いの中から火薬のにおいを感じ取れたのは称賛に値するが、それならばその前に自身の口臭にも気が付いて欲しいものだ。

田中はもう一度バケツの中の匂いを嗅いで「これだよ、問題ない」と言った。

鈴木巡査は全く納得がいっていないようで興奮気味に「こいつ、中身は産廃だって言ったんですよ!」と語気を強めた。

もう声を抑える気もないようだ。うっかり口を滑らした犯罪者を見つけたとでも思っているのだろう。

田中は呆れて鈴木巡査を見たがそれは岸も後藤も同じようだった。

「毒物か何か入っているとでも?まあ飲み屋の残飯ですから毒物って言えばそうかもしれないですけど」岸が苦笑いして言うと後藤も続いた。

「まさか放射能とか簡単に人を殺せる何かヤバいモンが入ってるとでも思っているのか?」トラックの荷台から鈴木巡査を文字通り見下して言った。

三人がグルになって自分をだまそうとしているとでも思ったのか、鈴木巡査は顔を真っ赤にして声を荒げた「こいつは確かに言いましたよ!産廃だって・・・」

それを田中が遮って言う。「あのな、産業廃棄物って言うのは事業ゴミの事だ」

「産廃は産廃でしょう!?」田中は興奮気味の鈴木巡査の顔を見下ろしながら思う。なんでこの男はこんなにみすぼらしく、そしてここまで無知なのだろうか。せめてどちらか片方にしてほしいものだ。

「産廃ってのは事業者が出すゴミの事だ。豆腐屋のオカラだって天ぷら屋の廃油だって捨てるとなれば事業ゴミ、つまり産業廃棄物だ。飲み屋の残飯だって同じだよ」

そう言われ鈴木巡査は理解はしたようだが納得は出来ないようだ。

「勘ですよ!俺の勘は!」

「もういいからPCに戻ってろ!」田中はパトカーに目を向けて言った。

「怪しいんですって!勘ですよ!」

なおも引こうとしない鈴木巡査を睨み田中はいいから戻れとだけ言った。興奮していた鈴木巡査だがさすがに田中に睨むような顔を向けられて不満そうではあったがようやくすごすごとパトカーに歩いて行った。


田中は後藤に顔を向けてから後ろの岸を振り返り見て、もう一度後藤にすまなそうな顔を向け言った。

「ゴミ袋はさ、もういいですよ。忙しい所に時間を取らせて申し訳なかったね」

「しかし産業廃棄物って・・」後ろの岸が鼻で笑いながら言うと後藤が「火薬のにおい?」と言いながら小馬鹿にしたように荷台の中のにおいを嗅ぐ真似をした。

「それは、これでしょう」田中がバケツを指さした「高そうな貴腐ワインだけど・・」

「キフ?ドイツワインですよ」荷台の中の後藤は怪訝そうな顔をした。

「お前が割ったやつな」打ち返すように岸が言うと後藤はまた先ほどとは別のイラつきが戻ってきたかのようだ。

「悪かったって言っただろ!まだ謝れって言うのか!?」おかしなところから第二戦が始まってしまったようだ。おそらく後藤がこの高価なワインを割ったことで二人の間で一悶着あったんだろう、それが再燃してしまったのか。もしこのバケツの中身が田中の物だったら・・・。そう考えるとなかなか難しい、簡単には許しがたい問題にはなるだろう。

「もう少し気を付けてくれって言ってるだけだ」岸は静かに返す。

「気を付けてるさ!悪かったよ!高いワインだもんな!お前のな!!」負けじと後藤も言い返した。

「なんだよその言い方。サキちゃんにエビス屋からプレゼントするつもりのとっておきのワインだったのに」岸は肩を落とし呆れるような表情を地面に向けた。

「え・・?」後藤の表情が強張った。

「咎めているわけじゃないし弁償しろと言ってるわけでもないんだよ。注文された大事な品物だったらどうするんだよ、割っちゃいましたすいませんじゃすまないだろ。高いからって事じゃないんだ、値段じゃないんだ、大事な商品なんだ。もう少し気を付けろよ」岸の声は諭すように静かだったが視線は厳しく、後藤見据えていた。

田中の勘が、これに巻き込まれるのはとてもマズいと告げてきた。

「いや、まあ二人とも落ち着いて。誰にでもミスはあるから、ね?」田中は岸と後藤を交互に見た。後藤と岸は言い争いを止めて田中を見つめた。

「じゃあ、私はこの辺で失礼するよ。ホント申し訳なかったね」二人に頭を下げ逃げるように立ち去る田中の後ろ姿を岸が見つめていた。


何とかなっただろうか。危険から少しでも早く離れたいからか、それともイラつきからか田中の歩みは自然と早くなっていた。後藤と言う男はゴミ袋を切らずには済んだが仕事の邪魔をされたとか、非常に態度が悪い警察官に絡まれたなどと監察に苦情を入れたりしないだろうか。当たり前だが彼に「監察に連絡するのは勘弁してくれ」なんて言えるわけがない、それこそ藪蛇ってやつだ。

田中の脳裏に渡部警部補の顔が浮かぶ「何もするな」と言っている。荷台から睨みつけてくる後藤の顔も浮かぶ「監察に報告してやる」と言っている。

思わず「クソっ!」と口に出してしまった田中の前に不機嫌そうな鈴木巡査が立っていた。

「俺が乗る」田中はそう言って鈴木巡査に助手席に付くように手で示した。

しかし鈴木巡査は動こうとせず「俺の勘は」と言ったところでその口から何かが飛んで田中の胸に付いた。

唾か歯糞か分からないが、どちらであっても大した差はない。とてつもなく汚いものを投げつけられた気分になった田中だが歯をグッと食いしばり怒りを抑えた。一回深呼吸しポケットからハンカチを取り出し何がつけられたのかをあまり見ないようにして拭ったがそのハンカチをまたポケットに入れることすら躊躇われた。パトカーのドアを開け運転席のインパネにハンカチを投げ込み「乗れ」とだけ言った。田中は普段はこんな命令口調で指示することはない。

そんな否応ない田中の雰囲気に押され鈴木巡査は助手席に乗るには乗ったが少しも納得はしていないようで田中が運転席に付くなり噛みついてきた「勘もダメならどうやって犯罪者を見つけるんですか」

田中は返事をせずにパトカーを発進させた。


「行ったか?」後藤が荷台の中から声をかける。

「ああ、行ったな」岸が、細道を走り去っていくパトカーに目を向けながら答えた。

「ふう、危ない所だったな」後藤が荷台から飛び降り振り返るとパトカーは交差点を曲がるところですぐに見えなくなった。

「俺はお前が本当にゴミ袋を開けるつもりなのかってビックリしたよ」岸が言った。

「そんなわけないだろ、誰が掃除するんだよ。それよりオレもお前が後藤なんて呼ぶからびっくりしたよ」

ああ、俺たちはドラグとレンゾで、岸と後藤だがお互いを名前で呼ぶことはない。なんせ二人だけでやっているわけだからな、エビス屋も東京サバイバーもな。オレが呼び掛けたらそれは岸の事だし、岸が声をかけたらそれはオレだけだからな。オレ達はお互いを名前で呼ぶことはない。よほど特別な時なら別だけどな。特別ってのは告白するときとか、そういう意味じゃあないからな。やめてくれよ気持ち悪いから。

「いや、お前が本当にゴミ袋を切るつもりなのかと思ったんだ。まあさすがにそれはないよな」

「さすがになあ。まあ余計な仕事が増えなくてよかったよ」

「しかしあのチビの警官の口臭は酷かったな」後藤が顔をゆがめて言う。

「ああ、トラックのドア越しでもきつかったよ、なんて言ったらいいか夏のゴミ捨て場みたいなにおいだったな」岸も同意する。

「あの匂いはあれだよ、豚小屋の匂いだよ、そっくりだったぜ」そう言われて岸もすぐに察しがついたようだ。

「豚小屋?ああ、確かにそうだ、腐った生ごみに小便を混ぜたようなにおいな」


東京も都心で豚小屋の匂いなんて縁がなさそうだが実はそうでもない。東京の芝浦には家畜の屠畜場があり、近県からトラックに乗せられて牛や豚が運ばれてくるんだ。牛はそんなに臭くないし豚を運んでいても多くは清潔で少し後ろを走っているくらいでは気が付かないくらいなのだが、中にはトラックで飼育していたのか?と言いたくなるほど臭いトラックがいる。そういったトラックは2キロ前を走っていたとしても「豚を運んでやがるな」ってのが分かる。イスラム教徒が豚肉を食べないって言うのはもしかしたらあの匂いのせいかもしれないな。まともな人間ならあの匂いをまともに嗅いだ日は豚肉を食べようとは思ったりしないはずだ。あのチビ警官の口臭はマジでそんな豚の匂いだった。


「人の口からあんな匂いがするなんて衝撃的だよな。荷台が汚染されるかと思ったぜ」後藤がウンザリしたように言うと岸がちょっとした疑問をぶつけてきた。

「そうだな。でもカンサツって何だ?監察医とは違うんだろ?田中・・あの年が上の方の警官はだいぶ慌てた感じだったな」

「監察医って言うのは解剖するやつだろ。監察はなんていうか、警察の監査って言うか、内部調査室みたいなものらしいな、オレもよくは知らないけど苦情受付係みたいなもんなんじゃないか」

「こんな苦情が来てますよって説教されるってわけか」岸が頷きながら言った。

「おそらくな、でも田中って警官そんなに慌ててたか?そうは見えなかったけど」

「お前が監察って言った瞬間、僅かに顔がビクッとしてたんだよな」岸が思い返すように中空を見つめるように言った。

「ふーん、苦情が来すぎててこれ以上はマズいって感じの人でもなかったし・・・」今度は後藤が田中の姿を思い出しながら言った。

「そうだな、どちらかと言ったら苦情なんか全く縁のない人だったんだろうな」後藤より少しだけ田中と多く接した岸の感想だ。

「真面目そうな人だったしな、なんかワインにも詳しそうだったけど」後藤も田中の感想を返す。

「ああ、割れたワインが入ったバケツを名残惜しそうに見ていたな」と岸は言ったがそれは後藤も見ていた。

「そうだよ、そのワインはマジでサキタンへの贈り物なのか?」後藤が少しだけ焦った様子で聞いた。

「いや俺が飲みたかっただけだよ」岸がニヤ付いて答える。

この野郎!自分のためにあんな高いワインをストックしていたのか!

後藤は恨み節の一つもぶつけたかったが咄嗟に、あのバケツの中でタオルに吸われたワインでたった今の降ってわいたような面倒を避けることができたのも事実だ、しょうがないだろう。結果が全てだ。それに「俺が飲みたかっただけ」というのもそのままではないだろう。岸が本当に自分の為だけにあのワインを買ったのならトラックに積んでおく必要はない。おそらくは半々と言ったところだろう。

「でもよくわからないな、山梨ならまだしも」そう言った後藤の顔を岸が眉をひそめて見つめる。

「どうした?」

「おい、岐阜ワインじゃないからな」岸があきれ果てた顔で告げた。


吾妻橋の交差点に入るが赤信号だ。田中はパトカーを止める。

「聞いてます?」鈴木巡査は苛立ちを隠そうともしない。

「聞いてる」

「俺はあいつらが怪しいって思ったんですよ」

「勘でか?」

「そうですよ、俺が勘であいつらは怪しいって思ったのを田中さんが否定する理由は何ですか?勘ですか」

「そう、勘だよ。あの二人はどう見てもただの酒屋だ」

「そんなのおかしいじゃないですか!俺の勘は間違っていて田中さんの勘は正しいんですか!?」

「そういう事だ」

鈴木巡査が苛立ち熱くなるほどに田中は冷めていく。この幼稚な男が興奮する姿を見れば見るほど自分を客観的に見つめることができて冷静さを取り戻せる。こんな男にも意外ところで役に立つところがあったようだ。

信号が青になり田中はパトカーを発進させた。

「お前、検挙は何件ある?」

「そんなの、いくらでもありますよ!」バカにされたかのように鈴木巡査が憤然と答えると田中はさらに冷静になれる。

「交差点に隠れて挙げた一時停止無視や携帯注視は別だぞ。交通違反者じゃない、犯罪者を捕まえたことはあるか?無いだろ?」

「そりゃあ・・・。それはまだないですけど」

「じゃあお前の勘っていったいなんだ」

「勘って・・・。直感ですよ。田中さんだって勘であの酒屋を見逃したんでしょう?」

「お前の勘とオレの勘は違う、さっき言っただろ」

「だから何が違うんですか、勘もダメならどうすればいいんですか?」

「警官になって数年のお前の勘と、20年の間で酔っぱらったヤクの売人や頓珍漢なスーツを着た詐欺の受け子を捕まえてきた俺の勘とは全然違うだろう。勘って言うのは飽くまでも経験に基づくものだ」

「そんなの・・・。勘もダメならどうすればいいんですか」ここまで言っても鈴木巡査はまだ納得できないようだ。

「勘もって、勘以外で捕まえればいいだろう?俺はそれ以外は否定していないぞ」

「火薬のにおいがするって言ったのは?」

「それはワインの匂いだって言っただろ。あのバケツの甘い匂いの中にわずかにニッキのようなスパイシーな感じがあった。それが火薬のにおいに感じたんだろう。産廃については、もういいだろ?」

鈴木巡査は言い返せることもなくなりふてくされるようにそっぽを向きようやく口を閉ざした。ぐうの音も出ないといったところだろうが鈴木巡査にはもう一つ言っておかなくてはならないことがある。

「あとな、ハコに帰ったらすぐに歯を磨け。何日歯を磨いてないんだ?酷い匂いがするぞ」

「えぇ!?」鈴木巡査が途端に顔を赤らめた。

意外な反応だった。後藤と言う男のあの剣幕だと鈴木巡査の口臭にも口撃したものだとばかり思っていたがそうではなかったらしい。

「はい。でも彼女が・・」と小さく答えた。

こんな鈴木巡査にも彼女がいて、最近まではその奇特な彼女に歯を磨いてもらっていたらしい。磨いてもらっていた。つまりはそういう事だ。

「歯ぐらい自分で磨け」田中がそう言うと鈴木巡査は以外にもおとなしく「はい」と答えた。


岐阜じゃないとしたら寄付?なんだかわからないがもういいだろう。問題はなくなった。ドラグはトラックの荷台を閉めて施錠してから運転席に乗った。レンゾは早速助手席で読書の続きを始めている。

ドラグはトラックのキーをシリンダーに差しこみ回そうとして止めた。

いや、問題はある。ゴミ袋なんかよりもっともっと重大な問題だ。

なぜレンゾは今日のログインボーナスでボディボックスを引いたのかっていう事だ。これは見過ごせない。これはこの東京サバイバーと言うゲームをブッ壊しかねない重要な問題だ。

レンゾが何かしらの理由で今日のログインボーナスがボディボックスだと分かっていたのか?それは問題だ。

レンゾが何かしらの方法で今日のログインボーナスでボディボックスを見事引き当てたなら。これも問題だ。

統計学の本とやらを読みたいレンゾが無謀な賭けをして、そして勝った。それならば問題はない。でもそんな偶然があると思うか?今日たまたま?あるわけがないだろ。つまりこれは放ってはおけない問題ってことだ。これはレンゾに聞かなくちゃならない。

ドラグはトラックのキーから手を放しレンゾを見た。

レンゾもどうした?と言った風にドラグを見る。

「今日のログインボーナスなんだけど、なんでボディボックスだってわかったんだ?狙って引いたのか?」オレは単刀直入に聞いた。その方が話が早いからな。するとレンゾはいかにも勿体つけるように「どう思う?」と返してきた。

どう思うかって?さんざん考えて分からないから聞いたんだ。

「たまたまってことはないだろ。そうなると・・引けるのを知っていたか・・・・狙って、引いたか?」

「そんなことできると思うか?」レンゾが軽くニヤ付きながら答えた。

「無理だと思う、だから聞きたいんだ」オレはつまらない見栄を張らずに素直に答えた。

「まあいいけど、タダじゃなあ」レンゾがいたずらな顔をして言う。

そりゃあそうだろう、こんな大事な情報をタダで教えろなんて虫が良すぎるってもんだろ?

いや、これはこのゲームで本当に重要な事なんだ。これはみんなよりオレの方が分かっている。大丈夫だ。

「いいぜ、何でも言ってくれ」オレは当然そう答えた。

するとレンゾは意外そうで少し困惑した風な表情をして言った。

「いや、じゃあさ今日の晩飯も頼もうかな」

そんなことか?お安い御用だ。


オレとレンゾはエビス屋で一緒に住んでいる。レンゾは中野区の中野通り沿いのマンションを持っているがほとんど帰っていない。基本はエビス屋に寝泊まりしている。

そして二人のメシと言ったら平日の朝飯兼昼飯ははパンを焼いて食うか朝マックのソーセージマフィンとフィレオフィッシュを食うくらいだが晩飯はちゃんと作って食う。そして暗黙の了解ってやつで土曜の晩飯とエビス屋が休みである日曜の朝夜は必ずオレが作るがレンゾが作る曜日は特に決まっていない。

明日が休みとなる土曜の晩飯は時間を気にせずゆっくりと時間をかけてた料理を作れるからな。二時間煮込んだカレーも作れるし、弱火でじっくりと炒めたセロリたっぷりのミートソースも作れる。日曜の朝はまあ大したものは作らないがそれもまた同じだ、時間を気にせずゆっくりと。


オレが初めて和さんに色々と料理のコツを聞いたとき、和さんは意外どころかビックリしてたもんだ。

和さんはオレを毎日コンビニ弁当を食ってるようなタイプだと思っていたらしい。そこへレンゾがやってきて「こいつのメシも美味いんですけど和さんほどじゃないんで色々教えてやってくださいよ」なんてよくわからん助け舟を出してくれたおかげか今じゃ和さんはオレが聞けば至高のレシピや究極のコツなんてものまで何でも教えてくれる。

「お前は作らないのか?」と聞かれた岸が「いやあ、まあ時間があれば」と答えると和さんは心底意外そうにオレとレンゾの顔を見比べていたもんだ。なんかちょっと失礼だよな?

まあそういうわけでオレは自炊する。大体オレが二日か三日か、まあ時には四日連続で晩飯を作ったらさすがに次はレンゾの番だ。つまりオレが土日のメシを作った次の月曜か火曜か水曜にレンゾの日になり、その後オレがまた二日か三日、四日連続で飯を作ったあとの木曜か金曜がレンゾが飯を作る日になる。まあそうだな大体二週間で三回くらいはレンゾの番が来るってところだな。

三日連続オレが晩飯を作った次の日のレンゾのヤツは笑えるぜ。今日が自分の番になるのか、何とかもう一日遅らせられるかってところでレンゾはキッチンには近寄らないし、メシの話も一切しない。

「カレーが食いたいな」なんて言ったらオレに「カレーくらいお前も作れるだろ」って言われると思っているのかもしれないし「鶏五目御飯が食べたいな」なんてレンゾには作れそうもないメニューを言われたらオレも作ってやるけどそうなると今度はオレがレンゾに次のメニューをリクエストする権利が発生する。なんて思っているのかもしれないな。


オレは晩飯を作ることには何の抵抗もないどころかむしろ楽しんでいると言ってもいいし、レンゾに無理強いをするつもりはこれっぽっちもないけど、オレはレンゾの飯係でも家政婦でも嫁さんでもないからな、たまにはレンゾにも負担してもらわないとな。

まあそんなわけでオレが三日と四日と晩飯を作ってさ、さすがに今日はレンゾの番だぜってなるとあいつは途端にピザが大好きになるんだよ。

「今日はピザ食いたくないか?」とか言い始めるんだよ。

さすがのオレもピザは作る気が無いしレンゾのやつももちろんピザなんて作れるわけがない。そうなると当然手を伸ばすのは冷蔵庫のドアではなくてあいつのスマホだ。つまりさ、レンゾが手にするのは包丁じゃあなくてドミノかハットのチラシってことだ。

「中華料理食べたくないか?」って言ってきたときはさすがにレンゾだって冷凍炒飯をレンジに入れて冷凍餃子を焼くくらいできるよなって思ったら近所でもない中華料理屋「太陽軒」のメニューを持ち出してきたこともある。まあ確かに太陽軒は何を食ってもウマいけどな。

「パエリヤなんかどうだ?」って言われたときは少しびっくりした。うん、まあパエリヤなんてフライパンに米と適当に切った野菜と適当なシーフードに水、あとはコンソメキューブでも入れて火にかけるだけだからな。沸騰したら弱火にして耐熱ガラスの蓋越しに中身を見てうまそうになったら出来上がりだ。誰でもできる。もちろんレンゾのやつが出してきたのは冷凍シーフードミックスですらなく最近オープンしたてのデリバリーパエリヤのチラシだったけどな。

オレはな、オレばっかりメシを作ってレンゾが全く飯を作らなかったら不公平だなんて思っているわけじゃあないし、レンゾの作ったメシが食いたいわけでもない。

もしレンゾに炒飯でも作らせたら血で真っ赤に染まったチキンライスもどきにソーセージの代わりに指が二本くらい入って出てきそうだからな。


じゃあなんでレンゾに無理難題をふっかけるようなことをするのかって言ったらそれは面白いからだな。

レンゾがあの手この手でなんとか自分の当番を誤魔化そうとしているのを見るのは面白いんだよ。

少ない手札の中からオレにいつ「ダウト!」って言われるかオレの顔を伺いながらそーっとカードを出してくるんだぜ。

2回連続ピザはもちろんダウトだし、オレが炒飯を作った次の日に出前中華のメニューを出すのも当然ダウトだ。あいつなりに必死に考えながら少ないカードの中から慎重に慎重を重ねてカードを出してくるから今のところダウトは一度もない。まぁいざとなったら「和さんのところ行かないか」っていう問答無用の最強カードがあるけど勿論そのカードはそう頻繁には使えない。ジョーカーが何枚もあったらどんなゲームもつまらなくなっちまうし、オレだってジョーカーを使う権利はある。

だからレンゾは和さんのところっていうジョーカーを使うときは新しく仕入れたクラフトビールを外人さんたちに試してもらいたいって理由をつけることが多いな。酒屋問屋のエビス屋が訪日観光客相手に地方のクラフトビールのテイスティングを頼む意味はさっぱり分からないけどな。まあそれもレンゾのやつが必死に考えて出したカードならこっちも笑って受けてやるしかないだろ。

それはちょっとしたスパイスってところだけどそれも大事だよな。いくら美味しい料理でも二回連続で食べるのは楽しくないが、そこにちょっとしたスパイスを振りかけるだけでまた違った気分で味わうことができるからな。


まぁな、料理がレンゾの数少ないの弱点ってわけだ。その弱点をコソコソくすぐってやる。こんな面白いこと中々ないだろ?

それが今じゃあウーバーイーツや出前館なんてもんが流行りだしてレンゾの手札は切り札でいっぱいになっちまってる。チラシって言う紙切れだけどな。

こんなもんレンゾがカードを2セット持っちまったようなもんだろ。そんないくらでも好きなカードが出せるやつにダウトなんて言ってもなんの意味もないだろ、まったく世の中にはつまらないことを考えるやつがいるもんだよな。


で、今日はオレが運転も配達もして、さらに晩飯も作ってくれってことか。

まぁ賭けに負けたオレが悪いわけだし、何故今日のログインボーナスでボディボックスをゲットできたのかは絶対に教えてもらう必要がある、絶対にだ。

これは絶対に必要だ、みんな信じてほしい、このゲームのことはオレが1番わかっているんだ。

「分かった、でも買い物は頼むぜ。まぁ好きなモン買ってきてくれよ」

オレはキーを回しエンジンをかけトラックを発進させつつ告げた。

「なら帰りにオゼキに寄ってくれないかな」レンゾは、申し訳ないんだけどといった様子だった。

「あぁわかった」お安い御用だ。スーパーマーケットのオゼキな。

しかしレンゾのやつ殊勝というのか謙虚というのか随分と低姿勢だよな。レンゾが見つけたのは言ってみればこのゲームの綻びだ。綻びって言うのは靴下に空いた穴と同じですぐに大きくなるもんで、逆に言えばふさがることなんてない。でかい穴の開いた靴下は捨てるだろう?それと同じでデカい穴のあいたゲームなんて面白いわけがないからな。ジョーカーが何枚でも引けるポーカーなんて1プレイで飽きるだろ?だれも見向きもしない。

確かにまだ小さい綻びだろうが、それを見つけたって言うのが大きいんだ。

レンゾのこの遠慮がちな様子から察するに、おそらくボディボックスを狙って引けたというわけではないんだろうな、引くアイテムの予想がついたってところだろう。そしてここまで控えめと言うか謙虚な様子から察するにおそらくその予想は確実なものではなくあくまでも引ける可能性が見えたってところだったんだろうな。

確実にボディボックスを引けると分かっていたのなら、ちょっと本を読ませてもらうなんて些細な賭けじゃなくもっと大きい賭けに出ていただろうからな。


ドラグはトラックを走らせ吾妻橋の交差点に出ると赤信号で停車させた。

「で?」どんな綻びなんだ?

「うーん……」なんだまだ勿体つけるのか、それはあまり殊勝じゃないぞ。

ドラグが先を促すようにレンゾの顔を見るとレンゾもドラグを見たがすぐ視線を外し気まずそうな顔で言った。

「気をつけろよって、言ったよな?」

ああ、言ったな。でも今はそんなことはどうでもいいだろ。なんだ?ここでもったいぶるのか?それはちょっと違うと思うぞ。

さすがに「そんなことはいいから早く教えろよ」とは言いたくない。ドラグがもう一度レンゾを見るとレンゾは雷門の方向を顎で示した。

ドラグはレンゾが示すままに雷門に目を向けた。雷門に何かあるのか?雷門に今日のログインボーナスが何か分かるヒントがあるっていうのか?あるわけないだろ。マジで何をそんなに勿体付けているんだ、まさかやっぱり晩飯一回じゃ釣り合わないとでも言い始めるつもりか?オレがレンゾの要求に素直に応じたからそれならもっと大きい要求をしておくべきだったとでも?それはさすがにセコいぜ。

もういいだろ、信号が青になっちまう。さっさと終わりにしようぜ。そう思ってレンゾに顔を向けたらレンゾのヤツはハーフコートの左のポケットからカバーをかけたレモンイエローのスマホを取り出した。左手に。レンゾは右利きのはずだが・・・。


ん?んん?今レンゾが左手にスマホを持っている。左のポケットから取り出した。右利きのヤツが左のポケットにスマホを入れるか?入れないだろう。レンゾが賭けを吹っかけてきた時に感じた違和感はこれだ。

そうか!そういう事か。くっだらねえ!!マジでくだらねえ!

「そういう事か、ああ確かに気を付けろって言ってたよな・・」レンゾが申し訳なさそうに「ああ、な」と呟いた。

だが間違っても「くだらねえ!」なんて口にはしない。そんなことを言ったらその実にくだらないトリックにまんまと引っかかったオレはもっともっとくだらない人間だってことになるからな。

レンゾは11時になった時に、オレがあのバカなプリウスを見つめている時にこっそりとログインボーナスをもらっていたんだ。

で、おそらくだがオレがそれに気が付いていない様だから気が付かれないようにコッソリと死角になる左のポケットにスマホをしまってというか隠してから、バレたらバレたで笑って誤魔化すくらいの気持ちとちょっとした茶目っ気で賭けを振ってきたんだろう。

だがそれに全く気が付いていなかったオレは負けるわけがないと自信満々で賭けに乗った。賭けが決まったあの時、レンゾが(すでに貰っていた)ログインボーナスをもらうためにスマホを取り出したのはハーフコートの左のポケットからだった。この時オレは確かに違和感を感じていた。だけど、あまりに有利な賭けだと思ってしまっていた。


実にくだらないトリックと実にマヌケなオレだったってわけだ。

そうなるとレンゾだってオレのマヌケさを進んで教えてやるって言うのも気が引けたんだろうな、オレがどこかで気が付くだろうって思っていたのかもしれないし、むしろ気が付いて欲しかったんだろうな、俺の横に座っているのはそんなマヌケな奴じゃないってな。でもオレはまんまそのマヌケでそのまま賭けを続行し、当然オレは負けた。

思い返せばおかしい所があった、普通に考えたらありえない話なんだがオレは負けるわけがないと思っていた賭けだったし、レンゾはオレがすぐにつまらないトリックに気が付くだろう思っていたからだろう。レンゾが負けた時の取り決めが無かったことだ。オレは歩の良すぎる賭けで負けた時の悔しそうなレンゾを想像して満足し、勝った時の自分の要求を全く考えていなかったんだ。

レンゾを見ると顔に「誠に申し訳ない」と書いてある。どうする?やっぱり賭けはナシにしようぜって言ってみるのも手か?無い。それは無いだろ。そんなことを口にしたらくだらねえトリックに引っかかった自分が更に情けなくなるぜ。

「食いたいもん買って来いよ」オレがそう言うと信号が青になりオレはトラックを発進させた。


ドラグ達がいた吾妻橋交差点から数キロ離れたとある建物の一室。山井那奈は薄暗いコンクリートの部屋を隅々まで満たす爆音のヘビーメタルを全身に浴びながら、血と汗と垢と精液と尿で汚れたベッドの上でぼろきれのような毛布で体を覆い、寝ているのか気を失っているのかすらわからない状態で意識を半ば失いながら凍えるように体を震わしていた


残りの配達と買い物を終えレンゾとドラグはエビス屋に帰った。

東京は江東区のいわゆる江戸下町の一角である木場地区にエビス屋はある。

元々はここで木材商を営んでいた叔父からドラグが相続したものらしい。ドラグが言うには、妻と子供に先立たれて他に身寄りがなかった叔父が遺言でドラグに贈った物らしい。木材商らしいそこそこに広い敷地に作業場兼住居の建物がある。建物の背後は元は木材商だけに運河だったが今はカルバート化されて遊歩道になっている。

ドラグがトラックのサンシェードを下げてスイッチを押すと建物のシャッターが上がりトラックを中に入れた。

昔は東京湾から水路で運ばれてきた丸太を留めておく貯木場でもあった後ろの運河から丸太を建物内に引き上げて製材しトラックに積んで配送していたようだ。

丸太を運河からから引き揚げていた部分とトラックを乗り入れる部分は今ではコンクリートの壁で塞がれ分けられているが酒屋のトラックを入れたくらいではだいぶ余裕があるくらいに中は十分に広い。ドラグの乗るマツダのCX-3とホンダのCRM125があり、レンゾの乗る同じくマツダのロードスターも止まっている。

ドラグはもう一度スイッチを押してシャッターを閉めるとトラックを降りた。


さてと、ゴミを始末しなきゃな。

ドラグは荷台に乗り込むと飲み屋から回収しまとめた二つのゴミ袋を荷台の後方に運び始めた。それをレンゾが倉庫のシャッターの前に運ぶ。

明日の昼頃に回収業者が来るから明日仕事に出るときに外に出しておけばいい。こんなバッグみたいでゴミ袋に見えない物を外に出しておくと夜中にいたずらするやつがいるんだ。もちろん中身をぶちまけられたらそれを掃除するのはオレ達だからな。


よし、あとは最後のイキのいいゴミ袋だな。あの口の臭い警官が執拗にこだわったゴミ袋だ。

ドラグは荷台のラックの奥にあった最後のゴミ袋を引きずって荷台後部まで運んだ。

「ボディボックス頼むぜ」そうドラグが言うとその呼び方が気に入らないレンゾは「分かってるよ!」とでも言いたいのかドラグを一睨みすると倉庫のシャッター脇の勝手口のドアを開けその奥の小部屋からキャスターの付いた青いボックスをゴロゴロと引きずって持ってきた。

別に賭けに負けた上にマヌケをさらした意趣返しをしているわけじゃないぜ?箱は確かに青いからな。海水浴場だったら中に氷とともに詰められたビールやコーラがキンキンに冷えて入っていそうな箱だからブルーボックスって呼びたい気持ちも分かるけどここは居酒屋の倉庫だし夏でもないし、この箱はクーラーボックスよりはるかに大きいからな。1メートル四方より少し大きいくらいと言ったところか。人一人が何とか入れそうな大きさだ。


レンゾがトラックの後部までブルーボックスを引きずってくるとコートの右ポケットからスマホを取り出しボックスにかざした。ボックスはピッという短い電子音を発し解錠された。

レンゾがボックスの蓋を開けるとドラグは足元の最後のゴミ袋を箱の中に投げ入れた。レンゾが蓋を閉めてもう一度スマホをかざすとピーっと長い電子音と共にブルーボックスは施錠された。もう二度と開くことはない。少なくともここでは。


まあレンゾのやつがブルーボックスって呼びたい気持ちもわかるぜ、この箱は確かに青いからな。

でもこの箱はボディボックスだ。

ボディを入れる箱だからな。

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