第四十五話 小田くんが大麻でラリって寝ゲロかまして死にかけてます!
「崎谷、どこへ行くんだよ」
小田は全ての指がおられた痛みと怒りに震え歩く崎谷に声をかけたが言葉は返されず崎谷はいびつな左手を押さえながら進んで行く。
「崎谷!」
「うるせえ!来たくなきゃついてくんな!」
「どこへ行くんだよ、病院か?」小田は左手の指を全て折られた崎谷が心配だった。自分にはどうすることもできないが放っておくこともできない。
「こんな夜に病院なんか開いているわけねえだろ!」崎谷が叫ぶ。
「ならどこへいくつもりだよ、とりあえず冷やそう、な?待てよ」小田は自販機でミネラルウォーターを買い歩き続ける崎谷に追い寄った。
「ほら、手を出せよ」小田はペットボトルのキャップを開け手を差し出すように言うと崎谷は素直に左手を向けた。当たり前だが痛いことは間違いないのだろう、小田はせめて水をかけて冷やしてやろうと思ったが差し出された左手はペットボトルの水をかけたところでどうにかなるようなものではなかった。崎谷の差し出した左手は作り方が何も分からない子供が作ったプラモデルのようだった。繋がっているだけマシ、そんな状態だった。
思わずフレミングのイカれた左手という言葉が思い浮かんだがもちろん口にはしない。小田はそんな崎谷の左手に水をかけてやったがやはりそんなことでどうにかなるような状態ではなかった。しかし少しは気休めにはなったようだ。だがペットボトルはすぐに空になり小田はさらにペットボトルを買おうとまた自販機に歩み寄った。今度の自販機にはミネラルウォーターは無かった。
炭酸水はあるが、それは痛みを増やしそうな気がする。小田は少しばかり考え緑茶のボタンを押し待たずに歩き続ける崎谷に駆け寄り小田はまた左手を冷やしてやろうとする。
「あ?お茶じゃねえか」
「あの自販機は水が無かったんだよ、お前がドンドン行っちゃうから、ほら」そう言って小田はまた崎谷の左手を冷やしてやった。あの助手席の男に首を殴られたときはとんでもなく痛くて苦しかったしまだ鈍痛が残ってはいるがこの手に比べればはるかにマシだったと思える。崎谷の左手は大きく腫れあがっていて指はわけのわからない方向を指している。冷えたお茶をかけるだけでも痛みを覚えるようだったがそれ以上に冷たい液体に手を冷やされることが痛みを和らげているのだろう。
「なあ、どこかで手を冷やそうぜ、すげえ腫れているだろ」
「うるっせえ!!」
「冷やした方が良いって、どこに行くつもりだよ」
「蔵井戸んところだ!」
崎谷との付き合いは長くはないが短くもない。就職先を決めることもなく大学を卒業してブラブラしていた時に知り合ったのが崎谷だ。
大学に通っていた頃は親の仕送りでこの東京で好き勝手に生きていた。だが就職?俺が働く?髪の毛にポマードを塗りたくって剥げた頭を必死に隠そうとするオッサンにヘーコラ頭を下げながら生きていくっていうのか?冗談じゃない。
小田は就職先を決めないまま大学を卒業し当然、暇を持て余し東京の街をぶらつくだけのどうでもいい存在になっていた。親からの仕送りは適当な言い訳でわずかにつながっていたがそれだけで東京での生活を続けられるわけでもなかった。
小田は時に気弱そうだが金は持っているオタクっぽい陰気な男からカツアゲをしたり置き引きのような日雇い以下の仕事をし、時には派遣の仕事をこなして東京という街にしがみ付いて生きていた。
そんな時に出会ったのが崎谷だ。当初の二人の関係は大麻の売人と買い手だった。
安クラブのカウンターでどうでもいい酒を飲んでいた昨日も今日も、もちろん明日もない小田に声をかけてきたのが崎谷だった。
「ハッパとかやる?」
今になって考えると、崎谷は小田と同じくらいどうしようもないチンケな男だった。崎谷はただこのバーでよく見るというだけで小田に声をかけてきたのだろうが、あんな場所で顧客でもない言ってみれば一見の客に自分から声をかけるなどあり得ない。小田が店を出て警察官に声を掛けるだけで崎谷はマークされ次の日曜日を迎える前に檻の中に納まるだろう。崎谷という男は売人としても三流以下だったのだろう。
だが小田はその誘いに乗り二人はバーのトイレに行った。こんなところで「ハッパ」を披露し火を点け試させるなど普通ならやらない。トイレで紙に巻かれた大麻を燻らせそれを誰かに見られたら終わりだ。いや、見なくても良い大麻は見た目は自作の紙巻きたばこの様に見えてもその匂いはタバコとはまるで違う。トイレに誰かが入ってきたら「タバコを吸っているだけだぜ」なんて言い訳は無駄だ、その匂いですぐにバレる。バレるという事はもちろんそいつもその匂いが何かという事を知っているわけだがそういう奴は間違っても「見つからないようにやれよ」なんて言ったりはしない「俺にも寄こせ」と脅し取られたら御の字だ。
崎谷という男はその程度の男だったのだ。
だが小田は小田で大麻というイリーガルな物が今の状況を変えるきっかけになるかもしれないと思ったのだった。もちろん崎谷のような男が売る不器用に巻かれた安物大麻の一本で東京の底辺にしがみ付いて辛うじて生きているような生活が一変するわけもなく、小田にとって変わったことといえば支出の項目が一つ増えただけだった。
真っ白な紙で不細工に巻かれたソレは特に高揚感が味わえるようなこともなく、もちろんハイになると言ったわけでもなくただ喉がやたらにいがらっぽくなるだけだった。
「お前初めてかよ、タバコじゃねえんだからよ、もっとゆっくり吸い込むんだよ。肺に溜めるんだ」そう崎谷に言われ小田はタバコのように吸っていたソレをゆっくりと深く吸ってみた。
それを二度か三度ほど繰り返すと頭のどこかで火花がチリチリするような感覚がやってきた。
だがそれだけだった。小田はなんかこう、無敵感というかもっとハイって気分になるもんだと思っていたがチリチリ以上に特に変化が無く全くの期待外れだった。
崎谷から買ったそれはまだ半分以上残っていたが小田はもういいと言って崎谷に残ったソレを突き返し帰った。
家に帰りベッドに横になるとなんて無駄なことに金を使ってしまったのかと激しく後悔した。三千円あれば牛丼屋に六回は行けただろう。三日、いや四日分の食費だ。
あれはただのタバコだったのかもしれない。チリチリするような感覚はあったが。
ハッパ。そう言われれば確かにタバコもハッパだ、あれは本当に大麻だったのか?いや、あの男は大麻などとは一言も言っていないかった。
クソ!しかしもうどうにもならない。
毛布をかぶって寝ようとするが全く寝れない。金をだまし取られた悔しさからかと思っていたがどうにも違う。安アパートの周りの音が異常に気になるのだ。上の部屋からは住人がペンを落としそれを拾う音が聞こえ、隣の部屋でパソコンゲームに興じながら不満を漏らすオタクの声が聞こえ、逆隣の部屋からは彼女を連れ込んだ大学生が当然行うであろう行為の音と声が聞こえ小田はそれを聞きながら自慰をしていつしか寝ていた。
気が付いた時には朝になっており小田は目覚めると妙な空腹感を覚えた。いつもはダラダラと自室にこもり昼過ぎに部屋を出れば早い方だったがその日は珍しく時計がPMを示す前に家を出て牛丼屋に向かった。
いつもなら腹を満たすと言うより空腹感を消し去るためのエサとして食っていただけの牛丼に十分な満足感を覚えた。東京での生活で満足感など何一つ感じたことのない小田が数百円で食えるエサとしか思っていなかった一杯の牛丼に確かな満足感を覚えた。
小田はそんな僅かな満足感を得るために崎谷の顧客となった。もう要らないと吸いかけのソレを返すような真似は二度としなかった。家に帰ってから大事に吸った。ソレは普通の紙巻きたばこのようにすぐには無くなることはなく小田は大事に大事に吸った。
一本を三回かけて吸った。消すときはタバコのように潰したりはしない、火だけが消えるようにギリギリのところまで水に浸けて消した。
小田と崎谷はそんな取引を続けていたが五回目の時だ、崎谷は言った。
「上物が手に入ったが試してみるか?」
崎谷が提示した「上物」の価格はいつもの倍以上だったが小田は崎谷の家に行き「上物」とやらを試してみることにした。
崎谷の家に向かいベッドの上で小田はそれを咥え火を点けた。ソレはいつもの真っ白い物ではなく焦げ茶色の紙に巻かれていて確かにどこか高級感があった。チビチビと缶ビールを口にしながら小田はソレをゆっくりと吸いこんだ。タバコのようにプカプカ吸ってはダメだ、深く肺を満たすように吸い、肺に溜め込む様に吐き出すのだ。二回ほど吸っただけであの頭の横で火花がチリチリするような感覚を覚えた。なぜか頭の横、こめかみのあたりで小さな火花が散っているのが見えた。
上物というだけあっていつもの安物より効きが早い。小田が明日の牛丼は特盛にしようかと思っていると崎谷がソレを奪い自身も吸い始めた。
「おいー俺のだろー」小田は抗議するが崎谷は「なんだそれ?もう効いているのか?まあいいだろ、割り勘にするからよ」そう言って自分も深くソレを吸い込み吐き出す煙を小田の顔に吹きかけた。小田はもったいないとばかりにそれすらも吸い込み慌てて崎谷の手から「上物」を取り返しまた深く吸った。
途端にクラクラするというか、フラフラする感じに襲われた。思わず火の点いたソレをベッドの上に落とすのが恐くなり崎谷に差し出したところで目の回るような感覚に襲われた。アルコール度9%の安い缶チューハイを4~5本一気飲みしたような感覚か?
世界がグルグル回ったような感覚なのだが目が回ったという感覚ではなく、アルコール度数だけが高い安い缶チューハイを鯨飲したような感覚とも違う、目が回るというより時間がグルグル回っているような感じだった。
体を動かすことが出来ない。
小田は咄嗟にこれから崎谷にレイプされるのかと恐怖を覚えたが、当の崎谷も同じように楽しそうにソレを吸っている。
小田はこの「上物」とやらに何かシャブとかヘロインと言った薬物が混ぜられていてそのせいで俺はヘロヘロになり崎谷は俺をレイプする気なのだと思ったが、崎谷も同じようにソレを吸っているしこれまで崎谷がソッチの趣味があるような様子はなかった。
ビールになにか混ぜられていたのか?崎谷を見るが視界が定まらない。ひどく酒に酔った時のようにグルグルと視界が回っている。
「おい小田オイ小田オイオダ・・・」
違う、視界が回っているんじゃない、世界が、時間が回っているんだ。
「大丈夫か?ダイジョウブか?ダイジョウブカ・・・」
途端に小田は死の恐怖に襲われた。
死ぬのか?俺は死ぬんだ。
小田は崎谷に助けを求めようとするが声も手も出せなかった。崎谷は呆れ顔でこちらを見ていた。小田はただベッドの端に座ってフラフラしながらグルグルと回り続ける崎谷を見ていた。
これは走馬灯だ。いやだ!死にたくない!
救急車を呼んでくれ!頼む!崎谷に懇願しようとするが声が出ない。いや、声が出たとしても、崎谷に救急車を呼ぶように言ってもこの男は大麻の使用が発覚することを恐れて電話に手を伸ばすことは無いだろう。
死ぬのか?こんなところで?崎谷は俺の死体をどう処理するつもりだろうか。
いつも父親に内緒でこっそりと仕送りしてくれる母の顔が思い浮かんだ。何年会っていないかっただろうか、もう会えないのだ。ここで死ぬから。
なんであんな誘いに乗ってしまったのか?小田は崎谷の「上物」という誘いを受けたことを心底後悔した。いや大学を出る時にちゃんと就職していれば良かった。それが無理だったなら地元に帰って父を頼ることもできたはずだ。そうしていれば崎谷と出会う事もなく、今ここで死ぬこともなかったはずだ。しかし何をどう後悔しても、もうどうにもならない事だけは分かる。
小田は再び「死にたくない!」と心の中で叫ぶと三角形の小さな箱の中にいた。そこは酷く狭く、そして寒く苦しく小田は押しつぶされるような感覚に襲われ閉所恐怖症のようなパニックに陥った。
「止めてくれ!出してくれ!」そう願うが小田はいつまでも箱の中に閉じ込められたままだった。息をするのもままならず小田は思わず嘔吐した。小田の口から吐き出された吐しゃ物は真っ黒いコールタールのような物で小さな箱をあっという間に満たし、小田の苦痛はさらに強まった。
「止めろ!止めてくれ!出してくれ!」
だが小田はいつまでもその小さな三角形の箱の中に閉じ込められていた。いつまでもいつまでも・・・。
そして小田は唐突に全てを理解した。これが世界なのだ、と。
俺が苦しみ続けるこの小さな箱こそが世界だったんだ。そう理解すると崎谷の部屋のベッドに戻ってきた。崎谷は小田にまるで興味を示さずにテレビを見ながら「上物」を楽しんでいた。
「崎谷・・・」そう声をかけようとするとまたあのコールタールのゲロに満たされた小さな三角形の箱に戻される。
小田は世界と言う物を理解した。
命とか死とかそういった物は存在しない。原子や宇宙や時間と言う物に意味はなく、ニュートンもアインシュタインもホーキングもすべて無意味だったんだ。
世界って言うのはこの小さな三角形の箱で俺が一人だけで苦しみ続ける。それだけなんだ。
周りには何もない。ただ俺が一人、永遠に苦しみ続ける。それが世界。
また崎谷の部屋のベッドに戻された。崎谷がウンザリするような顔を小田に向け舌打ちしていた。
崎谷に申し訳ないと思った。こいつは何も知らない。こいつは俺が苦しみ続けるだけの世界に巻き込まれたんだ。だがどうすることもできない。
もう一度、崎谷に申し訳ないと思うとコールタールが僅かに減った。ほんのわずかだが苦しみが軽減された。だが苦しいことには変わりがない、俺はこの苦しみを永遠に味わい続けるんだ。
小田は小さな三角形の箱の中で苦しみ続けた。時折、崎谷の部屋に戻ってくるがすぐにあの箱に戻される。
そう、これが世界なんだ。世界って言うのは俺が苦しみ続けるだけの・・そう、地獄ってヤツだ。
地獄こそが世界だったのだと小田は理解した。酷く辛くどこまでも孤独で永遠に苦しむ続ける、それが世界。
そこでの小田の望みは一つだけだった。生も死もない、苦しみ続ける自分だけが存在するこの世界で小田が望むのは消える事だった。だが小田はまた理解していた。終わりはない、永遠に苦しみ続けるのだと。ここでは数字を数える事すら恐怖だった。1・・・2・・3・・・。
たった3秒ですらこれほど苦しいのにこれは永遠に続くのだ。
いやだ!イヤだ!消えたい!小田は誰にともなく懇願するがもちろん終わりはない。永遠に苦しむのだ。
時折崎谷の部屋へと戻るがすぐに地獄へと戻される。
崎谷がテレビを見ている。崎谷が上物を吸っている。崎谷がウンザリするような顔を向け舌打ちしている。
それを何度繰り返したのか。何百回か、何万回か。それは三回でも三億回でも違いはない。これは永遠に続くのだから。
もう小田には後悔も懇願もなくただ苦しく孤独で、消えてしまいたいと思い続けるだけだった。
また崎谷の部屋に戻ってきた。ここではあの苦しみはない。これが癒しか?癒しはこれだけなのか?たまに戻されるこのベッドの上に座ることだけを癒しにあの苦しみを永遠に続けるって言うのか!?
せめてベッドの上に女の一人でもいてくれたら。
小田はそう願うがそうはならないことは分かっている。永遠に苦しみ続けるだけなんだ。そこに女がいたら永遠に何度でも抱けることになるだろ、そんなものは地獄じゃない。俺は永遠に苦しみ続けるんだ。
・・・。
だが今回は中々あの箱に戻されない。
崎谷がウンザリするような顔を向けて舌打ちした。
「大丈夫か?」
崎谷が言った。
このウンザリした崎谷の顔は何度も見た。何百回か何億回か・・・。
「いや、だめだ。終わらないよ」
小田は心の中でそう答え箱に戻されるのを待った。
しかし今回は長い。帰ってきたのか?
いや、違う。あの小さな三角形の箱は俺を苦しませ続けるための地獄なんだ。帰ってこれたと安心させてまたあの箱に戻すことでより強い苦しみを与えてくるんだ。
小田はあの箱に、地獄に戻される覚悟をした。
しかし戻らない。
「おい、掃除しておけよ」崎谷が言った。
「そ・・うじ?」声が出せた・・。
「ゲロ塗れじゃねえか、毛布は弁償しろよ。洗濯なんて冗談じゃねえからな」
「う・・・ゲロ・・?」小田は自分の顎を触ると確かに吐しゃ物に塗れていた。それがコールタールのように真っ黒でないことに少しホッとした。そして首に手を伸ばすと同じように汚れ切っていた。
「止めろ!ゲロまき散らすんじゃねえ!毛布を持ってシャワー浴びて来いよ!」崎谷が浴室を指さして怒鳴る。
小田はまだ何も理解できないままにフラフラと立ち上がった。腕はビリビリと痺れているような感じで足もガクガクとふらついてはいたが何とか浴室へと足を運んだ。
小田は熱いシャワーを浴びながら実感した。
「帰って、これたのか?」
だがまだ安心はできない。またあの箱に戻されるという恐怖は残っている。せめて綺麗にしておこうと小田は首周りにへばりついていた吐しゃ物を洗い落とした。だがまだ戻されない。熱いシャワーを浴びて不快な汚れを洗い流すことがとてつもなく爽快だった。
だがそれだけに浴室のドアを開けるのが恐かった。その向こうはまたあの地獄なんじゃないか?またあの狭い箱の中で真っ黒いコールタールのゲロに沈むんじゃないか?
「おい!早く毛布を片付けろ!弁償しろよな!」崎谷が部屋から叫んだ。
小田は恐る恐る浴室のドアを開けたがそこは先ほどと同じ脱衣所だった。
時間が過ぎるにつれ、どこかでまた戻されるという恐怖は次第に薄れ小田はタオルで身体を拭い服を着て浴室を出た。崎谷の顔を見た瞬間に、安堵した瞬間にまた戻されるような気がした。
だが戻らなかった。
小田はふらつきながらも自分のゲロで汚れた毛布を丸めてゴミ袋へと詰め込んだ。
「おれ・・・地獄にさ・・」
小田は何があったのかを崎谷から聞いた。
「お前よ、少し吸ったと思ったら俺に付き返しただろ?」
「ああ、覚えてる。すげえフラッと来たから落とすのが恐くなってさ」
「そうか?俺はお気に召さなかったのかなって思ったから一人で楽しんだぜ」
崎谷はそう言ってすっかり短くなった「上物」を吸い込んでから灰皿でもみ消した。
「それ、あの最初の一本目か?」小田が驚いて聞いた。
「そらそうだろ、売りもんだからな。でも文句は言うなよ、お前は突き返してきてラリってブッ倒れていたんだからな。まあでも毛布は弁償しろよ。お前のゲロ塗れの毛布なんて洗濯したって冗談じゃねえからな」
小田は信じられなかった。あの永遠に苦しんでいた時間は一本の大麻が燃え尽きるほどでしかなかったのか・・。
崎谷が言うには、俺は大麻を崎谷に付き返した後、フラフラとしていたがすぐに倒れ込む様にベッドの上に横になり寝ちまったんだそうだ。そして寝たままゲロを吐き、自分のゲロで窒息しかけていた俺の顔を叩きゲロを吐き出させ助けてくれたらしい。その後、俺は何度か起き上がり「すまない」とか「終わらない」とかブツブツ独り言を言ってまたベッドに倒れ込むという事を繰り返していたそうだ。
「あの、アメリカの何とかってドラマあるだろ、覚せい剤の密造のヤツ、メスって言ったっけか?アレで主人公の相棒の女が寝たままゲロ吐いて死ぬシーンあっただろ?お前、まんまアレだったぜ。俺がいなけりゃ死んでたかもな」
小田はそういう崎谷を恩着せがましいとは思わなかった。本当に死んでいただろう。
「毛布は弁償するよ」小田はそう言ってフラフラとした足取りのまま帰宅した。
小田は自分の薄汚く狭い部屋に戻ったがまだあの箱に戻されるんじゃないかという恐怖は完全には消え去っていなかった。
ここ今に至ってはあの「上物」でラリっていただけだというのは分かっている。だがあの小さな三角形の箱は簡単にそうとは思えないほどの恐怖だった。
死よりも恐ろしい永遠の苦しみという地獄を味わった小田は現実の全てが新鮮だった。蛇口をひねると出てくる冷たい水の感触に、洗濯した綺麗なシャツを着るという行為。ただ立って歩くことという事でさえ感動を覚えた。それはあの地獄を味わったからこそだ。だがやはり寝るのは恐ろしかった。寝たらまたあの地獄に連れていかれるのではないかという思い、安心させてまたあの地獄に送り戻しより深い苦しみを与えようとしているんじゃないか?
とてもじゃないが恐ろしくて寝る事なんかできないと小田は思っていたがいつの間にかに普通に寝ていた。寝ると確かにあの地獄にいた。しかしそれはあくまでも夢の中での事だった。恐ろしかったことには間違いはないが、あくまでも夢でしかなかった。現実感が薄いと言うか、あの地獄を味わっている自分を見ているような感覚だった。
小田は起きると空腹を覚え牛丼屋へと向かい並を頼んだ。少し考えてからサラダを追加した。
それらをあっという間に平らげ今度はバーガーショップへと向かった。
いつもなら一番安いマフィンとハッシュポテトのセットを頼むのだが今日はサラダのセットへと変えドリンクはコーラではなくミルクにした。歩きながら食べ続けていたがさすがに小さな紙パック入りのミルクでは足りなくなり自販機でコーラを買った。
それを飲み終えた時、小田は今まで感じたことのないほどの充足感を得た。安い牛丼とチープなバーガーが特別に美味いと感じたわけではない。今までは空腹感を消すためだけに口にしていたそれらから異常なほどの充足感を得られたのだ。
だがそんな充足感を感じられたのも数日だった。
小田は崎谷の提供する「上物」をまた求めた。
あの地獄を味わいたかったからだ。小田はあの地獄は「上物」の効能であることは理解していた。だからこそあの地獄をもう一度味わいたかったのだ。あの地獄から帰還する安堵を味わいたかったのだ。あの地獄を味わえばまたこの世界にただいるだけで安堵を覚え、何でもないことに感動を味わう事が出来る。
崎谷は自分のゲロで死にかけた小田を心配した(もちろんそれは小田の命の心配ではなく自分が売った「上物」で死ぬことを恐れただけだったが)崎谷の監視の下でそれを味わうという条件で受け入れた。
崎谷にしてみればまたゲロを吐いたら毛布も弁償させるという条件の上「上物」の安定顧客をキープできるからだった。
毛布を弁償することを告げると崎谷は法外な金額を提示してきた。
「三万?毛布一枚だろ、吹っ掛けんなよ」小田が抗議すると崎谷は抗弁する。
「あれは良いヤツだったんだぜ、高いダウンのヤツでよ」
「ダウンってなんだよ、毛布だろ?」
「ああ、そうそうアルタカだよ、高かったんだぜ」
「アルパカだろ」
崎谷が吹っ掛けているのは分かってはいたが確かにゲロを吐いて汚したのは自分なわけだし毛布そのものは既に捨てているので確認することもできない。
だがさすがに自分に非があるとはいえホームセンターかどこかで買ってきた安物の毛布を弁償するのに三万円払えなどとは到底納得できない。
だが崎谷も崎谷でわずか三万を得るために「上物」の顧客を失うことにまで理解が及ばないほど馬鹿ではなかった。
「じゃあ三万はいいわ。そん代わりな、ちょっと手ぇ貸してほしいんだよ」
これはちょっとしたトリックだ。
ほんの数千円で買える毛布を弁償するために数万円を要求されても同意する人は少ない。そこで別の要求を出すのだ。
その二つにほんのわずかな繋がりもないのだが、人はついそれを比べてしまう。
一枚の毛布を弁償するのに三万を払う気など毛頭なくとも、別の要求をされると勝手にそれが交換条件であると思ってしまい「三万円を払うよりかはまだマシか」と受け入れてしまうのだ。
それは端的に言えば美人局だった。
馬鹿な男を釣りあげた女から連絡が入ったらホテルに乗り込む。そこで釣られた男から金を巻き上げる。
釣られた男はいいとこの企業に勤めており妻子のある立場で崎谷に言われるがままにコンビニのATMに行きカードローンをめぐり数十万を支払った。
「俺一人よりな、男二人で詰めた方が払いも早いしデカく引っ張れるんだよ」
崎谷はそう言った。
「アレ、お前の彼女か?」
「まさか、蔵井戸さんの女だ。変な気ぃ起こすなよ」
女性は少し色黒で目鼻立ちの整った美人だった。
小田が思わず見とれていると崎谷に肩を殴られた。
「マジで止めとけよ、蔵井戸さんに殺されるぞ」
「蔵井戸?」
小田が聞き返すと崎谷は舌打ちした。
「とにかくな、あの女に変な気は回すなよ」
その後も小田は崎谷の様々な「仕事」に付き合う様になり小田は崎谷が提供する「上物」の顧客となり、いつしか二人はつるむ様になっていた。
蔵井戸のところへ行くと言う崎谷だったが小田はその蔵井戸と言う男には近寄りたくなかった。蔵井戸と言う男は何かと小田と崎谷の二人に小遣いをくれるとともに頼みごとをしてくるのだがどこか得体の知れない男だった。
今回、あのエビス屋とか言う酒屋にチョットちょっかいをかけてみてくれというのも蔵井戸の頼みだったらしい。
「蔵さんのところって、止めとけよ。どこに行くつもりだよ」小田は言うが崎谷は構わずに歩き続けた。
「さっきメールして場所を聞いた!今から行くって返事した。あんなやべえ奴だったなんて冗談じゃねえ!たった三万じゃ割に合わねえ!」
崎谷は何も考えずにそう言ったが小田が崎谷から受け取ったのは一万円だ。
(こいつ・・・)とは思ったが今更だ。崎谷という男がこんな奴と言うのは小田もすでに理解している。
小田はイラつきを隠そうともせずに歩き続ける崎谷に黙ってついて行くことにした。
どこまで行くつもりなんだと思い始めたところで崎谷はやっと古いビルの前で立ち止まった。
「ここって?」
「うるせえ!イヤなら帰れ!」
それは東京のいわゆる下町では何の変哲もない古ぼけた雑居ビルだった。ベランダが無く人が住むための建物でないことは一目でわかる。
だが看板も表札もなく、この建物が誰の物で何のための物なのかという物を示す物は何一つない。コンクリートの塊に防火扉のような重々しいドアがあるだけだった。
崎谷はその古い雑居ビルには似つかわしくない重厚なドアの前に立って上を向きながら左右に首を向けた。
どこかに設置されている監視カメラで確認したのだろう、ドアからカチャンと言う音が鳴り崎谷はドアノブに手を掛け中に入って行った。小田も仕方なくそれに続いた。
中は真っ暗だった。崎谷に「早くドアを閉めろ!」と言われ小田は慌ててドアを閉めた。またカチャンと小さな音が鳴りドアは再び閉ざされたようだ。照明が点いた。
そこは2メートル四方もない狭い空間で正面にまた重そうなドアがあった。
右手にマンションの管理人室のような小窓と小さなカウンターがあったがその奥は見えなかった。
崎谷がスマホを取り出し小窓の前に置くと小田に振り返り言った。
「小田、スマホ出せ」
「おい、ここって!」
「うるせえ!いいからスマホを出してここに置け!」
ここは・・・。
「いや、俺は帰るぜ」小田が怯えて後ずさると崎谷に肩を掴まれた。
「早くしろよ、ここで揉めたりしているような真似を見せたらヤベェんだよ!」
「お前、イヤなら帰れって言ったろ」
「うるせえな!早くスマホを出せ!ブッ飛ばすぞ!」
小田は素直にスマホを差し出し崎谷はそれを受け取り自分のスマホと同じように小窓の前に置いた。
崎谷にブッ飛ばされることなど大したことではなかったがそれよりもこの建物が恐ろしかった。
ドラネス。
おそらくここは竜の巣と呼ばれる場所だ。会員制の非合法エリア。
ネットや街の噂で耳にしたことはあるが自分が足を踏み入れることになるとは思ってもみなかった。
「MAEVE」
それは都市伝説だ。
それは東京のどこかにの地下深くにあるという。そこでは金が全てで人の命さえ売り買いされ、生贄同士が命を懸けて戦う地下格闘技場まであるという漫画のような話、口裂け女や人面犬のような都市伝説だ。
だが今ここに足を踏み入れることになってそれは都市伝説などではないと理解した。この狭い2メートル四方の部屋がそれだと分かった。
何故そう思ったのかはわからない。ただ全身が怯え心が泣き出したくなるような恐怖がそれを真実だと訴えていた。
MAEVEの支配者「銀龍」と呼ばれる男がMAEVEの支店のような物を都内各所に作っているらしい。それが竜の巣、ドラゴンズネスト、ドラネスだ。
蔵井戸さんはここにいるというのか?やはりあの人はヤバいんだ。
小窓が開き何者かがスマホを取り去りすぐに閉められた。
「あ・・おい・・・スマホ」小田が言うと崎谷がその声から懸念を察し「帰る時に返してくれる」と言うと正面のドアが開いた。そこは2メートル四方の狭い場所でまた正面にドアがあった。いや、エレベータだ。
もちろん小田の心配はスマホを返してもらえるかどうかではなく、自分が帰れるかどうかだ。
崎谷がエレベータの前に進み仕方なく、引きずられる様に小田も後に続いた。
「閉めろ」崎谷が言う。小田は素直に入ってきたドアを閉めた。小さな金属音が鳴りもうそのドアも自分では開けられないことが分かった。
代わりに正面のエレベーターが開き崎谷が乗り込んだ。小田は躊躇した。そこに入るのはマズい、しかしもう後ろのドアは閉まっている。
「早くしろ」そう崎谷に言われ小田もエレベーターへと足を踏み入れた。それを合図にエレベータは閉まり動き出した。普通なら上に行くと思うだろう。だが小田はかすかに浮くような感覚を覚えエレベーターは下へと降りて行く。
やはりここはドラネスなんだ。こんなところに出入りできるなんてやっぱり蔵井戸さんは普通じゃないんだ。
あの人はいつもニコニコしている。二度か三度しか会ったことはないがあの人のヤバさは誰だってそれだけでわかる。あの笑顔の下では決して笑っていない。ニコニコ笑いながら人の顔面を殴ってくるか、一瞬で笑顔を消して人の首を絞めてくるような人だ。
だが今の崎谷にはそんな蔵井戸さんを恐れる様子がない、それが崎谷に今ついて行きたくない理由だ。
今の崎谷は蔵井戸さんにちゃんとした態度を取れるだろうか?謙って媚びを売るような態度を取れるだろうか?おそらく無理だ。崎谷は蔵井戸を恐れていない。
恐れる事を知らないってヤツは確かにいる。普通の奴なら踵を返すような所でもまっすぐに進んで行ってしまうヤツだ。
これには三つのタイプがいる。
一つは恐れる事より興味が勝ってしまうヤツ。恐怖で後ずさるより興味が勝り進んでしまうヤツ。痛い目に会うだろうが学習はする。次があれば二度と近寄らないだろう。
もう一つは自分が強いから恐れることがないヤツ。強いから何かを恐れる必要が無いヤツ、おそらくこれが蔵井戸さんだ。獅子はハイエナを前にしても怯えたりはしない、強いからだ。
だが崎谷はどちらでもない。
崎谷は自分が強いと思いこんで恐れを知らずに突き進んでいくヤツだ。ハイエナも群れでなら一匹の獅子を圧倒できるだろうが、一対一では無理だ。崎谷は一匹のハイエナで蔵井戸は一匹の獅子だ。
小田は今、恐れることもなく獅子の元へと行くハイエナの後をついて行くわけだ。
エレベーターが止まりドアが開いた。そこもまた数メートル四方の狭い部屋で正面に大きな両開きのドアがあり、いかにもと言った風の映画で見るような黒服が待ち構えていた。
エレベーターの中には何一つ表示が無かったので今どこにいるのかが全く分からないのがより恐ろしい。エレベーターに乗っていたのは数十秒か百数十秒程度だろうが、ここが地下10メートルか100メートルかなのかはもちろん分からない。
帰りたいと思ってもエレベーターが来てくれる保証はどこにもなく、乗れたとしても今度は上に上がってくれるという保証もない。
黒服は二人に軽く頭を下げると「本日は?」と聞いてきた。
「あぁ!?蔵井戸さんに呼ばれたんだよ、いんだろ?」
黒服は崎谷の返事を聞きほんのわずか右頬をひきつらせてから答えた。
「蔵井戸様、ですね」
「そうだよ、早くしろよ!」
「こちらへ」黒服はそう言って二人に背を向けた。
崎谷、お前はここがどこか分かっているのか!?
「おい、崎谷・・」
「ああ?顔確認してんだからイチイチ聞く必要なんかねえだろ、トロくせえヤツだ」
黒服が正面の大きな扉に何かをすると二人に振り返り慇懃に頭を下げ「こちらへ」と手で合図をした。
そりゃあ崎谷の言うとおりだよ、ここは誰でも入ってこれる場所じゃないんだ。カメラでこっちの顔を確認して、蔵井戸さんに確認したからこそあの防火扉のようなドアが開き、そしてエレベーターが動いたんだ。
だけどあの黒服が言った「本日は?」と言ったのは「本日のご用は?」なんてそのままの意味じゃないだろ「ここはお前らのような奴が来るところじゃないんだが」と言ったんだ。
なんで崎谷はそんなことも分からず、あんな口を利くんだ!あの黒服をコンビニの店員か何かだと思っているのか?アレはコンビニの店員でもなければここはクラブでもない。お前だってどうみてもサラリーマンには見えない真っ黒なスーツ姿で胸に金バッジを光らせているようなヤツが前から歩いてきたら目を逸らすだろう。それともあれか、頬に切り傷があってパンチパーマをあてて首には金のネックレスをかけて胸元に和風のイラストが光ってないとそれと気が付けないのか?
「頼むからやめてくれ」
小田がそう懇願しかけた時に黒服がドアを開けた。
途端に大音量のダブステップが溢れ出してきた。
そこはかなり広く天井もだいぶ高かった。中央にMMAで見るような檻があったが違うのは天井まで檻で塞がれている事と、中では二人の格闘家ではなく中央に建てられたポールとそれに絡みつく様に踊る全裸の金髪白人の女性ダンサーが艶めかしくポールダンスを踊っている事だった。
その真っ黒な檻を囲む様にテーブルに真っ赤なソファーがいくつかあり、奥にはバーカウンターがあった。
数多くのソファーに着いている者はおらずバーカウンターにスーツ姿の二人の男が座っているだけだった。
周りの壁は窓のように鏡が貼ってあったがおそらくマジックミラーなのだろう、ここに来る連中はあの向こうであの檻を眺めているのか。
カウンターに座る二人の男がこの爆音の中にも関わらず振り向きこちらを見た。
黒服がかすかな合図を送ると二人はまたカウンターに向き戻った。
「うるっせえなぁ!」と崎谷がぼやく。
黒服は構わずに進んだ。
ダブステップの爆音は短い歌詞を繰り返している。
Let's get this Knife Party Started!
ナイフを持ってパーティーを楽しもう!
You Blocked Me, On RealmBook And Now your Going To Die.
あなたは防いだつもり?いや、あなたは今から死ぬんだよ
そして小田は一番聞きたくなかった一言を聞く。
Maeve!Maeve!!Maeve!!!とエコーがかかる。
やはりここはドラネスなんだ。
黒服がバーカウンター脇のドアを開けさらに進んで行く。
崎谷が続き小田も続いた。
黒服に促されドアをくぐるとまたドアを閉められ、あの爆音は途端に聞こえなくなった。
「趣味ぃ悪いなホントよ」崎谷がまたぼやいた。
生きて出られる気がしないがまだマシだ。
黒服は無機質なコンクリートに囲まれた廊下を進みいくつかのドアを通り過ぎ目的の場所にたどり着くとドアの脇のインターホンのボタンを押した。
「・・はいお二人です。お連れしました」黒服はインターホンで一言二言会話し、二人に振り返り「どうぞ」とまた慇懃に頭を下げてドアに手を向けた。
「どうぞじゃねえよオレに開けろってか?」
崎谷が言った。
小田は慌てて前に入りドアノブに手を伸ばした。
「いえ、大丈夫です。すいませんね」
可能な限り謙ってペコペコと何度も頭を下げたがそれは心の底から謝っている素振りを示したかったからだが、黒服の顔を見るのが恐ろしいからでもあった。
黒服は蔵井戸と言う客の手前、場違いな二人を案内したに過ぎないだろう。それがこんな生意気な口を聞かれたら・・。
だが目を見て謝るべきだと思ったのか怖いもの見たさなのか分からないが小田は上目使いに黒服の顔をチラリと見た。
だがそこには怒りなど微塵もなく言葉すら通じていないような、言うなればアリに噛まれた象の顔だった。
つまり、黒服にとって俺たち二人は怒りを向ける事すらない存在なのだ。象はアリに噛まれても気にも留めないどころか気づくことすらないだろう。そして気にせず進んで行くのだ。
そこでアリを踏み殺してもやはりそれと気が付くこともない。
小田はドアノブを手にしたが開けるのは恐ろしかった。
ドアを開けたらそこはあの三角形の地獄なのではないか?
しかし開けるよりない。
小田はドアを開けた。